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2013年02月01日

日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(2)

zeraniumのブログ より転載

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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない

http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564


 第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。

   つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。

ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。

ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。

   それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。

むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。

だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。

   それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。

   組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。

   ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。

   「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。

これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。

ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。

当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。

   また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。

それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。

そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。

つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。

   このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。

つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。

もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。

商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。

それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。

また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。

ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。

   不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。

   企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。

実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。

バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。

   今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。

   売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。

いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。

しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。

また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?

   客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。

   上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか? 

どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。

コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。

それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。

   日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。

売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。

これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。

   商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。

仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。

こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。

              「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                          抜粋

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posted by ぷちそれいゆ at 04:36| BOOK

「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人

zeraniumのブログ より転載

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「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84393271


  「権力者は優れている」という妄信

   日本人の国家に対する信頼感はどこに由来しているのか。

   実はこれも、本書で再三にわたって指摘してきた「儒教思想」から説明することができます。

   儒教においては、「君子=エリート」という図式による支配を、人間社会の理想像としていると述べました。

この君子がなぜエリートとされるかといえば、知力や教養といった能力に優れていることはもちろんですが、それ以上に人格が優れているからです。

そして君子の中で特に、人格的に優れた理想的な人間は「聖人」と呼ばれます。

歴史上、聖人に数えられているのはごく少数で、儒教の祖である孔子や、堯(ぎょう)、舜(しゅん)といった伝説上の天子だけということになっています。

   つまり儒教においては「支配者たるエリートは、人格的にも優れていなければならない」という原則」があるのです。

これは額面どおりに受け取るならば、エリートの資格を厳しく限定しているように見えます。

実際に孔子やその後継者たちは、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけないのだ」と考えたのでしょう。しかしこうした建前の意味は、いつのまにかすり替わってしまった。

   すなわち、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけない」はずが、いつのころからか、「だから支配者になっている人は、人格的に優れた、いい人のはずだ」という論理に転換してしまったのです。

こうした転倒した原理こそが、日本人の権力者に対する盲目的な信頼の根底にあるものです。

   「お上(かみ)」は権力者の地位にある以上、本質的に善なる存在であり、最終的には自分たちを助けてくれる頼れる存在である・・・」儒教思想にどっぷり浸かった日本人は、そのように信じて疑わなくなったのです。

   
  なぜ日本の政治家は下半身スキャンダルで失脚するのか?

   とはいえ、もちろん日本人も「お上」を批判することはあります。

   というよりも、テレビで流される「街の声」を聞く限りでは、有権者は政治家や官僚を非難ばかりしているようにさえ見えます。

しかしよく注意して見てほしいのですが、こうした街の声の大半は、「政治家の心がけがよくない」とか、「このようなスキャンダルは政治家にふさわしくない」といった、人格的な非難だけで埋め尽くされているのがほとんどなのです。

   最近では、原子力安全・保安院のスポークスマンを務めていた当時の西山英彦審議官が、不倫が明るみに出たことで左遷人事を言い渡された。

また自民党の後藤田正純衆議院議員も、写真週刊誌に不倫行為をすっぱ抜かれて党内の役職を辞任しています。

   こういった不祥事が非難されるということは、「本来、支配者とは有徳の人であるべき」という信頼感があればこそと言えます。

しかし考えてみれば、こうした期待はどこかおかど違いではないでしょうか。

職業人はあくまでも仕事の腕で評価されるべきもので、政治家にせよ官僚にせよ、それが職業の一つである以上は、資格に必要なものは業務遂行上の能力であるはずなのです。

   「政策に弱いやつが議員になるな」「よけいな法律を作ろうとする官僚は行政官失格だ」といった非難は当を得ています。

しかし人格の高潔さや清廉潔白さなどは、政治家や官僚としての能力とは、本来関係がないはずなのです。

もちろん収賄(しゅうわい)などは職業上の犯罪なので罰せられるべきであり、まさに業務遂行上の能力の欠如が非難されるものです。

未成年者の買春もそうで、たとえ仕事の能力と関係がなくてもそれは犯罪なので、職業を問わず許されないというだけの話です。

   実際に、イタリアのベルルスコーニ首相は未成年者買春容疑で窮地に追い込まれ、国内の財政不安で辞任を余儀なくされた。

しかしながらたとえ政治家や官僚が不倫をしても、それは道徳上の問題であって犯罪でも何でもないし、言うまでもなく職業上の能力とも何ら関係がない。

長年にわたって失言を繰り返し、不倫疑惑まであったベルルスコーニ氏でしたが、イタリア経済がもっている間は、それでも首相の座を明け渡さなかったのです。

   しかし日本ではどうかというと、こうしたスキャンダルはバッシングの材料になり、職を追われる人が少なくない。

これは、日本人が権力者に清廉潔白であることを求めているからなのです。

といっても日本人の清廉潔白志向は、必ずしも日本人が権力者の資格に関して、「厳しい目」を持っていることを意味していない点には要注意です。

   むしろ日本人は、「政治家や官僚になるような人は、聖人君子のような立派な人であるハズダ」という素朴な信頼、もっといえば、そのように信じる「信仰」を抱いているからこその証しに過ぎないのです。

つまりその「信仰」を侮辱されたと感じるからこそ、日本人は政治家の下半身スキャンダルに烈火のごとく怒るわけです。


  たくない現実を脳は認識できない
  (見たくないと思っている現実を脳は認識しないので、見えない)
   

繰り返しますが、日本人の権力者への信頼感は、儒教教育によって強化されているので、そのゆえに普通なら国を捨てたくなるような状況でも、日本人は国にしがみつくことに疑問を持ちません。こうした現状維持のメンタリティが、日本人は特に強いといえます。

   ただしここでひと言断っておきますが、「まさか自分の預金が封鎖されることはないだろう」「この国でデノミ(貨幣単位を切り下げて100円が1円になること)が実施されるはずがない」といった、現状への根拠のない信頼自体は決して日本特有のものではありません。

それは人間の脳の仕組みに由来する、きわめて普遍的な現象です。

   しかもそこには、私が著書でしばしば言及するスコトーマ(思い込み・盲点)の原理が働いています。

私たち人間の脳は、感覚器を通じて入ってくる情報に勝手にフィルターをかけて選別します。

そして重要だと思う情報だけを認識するのです。

なぜならすべての情報を認識するためには、脳をフル回転させなければならず、そうするとあまりにもエネルギーを消費することになり、生存自体に支障を来たしかねないからなのです。

   そして脳がある情報を重要と見なすかどうかの基準は、その情報が自分の慣れ親しんだ環境の範囲内にあるかどうかによります。

つまり、現状から見て「ありえない」と思う情報は、たとえ目の前にあっても気づくことができないわけです。スコトーマ(思い込み・盲点)の原理とはこのような脳の限界を指しています。

   これはすべてのことにおいてそうで、仮に日本で明らかな預金封鎖の兆候や、紙幣が紙切れになるようなデノミの兆候が存在したとしても、多くの人々はそれをすぐには認識することができません。

なぜなら、要するに見たくない現実は認識しようとしないからです。
実際に、マネーロンダリングや振り込め詐欺を防ぐとの理由から、私たちがATMで預金口座から引き出せる限度額は、原則1日50万円です。

銀行窓口でも1000万円オーダーの預金は当日にはまず下ろせません。

これは銀行法の論理では、すでに預金封鎖されているのと同じことなのですが、スコトーマのせいで、誰もそうは見ていないのです。

   いずれにしても、「経済が破綻するなんてありえない」と思っている点で、日本人もアメリカ人も中国人も、少し前のギリシャ人だって、まったく変りはありません。

考えてみてください。ウォール街のファンドマネージャーたちのほんの数パーセントでもアメリカの財政破綻を本気で心配し、ドル売りに走ったとしたら一体どうなるでしょう。

その影響はまずウォール街全体に広がり、次に世界全体にたちまち伝播し、ドルはあっというまに暴落して、今ごろ1ドル30円を切っているかもしれません。

そうなっていないということは、ウォール街の専門家でさえ、彼らのほぼ全員が「この現状は続く」と信じきっている証拠です。


  「現状は続く」という思い込み

   同じような例で、「年金なんてもらえるわけがないのに、未だに年金保険料を納め続けている日本人は愚かだ」と言う人がいます。

しかし結局日本人は、「なんだかんだ言っても、年金は受け取れるだろう」と皆信じているようです。

しかしこれはアメリカ人でもまったく同じで、アメリカの年金制度は日本のような国家による公的年金制度中心の設計ではなく、企業年金が軸になっています。

またアメリカは日本のように、少子高齢化に悩んでいるわけでもありません。
(「少子高齢化」だから年金が危ない」というのは、実は日本の厚生労働省による詭弁なのですが、その問題はとりあえず置いておきます。)

   アメリカの場合は、自国通貨のドルの価値自体が大きく揺らいでいるのでが問題なのです。

したがって積み立てた年金が単なる紙くずになってしまう危険性は非常に大きく、日本で騒ぎ立てられている「年金危機」どころの話ではないのです。

それでもアメリカ人たちは未だに進んで、401kなどの確定拠出型年金にお金を積み立てています。結局は彼らも、実際に被害にあうまでは「自分は大丈夫」だと思い込んでいるのです。

   「現状は続く」という根拠なき思い込みの強さを示す例として、私たちはもっと印象的な例を知っています。

2011年3月に大地震に襲われる前、誰がそれを予測していたでしょうか。
もしそんな予測や予感がほんのちょっとでもあれば、避難する人々によるちょっとした「民族大移動」が起きていたはずです。

   このように「現状はこのまま続くんだ」という私たちの信頼はきわめて強いことがわかります。

そしてそこから政治的な現体制も基本的には信頼されるわけで、そのうえにさらに強く儒教文化による信頼強化を施したのが、日本の支配体制だといえるのです。


              「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                          抜粋  
   
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posted by ぷちそれいゆ at 03:55| BOOK

日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(1)

zeraniumのブログ より転載

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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない

http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564

  ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。

競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。

必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。

   企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。

そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。

民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。

それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。

   国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。

しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。

   「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
   だからB案を指示しよう」

   「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」

   「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」

   このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。

「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。

そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。

   結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。

これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。

どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。

つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。

   前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。

その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。

この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。

   この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。

一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。

しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。

この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。

「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。

   そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。

ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。

また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。

   「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。

   自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。

しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。

(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。

   
              「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                          抜粋

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posted by ぷちそれいゆ at 03:08| BOOK

日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか 

徳育は儒教思想のすりこみ、体育は軍事教練・・・だから、暴力教師があとを絶たない。

「公正さ」を主張すると、生意気だといわれる風土をなんとかしないと、ダメだ!

( ̄^ ̄)ゞ

zeraniumのブログ より転載

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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83958587

   日本社会にはフェアネス、つまり「公正さ」は存在しません。

   近代になってフェアネスという言葉だけは輸入したものの、フェアネスを否定する儒教思想が浸透しているので仕方がないことではあります。

フェアネスのない日本社会では「情状酌量」がまかり通り、裁判所から企業にいたるまで、さまざまな組織の問題解決能力が低いままに放置されています。

たとえば、「お客様は神様」思想がはびこって、健全な経済活動の妨げになっていることはすでに指摘しました。しかしフェアネスがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。

   それは、社会の成員をなす一人ひとりの可能性を奪ってしまうことです。

   繰り返し述べてきましたが、フェアネスは、「本質的に人間は誰もが平等である」との良識のことです。

そうである以上、少なくとも建前上は、すべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ平等とは言えません。

たとえばアメリカでは、実際に誰もが支配者側に入り込むチャンスが与えられており、つまり個人の可能性を生かせる社会です。

   ところが日本社会は違います。

   フェアネスがないために、「本質的に人間は皆平等だ」というメンタリティがありません。

だから金持ちや権力者は、ほんとうに偉い人とみなされてしまいます。

つまり、「自分たちと同じ対等な人間の一人が成功した、権力の座に昇りつめた」ではなく、「成功して、権力の座に昇りつめた人は、自分たちとは違う」、と差別的な人間観が生まれてしまうのです。

   こうなると、同じ社会の成員といっても、人それぞれの価値が違うことになります。

   価値が違う以上、対等に扱われる必要はない。

したがって平等にチャンスが与えられなくてもかまわないという発想になります。

チャンスが平等ではない社会はいったいどうなるでしょうか。

ひと言でいえば、封建社会になります。

   日本では、国会議員の子どもが国会議員になる確率は、一般人の子どもが国会議員になる確率の約3万倍です。

ちなみに、自民党では世襲議員の比率は約50%であり、国会議員全体で約40%です。(「世論力テレビ」調べ) 

これは明らかに違憲です。

最低でも、親の選挙区には出られないといった程度のルールは必要でしょう。

ほかにも、医者は二世や三世が多い職業として知られています。また、あまり知られてはいませんが、日本ではアカデミズムの世界も「世襲」の比率が非常に高いのです

   法科大学院制度になり多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も、今よりいっそう世襲化が進むでしょう。

それだけでなくさらに、個人の才能だけが肝心なはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きています。

   楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、父親は神戸大学教授、母親は戦前にアメリカで学んだという帰国子女の名門の家柄で、彼は大学を卒業すると、名家出身者が多かった当時の日本勧業銀行に入行しています。

同じく、IT企業を起こした新興起業家でありながら、ごくふつうの家庭で育ち、東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ、最終的には潰されてしまった。

   一方の三木谷氏は、財界からの覚えもめでたく、それは彼が経団連を退会するようなあからさまな反抗をした後でも変りません。

そこに出身による差別を見て取るのは、不自然なことでしょうか? 

このように、機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人とのあいだで、自己実現の可能性には大きな開きがあるのです。

   自己実現の機会の平等・不平等については、さまざまな議論があります。

   少なくとも、一部の特権階級出身の人にしかチャンスがないとまでは言えず、そうでない人にも不平等とはいえチャンスはそれなりにあります。

しかしより深刻な問題は、多くの人々がその少ないチャンスさえも活かそうとはせずに、早々に、成功することや自己実現を諦めてしまうことにあります。

つまり、すでに機会の不平等があるうえに、日本人は自らが住む封建社会をより一層固定化させるかのように、自分に与えられた「分際」に留まってしまうのです。

   その背景には、日本の教育による誘導があります。

   現代日本の教育を基礎づけている考え方に「三育主義」というものがあります。

それは「知育」徳育」「体育」の三つを、バランスよく施すのが正しい教育であるとした思想です。

もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが唱えたこの思想を、明治の日本人が採り入れたのです。

三育のうち国語、算数、理科、社会、音楽・・・といった知識を教える「知育」はよいとしても、問題は「徳育」と「体育」です。

   徳育は、分かりやすい例でいえば道徳の授業です。

   日本ではしつけや道徳を教えることが学校の役割になっています。

しつけや道徳を教えるということは、特定の価値感=思想や宗教を教えることです。

すでに述べてきたように、日本人にもっとも影響を与えている思想は儒教です。

そういうと、「道徳の時間に儒教教育を受けた覚えはない」と言われるかもしれませんが、しかし「年長さんの言うことを聞きましょう」とか、「勝手な行動は慎みましょう」といったことを、さんざん叩き込まれたのではないでしょうか? それはまさに儒教の価値感です。

   さらに、体育も問題です。

   子どもたちの好きなように身体を動かせるのならいいのですが、ご存知のように、日本の体育の授業でもっとも重視されているのは、「先生の号令に合わせて動くこと」で、簡単にいえば軍事教練です。ここでは露骨に、命令をよく聞く人間の養成が行なわれているのです。
   
   徳育と体育によって、日本の子どもたちは徹底的に秩序を守るように仕込まれます。

   秩序を乱す発想や行動は許されないわけですから、考え方としてはすでにある社会構造の中における上昇を願うようになります。

もともと特権を持たない一般の人々は、ユニークな発想や考え方をすることではじめて逆転の可能性が生まれ、成功や自己実現に近づくことができます。

しかし日本の教育は、そういった自由な発想や考え方をあらかじめ潰してしまうのです。

   その結果、特権を与えられていない多くの人々は、「東大を出て官僚に」「有名大学から大企業へ」といった既に敷かれてあるレールの上でしか、成功や自己実現を考えることができません。

キャリア官僚は無理でも、せめて地方公務員に、東電には入れなくても、せめて東電の下請け企業へ、と既存の秩序にしがみつこうとするのです。

つまり、自分たちを縛っているピラミッド構造の一部を進んで担おうとするのです。

   こうして、日本の封建社会は維持されていくのです。

   そしてこれこそが、日本人に元気がない最大の理由でしょう。

   本章の冒頭で述べたように、日本の経済力は相対的には、決して衰えてはいません。

   経済格差もアメリカほどには大きくはなく、政治的にも一応の自由な社会は保証されています。にもかかわらず、日本社会には活力がなく、日本人はどこか元気がない。幸福を感じられない。

   それは、個人の可能性があらかじめ限定されているからです。
   自分の未来に限りない希望が持てなければ、人は現在を楽しむことはできないし、未来に向かって挑戦することはできないからです。

この状況をいかに変えていくべきかを考えるために、本章ではさらにもう一歩踏み込んで、私たちを縛っているものの正体を見極めたいと思います。


              「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                        抜粋したもの 
   

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posted by ぷちそれいゆ at 02:54| BOOK

米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人(2)

zeraniumのブログ より転載

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米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人 @
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83905328


このようにアメリカ政府の都合によって、日本人の愛国心はボリュームアップされています。

たしかにワールドカップやオリンピックでは、日本代表を応援する若者たちは、屈託なく日の丸を掲げ、君が代を斉唱するわけですが、これは愛国心ではありません。

   もう一つ、愛国心とは無関係な現象として挙げられるのが「ネット右翼」です。

彼らの「原論活動」の動機は、自己肯定の欲求です。インターネット上では匿名で発言するかぎり、いくらでも他人を非難できる。

相手が中国や韓国の政府だろうが、日本の政治家だろうが、巨大マスメディアだろうが、反論を怖れずに口を極めて罵倒することができるのです。

そして何よりも、悪口をぶつけている対象と自分が対等になったような気になれるわけです。

   余談ですが、本書のような書籍を刊行するたびに、私もネット媒体にさんざん悪口を書かれます。

要するにネット右翼の問題は愛国心の高まりというよりも、若い世代の居場所探しの問題、メンタルヘルスの問題と考えるべきです。

「自殺者が増えている」ことや「うつ病の患者が増え、SSRIなどの抗うつ剤の処方の異常な伸び」などの問題として対処されるのが適当と考えられます。

   あらためて愛国心とは何かを確認すると、それは洗脳されないかぎりは生まれない人工的な概念でした。

そもそも人間は国などという大規模な集団に自然と帰属意識が持てるほど高い抽象度で思考してはいません。

自然に生まれる感情としては、愛国心ならぬ「愛家族心」、「愛ご近所心」といった程度がせいぜいなのです。

洗脳の産物である愛国心は、社会に参加している大人にも子どもにも同じように生じます。素直な分、むしろ子どもの方が愛国心を植え付けやすいくらいです。

   ちなみに愛国心とナショナリズムはどこが違うかといえば、愛国心が洗脳であるのに対して、ナショナリズムは利害の問題であるという本質的な違いだと私は考えます。

つまりナショナリズムには必ず、ビジネスや金銭の問題が絡んでいるのです。
もっとも分かりやすい例が、アフリカのナショナリズムでしょう。

さまざまな問題はあるものの、その本質は「アフリカの土地、建物、資源を欧米人から自分たちの手に取り戻そう」ということです。

同様に日本のナショナリズムは、「海底油田を確保するために、尖閣諸島を狙う中国に警戒しよう」、あるいは「日本国内の農業を保護するためにTPPへの参加を阻止しよう」といった話です。

   しかし結論からいうと、日本人の愛国心はまだ未熟な段階です。

   学生たちは問われれば、「国のイメージはいいものだ」と答えるかもしれませんが、果たしてその愛国心が実際に愛国的な行動まで伴うかと言えば疑問です。

2003年から7年間にわたって、イラクの人道支援に伴う自衛隊の派遣が行なわれていた頃、航空自衛隊のパイロットが大量に退官しています。

空自のパイロットと言えば、士官に相当する幹部自衛官で、その多くは防衛大学校を卒業したエリートです。つまり一般的な日本人や自衛官の平均よりも、さらに強い愛国洗脳を受けているはずなのです。

   その彼らからして、戦闘に巻き込まれる危険が生じると、あわてて逃げ出したのです。

   あるいは報酬が高いからと、あっさりと転職したのです。

私は決して非難しているのではなく、人間として正常な判断だと思いますが。

ということは一般の自衛官は、もしも軍靴(ぐんか)の足音が近づいてきたら、どう行動するでしょうか。

おそらく大多数が退官すると言い出すでしょう。
自衛官の多くは、出動するのは災害救助の時くらいと考えて、今の仕事を続けています。
給料をもらいながら、人助けをすれば感謝されるのでやりがいもある。
資格も取れるし、退官後の再就職先も充実している・・・。

   彼らはこうしたごく普通の人間らしい発想で、職業を選択しているに過ぎません。

   愛国心ゆえに志願しているわけではないのです。

もちろん国を守る専門家であるはずの自衛官は、有事に際して自分を犠牲にしてでも国を守るべし、という特別な洗脳を受けているはずです。

にもかかわらず情勢がきな臭くなると、幹部自衛官が先を争って辞めていく。

このことからみても、基本的な洗脳しか受けていない一般の日本人の愛国心がどの程度のものか、おおよその見当はつくでしょう。

   だからこそ政府は、国旗高揚や国家斉唱など、愛国心を強化するための努力に力を入れているのです。もちろんその背後にアメリカの支配者の意向があるのは言うまでもありませんが。 

 「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                        抜粋したもの
   
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posted by ぷちそれいゆ at 02:39| BOOK

米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人(1) 

zeraniumのブログ より転載

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米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人 @
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83905328

   ところで、日本人が信頼を寄せる支配のシステムが、日本国家、あるいは日本政府になったのはいつごろのことなのか。それは歴史の授業を少し、思い出してみればわかります。

   一般庶民までを含めたほとんどの日本人が、日本という国を意識し始めたのは、幕末の明治時代からです。
というよりもそれ以前にはそもそも、「日本人」という概念がありませんでした。
それまで日本に住んでいたのは、「薩摩人」や「会津人」「土佐人」・・・といった人々であり、「日本人」ではなかったのです。これは日本以外の国々でも同様です。

   国家への帰属意識を共通のアイデンティティとする人々を、「国民」として束ねる「国民国家」のシステムが生まれたのは、ヨーロッパやアメリカでもせいぜい17、18世紀からと考えておおむね間違いではありません。

それまではドイツとかフランスとか、イギリスといった国々が存在していたわけではなく、ハプスブルク家とかブルボン家、スチュアート家といった一族の名を冠した王朝が、ヨーロッパには割拠していたのです。

   私たちが日本や日本人について考えるとき、こうした事実を前提にして考えなければならないでしょう。
国家・国民といったものは近代になってからで、日本で言えば幕末から明治期にかけて人工的に作られた制度なのです。
もちろん国民国家の前提になる、「日本」への帰属意識もまた作られたもので、愛国心も、言うまでもなく人工的なものです。

   普段の自分の行動を考えてみればわかりますが、人間は国家とか国民といった数千万から数億人規模の集団に、自然に帰属意識や愛情を感じるような抽象度で生きてはいません。

自然に愛着が発生するとしたら、家族に対する愛情や、いつも一緒に働いている職場のチームに対する愛情の規模がせいぜいといったところです。

だからこそ人類は、ほんの数世紀前までは、狭い範囲の氏族集団同士が小競り合いを繰り返すような、せせこましい争いを続けてきたのです。

   しかし近年になって再び、「国民」は分裂の兆しさえ見せています。

   それらが旧ユーゴスラビアやチェチェン、ルワンダで起きている民族紛争で、それまで自明とされていた「国民」としての一体感が疑われ、複数の集団に再分裂していく動きが各地で激化しています。

そこでは「国民」という括(くく)りよりも、「民族」という括りのほうがより確からしいと感じられたために、国家が民族単位へと内部崩壊したのです。

国家や国民という概念は、しょせんは人工のものでしかなく、それもごく最近作られたものであって、実は、以外と脆いものであることがわかります。

   明治維新によって大日本帝国が成立し、はじめて日本人は国家によって束ねられるようになりました。

日本列島を一つにした最初の国民国家誕生です。

そのために国民を統合するための原理として、江戸時代にはほとんど顧(かえり)みられることのなかった天皇が再び担ぎ出されました。

日本は国家として一つにまとまったので、外交の単位も当然日本です。

戊辰(ぼしん)戦争のころまでは普通にあった、幕府なり薩摩藩なりが個別に窓口を持ってイギリスやフランスと外交交渉をしたり、契約を結んだりといったことはなくなります。

   このように体制が改まっただけでは、国民に国家への帰属意識や愛国心を抱かせることはできません。

そのためこうした観念を植え付けるために、つまり洗脳のために活用されたのが義務教育とメディアです。

日本では1872年に早くも学制が公布され、小学校で義務教育が始まりました。

そうしてここで幼い子供たちに、「君たちは大日本帝国の臣民である」と洗脳を施していったのです。

   一方、同じ年に次々と生まれたのが、「東京日日新聞」や「讀賣新聞」「朝日新聞」などの日刊新聞です。

これらの新聞が日本全国のニュースを報じ、日本がとるべき政策や抱える問題などの、「天下国家」を論ずることで、読者に国民としての意識を植え付けていきました。

これもまた、マスメディアの洗脳です。

同時に「日本中の人々が、同じニュースをリアルタイムで共有する」体験が一般化していき、ついこの前まで「藩」という枠組みで寸断されていた人々が、ニュースの受け取り手として一体化したのです。このようにして生まれた一体感が、国民としての帰属意識へと育っていったのです。

   こうした明治以降の洗脳は、最終的に軍国主義にまで行き着き、日本を破局へと導いてしまった。

終戦後、日本にやって来た米国占領軍は、日本の軍国主義を徹底的に解体し、復活を防ぐために、これまでとは違った方向の洗脳を日本人に施すようになりました。
それがGHQが行なった「War Guilt Information Program 」(戦争罪悪感情動プログラム)と呼ばれる情報操作で、戦争責任に対して日本人全体に強い罪悪感を刷り込み、徹底して日本を非軍事化するものでした。

   このプログラムには、洗脳の権威であるスタンフォード大学のアーネスト・ヒルガード教授が参加した形跡があります。

彼が亡くなった時、スタンフォード大学が出した追悼文集にそのことが明記されていました。

つまり洗脳工作を通じてGHQは、天皇を頂点とする軍国主義国家を解体しようとしました。

しかし同時に彼らの意図は、日本を統治するための道具として天皇制を維持することだったのです。

こうしてGHQによる教育つまり洗脳をまともに受けて育ったのが、団塊世代から私と同年代(1959年生まれ)くらいまでの世代でしょう。

ですからこの世代は軍国的なものや右翼的なものが、とにかく嫌いなのです。その典型が全共闘運動でしょう。

   しかし最近になって流れが変りつつあります。

   全共闘世代に代表されるように、かつて学生というのは反権力の急先鋒であり、国を疑い、国家に反逆するものでした。

もちろんそれも、GHQという支配者の洗脳にほかならないのですが。

ところが最近の学生たちに「国についてのイメージ」を尋ねると、「いいものである」「親しみを感じる」「愛している」などといった答えが増えているというのです。

戦後60数年が経って、GHQによる洗脳の効力が薄れてきたのでしょうか? 

そうではありません。終戦から現在に至るまで途切れることなく、日本人の愛国心は一貫して、アメリカの支配者によってコントロールされています。

   かつて学生たちが国家を悪と見なした状況から、現在のように学生が自然と愛国心を表明するような状況にまでボリュームが上げられたのは、まさにアメリカの支配者の都合なのです。

どういうことかというと、日本人を軍国主義から撤退させて引き離し、再びアメリカに敵対することのないように洗脳したうえで、今度はもう一度、日本人に国家のために働くメンタリティを植えつけるためなのです。

   なぜか。
   その理由は、ソ連が崩壊して冷戦が終結したからです。

   かつて最大の仮想敵国がいなくなって、アメリカの軍事的な負担が減ったかというとまるで逆で、民族主義の激化によって、アメリカはそれまで以上に、世界中を股にかけて戦わなければならなくなった。

アメリカ政府は、そういった面倒な戦争を何とかして日本にも手伝わせたいのです。
そのためには、自衛隊を派遣したり、戦費を提供する日本政府の動きに反発する国民が多くては困るのです。

   そこで今度は、「国はいいものである」「国を愛するのは当然である」といった洗脳に、再び転換するように仕向けたのです。

つまりスピーカーのボリュームを調整するように、アメリカ政府にとって都合のいいレベルになるように、日本人の愛国心は調整されているのです。

55年体制の末期に、安倍晋三政権によって教育基本法の改正が行なわれたのは、そのもっともわかりやすい例です。

   安倍首相は、「戦後レジームからの脱却」をキャッチフレーズに、改憲に向けた法整備を進めるなど、タカ派のイメージを売りにしていました。

しかし「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正は結果として、アメリカの支配者の要望に応えるものにほかならなかったわけです。

最近では2012年2月28日に、自民党の憲法改正推進本部が、天皇を「日本国の元首」とし、国旗・国家を国民は「尊重しなければならない」とする原案を示しています。

中国をはじめ近隣諸国の感情を逆なでする主張に、私は腰を抜かしたものです。

                 「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書

                        抜粋したもの
   
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posted by ぷちそれいゆ at 02:34| BOOK
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