アフィリエイト広告を利用しています
ファン
<< 2023年02月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
最新記事
カテゴリアーカイブ
コーヒー(150)
手作り品(76)
(109)
大相撲(48)
健康(45)
社会(308)
生業(133)
お菓子(10)
生活(190)
宗教(12)
美術(8)
物理(4)
スポーツ(76)
哲学(54)
テレビ(67)
世界(58)
心理(19)
政治(190)
メディア(130)
経済(179)
日別アーカイブ

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2016年09月11日

死後の世界H

稀に自分の前世を語る人がいる。
それも年端の行かない幼子が語りだして
その子の親が驚いている、
などという話もある。

眉唾ものの話も中にはあるだろうが、
ひょっとしたらそれもありえるんじゃないかとも思える。

魂が素粒子的なものの集合体だとして、
ある人が死んで肉体から抜けていく。
大多数の魂はその瞬間に霧散拡散してしまうのだが、
たまたま霧散拡散しきれずに
記憶という電気信号を有したまま
新たな肉体に集まってしまう。

宇宙の星の成り立ちを考えてみると
ビッグバンによって水素やヘリウムという軽い元素が飛び散り、
それが集まって核融合を起こして新しい元素を生み出す。
生み出された元素がまた集まることで塵となり、
その塵が集まることで星になる。

宇宙の出来事が普遍的であり
同じようなことが宇宙の一部である地球でも起きているのだとすれば
星が生まれるメカニズムと命が生まれるメカニズムに
大きな違いがある方が不自然に思える。

人間から見た宇宙の大きさは10の26乗メートルだそうだが、
人間から見た素粒子の大きさは10のマイナス何十乗メートルだそうだ。
プラスとマイナスのちょうど真ん中に人間の意識がある。
これは偶然だろうか。

とはいえこれも私の仮説にすぎない。
やはり死後は死んでみなければ分からない。

死ななきゃ分からないものを
死ぬ前から恐れるのも馬鹿らしい話ではないか。

蚊やゴキブリなどは簡単に殺してしまうのに
自分の死後を恐れるのもおかしな話だ。

人間はいつか死ぬ。必ず死ぬ。
先人たちも皆死んでいる。
死ななかった人はおそらくいない。

宇宙誕生の意味を考えても無駄なこと。
同じように生まれた意味や死ぬ意味を考えるのも
無駄なことなのかもしれない。
いや、どうだろう、
それを考えることが死後に役立つかもしれない。

いや分からない分からない。
科学が発達して様々なことが解明されたとしても
宇宙が誕生した意味や人間が誕生した意味、
自分が生まれた意味は分からないはずだ。

分からないものに恐怖するのが人間だから
何かに縋りたくなる。
だから言い伝えや宗教に答えを求める。
死後の世界のイメージなんて
それくらい根拠の無いものだ。

だから私は
死後の世界云々を持ち出さない
釈迦が説く原始仏教が信用できる。







posted by 黒豚猫 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

死後の世界G

こんな反宗教的なことを書くと
時代が時代で場所が場所なら
魔女狩りに遭って火炙りにされていることだろう。
いい時代になったものだ。

さて、巷で信じられている死のイメージは
人為的に作られていることはなんとなく分かる。

私は「輪廻」や「あの世」はどうも合理的には思えない。
では合理的に「生」や「死」をどう考えたらいいのだろう。

この宇宙を構成しているものは原子である。
そして目には見えない素粒子が
宇宙にも地球上にも飛び交っている。
ダークマターなるわけの分からないものもあるようだが、
宇宙も地球上も構成しているものは同じだ。

材料は限られているんだから
「魂」とか「意識」とか「生命」も
同じ材料で出来ていると考えるのが自然ではないだろうか。

実際に体内における神経の伝達は
電気信号だという解釈で共通している。
意識的にせよ無意識にせよ
体を動かすことというのは
脳や脊髄から信号が送られて反応する。

この電気というものも素粒子である。

小柴博士がノーベル物理学賞を受賞したおかげで
「ニュートリノ」という言葉が広く知られるようになった。
このニュートリノは素粒子。
宇宙はニュートリノだらけ。
極めて小さいので何でもすり抜けてしまう。
我々人間の体も常にすり抜けている状態だ。

未知なる素粒子か、すでに発見されている素粒子か、それは分からないが、
いや、素粒子なのかすら分からないけれども、
そのようなものがたまたまこの地球という星の上で
たまたま条件が揃ったおかげで
有機物体に留まることができ、
その素粒子みたいなものが
「生命」として活動・運動を始めたのではないだろうか。

その有機物体が何らかの欠損を起こして
活動・運動をしていた素粒子のようなものを
有機物体が留めておけなくなり
空気中に霧散してしまうことが「死」という現象なのではないだろうか。

昔「21グラム」という映画があった。
この21グラムというのはアメリカの医師が
人の死の際の体重変化を記録して導き出した魂の重さだという。

いまでは否定されてはいるが、
この考え方はあながち間違ってはいないのかもしれない。

素粒子には重さがないが、
その素粒子に質量を与えているのがヒッグス場である。
素粒子に重さがあるのだから
この私の説が正しければ魂にも重さがある。




posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月10日

死後の世界F

死後は死ななければわからない。
死後に関して生きているうちには手がかりすら得られない。

我々が死後の世界として得られたと勘違いしているものは
昔からの言い伝えであったり
宗教的な教えである。
何の根拠もないものを信じこまされている。

それにともなって
生き残っている側が死んでしまった人を
「可哀想」だとか「さぞ無念だろう」などと
勝手に察しているのである。

だからニュースで「犯罪者を死刑に」とか
ドラマで「憎いアイツを殺してやる」などと言っているのを見ると
本当にそれって相手に罰を与えていることになるのだろうか、
と疑問に思ってしまう。

ひょっとして死刑囚は死刑になることによって
ものすごい楽園でハッピーな思いをして
「いや〜、死刑にしてくれてありがとう!」などと喜んでいるのかもしれないし、
憎まれて殺された人も
「憎まれてよかった。殺してくれてありがとう」と
殺した人に対して感謝しているかもしれない。

だからといって殺していいとか
早く死んだ方がいいなどと言っているわけではない。
逆の場合もありえるのだから。

生前善い行いだけを心がけてきた人も
悪さばっかり行ってきた人も
問答無用で全て無限の苦しみを与えられてしまうかもしれない。
何の選択権も与えられず生まれたこと自体が理不尽なのだから
その生を閉じた後だって理不尽なはずだ。

そういった未知なるものに関して人間というものは
恐怖を感じるものなのだ。
何の手がかりもないものに対して
ネガティブに考えてしまうのが人間なのだ。

死に関して恐怖したり希望を持ったりすることは
なんと無意味なことだろうか。

そんなことに一喜一憂することなく
常に心穏やかに過ごせるようにしようとしたのが
釈迦の教える原始仏教なのだと思う。





posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月09日

死後の世界E

「死」というものを科学的に考えると、
「魂」というものの存在を考えなければいけない。

物体に「魂」があることで生物と認められる。
生物だったものでも「魂」が物体に備わらなくなった途端
「死」という現象と認めることになる。

ではその「魂」とは何なのだろうか。

一神教を深く信じている人にとって「魂」は
神様が与えてくださったものになるのだろう。
だが多くの人が考える生物学的には
進化の過程を経て面々と受け継がれてきたものである。

ではその最初はどうなっていたのだろう。

残念ながら現在の科学をもってしても
生命の起源は明らかにされていない。
有機物が突然変異したとか地球外ら飛来したとか
いろいろと説は出ているが証明はされていない。

いずれの説においても
まずは一つの生命体から発展した、ということは共通している。
初めの「魂」は一つだった、ということだ。

だとすると輪廻という考え方は否定されないだろうか。
一つの「魂」が死によって輪廻して新しい物体に宿るのなら
「魂」の数は常に同じでなければいけなくなる。

ある人は
「魂は分化する」と話していたが、
それだと単なる遺伝子の分化と何ら変わらないし、
突然変異についてはどのように説明するつもりなのだろう。

もし仮に死後の世界があって
死によって魂がそこに移動するのであれば、
生命誕生以来何十億年分の「魂」が
そこに送り込まれていることになる。

そこは三葉虫もT−レックスもマンモスもニホンオオカミも
蝿や蚊やノミもごった返すカオスではないか。
毎分毎秒次から次へと魂が送り込まれて降り積もり、
魂のミルフィーユ状態になっているのだろうか。

そんな状態で「天国」などと呼べるのだろうか。

理詰めで考えてしまうと
死後の世界などを考えることは無駄なことに思わせてくれる。







posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月08日

死後の世界D

古代における死後の世界の考え方は
生まれ変わるという輪廻ものと
死後には別の世界がある系の2系統ある。

魂がどこから来るのかを説明する際の
コジツケとして便利なのは輪廻ものだろう。

天体観測から導き出した法則が
その輪廻ものに信憑性を与える。

太陽が沈み、再び昇る。
月は満ち、そして欠けてなくなっていく。
毎年季節季節ごとに同じ星座が現れる。

これらは誕生と消滅、そして再生を
普遍的なものとして人々に感じさせる。

死後には別の世界に移動する、
という考え方はごく自然な考えといえる。

それまで生きていた人が、
死んでしまうとただの物体になってしまうのだ。
魂なるものがあって、それがどこかに移動したと考えないと
辻褄が合わなくなってしまう。

エジプトのように遺体をミイラに加工して保存するというのは
再生を信じていたから。
秦の始皇帝が大々的な始皇帝陵を作らせて
大量の兵馬俑を一緒に埋めさせたのは
死後の世界があると考えていたからだろう。

現代の日本では面白いことにその考え方が同居している。

身内が死んでしまうと
「おばあちゃん、あの世でおじいちゃんと仲良くね。」
などと言っておきながら
「私って、前世はお姫様だったんだって。やっぱりなって思った。」
などと続けて聞いてしまうと整合性の取れないことを平気で話たりする。
あの世があるなら生まれ変わることはないし、
生まれ変わりがあるのならあの世で仲良くなんて出来はしないはずだ。

明確な宗教がないからこそ
このような曖昧な死生観になっているのだろう。





posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月07日

死後の世界C

なぜ法然の話を持ちだしたかというと、
人々が抱く死後の世界のイメージというのは
時代時代の思想によって変化する、
ということを言いたかったからである。
それは日本だけに限ったことではない。
世界中どこでも死生観は変化する。
時にそれは権力者が利用したりもする。

古代のインドにバラモン教という宗教があった。
バラモン教を否定する意味で生まれたのが仏教で、
バラモン教を引き継いでいるのがヒンズー教だ。

バラモン教はイランや北インドにいたアーリア人が
南インドの先住民を支配する目的で生まれた。

この世には階級があり、
その階級を変えることはできない。
だが、死んで生まれ変われば
上の階級に昇ることができる。
そのためには現世で善い行いをしなければいけない。

こう教えこまれると被支配者層は
支配層に対して反乱を起こしづらくなる。
この支配者層にとって便利な考え方が
ヒンズー教として現代まで生き続けているのだ。

このバラモン教の生まれ変わるという考え=輪廻に対して

人間には階級はなく、みな等しい。
たとえ輪廻があって来世なるものがあったとしても
修行して解脱することでその輪廻を断ち切れる、
としたのが仏教である。

それゆえに仏教は支配者層から嫌われることになり
インドでは支配者層から庇護されなくなってしまい
仏教徒はインドから消えてしまった。

その仏教の考えを発展させて
死んだ後には極楽浄土が待っていると
希望をもたせるようになったのが
法然の浄土宗というわけだ。






posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月06日

死後の世界B

念仏仏教は法然の発想ではない。
元々は大乗仏教の流れで
インドから中国、そして日本へと渡ってきたものだ。
だがそれを日本に浸透させたのは
間違えなく法然の力である。

想像してみて欲しい。
なにも予備知識がない中で、
「『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行ける」
などと言われて簡単に信じる人がいるだろうか。

キリスト教やイスラム教の場合の開祖は
神様から言葉を預かった預言者である。
後ろ盾には神様という絶対的な存在がいる。
「神様がこうしろと言っている」と言えば
神様がそう言っているのなら、と納得する人も出てくるだろう。

ところが法然の場合はそうした後ろ盾はない。
法然の人間力で人々に念仏の力を信じさせていった。
「法然さんがそう言うならそうなのだろう」と。

法然の弟子の親鸞もそのようなことを言っている。

念仏を唱えて浄土に行けるかどうかは分からない。
行けるかもしれないし行けないかもしれない。
同じ「分からない」だったら
私は法然上人の仰ることを信じたい。 
と。

自分で見てきたわけではない死後の世界について
法然は自身でもいろいろ考えたことだろう。
念仏を唱えれば浄土に行けるなどと言っていいものだろうか、と。

それでも法然が活躍した時代というのは
戦乱や飢饉、疫病に天変地異で人々が疲弊していた時期である。
そんな時代に人々に生きる力を与えるためには
何か希望の持てるモノが必要だった。
人々を救済するためには
「こうだ!」と言い切る必要があった。

仏教が来る前までの日本の死生観は
古事記にあるイザナギ・イザナミの話のような
黄泉の国という未知の恐ろしい世界に行く、
というものだった。
死は穢れであり、忌み嫌うもの。

それが仏教伝来によって極楽浄土という考えが植え付けられ、
死後に対して希望を持てるようになる。
そしてその希望を貴族や男だけではなく
庶民や女にまで広げたのが法然だった。

恐ろしいくらいの法然の人間力の凄さである。





posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

死後の世界B

念仏仏教は法然の発想ではない。
元々は大乗仏教の流れで
インドから中国、そして日本へと渡ってきたものだ。
だがそれを日本に浸透させたのは
間違えなく法然の力である。

想像してみて欲しい。
なにも予備知識がない中で、
「『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行ける」
などと言われて簡単に信じる人がいるだろうか。

キリスト教やイスラム教の場合の開祖は
神様から言葉を預かった預言者である。
後ろ盾には神様という絶対的な存在がいる。
「神様がこうしろと言っている」と言えば
神様がそう言っているのなら、と納得する人も出てくるだろう。

ところが法然の場合はそうした後ろ盾はない。
法然の人間力で人々に念仏の力を信じさせていった。
「法然さんがそう言うならそうなのだろう」と。

法然の弟子の親鸞もそのようなことを言っている。

念仏を唱えて浄土に行けるかどうかは分からない。
行けるかもしれないし行けないかもしれない。
同じ「分からない」だったら
私は法然上人の仰ることを信じたい。 
と。

自分で見てきたわけではない死後の世界について
法然は自身でもいろいろ考えたことだろう。
念仏を唱えれば浄土に行けるなどと言っていいものだろうか、と。

それでも法然が活躍した時代というのは
戦乱や飢饉、疫病に天変地異で人々が疲弊していた時期である。
そんな時代に人々に生きる力を与えるためには
何か希望の持てるモノが必要だった。
人々を救済するためには
「こうだ!」と言い切る必要があった。

仏教が来る前までの日本の死生観は
古事記にあるイザナギ・イザナミの話のような
黄泉の国という未知の恐ろしい世界に行く、
というものだった。
死は穢れであり、忌み嫌うもの。

それが仏教伝来によって極楽浄土という考えが植え付けられ、
死後に対して希望を持てるようになる。
そしてその希望を貴族や男だけではなく
庶民や女にまで広げたのが法然だった。

恐ろしいくらいの法然の人間力の凄さである。





posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月05日

死後の世界A

なにも死ぬことが良いことだとは思っていない。
死んだ後のことを誰も知らないのに
なぜ死ぬことが可哀想なのかが分からないということだ。

死ぬことによって生前にものすごく愛した人やモノと
別れることになるのは無念なのかもしれないが、
もしかしたら、死んだ後には
その別れを遥かに上回るくらいの
もっとハッピーな出来事が待っているかもしれない。

「可哀想」だと生き残っている側が感じるのは
生き残っている側の感情である。
死んだ人が死んだ後にどう感じているのかなどは
生きている人には分からない。

同じようなことが宗教に関しても言える。

日本人は無宗教だと言っても
とりあえず形式として仏教は根付いた。
死んだら寺から僧侶を呼んでお経を読んでもらい、
骨は寺の敷地などにある墓地に埋葬する。
家には仏壇をしつらえて、
その後も四十九日や1周忌など節目節目にお経をあげる。

ここまで仏教が一般の家庭にまで普及したのは
鎌倉時代の法然によるところが大きい。
出家して仏道に入って修行せずとも
念仏を唱えれば浄土に行けるという念仏仏教が
それまでの貴族のための仏教から庶民のための仏教へと
概念を変えたのが法然である。




posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2016年09月04日

死後の世界@

オール・ユー・ニード・イズ・キルという映画がテレビで流れていた。

日本のライトノベルが原作だという予備知識はあったので
どんなものか「ながら」で観ていた。

なるほど日本の原作らしい設定であった。
どこが日本らしいのかといえば
「生まれ変わる」、「輪廻」という発想だったからだ。

「生まれ変わる」、「輪廻」という発想は
インド発祥で東洋的なものだ。

欧米およびイスラム圏の場合の死後のイメージは
神様によって審判をくだされて
天国に行くか地獄に行くか決められる、という宗教の教えがあるから
それに沿ったものになる。
天国にせよ地獄にせよ、あくまでこの世からは離れた場所に
魂が移動するということであるから
この世に再び魂が戻ってくるという発想にはならない。

欧米の場合でも
この手の何度も同じ場面を繰り返すという物語はあったが、
いずれも「タイムトラベル」とか、「寝て起きたら」というもので、
死んで再び蘇るというものではなかった。
なかったからこそ斬新と受け止められて原作に選ばれたのだろう。

最近は災害が多く、それによって多くの命が失われている。
若い命が失われると
「まだ若いのに可哀想」などという意見を聞くことになるのだが、
果たしてそれは正しいのだろうか、
といつも疑問を感じてしまう。





posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学
検索
最新コメント
タグクラウド
プロフィール
黒豚猫さんの画像
黒豚猫
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。