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2018年10月14日
拓馬篇後記−3
拓馬は家へもどった。トーマを家へあがらせる際、犬の四つの足をふく。出かけるまえに用意しておいたぬれタオルを使い、肉球の表面と肉球同士のすきまをきれいにした。その作業中に父に「おかえり」と声をかけられる。
「長かったね。今日は遠出してきた?」
「いんや、ちょっと人と話しこんでた」
「へえ、どんな人と?」
「大畑さんが──」
拓馬は犬のケアと並行して、散歩中の出来事を話した。大畑とヤマダ両名との会話を父が知ると「いいじゃないか」と言う。
「それは手伝ってあげたらいい。椙守くんも行きやすくなるだろう」
父は椙守贔屓なところがある。椙守の生まれつき卑弱な体質が、同情をさそうのだろう。父は若いころ、体がよわかったという。といっても二人のよわさは方向性がちがう。父は病がち、椙守は非力で運動音痴。病弱な者が常人より体力面に劣ることはよくあっても、体力がないからといって病弱とはかぎらない。
(行くしかなさそうな空気になってきたな……)
ひかえめな父がすすめることだ。これをことわるには確固たる理由がなくては拓馬の納得がいかない。そして、拒否する理由は不確定な要素にだけある。
「体験会だけですむなら、な……」
拓馬は台所で犬専用の皿に水を入れる。その水をトーマに飲ませてやった。父もトーマの朝食用のドッグフードを用意する。
「体験会がおわったあとも手伝わされるかは、まだわからないんだろう? だったらその話が出たときに考えていいんじゃないか」
「ああ、うん……」
父の助言は拓馬に迷いを生じさせた。父の指示にしたがえば、拓馬は今月の日曜日の参加についてのみ大畑に口を出せばよいことになる。それが無難だ。夏休み期間中の指導のことをつつくと墓穴をほりかねない。「俺にやらせるのか」とこちらから言えば「その方法があったか!」とばかりに大畑を乗り気にさせる可能性がある。
(でも気にはなるよな)
大畑がなぜハードな夏季日程を組んだのか。それをうまく聞き出したいと拓馬は思った。
父がトーマのエサを計量カップで皿にうつしていると、呼鈴が鳴った。大畑だ、と察した拓馬はすぐに玄関へ向かった。玄関の戸が勝手に開く。
「おはようございます! 拓馬くん……はそこにいたか!」
体格も威勢もよい中年男性が玄関へ入ってくる。その格好は夏らしい半袖短パンだ。散歩中に着ていた服とは色がちがう。他人の家へ訪問するエチケットとして身綺麗にしてきたらしい。
「約束のチラシだ! もらってほしい」
「あ、はい……」
拓馬は手製のチラシを受け取り、目を通した。ヤマダに見せてもらったのと同じ内容だ。再読の必要はない。すぐに視線を大畑へもどした。大畑は不思議そうに「見なくていいのか?」と聞いてきた。
「はい、もう見たんで……」
大畑の目がかがやく。
「もしかして、チラシをとっておいてくれてた?」
「いえ、俺じゃなくて──」
「いやぁ、うれしいね。もう道場には興味ないみたいだったのに、気にかけてくれているとは! 心はまだ通じ合っていた──」
「ヤマダがもってたんです! 俺じゃありません」
拓馬は強く否定した。否定の主目的は、他人が聞いたら誤解しそうな言い回しをさえぎりたかったことにある。チラシの所有者の特定はどうでもよかった。
拓馬が声を荒げた結果、大畑はすこしひるんだ。しかし拓馬の態度は真実の追究にあると考えたようで、自身の失言に気付くことなく話をすすめる。
「もう知っていたなら話は早い。この体験会に指導員として加わってくれるかね?」
「はい、その体験会だけならかまいません」
「『だけ』? ほかにもなにか、たのんでいたかな」
拓馬はうっかり本音をもらした。大畑の内なる計画を知らない状態で「夏休みの指導も俺にやらせる気なんじゃないですか」と言うのはリスクが高い。
「あー……えっと、客寄せをやらされたらイヤだな、と思ってて」
適当に付帯業務をこじつけた。大畑はにっと笑んで「そんなことはさせないとも」と大見得を切る。
「そういう営業は指導員の役目じゃない、とワシは思っているよ」
「だからチラシ配りしてたんですか?」
「ああ、実澄さんから聞いたか。配るついでに体を鍛えられるし、よそで依頼しなくていいから安くつくし、いいことずくめでな」
自力でのポスティング行為には「出費を抑えたい」という動機があった。やはり金銭関係でなにか事情がある。
「なんで急に門下生を増やそうと思ったんです?」
拓馬が思う大畑とは、あまり損得にこだわらない人だ。空手とはべつに生業(なりわい)をもつせいか、道場の運営はボランティア感覚でやっているフシがある。先祖代々受け継ぐ道場を子孫の代まで維持できたらいい、といった感じで、大畑家の利益追求は二の次だ。このような熱心な宣伝行為をする光景は拓馬の記憶にないし、ましてや練習時間帯を増やすこともなかった。
大畑は照れくさそうに「多少お金が入り用で」と言う。
「いまの稼ぎじゃ将来不安になってな……」
「将来っていうと……子どもが産まれるんですか?」
大畑の妻はまだ三十代。出産をするのにムリのない年齢だ。大畑にはすでに子がいるが、女児ばかり。道場を継ぐのに穏当な男児は不在だ。有力な後継者を求めてもおかしくない。そう拓馬は考えていたが、大畑は「その予定はない」ときっぱり否定する。
「親戚が……居候するんだ」
すでに家庭をきずいている一家に親戚があがりこむ。これはあまり一般的ではない事態だ。
(身寄りのない親戚の子かな?)
と拓馬は予想したものの、大畑の言葉によってすぐ否定される。
「長い間、遠方にいっていた人で、これから職をさがす」
「職……ってことは、大人?」
「ああ、ワシのすこし下だ」
つまり四十歳前後の人だ。その年頃なら部屋を借りて、独り暮らしをしてもよさそうなものだ。
「アパートは借りられないんですか?」
「それはこれから考える。どうせ住むなら仕事場にちかいところをえらんだほうがいいしな」
「じゃあ、仕事が決まるまでの居候か……」
せいぜい年内でおさまりそうな出費だ。それだけで「将来が不安」と言うほど、大畑家に余裕がないのだろうか。
(あんまりよその家のお金のことは……)
こればかりは気心の知れた相手でも質問できなかった。拓馬がだまると大畑の表情がくもる。
「訳あってすぐに勤められそうにない。『どうしてか』と聞かないでおくれよ」
「はい」
「確実な勤め先がうちの道場だと思ってな。だから一ヶ月間は昼間も道場を開放できるわけだ」
「じゃ、その人も空手の指導員?」
「そう。ワシより強いぞ」
大畑の親類かつ強い人──拓馬はなんとなく、大畑に似た男くさい屈強な男性を想像した。素性は知らないものの、その人物が指導員に加わるというのなら拓馬が出る幕はなさそうだ。
「その人が体験会にも出れば、人手はじゅうぶんじゃないですか?」
「それが、初日は無理なんだ。開催日を一週ずらしておいたらよかったかとちょっと思ってる」
「つまり、二回めの体験会にはその人が出るってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ俺は初日だけで──」
「いやいや、ついでだから二回めも出てほしい。新規の門下生が予想以上に増えたら、お駄賃に色をつけよう」
「はぁ、わかりました」
拓馬は生返事をした。道場の催し物に参加して、お金をもらえるという感覚がどうにもしっくりこない。むかしはお金を支払ったのちにかよう場所だった。その変化がいまいち慣れない。
「言うまでもないが、当日は空手着を持参してほしい。それと準備があるから……八時半にきてもらえるかな」
「はい、行きます」
単発の雇用契約は成立した。大畑が去っていく。それと同時にトーマが玄関へやってきた。トーマは自身の口回りをぺろぺろなめている。もう朝食をとったようだ。客がきてもご飯を優先した理由は、トーマが大畑をそれほどこのんでいないからだ。動物の本能ゆえか、ああいった大柄で声の大きい人は敵として警戒しがちな面がある。
「俺も朝飯を食うかな……」
拓馬が居間へもどるとトーマもあとをついてくる。ごはんのおこぼれがもらえる、とでも思っているのだろうか。拓馬はトーマに自身のごはんを分けないのだが、トーマは食事中の拓馬にすりよることがしばしばあった。
「くっついててもなにもやらないからな」
一言忠告しておき、拓馬は食卓に着いた。
「長かったね。今日は遠出してきた?」
「いんや、ちょっと人と話しこんでた」
「へえ、どんな人と?」
「大畑さんが──」
拓馬は犬のケアと並行して、散歩中の出来事を話した。大畑とヤマダ両名との会話を父が知ると「いいじゃないか」と言う。
「それは手伝ってあげたらいい。椙守くんも行きやすくなるだろう」
父は椙守贔屓なところがある。椙守の生まれつき卑弱な体質が、同情をさそうのだろう。父は若いころ、体がよわかったという。といっても二人のよわさは方向性がちがう。父は病がち、椙守は非力で運動音痴。病弱な者が常人より体力面に劣ることはよくあっても、体力がないからといって病弱とはかぎらない。
(行くしかなさそうな空気になってきたな……)
ひかえめな父がすすめることだ。これをことわるには確固たる理由がなくては拓馬の納得がいかない。そして、拒否する理由は不確定な要素にだけある。
「体験会だけですむなら、な……」
拓馬は台所で犬専用の皿に水を入れる。その水をトーマに飲ませてやった。父もトーマの朝食用のドッグフードを用意する。
「体験会がおわったあとも手伝わされるかは、まだわからないんだろう? だったらその話が出たときに考えていいんじゃないか」
「ああ、うん……」
父の助言は拓馬に迷いを生じさせた。父の指示にしたがえば、拓馬は今月の日曜日の参加についてのみ大畑に口を出せばよいことになる。それが無難だ。夏休み期間中の指導のことをつつくと墓穴をほりかねない。「俺にやらせるのか」とこちらから言えば「その方法があったか!」とばかりに大畑を乗り気にさせる可能性がある。
(でも気にはなるよな)
大畑がなぜハードな夏季日程を組んだのか。それをうまく聞き出したいと拓馬は思った。
父がトーマのエサを計量カップで皿にうつしていると、呼鈴が鳴った。大畑だ、と察した拓馬はすぐに玄関へ向かった。玄関の戸が勝手に開く。
「おはようございます! 拓馬くん……はそこにいたか!」
体格も威勢もよい中年男性が玄関へ入ってくる。その格好は夏らしい半袖短パンだ。散歩中に着ていた服とは色がちがう。他人の家へ訪問するエチケットとして身綺麗にしてきたらしい。
「約束のチラシだ! もらってほしい」
「あ、はい……」
拓馬は手製のチラシを受け取り、目を通した。ヤマダに見せてもらったのと同じ内容だ。再読の必要はない。すぐに視線を大畑へもどした。大畑は不思議そうに「見なくていいのか?」と聞いてきた。
「はい、もう見たんで……」
大畑の目がかがやく。
「もしかして、チラシをとっておいてくれてた?」
「いえ、俺じゃなくて──」
「いやぁ、うれしいね。もう道場には興味ないみたいだったのに、気にかけてくれているとは! 心はまだ通じ合っていた──」
「ヤマダがもってたんです! 俺じゃありません」
拓馬は強く否定した。否定の主目的は、他人が聞いたら誤解しそうな言い回しをさえぎりたかったことにある。チラシの所有者の特定はどうでもよかった。
拓馬が声を荒げた結果、大畑はすこしひるんだ。しかし拓馬の態度は真実の追究にあると考えたようで、自身の失言に気付くことなく話をすすめる。
「もう知っていたなら話は早い。この体験会に指導員として加わってくれるかね?」
「はい、その体験会だけならかまいません」
「『だけ』? ほかにもなにか、たのんでいたかな」
拓馬はうっかり本音をもらした。大畑の内なる計画を知らない状態で「夏休みの指導も俺にやらせる気なんじゃないですか」と言うのはリスクが高い。
「あー……えっと、客寄せをやらされたらイヤだな、と思ってて」
適当に付帯業務をこじつけた。大畑はにっと笑んで「そんなことはさせないとも」と大見得を切る。
「そういう営業は指導員の役目じゃない、とワシは思っているよ」
「だからチラシ配りしてたんですか?」
「ああ、実澄さんから聞いたか。配るついでに体を鍛えられるし、よそで依頼しなくていいから安くつくし、いいことずくめでな」
自力でのポスティング行為には「出費を抑えたい」という動機があった。やはり金銭関係でなにか事情がある。
「なんで急に門下生を増やそうと思ったんです?」
拓馬が思う大畑とは、あまり損得にこだわらない人だ。空手とはべつに生業(なりわい)をもつせいか、道場の運営はボランティア感覚でやっているフシがある。先祖代々受け継ぐ道場を子孫の代まで維持できたらいい、といった感じで、大畑家の利益追求は二の次だ。このような熱心な宣伝行為をする光景は拓馬の記憶にないし、ましてや練習時間帯を増やすこともなかった。
大畑は照れくさそうに「多少お金が入り用で」と言う。
「いまの稼ぎじゃ将来不安になってな……」
「将来っていうと……子どもが産まれるんですか?」
大畑の妻はまだ三十代。出産をするのにムリのない年齢だ。大畑にはすでに子がいるが、女児ばかり。道場を継ぐのに穏当な男児は不在だ。有力な後継者を求めてもおかしくない。そう拓馬は考えていたが、大畑は「その予定はない」ときっぱり否定する。
「親戚が……居候するんだ」
すでに家庭をきずいている一家に親戚があがりこむ。これはあまり一般的ではない事態だ。
(身寄りのない親戚の子かな?)
と拓馬は予想したものの、大畑の言葉によってすぐ否定される。
「長い間、遠方にいっていた人で、これから職をさがす」
「職……ってことは、大人?」
「ああ、ワシのすこし下だ」
つまり四十歳前後の人だ。その年頃なら部屋を借りて、独り暮らしをしてもよさそうなものだ。
「アパートは借りられないんですか?」
「それはこれから考える。どうせ住むなら仕事場にちかいところをえらんだほうがいいしな」
「じゃあ、仕事が決まるまでの居候か……」
せいぜい年内でおさまりそうな出費だ。それだけで「将来が不安」と言うほど、大畑家に余裕がないのだろうか。
(あんまりよその家のお金のことは……)
こればかりは気心の知れた相手でも質問できなかった。拓馬がだまると大畑の表情がくもる。
「訳あってすぐに勤められそうにない。『どうしてか』と聞かないでおくれよ」
「はい」
「確実な勤め先がうちの道場だと思ってな。だから一ヶ月間は昼間も道場を開放できるわけだ」
「じゃ、その人も空手の指導員?」
「そう。ワシより強いぞ」
大畑の親類かつ強い人──拓馬はなんとなく、大畑に似た男くさい屈強な男性を想像した。素性は知らないものの、その人物が指導員に加わるというのなら拓馬が出る幕はなさそうだ。
「その人が体験会にも出れば、人手はじゅうぶんじゃないですか?」
「それが、初日は無理なんだ。開催日を一週ずらしておいたらよかったかとちょっと思ってる」
「つまり、二回めの体験会にはその人が出るってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ俺は初日だけで──」
「いやいや、ついでだから二回めも出てほしい。新規の門下生が予想以上に増えたら、お駄賃に色をつけよう」
「はぁ、わかりました」
拓馬は生返事をした。道場の催し物に参加して、お金をもらえるという感覚がどうにもしっくりこない。むかしはお金を支払ったのちにかよう場所だった。その変化がいまいち慣れない。
「言うまでもないが、当日は空手着を持参してほしい。それと準備があるから……八時半にきてもらえるかな」
「はい、行きます」
単発の雇用契約は成立した。大畑が去っていく。それと同時にトーマが玄関へやってきた。トーマは自身の口回りをぺろぺろなめている。もう朝食をとったようだ。客がきてもご飯を優先した理由は、トーマが大畑をそれほどこのんでいないからだ。動物の本能ゆえか、ああいった大柄で声の大きい人は敵として警戒しがちな面がある。
「俺も朝飯を食うかな……」
拓馬が居間へもどるとトーマもあとをついてくる。ごはんのおこぼれがもらえる、とでも思っているのだろうか。拓馬はトーマに自身のごはんを分けないのだが、トーマは食事中の拓馬にすりよることがしばしばあった。
「くっついててもなにもやらないからな」
一言忠告しておき、拓馬は食卓に着いた。
タグ:拓馬
2018年10月13日
拓馬篇後記−2
大畑と遭遇した拓馬は朝散歩をこなした。家に帰るまえに、小山田宅へ立ち寄る。当初拓馬が考えていた訪問動機は、傷心の幼馴染に犬を見せること。それだけのつもりだった。大畑の申し出を受けた現状、その返事をどうするかという相談もしたくなっていた。
拓馬は玄関で「ごめんください」と他人行儀なあいさつをする。「はーい」という返事があった。小山田家の者があらわれる。柔和な顔立ちの中年女性だ。名は実澄(みすみ)。彼女は大畑より年上だというが、その顔貌はそう見えないほど若々しい。
「あら、拓馬くんおはよう。トーマもいっしょね」
実澄はにこやかに犬を見つめた。彼女は小山田家でのペットの飼育を禁止する張本人。しかし動物嫌いというわけではない。こうして拓馬が犬を連れてくるのを、実澄はいつも笑顔でむかえてくれる。動物はむしろ好きなほうだ。好きであるがゆえに、人間よりはやく死ぬ生き物を飼わない。愛情を注いだ存在に先立たれる苦悩を避けるためだ。拓馬は実際に動物との愛別離苦を経験している。その際の心的負担を考えると、実澄の指針にはうなずけるものがあった。
「ヤマダにちょっと話したいことがあってきたんです。おきてますか?」
「朝ごはんを食べてるとこ。いまよんで──」
言いおわるまえに実澄の娘が居室から顔を出した。彼女は母親とは似ていない。かわりに父親似で、目じりが吊りあがった顔をしている。いつもは長い髪をポニーテールにまとめるので、その眼光はさらに増した。いまは無造作に髪をおろしてある。そのせいか多少おだやかな雰囲気になっていた。
「あ、トーマいるんだ。じゃあ玄関で話す?」
「ああ、そのつもりだ。でもメシはいいのか?」
「うん、もう食べた」
ヤマダが廊下へ出てきた。半袖短パンの、上下が水色の寝間着姿だ。袖丈はひじとひざにかかる長さで、袖口の幅は広い。先刻の大畑のピチピチした服とはかなり印象がちがった。
ヤマダは玄関の式台に腰をおろす。足の裏がよごれないよう、サンダルを履いた。その場はうごかず、近寄ってくるトーマの背中をわしゃわしゃなでる。
「トーマは今日もかわいいね!」
ヤマダは満面の笑みで犬をかわいがっている。そのやり取りを見ていた実澄はさびしそうに笑んで、居室へもどった。
「んで、話すことってなに?」
ヤマダはトーマに顔をなめられながら本題を聞いてきた。拓馬も式台にすわる。
「ちょっと意見を聞かせてもらいたい。空手の道場の手伝いにきてくれないかって師範代に言われてる」
「おはだけさんの? それってチラシの体験会のことかな」
「ああ、チラシがあるみたいだ。あとで俺んちにもってくるってさ」
「たしかうちにとってあるよ。もってこようか?」
ヤマダは拓馬の返事を待たずに立ち上がった。彼女としてもチラシが手元にあったほうが助言しやすいはず、と考えた拓馬はそのまま待機した。
トーマはヤマダの動向が気になったのか、式台に前足をのせた。それ以上の進入はしない。勝手にあがりこめば拓馬にしかられることをわかっているのだ。小山田一家は犬が家屋に入ってきても怒りはしないだろうが、親しき仲にも礼儀あり、を心がける拓馬には見過ごせなかった。
居室からヤマダと実澄の話し声が聞こえた。親子の会話があったのち、ヤマダがもどってくる。彼女の手には黄緑色のコピー用紙があった。その紙を拓馬に向けて「これだよ」と言う。拓馬は紙を手に取り、内容を確認した。
チラシは印刷された紙だ。ただしその文字やイラストは肉筆で書いたとおぼしい、チラシではめずらしい表現だ。説明は古風な筆運びで書かれている。拓馬はこの執筆者が師範──大畑の父親──ではないかと思った。文言の余白には子どもがこのみそうな、ほんわかしたタッチのイラストが描いてある。おそらく絵は大畑の娘の作だ。正直なところ、文字と絵の雰囲気がマッチしていない。いかにも素人作品らしい広告だ。その野暮ったさが大畑らしいと拓馬は感じた。
「今月の頭くらいに、おはだけさんがポストに入れてたんだって」
「自力で配ってたのか……」
大畑は自己鍛錬の好きな人だ。ランニングがてらに配達の真似事をしても納得がいく。
「でもどうして師範代がやったってわかる?」
「おはだけさんがチラシ配ってるときにお母さんが会っててね」
「ミスミさん経由か」
「そのときおはだけさんが『娘さんの期末試験はいつか』って聞いてきたらしいよ。たぶんタッちゃんに心の余裕があるタイミングをねらって、手伝いの話をもちかけようと思ってたんだろうね」
筋のとおった推察だ。大畑は拓馬とヤマダが二人同じ学校にかよっていることを知っている。たとえ二人が別々の高校に所属していたとしても、拓馬の中学入学時期を境によそのお宅情報の更新がしにくくなったという彼のことだ。拓馬たちが同じ学校にかよっている体(てい)で質問してきたにちがいない。その行動は大畑がこの土日に拓馬に会おうとした発言とも噛み合う。
「きっとそうだな。よっぽど俺に拒否されたらこまると思ったのか……」
拓馬はチラシの文言に注目した。この体験会は今月中に二回実施する。そのどちらも拓馬の予定はない。こばむ理由は見つからないものの、約束が延長しそうな気配を感じた。
「夏休みに入る子どもがターゲットみたいだね」
式台にすわったヤマダがチラシの大意をのべる。この体験会は空手の門下生を増やすためのイベントであるが、それで長期の客を得ようとする表現はない。夏休みの間を利用して、空手を習ってみようと謳っている。お試し期間のための宣伝だ。もちろん、このチラシ作成者の希望はちがうはず。お試し終了後にも門下生でいてもらいたいに決まっている。そういった道場側の都合はうまくぼかしてある。
「学校が休みでヒマしてる子たち、ってのはいいターゲットだろうねー」
「その夏休み中にだれが教えるってんだ、これ。午前もやるのはムリだろ」
チラシにはこの夏季限定で午前中も指導を行なうことを触れこんでいる。だが道場の師範代とそれを補佐する指導員にはほかに本業がある。彼らでは不可能だ。ほかに手隙(てすき)な者といえば、高齢につき毎日が日曜日な師範がいる。だが老体ゆえに彼ひとりでの指導は負担が大きすぎる。とてもいまの人員で手が回るようには思えなかった。
「タッちゃんに指導してもらうんじゃない? こういう道場の指導員って、とくに資格がなくてもできるんだったよね」
ヤマダの予想は拓馬も直感していたこと。しかしもはや縁が切れたと思った分野に拘束されるのは抵抗がある。
「俺は『体験会を手伝え』としか言われてないぞ」
不満を発散するように反論した。直後、微妙に理不尽な態度だったと拓馬は自己を反省する。その一方でヤマダはとくになんとも感じなかったようだ。自身の股の間にはさまるトーマを愛でている。
「簡単なことから『やる』と言わせて、どんどん条件のむずかしいことも『やる』って言わせるやり方なのかなー。交渉術でそういう切り口があるらしいよ」
「そんな器用なことをする人には思えねーけど……」
「この夏の午前中はだれが門下生に教えるのか、聞いてみたら? どういう理由で商魂燃やしてるのかも気になるし」
大畑に聞く、それがいちばんの解決策だ。拓馬はヤマダとの対話を切り上げるつもりで、最後の質問をする。
「ああ、そこんとこは師範代に聞いてみるとして……お前はこの体験会に俺が関わるの、いいと思うか?」
「うん、やったらいいと思うよ」
「なんでだ? 俺がヒマしてるからか?」
「それもあるけど、タッちゃんがいてくれればルミさんも安心するだろうから」
ルミさんとは道場の指導員の女性。かつ、ヤマダと拓馬の姉が定期的に手伝いに行く喫茶店の調理員だ。彼女も大畑に負けず劣らずの性根のよい人だが、社交的ではないので客商売には向いていない。決まりきった訓練指導をすることはできても、門下生候補な客を引きこむ対応となると、むずかしいものがありそうだった。
「そうか……前向きに考えとく」
「うん、あとミッキーが体験会に行くかもしれないから、よろしくー」
ヤマダのいう人物は拓馬と共通の古馴染みの男子。運動が不得意なうえに筋力面でも女子のヤマダに負けるというひ弱な少年だ。近ごろはとある教師に触発されて、鍛錬に関心をもつようになった。筋トレをやっている、といった話は拓馬も聞いていたが、武道にも手を出すとは予想外だ。
「椙守が、本気で?」
「本気かはわかんないね。いまのとこ、まよってるみたい」
「あいつの親父さんがオーケー出すのか……?」
椙守は日ごろから実家の花屋の手伝いをしている。彼が習い事をすればその時間は店の人手が不足するはずだ。
「勉強ばっかやってるよか、うれしいんじゃない?」
椙守の父は息子に家業を継いでもらいたいがために、息子が学問へ傾倒するのをきらっている。多少仕事の手伝いの時間がへってでも、息子がガリ勉から遠ざかるのなら歓迎しそう、という見解には現実味があった。
「椙守のことはわかった。で、椙守を『よろしく』って言うのはどういう意味だ?」
まるで椙守ひとりだけが道場に行くような口ぶりだ。ヤマダが体験会の参加に興味がないのならチラシを保管する意味がわからない。
「チラシを大事にとってたくせに、お前は行かないのか」
「遊びにいってみたかったけどさ、わたしはその日、店に出ることになってる」
「ルミさんがいないぶんか?」
「そう。なかなか従業員があつまらないからねー。すくない人数でやりくりしなきゃ」
「うちの姉貴じゃ料理はまかせられないしな」
拓馬の姉は家事全般が苦手だ。それでも店内の清掃の仕事をまかせられている。いちおう、店ののこりもの処分やまかない料理の際に調理練習をさせてもらうそうだが、上達しているのか、よくわからなかった。
「そんなわけで、タッちゃんたちはがんばってね」
「もうお前ん中じゃ確定してるんだな」
「うん、みやげ話をたのしみにしてる」
拓馬はチラシを返却し、小山田宅をはなれた。別れ際、ヤマダは手をふって「トーマ、またきてね」と犬との再会を心待ちにした。
拓馬は玄関で「ごめんください」と他人行儀なあいさつをする。「はーい」という返事があった。小山田家の者があらわれる。柔和な顔立ちの中年女性だ。名は実澄(みすみ)。彼女は大畑より年上だというが、その顔貌はそう見えないほど若々しい。
「あら、拓馬くんおはよう。トーマもいっしょね」
実澄はにこやかに犬を見つめた。彼女は小山田家でのペットの飼育を禁止する張本人。しかし動物嫌いというわけではない。こうして拓馬が犬を連れてくるのを、実澄はいつも笑顔でむかえてくれる。動物はむしろ好きなほうだ。好きであるがゆえに、人間よりはやく死ぬ生き物を飼わない。愛情を注いだ存在に先立たれる苦悩を避けるためだ。拓馬は実際に動物との愛別離苦を経験している。その際の心的負担を考えると、実澄の指針にはうなずけるものがあった。
「ヤマダにちょっと話したいことがあってきたんです。おきてますか?」
「朝ごはんを食べてるとこ。いまよんで──」
言いおわるまえに実澄の娘が居室から顔を出した。彼女は母親とは似ていない。かわりに父親似で、目じりが吊りあがった顔をしている。いつもは長い髪をポニーテールにまとめるので、その眼光はさらに増した。いまは無造作に髪をおろしてある。そのせいか多少おだやかな雰囲気になっていた。
「あ、トーマいるんだ。じゃあ玄関で話す?」
「ああ、そのつもりだ。でもメシはいいのか?」
「うん、もう食べた」
ヤマダが廊下へ出てきた。半袖短パンの、上下が水色の寝間着姿だ。袖丈はひじとひざにかかる長さで、袖口の幅は広い。先刻の大畑のピチピチした服とはかなり印象がちがった。
ヤマダは玄関の式台に腰をおろす。足の裏がよごれないよう、サンダルを履いた。その場はうごかず、近寄ってくるトーマの背中をわしゃわしゃなでる。
「トーマは今日もかわいいね!」
ヤマダは満面の笑みで犬をかわいがっている。そのやり取りを見ていた実澄はさびしそうに笑んで、居室へもどった。
「んで、話すことってなに?」
ヤマダはトーマに顔をなめられながら本題を聞いてきた。拓馬も式台にすわる。
「ちょっと意見を聞かせてもらいたい。空手の道場の手伝いにきてくれないかって師範代に言われてる」
「おはだけさんの? それってチラシの体験会のことかな」
「ああ、チラシがあるみたいだ。あとで俺んちにもってくるってさ」
「たしかうちにとってあるよ。もってこようか?」
ヤマダは拓馬の返事を待たずに立ち上がった。彼女としてもチラシが手元にあったほうが助言しやすいはず、と考えた拓馬はそのまま待機した。
トーマはヤマダの動向が気になったのか、式台に前足をのせた。それ以上の進入はしない。勝手にあがりこめば拓馬にしかられることをわかっているのだ。小山田一家は犬が家屋に入ってきても怒りはしないだろうが、親しき仲にも礼儀あり、を心がける拓馬には見過ごせなかった。
居室からヤマダと実澄の話し声が聞こえた。親子の会話があったのち、ヤマダがもどってくる。彼女の手には黄緑色のコピー用紙があった。その紙を拓馬に向けて「これだよ」と言う。拓馬は紙を手に取り、内容を確認した。
チラシは印刷された紙だ。ただしその文字やイラストは肉筆で書いたとおぼしい、チラシではめずらしい表現だ。説明は古風な筆運びで書かれている。拓馬はこの執筆者が師範──大畑の父親──ではないかと思った。文言の余白には子どもがこのみそうな、ほんわかしたタッチのイラストが描いてある。おそらく絵は大畑の娘の作だ。正直なところ、文字と絵の雰囲気がマッチしていない。いかにも素人作品らしい広告だ。その野暮ったさが大畑らしいと拓馬は感じた。
「今月の頭くらいに、おはだけさんがポストに入れてたんだって」
「自力で配ってたのか……」
大畑は自己鍛錬の好きな人だ。ランニングがてらに配達の真似事をしても納得がいく。
「でもどうして師範代がやったってわかる?」
「おはだけさんがチラシ配ってるときにお母さんが会っててね」
「ミスミさん経由か」
「そのときおはだけさんが『娘さんの期末試験はいつか』って聞いてきたらしいよ。たぶんタッちゃんに心の余裕があるタイミングをねらって、手伝いの話をもちかけようと思ってたんだろうね」
筋のとおった推察だ。大畑は拓馬とヤマダが二人同じ学校にかよっていることを知っている。たとえ二人が別々の高校に所属していたとしても、拓馬の中学入学時期を境によそのお宅情報の更新がしにくくなったという彼のことだ。拓馬たちが同じ学校にかよっている体(てい)で質問してきたにちがいない。その行動は大畑がこの土日に拓馬に会おうとした発言とも噛み合う。
「きっとそうだな。よっぽど俺に拒否されたらこまると思ったのか……」
拓馬はチラシの文言に注目した。この体験会は今月中に二回実施する。そのどちらも拓馬の予定はない。こばむ理由は見つからないものの、約束が延長しそうな気配を感じた。
「夏休みに入る子どもがターゲットみたいだね」
式台にすわったヤマダがチラシの大意をのべる。この体験会は空手の門下生を増やすためのイベントであるが、それで長期の客を得ようとする表現はない。夏休みの間を利用して、空手を習ってみようと謳っている。お試し期間のための宣伝だ。もちろん、このチラシ作成者の希望はちがうはず。お試し終了後にも門下生でいてもらいたいに決まっている。そういった道場側の都合はうまくぼかしてある。
「学校が休みでヒマしてる子たち、ってのはいいターゲットだろうねー」
「その夏休み中にだれが教えるってんだ、これ。午前もやるのはムリだろ」
チラシにはこの夏季限定で午前中も指導を行なうことを触れこんでいる。だが道場の師範代とそれを補佐する指導員にはほかに本業がある。彼らでは不可能だ。ほかに手隙(てすき)な者といえば、高齢につき毎日が日曜日な師範がいる。だが老体ゆえに彼ひとりでの指導は負担が大きすぎる。とてもいまの人員で手が回るようには思えなかった。
「タッちゃんに指導してもらうんじゃない? こういう道場の指導員って、とくに資格がなくてもできるんだったよね」
ヤマダの予想は拓馬も直感していたこと。しかしもはや縁が切れたと思った分野に拘束されるのは抵抗がある。
「俺は『体験会を手伝え』としか言われてないぞ」
不満を発散するように反論した。直後、微妙に理不尽な態度だったと拓馬は自己を反省する。その一方でヤマダはとくになんとも感じなかったようだ。自身の股の間にはさまるトーマを愛でている。
「簡単なことから『やる』と言わせて、どんどん条件のむずかしいことも『やる』って言わせるやり方なのかなー。交渉術でそういう切り口があるらしいよ」
「そんな器用なことをする人には思えねーけど……」
「この夏の午前中はだれが門下生に教えるのか、聞いてみたら? どういう理由で商魂燃やしてるのかも気になるし」
大畑に聞く、それがいちばんの解決策だ。拓馬はヤマダとの対話を切り上げるつもりで、最後の質問をする。
「ああ、そこんとこは師範代に聞いてみるとして……お前はこの体験会に俺が関わるの、いいと思うか?」
「うん、やったらいいと思うよ」
「なんでだ? 俺がヒマしてるからか?」
「それもあるけど、タッちゃんがいてくれればルミさんも安心するだろうから」
ルミさんとは道場の指導員の女性。かつ、ヤマダと拓馬の姉が定期的に手伝いに行く喫茶店の調理員だ。彼女も大畑に負けず劣らずの性根のよい人だが、社交的ではないので客商売には向いていない。決まりきった訓練指導をすることはできても、門下生候補な客を引きこむ対応となると、むずかしいものがありそうだった。
「そうか……前向きに考えとく」
「うん、あとミッキーが体験会に行くかもしれないから、よろしくー」
ヤマダのいう人物は拓馬と共通の古馴染みの男子。運動が不得意なうえに筋力面でも女子のヤマダに負けるというひ弱な少年だ。近ごろはとある教師に触発されて、鍛錬に関心をもつようになった。筋トレをやっている、といった話は拓馬も聞いていたが、武道にも手を出すとは予想外だ。
「椙守が、本気で?」
「本気かはわかんないね。いまのとこ、まよってるみたい」
「あいつの親父さんがオーケー出すのか……?」
椙守は日ごろから実家の花屋の手伝いをしている。彼が習い事をすればその時間は店の人手が不足するはずだ。
「勉強ばっかやってるよか、うれしいんじゃない?」
椙守の父は息子に家業を継いでもらいたいがために、息子が学問へ傾倒するのをきらっている。多少仕事の手伝いの時間がへってでも、息子がガリ勉から遠ざかるのなら歓迎しそう、という見解には現実味があった。
「椙守のことはわかった。で、椙守を『よろしく』って言うのはどういう意味だ?」
まるで椙守ひとりだけが道場に行くような口ぶりだ。ヤマダが体験会の参加に興味がないのならチラシを保管する意味がわからない。
「チラシを大事にとってたくせに、お前は行かないのか」
「遊びにいってみたかったけどさ、わたしはその日、店に出ることになってる」
「ルミさんがいないぶんか?」
「そう。なかなか従業員があつまらないからねー。すくない人数でやりくりしなきゃ」
「うちの姉貴じゃ料理はまかせられないしな」
拓馬の姉は家事全般が苦手だ。それでも店内の清掃の仕事をまかせられている。いちおう、店ののこりもの処分やまかない料理の際に調理練習をさせてもらうそうだが、上達しているのか、よくわからなかった。
「そんなわけで、タッちゃんたちはがんばってね」
「もうお前ん中じゃ確定してるんだな」
「うん、みやげ話をたのしみにしてる」
拓馬はチラシを返却し、小山田宅をはなれた。別れ際、ヤマダは手をふって「トーマ、またきてね」と犬との再会を心待ちにした。
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