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2019年05月12日
クロア篇−10章5
フュリヤの生まれ里は剣王国の、森林豊かな地域だった。木の伐採と薬草採取が収入源になる村にて、フュリヤとその母はよそ者としてひっそり暮らしていた。母子と村人との交流はかんばしくなかったが、村の生命線にあたる森に魔物が棲みついたあと、事態は急変した。
村民は魔物のせいで生活の糧を得られなくなり、土地を守る領主に魔物退治を申請した。しかし退治は失敗した。そればかりか、村の居住区域には危険がないとわかると現状維持の決断をくだされた。村民は困り、村からほどちかい館に住む魔人を頼ろうとした。だが魔人に差し出すにふさわしい財貨は村にない。そこでひとり乙女──フュリヤを取引の道具にした。
「親しくもない人たちのために、犠牲になったというの?」
「『人身御供になる代わりに母の生活は保障する』という申し出だったの」
「それにしたって、聞く義理はないはず。だって、お婆さまとはゆかりのない土地だったのでしょ。無視して引越せばよかったのに」
「『住む場所と仕事をやった恩があるだろう』と言われたら、断れなかった。わたくしも母も、口が達者ではないから」
館の魔人はフュリヤが長寿であることを理由に、乙女を報酬に受け取った。ヴラドがいまだ所有した経験のない珍品、というだけで彼は要求を飲んだ。
「この魔人も『半魔の娘』としか見ていないと知ったときはがっかりしたわ。でも──」
ヴラドによる魔物の討伐にはフュリヤも付き添った。魔物が放つ瘴気は、ちかづく生き物の生命力を損なわせる。その特性がその土地の領主の討伐隊を退かせた要因であり、フュリヤも
参ってしまった。
「あの方はこの身を気遣ったの。あんなふうに優しくしてくれる男性はいなかったから……」
「魔人に、恋をしたの?」
「そう……好きになった。こんなこと、夫のまえで言ってよいとは思わないけれど」
魔物はヴラドの手で打倒された。その後は約束通り、フュリヤがヴラドの長い就寝に付き添うこととなる。だが人間と同じ暮らしを続けてきた半魔には長期間の睡眠ができない。そこで両者の性質を同化する行為をした。
「そのときにクロアを身籠ったのでしょうね」
「え、そういう、行為なの?」
「ええ。そのおかげで何日も眠れるようになったの」
しかし、しばらくしてふたたび不眠に悩まされた。フュリヤは体の不調も感じたので、兎の獣人に外出を告げて、館を離れた。施療院は無料で診てもらえるが投薬などの治療を受けるには金銭がかかる。それで母にお金を借りようと村へ訪れた。再会した母はやつれていて、とても村から生活の援助を受けているようには見えなかった。実はフュリヤの身柄が魔人に渡っても、母親は村人との約束を反故にされ、放置された状態だったという。
「『森が解放されてもすぐにはお金を稼げない』と言われて、泣き寝入りしていたの」
「なんて人でなしなの……!」
「あの村は裕福ではなかったの。みんな自分たちの生活を送るのに大変だったのよ」
フュリヤはなけなしのお金を母からもらい、町へ向かった。アンペレを目指した理由は医療の精度の良さもあるが、旧知の村の者に遭遇する可能性が低いと思ったからだった。魔人のそばにいるはずのフュリヤが外出していると知られれば、村に残る母がどんな仕打ちを受けるかわからなかったのだ。
アンペレのような大きな町は町道に沿って移動すればたどり着ける。そう考えたフュリヤは徒歩で長距離の道を進んだ。しかし体調がよくないのもあり、途中で休憩をした。そのときに馬を駆る青年に声をかけられた。
「それがお父さまね。お母さまを施療院まで連れていったと聞いておりますわ」
「そう。無償で送ってくれたのよ。運賃を支払おうかとしたら『あなたのような女性と同乗できて光栄です』とお世辞を残していったの。この国の人はキザなのかと思ったわ」
「殿方は美人と一緒にいられたら喜びますわよ。お母さまはよくご存知ではなくて?」
「そのときはまだ、自分が地味な村娘のままだと思っていたの」
「え? 『地味な』……?」
「あのときから夢魔の特徴が出てきたのよ。もう人ではない生活をしていたせいね」
施療院で診察を受けた結果、不調の原因は不明だった。精密な診療を受けるには金額がかさむのであきらめ、町に来たついでにお金を稼ぐことにした。治療費と、困窮する母の援助のための資金集めだ。しかし施療院を出た時分は日が落ちていた。一泊できる場所を求めて町を巡っていると、官吏たちに呼び止められ、屋敷に招かれた。そこで会った人物が──
「お父さまなの?」
「いいえ、すこしお若いころのカスバンさんよ」
「えー、それはガッカリですわね」
「そんなことは思っていられないわ。わたくし、なにか罪を犯したんじゃないかと思って、怖かったんだもの」
カスバンはフュリヤを町まで送った人物の身分を明かした。当時公子であったクノードがフュリヤを気に入ったことを告げ、その側仕えを求められた。
「『妻を亡くされた傷心を慰めてほしい』と頼まれて、屋敷にいさせてもらうことになったの。下女として貴人の身の回りの世話をする仕事だと思ったわ。お給金が出るから、最初は言葉通りに受け取っていたけれど、だんだん別の目的が見えてきて……」
数日を経たのちに縁談があがった。提案者はまたもカスバンであり、このときにクノードによる求婚はなかった。結婚したあかつきにはフュリヤの母親を屋敷に移住させるという、フュリヤにとって好都合な条件が提示された。母に何不自由ない生活を提供できるうえに、母と一緒に暮らせる──
「屋敷の人は優しくて、断る理由がなかったわ。それでヴラドのことは話さずに嫁いだの。夫がいたのと、わたくしが半魔だということは伝えたけれど、それ以外は隠して……ずるいでしょう? こんな卑怯なこと、性根のまっすぐなクロアは許さないでしょうね」
フュリヤは昔話を終えた。クロアの手を放し、長椅子の肘掛けに置いた毛布を広げる。それをうつむくクノードに掛けた。彼は酔いが深まったせいで眠ったらしい。母の告白はクノードにとって復唱に相当するとクロアは思い、きっと共通認識ができていると信じた。
フュリヤが就寝をすすめたがクロアは拒んだ。母が下す「卑怯」という自己評価に抵抗が芽生えたためだ。まことにそれが正当な意見か、自分なりの決着をつけようと試みた。
村民は魔物のせいで生活の糧を得られなくなり、土地を守る領主に魔物退治を申請した。しかし退治は失敗した。そればかりか、村の居住区域には危険がないとわかると現状維持の決断をくだされた。村民は困り、村からほどちかい館に住む魔人を頼ろうとした。だが魔人に差し出すにふさわしい財貨は村にない。そこでひとり乙女──フュリヤを取引の道具にした。
「親しくもない人たちのために、犠牲になったというの?」
「『人身御供になる代わりに母の生活は保障する』という申し出だったの」
「それにしたって、聞く義理はないはず。だって、お婆さまとはゆかりのない土地だったのでしょ。無視して引越せばよかったのに」
「『住む場所と仕事をやった恩があるだろう』と言われたら、断れなかった。わたくしも母も、口が達者ではないから」
館の魔人はフュリヤが長寿であることを理由に、乙女を報酬に受け取った。ヴラドがいまだ所有した経験のない珍品、というだけで彼は要求を飲んだ。
「この魔人も『半魔の娘』としか見ていないと知ったときはがっかりしたわ。でも──」
ヴラドによる魔物の討伐にはフュリヤも付き添った。魔物が放つ瘴気は、ちかづく生き物の生命力を損なわせる。その特性がその土地の領主の討伐隊を退かせた要因であり、フュリヤも
参ってしまった。
「あの方はこの身を気遣ったの。あんなふうに優しくしてくれる男性はいなかったから……」
「魔人に、恋をしたの?」
「そう……好きになった。こんなこと、夫のまえで言ってよいとは思わないけれど」
魔物はヴラドの手で打倒された。その後は約束通り、フュリヤがヴラドの長い就寝に付き添うこととなる。だが人間と同じ暮らしを続けてきた半魔には長期間の睡眠ができない。そこで両者の性質を同化する行為をした。
「そのときにクロアを身籠ったのでしょうね」
「え、そういう、行為なの?」
「ええ。そのおかげで何日も眠れるようになったの」
しかし、しばらくしてふたたび不眠に悩まされた。フュリヤは体の不調も感じたので、兎の獣人に外出を告げて、館を離れた。施療院は無料で診てもらえるが投薬などの治療を受けるには金銭がかかる。それで母にお金を借りようと村へ訪れた。再会した母はやつれていて、とても村から生活の援助を受けているようには見えなかった。実はフュリヤの身柄が魔人に渡っても、母親は村人との約束を反故にされ、放置された状態だったという。
「『森が解放されてもすぐにはお金を稼げない』と言われて、泣き寝入りしていたの」
「なんて人でなしなの……!」
「あの村は裕福ではなかったの。みんな自分たちの生活を送るのに大変だったのよ」
フュリヤはなけなしのお金を母からもらい、町へ向かった。アンペレを目指した理由は医療の精度の良さもあるが、旧知の村の者に遭遇する可能性が低いと思ったからだった。魔人のそばにいるはずのフュリヤが外出していると知られれば、村に残る母がどんな仕打ちを受けるかわからなかったのだ。
アンペレのような大きな町は町道に沿って移動すればたどり着ける。そう考えたフュリヤは徒歩で長距離の道を進んだ。しかし体調がよくないのもあり、途中で休憩をした。そのときに馬を駆る青年に声をかけられた。
「それがお父さまね。お母さまを施療院まで連れていったと聞いておりますわ」
「そう。無償で送ってくれたのよ。運賃を支払おうかとしたら『あなたのような女性と同乗できて光栄です』とお世辞を残していったの。この国の人はキザなのかと思ったわ」
「殿方は美人と一緒にいられたら喜びますわよ。お母さまはよくご存知ではなくて?」
「そのときはまだ、自分が地味な村娘のままだと思っていたの」
「え? 『地味な』……?」
「あのときから夢魔の特徴が出てきたのよ。もう人ではない生活をしていたせいね」
施療院で診察を受けた結果、不調の原因は不明だった。精密な診療を受けるには金額がかさむのであきらめ、町に来たついでにお金を稼ぐことにした。治療費と、困窮する母の援助のための資金集めだ。しかし施療院を出た時分は日が落ちていた。一泊できる場所を求めて町を巡っていると、官吏たちに呼び止められ、屋敷に招かれた。そこで会った人物が──
「お父さまなの?」
「いいえ、すこしお若いころのカスバンさんよ」
「えー、それはガッカリですわね」
「そんなことは思っていられないわ。わたくし、なにか罪を犯したんじゃないかと思って、怖かったんだもの」
カスバンはフュリヤを町まで送った人物の身分を明かした。当時公子であったクノードがフュリヤを気に入ったことを告げ、その側仕えを求められた。
「『妻を亡くされた傷心を慰めてほしい』と頼まれて、屋敷にいさせてもらうことになったの。下女として貴人の身の回りの世話をする仕事だと思ったわ。お給金が出るから、最初は言葉通りに受け取っていたけれど、だんだん別の目的が見えてきて……」
数日を経たのちに縁談があがった。提案者はまたもカスバンであり、このときにクノードによる求婚はなかった。結婚したあかつきにはフュリヤの母親を屋敷に移住させるという、フュリヤにとって好都合な条件が提示された。母に何不自由ない生活を提供できるうえに、母と一緒に暮らせる──
「屋敷の人は優しくて、断る理由がなかったわ。それでヴラドのことは話さずに嫁いだの。夫がいたのと、わたくしが半魔だということは伝えたけれど、それ以外は隠して……ずるいでしょう? こんな卑怯なこと、性根のまっすぐなクロアは許さないでしょうね」
フュリヤは昔話を終えた。クロアの手を放し、長椅子の肘掛けに置いた毛布を広げる。それをうつむくクノードに掛けた。彼は酔いが深まったせいで眠ったらしい。母の告白はクノードにとって復唱に相当するとクロアは思い、きっと共通認識ができていると信じた。
フュリヤが就寝をすすめたがクロアは拒んだ。母が下す「卑怯」という自己評価に抵抗が芽生えたためだ。まことにそれが正当な意見か、自分なりの決着をつけようと試みた。
タグ:クロア
2019年05月11日
クロア篇−10章4
ヴラドの館を来訪した三人はタオの飛竜に乗り、アンペレの町へ帰還した。行きと逆順をたどり、町中で降りてから屋敷へ行く。ただし出かけるときとはちがい、クロアは姿を隠さずにいた。今宵の外出を周囲に知らしめるためだ。案の定、警備兵の目撃証言を聞き付けた高官が出迎えに来た。クロアは余裕の態度で老爺に挨拶する。
「こんな夜にも真っ先に出てくるなんて、勤勉ですわね」
「どこにお出かけだったのですか。従者にも告げず……!」
「カスバンには後日知らせます。さきに伯に報告しなくてはなりません」
クロアは老爺の反論を唱える隙をつぶしたうえに、ずんずんと歩を進めた。老爺は立場的にも体力的にも口でしかクロアと対抗できないために、結果的に公女の独断専行を許した。
クロアはタオとプルケと別れ、単独でクノードと対談することにした。彼の寝室へ訪れると、寝間着の夫婦が長椅子に腰かけていた。クロアは二人同時に真実を伝えることにためらいを感じ、立ちすくんだ。そこへ、母が優しく声をかける。
「ヴラドの館に行ってきたのでしょう?」
夫人がクロアに歩み寄り、娘を抱きしめる。
「懐かしい匂いがする……」
その言葉は疑いなく、母がヴラドの関係者であることを認めていた。
「ほんとうに、お母さまはヴラドの妻なの?」
クロアは震える声で問うた。フュリヤが首をゆっくり横に振る。クロアは母の否定にとまどい、またかすかに歓喜した。
「いいえ、『妻』といえる対等な関係じゃないの。金品と同じように所有される『物』……『奴隷』と言ったほうが正しいかしら」
淡い期待は無残に砕けた。ぬかよろこびと言ってよい。消沈したクロアは長椅子に座る中年に目を移す。
「お父さまは、知っていらしたの?」
父は悲しげな笑顔でうなずいた。追い打ちをかけることにクロアは気が引けたが、こらえる。
「わたしは……ヴラドの子らしいんです。それもご存知?」
「ああ、聞いたよ。だけどクロアが私の子ではないことを前々から……知っていたんだ。だから、クロアには妹と弟がいる」
クロアは年齢の離れた妹たちがいる。クロアの出生について知ったのち、正式な世継ぎを確保するために新たに子を生(な)したのだろう。
クロアは父が想像以上に状況を理解し、また冷静でいる様子を見て、体の力が抜けた。足元がふらつくのを、母に支えられる。そのまま一緒に長椅子に座った。
長椅子のまえの卓上には酒瓶と酒杯があった。酒杯は底にすこし酒が残るものと、手つかずに酒が入っているものの二つ。父は残りすくないほうの酒杯に酒を足す。
「こうして三人ですごすのも最後になるか……」
「それはどういう意味なんですの?」
クロアが率直に質問した。クノードは口元に傾けた酒杯をすぐにもどす。
「クロアをどこかへやることはしない。だから安心してほしい」
「ではお母さまがヴラドのもとへ行ってしまうの?」
「二人で話し合った結果、そうすることにした。クロアはどう思う?」
クロアはタオの言葉が頭にちらついた。魔人に母を渡さなければ、魔人はその怪力をもって町に乗りこんでくるかもしれない。母をヴラドに返すべきという父の主張はうなずける。
「わたしも……そうするしかないのかとは思います。でも、条件を付けたい……」
「どんな条件を出すつもりだい?」
クロアは幼い家族に思いを馳せる。
「妹たちが帰省する時期に限定して、お母さまをアンペレに招くのです」
クロアの懸念は母の愛情を欲する妹たちにある。幼子たちの幸福を想えば、母を何年も魔人のもとに預けたくはない。
「相手は年中眠る魔人ですもの、短期間のお母さまの不在はなんてことないと思いますわ」
「はたして魔人がその要求を飲んでくれるか……」
「お父さまはどうなるのが一番よいとお思いになってらっしゃるの?」
クノードは酒杯を空けた。クロアはその飲み方が荒い気がしてならなかった。
「ここにずっと居ればいい。魔人も、賊も、私にはどうでもいいことだ!」
クロアは自分の耳を疑った。それらは普段の品行方正な領主が発するはずのない言葉だ。
「なぜいまになってフュリヤを捜す? 十何年も、フュリヤがいなくなったことに気付かずにいた寝坊助だろう。どうしてあと百年……いや、五十年も眠っていられないんだ」
領主の仮面を外した中年が憤慨に任せて酒を注ぐ。その手を母が穏やかに止めた。クノードは酒瓶を手放した代わりに、母の分に用意した酒杯に口をつけた。母は「ごめんなさい」と力なく言う。
「わたくしの浅ましさがいけないんです」
「そんなことはない。きみは他者を優先しすぎるだけだ」
フュリヤは寂しい笑みを見せた。クロアは母の自嘲に耐えかねて、次の質問に移る。
「お母さまはなぜヴラドにしたがうのです? 一生を捧げるほどのなにかを、その魔人がやってくれたと言うの?」
若々しい夫人はクロアの手を握り、伏せていた過去を語りはじめた。
「こんな夜にも真っ先に出てくるなんて、勤勉ですわね」
「どこにお出かけだったのですか。従者にも告げず……!」
「カスバンには後日知らせます。さきに伯に報告しなくてはなりません」
クロアは老爺の反論を唱える隙をつぶしたうえに、ずんずんと歩を進めた。老爺は立場的にも体力的にも口でしかクロアと対抗できないために、結果的に公女の独断専行を許した。
クロアはタオとプルケと別れ、単独でクノードと対談することにした。彼の寝室へ訪れると、寝間着の夫婦が長椅子に腰かけていた。クロアは二人同時に真実を伝えることにためらいを感じ、立ちすくんだ。そこへ、母が優しく声をかける。
「ヴラドの館に行ってきたのでしょう?」
夫人がクロアに歩み寄り、娘を抱きしめる。
「懐かしい匂いがする……」
その言葉は疑いなく、母がヴラドの関係者であることを認めていた。
「ほんとうに、お母さまはヴラドの妻なの?」
クロアは震える声で問うた。フュリヤが首をゆっくり横に振る。クロアは母の否定にとまどい、またかすかに歓喜した。
「いいえ、『妻』といえる対等な関係じゃないの。金品と同じように所有される『物』……『奴隷』と言ったほうが正しいかしら」
淡い期待は無残に砕けた。ぬかよろこびと言ってよい。消沈したクロアは長椅子に座る中年に目を移す。
「お父さまは、知っていらしたの?」
父は悲しげな笑顔でうなずいた。追い打ちをかけることにクロアは気が引けたが、こらえる。
「わたしは……ヴラドの子らしいんです。それもご存知?」
「ああ、聞いたよ。だけどクロアが私の子ではないことを前々から……知っていたんだ。だから、クロアには妹と弟がいる」
クロアは年齢の離れた妹たちがいる。クロアの出生について知ったのち、正式な世継ぎを確保するために新たに子を生(な)したのだろう。
クロアは父が想像以上に状況を理解し、また冷静でいる様子を見て、体の力が抜けた。足元がふらつくのを、母に支えられる。そのまま一緒に長椅子に座った。
長椅子のまえの卓上には酒瓶と酒杯があった。酒杯は底にすこし酒が残るものと、手つかずに酒が入っているものの二つ。父は残りすくないほうの酒杯に酒を足す。
「こうして三人ですごすのも最後になるか……」
「それはどういう意味なんですの?」
クロアが率直に質問した。クノードは口元に傾けた酒杯をすぐにもどす。
「クロアをどこかへやることはしない。だから安心してほしい」
「ではお母さまがヴラドのもとへ行ってしまうの?」
「二人で話し合った結果、そうすることにした。クロアはどう思う?」
クロアはタオの言葉が頭にちらついた。魔人に母を渡さなければ、魔人はその怪力をもって町に乗りこんでくるかもしれない。母をヴラドに返すべきという父の主張はうなずける。
「わたしも……そうするしかないのかとは思います。でも、条件を付けたい……」
「どんな条件を出すつもりだい?」
クロアは幼い家族に思いを馳せる。
「妹たちが帰省する時期に限定して、お母さまをアンペレに招くのです」
クロアの懸念は母の愛情を欲する妹たちにある。幼子たちの幸福を想えば、母を何年も魔人のもとに預けたくはない。
「相手は年中眠る魔人ですもの、短期間のお母さまの不在はなんてことないと思いますわ」
「はたして魔人がその要求を飲んでくれるか……」
「お父さまはどうなるのが一番よいとお思いになってらっしゃるの?」
クノードは酒杯を空けた。クロアはその飲み方が荒い気がしてならなかった。
「ここにずっと居ればいい。魔人も、賊も、私にはどうでもいいことだ!」
クロアは自分の耳を疑った。それらは普段の品行方正な領主が発するはずのない言葉だ。
「なぜいまになってフュリヤを捜す? 十何年も、フュリヤがいなくなったことに気付かずにいた寝坊助だろう。どうしてあと百年……いや、五十年も眠っていられないんだ」
領主の仮面を外した中年が憤慨に任せて酒を注ぐ。その手を母が穏やかに止めた。クノードは酒瓶を手放した代わりに、母の分に用意した酒杯に口をつけた。母は「ごめんなさい」と力なく言う。
「わたくしの浅ましさがいけないんです」
「そんなことはない。きみは他者を優先しすぎるだけだ」
フュリヤは寂しい笑みを見せた。クロアは母の自嘲に耐えかねて、次の質問に移る。
「お母さまはなぜヴラドにしたがうのです? 一生を捧げるほどのなにかを、その魔人がやってくれたと言うの?」
若々しい夫人はクロアの手を握り、伏せていた過去を語りはじめた。
タグ:クロア