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2020年02月12日
習一篇−1章5
習一が予期せぬ男性が入室してきた。母の態度をかんがみるに、この頼りなさげな男性は母と病院で何度か顔を会わせている医者のようだ。母には持病がなく、個人的に通院する動機がないため、おそらく両者が知り合ったのは習一の入院以後。そこから習一は、この私服の男性が習一の担当医と同じ専門分野の医者だと推定した。さらにいえば、露木に対応した若い医者とはこの人かもしれない。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
タグ:習一
2020年02月07日
習一編−1章4
昏睡状態から習一が目覚めた日の夕食も翌朝の朝食も、メニューはペースト状の粥であった。こんな食事では食べた気がしない。だいたい、乳幼児か嚥下の不自由な老人が口にする食べものである。習一が食事の不満を看護師に言うと、このメニューは習一の体に適切だと説かれた。何日間も飲食をとらなかった胃に、いきなり固形物を入れると胃がびっくりしてしまうらしい。しばらくは素人がなにを言おうとムダだと習一は察した。
朝食がすんだあと、習一は暇つぶしがてらに病室の外を歩いた。移動の際には点滴を運ばねばならないので、本当はあまり運動に適した状況ではない。その難点を知りつつも、じっとしていられなかった。自分の体力は確実に落ちている。それは昨夜にトイレへ向かったときに痛感した。邪魔な点滴の存在を割り引いても、なかなか思うようにうごきまわれなかったのだ。体重はかるくなったはずなのに足取りが重く、歩行に安定感がない。この貧弱さは通常の生活を送るのにも不便が生じる。また、習一は常日頃から自分の外見が柔弱なのを気にしている。その外見通りに弱々しくなった肉体に嫌悪感をいだき、早くもとの力をつけたいと思った。
習一は手近な目的地の、待合室に行きつく。こういった場所には入院患者とその付き添いや見舞い客が読む用の本がよく用意されている。この病棟にも自由に閲覧してよい本や雑誌があった。習一は本棚から文庫本をひとつ選ぶ。別段その本がおもしろそうだとは思っていない。なにもしないでいると気が滅入るため、暗い思考から意識を逸らせられればなんでもよかった。これは昨夜の反省である。
昨日、習一は日中にぐっすりと寝てしまった。そのせいで消灯の時刻になっても就寝できず、寝つくまでのぼーっとする時間が長引いた。その間、頭の中では不仲な父親とのイヤな思い出がこびりつき、ひどく不快な気分になった。そんな自傷的な思考を脱するには、べつの事柄に集中するしかない。そこで懸命に露木の話を吟味してみたり、習一の入院のいきさつを話した看護師は自身の搬送に立ち会った者じゃないのではと振り返ったりした。こういった脳内にある情報の整理は、まことに暇つぶしの方法がないときの最終手段だ。外部からの情報をインプットするほうが気楽である。現在の習一は不良といえど、もとは勤勉な学生であったために、活字には一切抵抗がなかった。
習一は病室へもどり、寝台に横たわる。今朝がたの看護師の話では今日の午前中、習一の担当医が習一の病室をうかがうと言われた。これはすっぽかせない用事である。習一は読書をして待機することにした。
医者が病室へくるまえに、患者の健康状態を測る看護師がきた。昨日も習一の体温などを測った女性だ。この女性は電子カルテを見ながら習一に入院の経緯を話した人でもある。習一は計測結果が出るまでの待ち時間を利用し、
「アンタはオレを救急車に乗せた看護師じゃないよな?」
とたずねた。看護師は習一の見立てをみとめる。そのうえで、救急担当の者に会ってなにがしたいのかと聞き返してきた。習一は先日この看護師からもらった紙をつまむ。
「こいつがどういうやつだったかを知りたい」
これは本心である。みずから連絡をとるつもりはまだないが、どんな特徴のある者かは知っておきたい。その具体的な人物像を看護師らが共有しているとは思えず、直接会った者のみが知っていることだと習一は推測した。
「だったら、今日は休みの若い先生に──」
看護師は非番かつ習一の搬送にたずさわっていない医者に話を通す、と言い出した。その医者は習一の入院後、習一の発見者と話す機会があったそうだ。小山田という人はこの病院に知人が入院しており、面会ついでに若い医者と会ったらしい。ならばその医者からでも仔細が聞けそうかと習一は思い、看護師の提案を飲んだ。
看護師は退室した。ほどなくして荷物を抱えた習一の母がやってくる。荷物の中身は習一の下着の替えと、退院時用の私服と、新品の本である。通信機器と財布はなかった。習一は無一文の状態が心もとないので、母に小銭をせびっておいた。これで電話は使えるし、なにか物の不足があっても売店で買えるという心の余裕が生まれる。本心では「オレから言わなくてもお金くらい持たせないか」と母にツッコミたかったが、母は母なりに習一の監督をしたがった結果だと思い、強くは出れなかった。金があれば息子は母の知らぬ外部との接触ができ、おまけにバスや電車などを活用して遠方まで出かけられる。そういった非行の可能性の芽をつぶすために母がわざと気を利かせずにいる、と習一は感じた。つまるところ、この場に通信機器と財布がないのは習一の普段の行ないのせいである。
母が病室に滞在してしばらくすると、ようやく担当医があらわれた。どっしりとした雰囲気の、頑固そうな中高年だ。もともとの顔つきなのか、不機嫌そうな表情で習一に問診をしてきた。習一は自身の体力が落ちたこと以外はなんら不調がないことを伝える。強面《こわもて》の医者は得心がいかなさそうにうなずき、病室内を見回す。
「ここにいろんな機械があったはずだが、習一くんは見ていないんだな?」
習一はまったく知らない話だ。習一が母の顔を見ると、母はつらそうに頭を縦にふった。どうやら習一には知らされていない医療措置がいろいろほどこされていたらしい。それらが撤去されたのちに習一が目覚めたのだ。
熟年の医者は習一の復帰直前の話をつづけた。医療機器の撤去指示はほかでもない、露木が出したものだという。たまたま担当医がいないタイミングでそんな指示を受け、代理の若い医者が二つ返事でしたがったらしい。
「その警官は、きみがすぐにベッドから下りられる状態にしてほしいと言ってきたんだそうだ。そのあとで患者の意識を回復させると豪語してな。私がいたら『そんなことが警官にできるものか』と追い払っただろうが、まったく、運がいい」
運がいい、とはだれのことを指しているのか明かさぬまま、医者が退室した。
習一はふと点滴の針が刺さる自分の腕を見た。おそらくこの処置は唯一、入院当初から継続している。そのほかの処置は露木がやめさせたという。なんとも無茶な話だ。聞き分けのよい医者がいたおかげでスムーズに事が運んだものの、これはまぐれである。もし担当医が在籍していて、彼が習一に述べたとおりの言動をしたなら、露木の要求は強くつっぱねられていた。そんな面倒事を起こす危険を露木は予想しなかったのだろうか。そもそも、習一が目覚めれば医者たちはおのずと不要になった医療機器を取りはずしただろう。露木が差し出がましい指示をする必要性はどこにもなかった。
(なんのために……順序をひっくり返したんだ?)
暫定的な答えが思いつかないうちに、病室の戸を叩く音が聞こえた。習一はいよいよ露木の呼び寄せた教師がきたのかと神経を張りつめる。
入室してきた者は普通の私服を着ている。医療従事者ではなさそうな恰好だ。だがその頭髪は黒。珍奇な銀髪だという教師ではない。見たところ露木とちかしい年ごろの青年である。人当たりがよさそうな雰囲気も露木と似ている。ただ露木とちがうのは、すこし照れくさそうに習一とその母に挨拶をしてきたところだ。あまり挙動が堂々としていない、どこか頼りなさげな人だ。母が「まあ先生」と慣れた調子で声をかけたので、習一はこの男性が私服姿の医者なのだとわかった。
朝食がすんだあと、習一は暇つぶしがてらに病室の外を歩いた。移動の際には点滴を運ばねばならないので、本当はあまり運動に適した状況ではない。その難点を知りつつも、じっとしていられなかった。自分の体力は確実に落ちている。それは昨夜にトイレへ向かったときに痛感した。邪魔な点滴の存在を割り引いても、なかなか思うようにうごきまわれなかったのだ。体重はかるくなったはずなのに足取りが重く、歩行に安定感がない。この貧弱さは通常の生活を送るのにも不便が生じる。また、習一は常日頃から自分の外見が柔弱なのを気にしている。その外見通りに弱々しくなった肉体に嫌悪感をいだき、早くもとの力をつけたいと思った。
習一は手近な目的地の、待合室に行きつく。こういった場所には入院患者とその付き添いや見舞い客が読む用の本がよく用意されている。この病棟にも自由に閲覧してよい本や雑誌があった。習一は本棚から文庫本をひとつ選ぶ。別段その本がおもしろそうだとは思っていない。なにもしないでいると気が滅入るため、暗い思考から意識を逸らせられればなんでもよかった。これは昨夜の反省である。
昨日、習一は日中にぐっすりと寝てしまった。そのせいで消灯の時刻になっても就寝できず、寝つくまでのぼーっとする時間が長引いた。その間、頭の中では不仲な父親とのイヤな思い出がこびりつき、ひどく不快な気分になった。そんな自傷的な思考を脱するには、べつの事柄に集中するしかない。そこで懸命に露木の話を吟味してみたり、習一の入院のいきさつを話した看護師は自身の搬送に立ち会った者じゃないのではと振り返ったりした。こういった脳内にある情報の整理は、まことに暇つぶしの方法がないときの最終手段だ。外部からの情報をインプットするほうが気楽である。現在の習一は不良といえど、もとは勤勉な学生であったために、活字には一切抵抗がなかった。
習一は病室へもどり、寝台に横たわる。今朝がたの看護師の話では今日の午前中、習一の担当医が習一の病室をうかがうと言われた。これはすっぽかせない用事である。習一は読書をして待機することにした。
医者が病室へくるまえに、患者の健康状態を測る看護師がきた。昨日も習一の体温などを測った女性だ。この女性は電子カルテを見ながら習一に入院の経緯を話した人でもある。習一は計測結果が出るまでの待ち時間を利用し、
「アンタはオレを救急車に乗せた看護師じゃないよな?」
とたずねた。看護師は習一の見立てをみとめる。そのうえで、救急担当の者に会ってなにがしたいのかと聞き返してきた。習一は先日この看護師からもらった紙をつまむ。
「こいつがどういうやつだったかを知りたい」
これは本心である。みずから連絡をとるつもりはまだないが、どんな特徴のある者かは知っておきたい。その具体的な人物像を看護師らが共有しているとは思えず、直接会った者のみが知っていることだと習一は推測した。
「だったら、今日は休みの若い先生に──」
看護師は非番かつ習一の搬送にたずさわっていない医者に話を通す、と言い出した。その医者は習一の入院後、習一の発見者と話す機会があったそうだ。小山田という人はこの病院に知人が入院しており、面会ついでに若い医者と会ったらしい。ならばその医者からでも仔細が聞けそうかと習一は思い、看護師の提案を飲んだ。
看護師は退室した。ほどなくして荷物を抱えた習一の母がやってくる。荷物の中身は習一の下着の替えと、退院時用の私服と、新品の本である。通信機器と財布はなかった。習一は無一文の状態が心もとないので、母に小銭をせびっておいた。これで電話は使えるし、なにか物の不足があっても売店で買えるという心の余裕が生まれる。本心では「オレから言わなくてもお金くらい持たせないか」と母にツッコミたかったが、母は母なりに習一の監督をしたがった結果だと思い、強くは出れなかった。金があれば息子は母の知らぬ外部との接触ができ、おまけにバスや電車などを活用して遠方まで出かけられる。そういった非行の可能性の芽をつぶすために母がわざと気を利かせずにいる、と習一は感じた。つまるところ、この場に通信機器と財布がないのは習一の普段の行ないのせいである。
母が病室に滞在してしばらくすると、ようやく担当医があらわれた。どっしりとした雰囲気の、頑固そうな中高年だ。もともとの顔つきなのか、不機嫌そうな表情で習一に問診をしてきた。習一は自身の体力が落ちたこと以外はなんら不調がないことを伝える。強面《こわもて》の医者は得心がいかなさそうにうなずき、病室内を見回す。
「ここにいろんな機械があったはずだが、習一くんは見ていないんだな?」
習一はまったく知らない話だ。習一が母の顔を見ると、母はつらそうに頭を縦にふった。どうやら習一には知らされていない医療措置がいろいろほどこされていたらしい。それらが撤去されたのちに習一が目覚めたのだ。
熟年の医者は習一の復帰直前の話をつづけた。医療機器の撤去指示はほかでもない、露木が出したものだという。たまたま担当医がいないタイミングでそんな指示を受け、代理の若い医者が二つ返事でしたがったらしい。
「その警官は、きみがすぐにベッドから下りられる状態にしてほしいと言ってきたんだそうだ。そのあとで患者の意識を回復させると豪語してな。私がいたら『そんなことが警官にできるものか』と追い払っただろうが、まったく、運がいい」
運がいい、とはだれのことを指しているのか明かさぬまま、医者が退室した。
習一はふと点滴の針が刺さる自分の腕を見た。おそらくこの処置は唯一、入院当初から継続している。そのほかの処置は露木がやめさせたという。なんとも無茶な話だ。聞き分けのよい医者がいたおかげでスムーズに事が運んだものの、これはまぐれである。もし担当医が在籍していて、彼が習一に述べたとおりの言動をしたなら、露木の要求は強くつっぱねられていた。そんな面倒事を起こす危険を露木は予想しなかったのだろうか。そもそも、習一が目覚めれば医者たちはおのずと不要になった医療機器を取りはずしただろう。露木が差し出がましい指示をする必要性はどこにもなかった。
(なんのために……順序をひっくり返したんだ?)
暫定的な答えが思いつかないうちに、病室の戸を叩く音が聞こえた。習一はいよいよ露木の呼び寄せた教師がきたのかと神経を張りつめる。
入室してきた者は普通の私服を着ている。医療従事者ではなさそうな恰好だ。だがその頭髪は黒。珍奇な銀髪だという教師ではない。見たところ露木とちかしい年ごろの青年である。人当たりがよさそうな雰囲気も露木と似ている。ただ露木とちがうのは、すこし照れくさそうに習一とその母に挨拶をしてきたところだ。あまり挙動が堂々としていない、どこか頼りなさげな人だ。母が「まあ先生」と慣れた調子で声をかけたので、習一はこの男性が私服姿の医者なのだとわかった。
タグ:習一