2020年02月12日
習一篇−1章5
習一が予期せぬ男性が入室してきた。母の態度をかんがみるに、この頼りなさげな男性は母と病院で何度か顔を会わせている医者のようだ。母には持病がなく、個人的に通院する動機がないため、おそらく両者が知り合ったのは習一の入院以後。そこから習一は、この私服の男性が習一の担当医と同じ専門分野の医者だと推定した。さらにいえば、露木に対応した若い医者とはこの人かもしれない。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
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