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2020年02月07日

習一編−1章4

 昏睡状態から習一が目覚めた日の夕食も翌朝の朝食も、メニューはペースト状の粥であった。こんな食事では食べた気がしない。だいたい、乳幼児か嚥下の不自由な老人が口にする食べものである。習一が食事の不満を看護師に言うと、このメニューは習一の体に適切だと説かれた。何日間も飲食をとらなかった胃に、いきなり固形物を入れると胃がびっくりしてしまうらしい。しばらくは素人がなにを言おうとムダだと習一は察した。
 朝食がすんだあと、習一は暇つぶしがてらに病室の外を歩いた。移動の際には点滴を運ばねばならないので、本当はあまり運動に適した状況ではない。その難点を知りつつも、じっとしていられなかった。自分の体力は確実に落ちている。それは昨夜にトイレへ向かったときに痛感した。邪魔な点滴の存在を割り引いても、なかなか思うようにうごきまわれなかったのだ。体重はかるくなったはずなのに足取りが重く、歩行に安定感がない。この貧弱さは通常の生活を送るのにも不便が生じる。また、習一は常日頃から自分の外見が柔弱なのを気にしている。その外見通りに弱々しくなった肉体に嫌悪感をいだき、早くもとの力をつけたいと思った。
 習一は手近な目的地の、待合室に行きつく。こういった場所には入院患者とその付き添いや見舞い客が読む用の本がよく用意されている。この病棟にも自由に閲覧してよい本や雑誌があった。習一は本棚から文庫本をひとつ選ぶ。別段その本がおもしろそうだとは思っていない。なにもしないでいると気が滅入るため、暗い思考から意識を逸らせられればなんでもよかった。これは昨夜の反省である。
 昨日、習一は日中にぐっすりと寝てしまった。そのせいで消灯の時刻になっても就寝できず、寝つくまでのぼーっとする時間が長引いた。その間、頭の中では不仲な父親とのイヤな思い出がこびりつき、ひどく不快な気分になった。そんな自傷的な思考を脱するには、べつの事柄に集中するしかない。そこで懸命に露木の話を吟味してみたり、習一の入院のいきさつを話した看護師は自身の搬送に立ち会った者じゃないのではと振り返ったりした。こういった脳内にある情報の整理は、まことに暇つぶしの方法がないときの最終手段だ。外部からの情報をインプットするほうが気楽である。現在の習一は不良といえど、もとは勤勉な学生であったために、活字には一切抵抗がなかった。
 習一は病室へもどり、寝台に横たわる。今朝がたの看護師の話では今日の午前中、習一の担当医が習一の病室をうかがうと言われた。これはすっぽかせない用事である。習一は読書をして待機することにした。

 医者が病室へくるまえに、患者の健康状態を測る看護師がきた。昨日も習一の体温などを測った女性だ。この女性は電子カルテを見ながら習一に入院の経緯を話した人でもある。習一は計測結果が出るまでの待ち時間を利用し、
「アンタはオレを救急車に乗せた看護師じゃないよな?」
 とたずねた。看護師は習一の見立てをみとめる。そのうえで、救急担当の者に会ってなにがしたいのかと聞き返してきた。習一は先日この看護師からもらった紙をつまむ。
「こいつがどういうやつだったかを知りたい」
 これは本心である。みずから連絡をとるつもりはまだないが、どんな特徴のある者かは知っておきたい。その具体的な人物像を看護師らが共有しているとは思えず、直接会った者のみが知っていることだと習一は推測した。
「だったら、今日は休みの若い先生に──」
 看護師は非番かつ習一の搬送にたずさわっていない医者に話を通す、と言い出した。その医者は習一の入院後、習一の発見者と話す機会があったそうだ。小山田という人はこの病院に知人が入院しており、面会ついでに若い医者と会ったらしい。ならばその医者からでも仔細が聞けそうかと習一は思い、看護師の提案を飲んだ。
 看護師は退室した。ほどなくして荷物を抱えた習一の母がやってくる。荷物の中身は習一の下着の替えと、退院時用の私服と、新品の本である。通信機器と財布はなかった。習一は無一文の状態が心もとないので、母に小銭をせびっておいた。これで電話は使えるし、なにか物の不足があっても売店で買えるという心の余裕が生まれる。本心では「オレから言わなくてもお金くらい持たせないか」と母にツッコミたかったが、母は母なりに習一の監督をしたがった結果だと思い、強くは出れなかった。金があれば息子は母の知らぬ外部との接触ができ、おまけにバスや電車などを活用して遠方まで出かけられる。そういった非行の可能性の芽をつぶすために母がわざと気を利かせずにいる、と習一は感じた。つまるところ、この場に通信機器と財布がないのは習一の普段の行ないのせいである。
 母が病室に滞在してしばらくすると、ようやく担当医があらわれた。どっしりとした雰囲気の、頑固そうな中高年だ。もともとの顔つきなのか、不機嫌そうな表情で習一に問診をしてきた。習一は自身の体力が落ちたこと以外はなんら不調がないことを伝える。強面《こわもて》の医者は得心がいかなさそうにうなずき、病室内を見回す。
「ここにいろんな機械があったはずだが、習一くんは見ていないんだな?」
 習一はまったく知らない話だ。習一が母の顔を見ると、母はつらそうに頭を縦にふった。どうやら習一には知らされていない医療措置がいろいろほどこされていたらしい。それらが撤去されたのちに習一が目覚めたのだ。
 熟年の医者は習一の復帰直前の話をつづけた。医療機器の撤去指示はほかでもない、露木が出したものだという。たまたま担当医がいないタイミングでそんな指示を受け、代理の若い医者が二つ返事でしたがったらしい。
「その警官は、きみがすぐにベッドから下りられる状態にしてほしいと言ってきたんだそうだ。そのあとで患者の意識を回復させると豪語してな。私がいたら『そんなことが警官にできるものか』と追い払っただろうが、まったく、運がいい」
 運がいい、とはだれのことを指しているのか明かさぬまま、医者が退室した。
 習一はふと点滴の針が刺さる自分の腕を見た。おそらくこの処置は唯一、入院当初から継続している。そのほかの処置は露木がやめさせたという。なんとも無茶な話だ。聞き分けのよい医者がいたおかげでスムーズに事が運んだものの、これはまぐれである。もし担当医が在籍していて、彼が習一に述べたとおりの言動をしたなら、露木の要求は強くつっぱねられていた。そんな面倒事を起こす危険を露木は予想しなかったのだろうか。そもそも、習一が目覚めれば医者たちはおのずと不要になった医療機器を取りはずしただろう。露木が差し出がましい指示をする必要性はどこにもなかった。
(なんのために……順序をひっくり返したんだ?)
 暫定的な答えが思いつかないうちに、病室の戸を叩く音が聞こえた。習一はいよいよ露木の呼び寄せた教師がきたのかと神経を張りつめる。
 入室してきた者は普通の私服を着ている。医療従事者ではなさそうな恰好だ。だがその頭髪は黒。珍奇な銀髪だという教師ではない。見たところ露木とちかしい年ごろの青年である。人当たりがよさそうな雰囲気も露木と似ている。ただ露木とちがうのは、すこし照れくさそうに習一とその母に挨拶をしてきたところだ。あまり挙動が堂々としていない、どこか頼りなさげな人だ。母が「まあ先生」と慣れた調子で声をかけたので、習一はこの男性が私服姿の医者なのだとわかった。

タグ:習一
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posted by 三利実巳 at 02:20 | Comment(0) | 長編習一 
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