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2020年03月19日

習一篇−2章5

 入浴後、習一は寝台の上で一休みした。することもないので借り物の電子端末を操作する。昨夜から端末に内蔵されたパズルゲームでちょくちょく遊んでおり、その続きにいそしもうかとした。だがまだ電子書籍のラインナップを確認していないことを思い出す。
(タイトルくらいは見てみるか)
 電子上の書棚を開く。気になる本をさがし、画面を切り替えていく。そしていまの習一にちょうどよい書籍を発見する。病み上がりの人向けの易しいトレーニング本である。かなりピンポイントな需要に特化した書籍であるが、表紙の画像には高齢者にもオススメだと触れこんであった。購買層を広げるための謳い文句なのだろうが、習一はこの言葉にショックを受ける。
(ジジババと同じか……)
 自分の体の衰えぶりが老人の体力と比類する。その事実を受け入れがたく感じた。
(……鍛えればもとにもどる)
 自身の年齢を根拠に、落ちこむヒマがあったらトレーニングに取りかかるべきだと意識を切り替える。平たい本のページをすすめ、そこで紹介される柔軟体操をやりはじめた。体育の授業でも教わったポーズがあり、案外とっつきやすかった。
 習一が前屈の姿勢を維持していたとき、病室に人がやってくる。よく習一の体調を測りにくる看護師である。しかし今日は測定器をなにももっていない。
 看護師は習一に、入浴後の体の調子はどうかと口頭で確認してきた。習一はそんなことをわざわざ聞きにくるのか、と医療関係者の過保護さを感じつつも、なんともないことを伝える。すると看護師はこれから一緒に運動をしようかと提案した。それが退院に向けた訓練だという。
「小田切さんはひとりでも運動してるので、必須じゃないんですけど」
 習一が行なうトレーニングは医療の観点において適切らしい。そういう認識のなかった習一はためしに看護師同伴の運動メニューについて質問した。院内の散歩、階段の上り下りなど、ごく普通の運動が挙がってくる。病院でしかできない特別な訓練は大ケガをした人などのリハビリのためにあり、習一には必要ないそうだ。看護師とともに運動したからとて、未定な退院日が早まるわけでもないらしく、習一の気持ち次第だという。習一はひとりが気楽なため、付き添いを遠慮しておいた。
 余計な業務をせずにすんだ看護師はなぜか残念がり、「でも不安だったら声をかけてくださいね」と寛大な受け入れ姿勢を見せた。習一は自分にこうもやさしくする他人の態度を奇異に感じる。見るからに非行少年な男子とともにいて、身の危険をおぼえないのだろうか、と。
「アンタ、オレが怖くないのか?」
 看護師はぽかんとした顔で「どこが?」と即答する。
「あなたみたいな聞き分けのいい子を避けてちゃ、この仕事はやってられないわ」
「オレが、いい子?」
 看護師はいかに習一が手のかからない良質な患者かを語りだした。だいたいはどの病棟にも病気の有無を問わず、意思疎通の困難な患者がいる。そんな人たちと比べれば習一はなにも面倒事を起こさず、看護師の指示を素直に聞くので、けっこうな上客だという。習一が看護師の指示を素直に聞いた、と評される行動とは本日の入浴のタイミングのことである。
「点滴を取ってすぐの入浴は控えて、と言ってもすぐに風呂に入る人もいるのよ。入浴時間に余裕がたっぷりあるときでもね」
 看護師は世間話のノリで職務上の苦労話をする。そしてだんだん保護者のような態度をとってくる。
「ワルぶるのもいいけど高校はちゃんと出ときなさいね」
 目上の女性は医療となんら縁のない忠告をした。習一はこれから発展しうるめんどうな説教を回避するため、
「わかったからオレが退院する日をとっとと決めてくれよ」
 とせがみ、医者にもこの要求を伝えるよう看護師に言って、退室させた。

 習一は気分がすっかりトレーニングから逸れてしまい、寝台上で寝そべる。
(オレが『いい子』か……)
 病院内ですごす習一はたしかに問題児ではないのだろう。ひと月も静かに眠りつづけていて、だれよりも大人しかった。起きたあとも体の活力が低下した状態でいて、自然と臥床の時間が長くなり、結果的に手のかからない患者になっている。しかしわがままは何度か言った自覚がある。粥食と点滴の苦情だ。それは無茶な要求のうちに含まれなかったのだろうか。一度イヤだと言ってみて、その場で改善されなくても口答えをしなかった。その反応が「聞き分けのいい子」ということになったのか。こういった評価は以前の習一なら頻繁にもらえていたものだ。
(去年のオレはいい子だったんだよな……)
 習一の不良歴は一年もない。それまでの十数年間は優秀な成績をおさめる優等生としてすごしてきた。それは他人が自分に求めるものを察し、能力を伸ばそうと努力したためである。その努力に呼応するかのごとく、周囲の人たちも親切にしてくれた。ただひとり、父をのぞいて。
(なんでこうなっちまったか──)
 習一が従順だったときからも父は習一を冷たく遇してきた。その風当たりをやわらげるため、習一は学業に励んだ。父は地方の裁判官を勤めており、一般的にはその職に従事するのに膨大な試験勉強を要する。父も御多分にもれず、むかしから勉学にいそしんできたという。それゆえ、勉強漬けで育った父に認めてもらうには自分も勉強がよくできるようになるべきだ、との発想に習一は至った。しかし習一がどんなによい成果を出しても、父が息子を嫌悪する事態は好転しなかった。これはあとで知ったことだが、父の歓心を得ようとした行為がその実、父の不興を買っていたのだった。
 父は自身の若いころと息子を比較して、父は息子に嫉妬を覚えていた。習一には判別しようがないが、習一のほうが才覚に優れているらしい。だが父の劣等感は習一の成績にのみ起因するものではなかった。習一がいかなる努力を果たそうとも変えられない、父が息子を憎む原因がある。そんな酷な事実を知るきっかけが、冬の寒い時期にあった。習一はそれ以後、自己の無駄な努力をあざ笑い、父への思慕は憎悪へ変化し、培ってきた知性は父を困らせる悪知恵に活用するようになった。これが必死に父に媚びを売ってきた少年の反逆である。
 習一が父への仕返しのために不良に身を落とした。この転身は偶然だった。真相を知ったあとの習一は授業のない休日中、家にいることがつらくなり、町中を放浪した。そんな折に同年代の悪童たちに絡まれた。これがいまの不良仲間である。彼らに遭遇したときの習一は混乱状態ぎみだったせいもあり、過剰に身の危険を感じとった。それゆえ先手必勝とばかりに悪童たちをなぎ倒してしまった。この勝敗結果は習一の基礎運動能力の高さの賜物である。
 負かされた側は習一の強さを気に入り、習一を仲間入りさせた。そのときの習一は新しい居場所が得られたことをよろこんだ。そして父が息子の非行の評判によって自身の名声に傷がつき、うろたえるさまにも復讐の手ごたえを感じた。だが、いまはちがう。
(いつまでこんなことをやってりゃいいんだ?)
 父はもはや息子への関心が薄まり、生半可な不心得では心をうごかされなくなった。また、習一がみずから身を投じた不良生活とはいえ、正直なところあまり快適ではない。
 最初は新鮮だった遊び暮らしは時間が経つにつれて味気なくなり、仲間と話していても習一の知的好奇心が刺激される機会はとぼしい。勉学から遠ざかってはじめて、習一は自分が学ぶことが好きな性分なのだと気づいた。反対に仲間は勉強嫌いである。習一は嗜好の異なる仲間がきらいではないものの、やはり彼らとは住む世界がちがうような隔絶を感じる。入院前はなるべく直視しないようにしていた不満が、仲間と離れてみて、客観的に確認できつつあった。
(これから、どうする?)
 悪童を演じるのにも限界を感じてきた。結局自分はなにがしたいか、なにをしていけばいいのか、見当がつかなくなっている。ただ、漠然とした助言はいましがた耳に入っていた。
(『高校はちゃんと出ときなさい』……ねえ)
 それがベターな生き方なのだと、習一もなんとはなしに考えている。専門的な勉強をするために進学するとき、および就職するときのスタートラインは高卒に集約されがちだと聞く。社会通念上の最低限の経歴を獲得しておいて損はない。そしておあつらえ向きに、習一はその一助となる支援を受けることが確約された。
(退院したら、あの教師とつるむのか……)
 真面目だか不良だかわからない大人とともに復学に努める。その行動計画は教師が遣わした少女によって伝わった。これはすべて教師の提案である。習一は条件付きとはいえ提案を飲んだ。常識的に考えれば習一に拒否する道理はないのだが、無法者に類する自分がごねる選択肢もある。だが習一は伝言役に対して拒絶の態度を出さなかった。そのときは無抵抗に受け入れてしまったのだ。その原因はおそらく、決定を伝えにきた者が少女だったからだろう。あの三十路ほどの男性相手であればイヤミのひとつも言えたが、他人の指示にしたがっている子ども相手だと矛先を向けられなくなった。
(それで、いいか)
 習一は教師との取り決めをくつがえす気が起きない。こばんだところで、ほかにやりたいことがない。ならばせめて自身の将来に益となる行動をとっておくべきである。たとえまた留年したくなっても、次の学期で不品行をはたらけば事足りる。しかしのちの自分が進級したいと考えたときは、いま頑張っておかなければのぞみがかなわない。
 習一は詳細の未知な教師と自分との利害が一致すると判断し、彼との一時的な共存を受け入れることにした。あの教師は多少なりとも習一の行く末を案じる大人だ。彼のそばにいるうちに、今後の身の振り方が見えてくるかもしれない。そんな期待がもてた。

タグ:習一
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posted by 三利実巳 at 22:55 | Comment(0) | 長編習一 

2020年03月12日

習一篇−2章4

 翌日、習一は点滴痕に絆創膏を貼り、院内の散歩をした。この散歩は体力作りのためである。また、点滴の除去を担当した看護師の発言も多少は関与する。管の入っていた部分の血が固まるまで、入浴は待ったほうがいいと言われたのだ。病院の浴場は不特定の患者が利用する場所だといい、傷口からなんらかの病気を移されかねない。そのリスクができた習一は看護師の指示にしたがうことにした。ただでさえ自分の体は弱っている。被らなくてよい危険は避けようと判断した。
 習一は看護師の助言を「傷口をぬらしてはいけない」とも解釈し、汗のかかないかるい運動を心掛けた。つらい鍛錬をしたせいで止血がとどこおるのはバカらしい。そのため椅子を見つければ疲れを自覚していなくとも座り、体温が上がらないよう調整した。
 休息の動作だと見なしていた座る、立つが思いのほか習一の足の筋肉を刺激し、動作がにぶってくる。無理をしないことを目下の目標とした結果、三十分も経たずに自分の病室へもどることとなった。
 習一が病室の戸を開けたとき、室内に見知らぬ後ろ姿を発見する。看護師でも清掃員でもない私服の人物で、その頭髪は銀色である。習一はすぐに先日の教師を連想した。だが別人だとはっきりわかった。まず身長がちがう。今回の客人は習一より背が低く、シルエットは背が高めな女性のようである。着ている服も女性物であり、いまの季節は夏だというのにケープを羽織っている。よく見るとケープの布地は薄手のようで、日よけ目的ならば合理的なファッションかもしれないと習一は思った。
「あ、シューイチいた」
 銀髪の女は振りむいた。その顔を見たところ、年ごろは習一と同年で、瞳は緑色。銀髪の教師と同じくらいに肌が浅黒い。教師の瞳の色はどうだったか習一の記憶にないが、それ以外の身体的特徴は共通している。この相似具合をふまえると、両者は兄妹のように見えた。習一はそう予想したものの、いま二人の血縁関係をあきらかにする利点はないため、当たりさわりのない質問をしかける。
「お前、才穎高校の教師の知り合いか?」
「うん。シドの伝言を伝えにきた」
 習一の知らない名前が出てくる。その名が出る直前に「うん」という少女の肯定が入ったため、例の教師のことを指す名詞だと察しがついた。習一がこのように推察をはさまねばならぬ原因は、少女の説明不足のせいではない。昨日、教師が習一に自己紹介をするのを、習一が止めたせいである。
(『今後のやり取りに支障が出ます』……だとか言ってたか)
 あの教師はこの少女を小間使いにすることを視野に入れていたのだろう。少女が教師の呼び名をもちいて習一と会話する状況を見越していたのだ。習一は教師の名を聞いておいてもよかったか、と自己判断を省みた。
 習一は引き戸を開けたまま、部屋の中へ入る。この戸は半端に開けておくと勝手に閉まる設計だ。その仕組みをあてにして習一は出入りしている。
 少女は折りたたんだメモを広げる。紙がかさかさとすれる音と一緒に、引き戸が自力で閉まる音も鳴った。
「期末試験をうけられなかったかわりに、三日間の補習を一週間後にやるんだって」
 教師は再試験の交渉をやり遂げた。習一はその成果におどろかない。予想できたことからだだ。しかし昨日の今日で補習の予定が決まるのは変だと感じた。考えられうる可能性は──
「その補習はオレ以外の生徒も受けるのか?」
「うん、ほかに補習をうける子が二人いるって」
 もともといる落第生候補の救済ついでに習一も、というおまけ扱いだ。そうでなくてはこんなに早く事はすすまない、と習一は腑に落ちた。
「そうそう、退院はいつできる?」
「退院か……」
 習一は少女に言われてはじめて、自分はこの病院をはなれる段階に差し掛かっていることを自覚した。点滴はもう外れた。食事は難なく食えている。もはや治療をほどこされる余地はない状態だ。しかし退院日はまだ聞かされていない。
「点滴が取れたから……そろそろ出ていってもいいとは思うが」
「じゃ、もうすぐ決まるって、シドに言うね」
「断言はするなよ。医者はなにも言ってこないんだ」
 少女は習一の注意をわかったのかわかっていないのか、「うん」とだけ答えた。
「これでおまえの用事はおしまいか?」
「うん、おわり。シューイチからシドに伝えたいこと、ある?」
「ない。聞きたいことはあるが、どうせはぐらかしてくるだろ」
 習一は教師の口の堅さを思い出し、彼への質疑は他者を介さないほうがいいと思った。これで少女を帰らせようかと思ったが、彼女の頭髪を見て、ふと疑問が湧く。
「あ、ちょっと聞いていいか」
「言ってみて」
「おまえの髪、染めてんのか?」
 この指摘は習一自身の髪に当てはまることだ。習一の場合は不品行の可視化のために染髪を行なった。しかしこの少女と教師がそんな理由で染髪しているとは思えない。さりとて自然発生的に薄墨色の髪をもつ人間が生まれる事例は聞いたことがない。それゆえ習一は教師たちが特別な理由で銀髪にしているのだと習一は考えた。
「はじめからこの色。シドもおなじだよ」
 教師らの珍奇な髪の色は生まれつきだという。習一は自分の知識にないことゆえに少女の言葉を信じきれない。だが少女がウソを言っているようにも見えず、予想が外れた習一は「そうか」とつぶやいた。
 伝言役を完遂した少女が帰りの姿勢を見せる。習一の脇を通り、病室の戸口へ行く。習一は彼女の退室を見送らず、さっさと寝台に向かう。習一の足には疲労がたまっており、はやく休みたかった。この疲労には予定外の立ち話も多少関係した。
 習一は寝台に腰かける。少女に別れのあいさつは言っておくか、と顔を上げた。しかし少女の姿はすでになかった。ものの十秒前後で、音を立てずに退室したようだ。習一は引き戸の開閉音が鳴らなかったことを不思議がった。無音で戸を開閉しようとすると、どうしても動作が緩慢にならざるをえない。ゆっくり開けて、ゆっくり閉める。このうごきを数秒でやりとげるのは物理的にむずかしいと思った。
(おっと、そんなことより風呂……)
 浴場の開放時間には限りがある。習一は取るに足らない思索をやめ、入浴支度をした。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 01:00 | Comment(0) | 長編習一 
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