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2020年05月06日
習一篇−2章7
習一は明日には退院である。この病棟へくることはもうない。これで見納めだと思い、内部の様子を散歩ついでに見てまわった。
壁にかかった油絵の絵画を鑑賞したのち、片側一面がガラス窓で覆われた廊下へ出る。ここからは院内の庭が見える。そこでガラス越しに、緑の映える空間を見物する。
現在は真夏の昼過ぎ。外は日差しが燦々と照っており、実際の空気に触れなくても炎天下だと想像がついた。暑さのためか庭に人はいない。ただ庭の木の枝には白い物影があった。習一はそれを鳥だろうと推測し、種類はなにかと考える。
(白い鳥……どんな名前のやつがいたかな)
鷺《さぎ》や鳩など、習一が自分のすくない動物知識を掘り起こしていると、白い鳥がうごいた。鳥は飛び立ち、習一のいる階へ上昇する。そして外壁より突き出た縁《へり》に着地した。そこは習一のいる場所から一メートルあまり離れた地点だ。習一は遠巻きに鳥の姿かたちを観察してみた。
羽ばたきを終えた鳥は翼を閉じ、くちばしを自身の羽にあてがう。そのくちばしには太さがある。頭も大きく、形状は烏《からす》によく似ていた。だがその体毛は黒色の代名詞でもある烏とは思えない色だ。
(白いカラス?)
習一は変わった色の烏に遭遇できて、歓喜があふれてきた。動物にはアルビノ種という、色素の形成がうまくいかないせいで肌や毛が白くなる個体が稀にいると聞く。珍しい生き物に会えたと思うと、その貴重な姿を目に焼きつけておきたくなった。
習一はもっと至近距離で白い烏を見ようとした。だがはた目からすると自分が奇異な行動をとっているふうに勘違いされるのではないか、と心配がよぎる。そこで自身を視認しうる周囲の人の有無を確認した。
習一のいる通路には人がいなかった。しかし窓ガラスの向こう側の病棟に奇妙な人がいる。薄い色のスーツに身を包んだ大柄な男だ。その巨躯と服装はこの病院の従業員のものではなさそうだ。
(あんな男でも見舞いにくるんだな)
そんな失礼な感想が出てきたのは、男の肩にある花束を見たせいだ。実益のない観賞用の贈答品をもってくる発想は、習一では実行に移しそうにない。どうせなら食べ物か、入院中のありあまる余暇をつぶせる道具がいい、と考えてしまう。花を選ぶ思考は女性的に思えて、あの見舞い客の男らしい外見との乖離に意外性があった。
(ま、どうでもいいか)
習一は今後お目にかかれないであろうレアな生き物に意識を向ける。烏の目のまえへと移動し、しゃがむ。烏とは窓をへだてているとはいえ、互いに姿が見える状態である。人が接近するのを警戒してくるかと思われたが、烏はなお羽を休めている。その目をよく見ると、黒い。目の色は普通の烏と同じカラーリングのようだ。
(アルビノは目が赤いんじゃなかったか?)
色素異常のある個体は体毛だけでなく目の色素も作れない。その影響で血管の色と同じ赤い瞳になる、と頭のすみに知識が保管されていた。ただし青い目も色素がたくさん作れていないケースだといい、赤色に限定した現象ではないらしい。
習一は希少な生き物に惹かれ、烏をよく観察する。好奇が生じたのはいいものの、烏が身動きをとらないせいで、退屈さも感じてくる。そこで窓を指の爪でこつこつと叩き、烏がびっくりして飛び去る姿を見ようとした。ところが烏は平然と頭をかしげる。そして習一に応じるようにガラスをくちばしでつついてきた。窓ガラスが分厚いせいか音は鳴らない。この無音の反応を見て、習一は無性にうれしくなった。自分の行動を烏が真似てくれたのだ。かしこく、人懐こい生き物だと思った。
習一は知らず知らずのうちに、不格好な笑みをつくった。表情の変化に気づくと、この変な顔を他人に見られなかったか、と恥ずかしくなり、向かいの病棟を見る。人はいなかった。こちらの病棟はどうか、左右に首をふる。するとスーツを着た大男を発見した。男は習一が烏に夢中になる間にこちらの病棟へ移動したらしい。
図体の大きな男は看護師と話し中だ。おそらく見舞い相手の病室をたずねているのだろう。看護師に聞けば病室の案内は確実である。彼が習一に接触する動機はない。ゆえに習一は自分と縁のない通行人のことは無視し、烏とたむわれた。
烏は丸い目をぱちくりさせる。しばしば首をかしげる様子を見るに、意外と愛らしい外見だ。なおかつ習一はこれまでの烏のイメージを一新する。ゴミや死肉を漁るといわれ、人々から嫌われる負の象徴だと見なしていたが、そのような印象はいささかも感じなかった。
「ようニーチャン、暇してんか?」
習一は肩を震わせる。奇異な動物に関心を注ぎすぎて、人の接近を察知できなかった。
「そーんなにビックリせんでもええ」
習一は方言で話しかけてくる者を見上げた。大柄な男はジャケットを着崩しており、暑さのためかシャツの胸元を大きく開けている。日に焼けた肌と筋肉質な体躯、金色に染めたオールバックの髪は、屈強な荒くれ者のようであった。そんな男に似つかわしくない物が肩に置かれてある。薄い赤紫の包装紙につつんだ花束だ。つまり彼はさきほどから院内をうろつく大男である。
「ちぃーと聞きたいことがあるんや」
男はニカっと笑い、花束を揺らす。
「ワシはミツバっちゅうもんや。『光る』に葉っぱの『葉』と書いて光葉」
荒くれ者は存外、丁寧な自己紹介をしてくる。
「ワシと同じくれえのイイ体をした色黒の、銀髪の男を知らんか?」
銀髪で色黒の男、と聞いて習一はシドという教師を思いうかべた。だがあの教師は眼前の男ほど背は高くないような気がする。筋肉量も、こちらの男よりは劣る。なにせ教師は一見すると細身に見えた男性だ。それに引き換え、この光葉という大男は筋骨が発達するあまり、肩周りや太もも部分の布地がピッタリと体のラインに沿っている。服では隠しきれないマッチョぶりだ。
「ああ、そいつは帽子を被っとるさかい、ワシみてえな色黒の男、と考えてもええで」
あの教師は帽子を被っていなかった。それゆえ習一は首を横にふった。あてがはずれた大男がしょぼくれる。
「そか……このあたりでよう出るって噂やったんやけどな」
光葉はすぐに自信満々な表情にもどる。
「ほんなら、銀髪の女はどうや?」
女、とくると習一は教師の伝言をつたえにきた少女を思いうかべた。
「この女、男かと思うくらい背が高いっちゅう話や」
銀髪の少女は身長が高かったものの、男性に見まごう身長にはおよばない。習一はふたたび首をふった。
(でも病院にきてた変な女の話は聞いたな)
それは今日、若い医者から得た情報だ。彼の知人が入院中、奇妙な力をもつ女性に会ったと。その女性について習一はよく知らないため、余計なことを言わないでおいた。
二度も期待が外れた光葉は口をとがらせる。
「ニーチャンんとこに、背はワシよか低い銀髪の男がきてたんやろ」
光葉の声色が低くなった。機嫌がわるくなってきたのだろうか。習一はいよいよはっきりとした意思伝達が必要となる気配を感じた。
「ここの勤め人が言うてくれたんや。そいつを教えてくれんか?」
情報提供者がいた以上、適当にはぐらかすことは不可能だ。
「……一昨日、オレを見舞いにきたよ」
習一は重い腰を上げる。立ってみるとやはり荒くれ者の背は高く、二メートルちかくありそうだと思った。
「このへんの高校の教師だ。その男がどうした?」
「そいつの仲間かもしれへんやつに用があるんや。んで、そのセンセイの居場所は?」
「知らない。オレも最近会ったばかりで、どういうやつだかわからない」
「そないな知らんやつが、なんでニーチャンの見舞いにくるんや?」
「オレが知りたいくらいだ。聞いても答えやしない」
光葉は鼻をすんと鳴らし、中庭を見つめる。
「ほんじゃ、センセイはどんなツラした人か教えてもらえるか?」
「髪の色だけでさがせるだろ。そいつは帽子を被ってないんだから」
習一は強気な態度で会話を打ちきる。この応対では荒くれ者を怒らせるのではないか、と危惧する気持ちはあった。だが彼は「冷たいやっちゃな」と落胆するだけだった。粗暴そうな風貌とは裏腹に沸点は低くないようだ。
習一はしゃがみ、烏の観察を続行しようとした。しかし複数の足音が近づいてきて、そちらに意識がいく。音の出どころを見れば白衣を着た男性医者と男女の看護師が二名ばかしあるいてくる。彼らは習一たちのもとへ向かっているらしい。
(このデカブツに用があるのか?)
習一はちらりと光葉の顔を見る。彼は悠然としていて、医者たちの到来になんの感慨も湧かないようだ。
やってきた医者は習一の担当医ではない若い男性だ。立場上は看護師らより上にいるせいでか、矢面に立つポジションで大男に対峙する。気の弱そうな医者が背後の看護師にせっつかれた。ふんぎりがつかないのか、医者は声を発さない。そのまごつき具合に光葉はしびれを切らし「ワシになんの用事かいな」と高圧的にたずねた。医者はしどろもどろに「あなたの、ご用件をたずねに」と答える。
「あなたは当院にどんな事情でいらしたのですか?」
「どうもこうも、見舞いや!」
光葉は肩に飾っていた花束を医者に突きつける。医者は後方へ一歩のけぞった。
「それともなにか、ワシみたいなごっついオノコが見舞いになんぞくるはずがないと、センセイがたはイチャモンつける気か?」
「そういうつもりはないんですが……」
医者は両手をあげて、光葉をなだめるとも降伏するとも取れる態度をしめす。
「あなたが院内をうろつくと怖がる方がおられます。患者の体調にも良くないので……」
「はん、ヒトをバイキンみたくあつかいよって」
光葉がいかにも不愉快そうに吐き捨てる。
「これやから医者っちゅうんはお高くとまっててアカンわ、けったくそ悪い!」
光葉は急に習一のほうを向いた。持っていた花束を習一にかるく投げる。習一は両腕で投射物を受け止めた。渡された花はオレンジやピンク色など可愛らしい色合いばかり。光葉の趣味とは思えず、習一は花屋の従業員が仕立てたものだと感じた。
「ニーチャン、養生しぃや!」
光葉は大股で歩きだした。巨体が医者たちの間を押しわけて行く。彼は片手を肩の上へ掲げ、左右に振った。それが彼なりの別れの合図らしかった。
不審者の追い出しに成功したため、看護師たちはそれぞれの持ち場へもどっていく。医者も習一の安全を確認すると去っていった。取り残された習一は窓の縁を見る。白い烏はいない。おおかたガラス越しに騒動が伝わり、逃げてしまったのだろう。
(飛ぶところを見たかったけど……まあいいか)
習一は強引に贈られた花束をたずさえ、自分の病室へもどった。
壁にかかった油絵の絵画を鑑賞したのち、片側一面がガラス窓で覆われた廊下へ出る。ここからは院内の庭が見える。そこでガラス越しに、緑の映える空間を見物する。
現在は真夏の昼過ぎ。外は日差しが燦々と照っており、実際の空気に触れなくても炎天下だと想像がついた。暑さのためか庭に人はいない。ただ庭の木の枝には白い物影があった。習一はそれを鳥だろうと推測し、種類はなにかと考える。
(白い鳥……どんな名前のやつがいたかな)
鷺《さぎ》や鳩など、習一が自分のすくない動物知識を掘り起こしていると、白い鳥がうごいた。鳥は飛び立ち、習一のいる階へ上昇する。そして外壁より突き出た縁《へり》に着地した。そこは習一のいる場所から一メートルあまり離れた地点だ。習一は遠巻きに鳥の姿かたちを観察してみた。
羽ばたきを終えた鳥は翼を閉じ、くちばしを自身の羽にあてがう。そのくちばしには太さがある。頭も大きく、形状は烏《からす》によく似ていた。だがその体毛は黒色の代名詞でもある烏とは思えない色だ。
(白いカラス?)
習一は変わった色の烏に遭遇できて、歓喜があふれてきた。動物にはアルビノ種という、色素の形成がうまくいかないせいで肌や毛が白くなる個体が稀にいると聞く。珍しい生き物に会えたと思うと、その貴重な姿を目に焼きつけておきたくなった。
習一はもっと至近距離で白い烏を見ようとした。だがはた目からすると自分が奇異な行動をとっているふうに勘違いされるのではないか、と心配がよぎる。そこで自身を視認しうる周囲の人の有無を確認した。
習一のいる通路には人がいなかった。しかし窓ガラスの向こう側の病棟に奇妙な人がいる。薄い色のスーツに身を包んだ大柄な男だ。その巨躯と服装はこの病院の従業員のものではなさそうだ。
(あんな男でも見舞いにくるんだな)
そんな失礼な感想が出てきたのは、男の肩にある花束を見たせいだ。実益のない観賞用の贈答品をもってくる発想は、習一では実行に移しそうにない。どうせなら食べ物か、入院中のありあまる余暇をつぶせる道具がいい、と考えてしまう。花を選ぶ思考は女性的に思えて、あの見舞い客の男らしい外見との乖離に意外性があった。
(ま、どうでもいいか)
習一は今後お目にかかれないであろうレアな生き物に意識を向ける。烏の目のまえへと移動し、しゃがむ。烏とは窓をへだてているとはいえ、互いに姿が見える状態である。人が接近するのを警戒してくるかと思われたが、烏はなお羽を休めている。その目をよく見ると、黒い。目の色は普通の烏と同じカラーリングのようだ。
(アルビノは目が赤いんじゃなかったか?)
色素異常のある個体は体毛だけでなく目の色素も作れない。その影響で血管の色と同じ赤い瞳になる、と頭のすみに知識が保管されていた。ただし青い目も色素がたくさん作れていないケースだといい、赤色に限定した現象ではないらしい。
習一は希少な生き物に惹かれ、烏をよく観察する。好奇が生じたのはいいものの、烏が身動きをとらないせいで、退屈さも感じてくる。そこで窓を指の爪でこつこつと叩き、烏がびっくりして飛び去る姿を見ようとした。ところが烏は平然と頭をかしげる。そして習一に応じるようにガラスをくちばしでつついてきた。窓ガラスが分厚いせいか音は鳴らない。この無音の反応を見て、習一は無性にうれしくなった。自分の行動を烏が真似てくれたのだ。かしこく、人懐こい生き物だと思った。
習一は知らず知らずのうちに、不格好な笑みをつくった。表情の変化に気づくと、この変な顔を他人に見られなかったか、と恥ずかしくなり、向かいの病棟を見る。人はいなかった。こちらの病棟はどうか、左右に首をふる。するとスーツを着た大男を発見した。男は習一が烏に夢中になる間にこちらの病棟へ移動したらしい。
図体の大きな男は看護師と話し中だ。おそらく見舞い相手の病室をたずねているのだろう。看護師に聞けば病室の案内は確実である。彼が習一に接触する動機はない。ゆえに習一は自分と縁のない通行人のことは無視し、烏とたむわれた。
烏は丸い目をぱちくりさせる。しばしば首をかしげる様子を見るに、意外と愛らしい外見だ。なおかつ習一はこれまでの烏のイメージを一新する。ゴミや死肉を漁るといわれ、人々から嫌われる負の象徴だと見なしていたが、そのような印象はいささかも感じなかった。
「ようニーチャン、暇してんか?」
習一は肩を震わせる。奇異な動物に関心を注ぎすぎて、人の接近を察知できなかった。
「そーんなにビックリせんでもええ」
習一は方言で話しかけてくる者を見上げた。大柄な男はジャケットを着崩しており、暑さのためかシャツの胸元を大きく開けている。日に焼けた肌と筋肉質な体躯、金色に染めたオールバックの髪は、屈強な荒くれ者のようであった。そんな男に似つかわしくない物が肩に置かれてある。薄い赤紫の包装紙につつんだ花束だ。つまり彼はさきほどから院内をうろつく大男である。
「ちぃーと聞きたいことがあるんや」
男はニカっと笑い、花束を揺らす。
「ワシはミツバっちゅうもんや。『光る』に葉っぱの『葉』と書いて光葉」
荒くれ者は存外、丁寧な自己紹介をしてくる。
「ワシと同じくれえのイイ体をした色黒の、銀髪の男を知らんか?」
銀髪で色黒の男、と聞いて習一はシドという教師を思いうかべた。だがあの教師は眼前の男ほど背は高くないような気がする。筋肉量も、こちらの男よりは劣る。なにせ教師は一見すると細身に見えた男性だ。それに引き換え、この光葉という大男は筋骨が発達するあまり、肩周りや太もも部分の布地がピッタリと体のラインに沿っている。服では隠しきれないマッチョぶりだ。
「ああ、そいつは帽子を被っとるさかい、ワシみてえな色黒の男、と考えてもええで」
あの教師は帽子を被っていなかった。それゆえ習一は首を横にふった。あてがはずれた大男がしょぼくれる。
「そか……このあたりでよう出るって噂やったんやけどな」
光葉はすぐに自信満々な表情にもどる。
「ほんなら、銀髪の女はどうや?」
女、とくると習一は教師の伝言をつたえにきた少女を思いうかべた。
「この女、男かと思うくらい背が高いっちゅう話や」
銀髪の少女は身長が高かったものの、男性に見まごう身長にはおよばない。習一はふたたび首をふった。
(でも病院にきてた変な女の話は聞いたな)
それは今日、若い医者から得た情報だ。彼の知人が入院中、奇妙な力をもつ女性に会ったと。その女性について習一はよく知らないため、余計なことを言わないでおいた。
二度も期待が外れた光葉は口をとがらせる。
「ニーチャンんとこに、背はワシよか低い銀髪の男がきてたんやろ」
光葉の声色が低くなった。機嫌がわるくなってきたのだろうか。習一はいよいよはっきりとした意思伝達が必要となる気配を感じた。
「ここの勤め人が言うてくれたんや。そいつを教えてくれんか?」
情報提供者がいた以上、適当にはぐらかすことは不可能だ。
「……一昨日、オレを見舞いにきたよ」
習一は重い腰を上げる。立ってみるとやはり荒くれ者の背は高く、二メートルちかくありそうだと思った。
「このへんの高校の教師だ。その男がどうした?」
「そいつの仲間かもしれへんやつに用があるんや。んで、そのセンセイの居場所は?」
「知らない。オレも最近会ったばかりで、どういうやつだかわからない」
「そないな知らんやつが、なんでニーチャンの見舞いにくるんや?」
「オレが知りたいくらいだ。聞いても答えやしない」
光葉は鼻をすんと鳴らし、中庭を見つめる。
「ほんじゃ、センセイはどんなツラした人か教えてもらえるか?」
「髪の色だけでさがせるだろ。そいつは帽子を被ってないんだから」
習一は強気な態度で会話を打ちきる。この応対では荒くれ者を怒らせるのではないか、と危惧する気持ちはあった。だが彼は「冷たいやっちゃな」と落胆するだけだった。粗暴そうな風貌とは裏腹に沸点は低くないようだ。
習一はしゃがみ、烏の観察を続行しようとした。しかし複数の足音が近づいてきて、そちらに意識がいく。音の出どころを見れば白衣を着た男性医者と男女の看護師が二名ばかしあるいてくる。彼らは習一たちのもとへ向かっているらしい。
(このデカブツに用があるのか?)
習一はちらりと光葉の顔を見る。彼は悠然としていて、医者たちの到来になんの感慨も湧かないようだ。
やってきた医者は習一の担当医ではない若い男性だ。立場上は看護師らより上にいるせいでか、矢面に立つポジションで大男に対峙する。気の弱そうな医者が背後の看護師にせっつかれた。ふんぎりがつかないのか、医者は声を発さない。そのまごつき具合に光葉はしびれを切らし「ワシになんの用事かいな」と高圧的にたずねた。医者はしどろもどろに「あなたの、ご用件をたずねに」と答える。
「あなたは当院にどんな事情でいらしたのですか?」
「どうもこうも、見舞いや!」
光葉は肩に飾っていた花束を医者に突きつける。医者は後方へ一歩のけぞった。
「それともなにか、ワシみたいなごっついオノコが見舞いになんぞくるはずがないと、センセイがたはイチャモンつける気か?」
「そういうつもりはないんですが……」
医者は両手をあげて、光葉をなだめるとも降伏するとも取れる態度をしめす。
「あなたが院内をうろつくと怖がる方がおられます。患者の体調にも良くないので……」
「はん、ヒトをバイキンみたくあつかいよって」
光葉がいかにも不愉快そうに吐き捨てる。
「これやから医者っちゅうんはお高くとまっててアカンわ、けったくそ悪い!」
光葉は急に習一のほうを向いた。持っていた花束を習一にかるく投げる。習一は両腕で投射物を受け止めた。渡された花はオレンジやピンク色など可愛らしい色合いばかり。光葉の趣味とは思えず、習一は花屋の従業員が仕立てたものだと感じた。
「ニーチャン、養生しぃや!」
光葉は大股で歩きだした。巨体が医者たちの間を押しわけて行く。彼は片手を肩の上へ掲げ、左右に振った。それが彼なりの別れの合図らしかった。
不審者の追い出しに成功したため、看護師たちはそれぞれの持ち場へもどっていく。医者も習一の安全を確認すると去っていった。取り残された習一は窓の縁を見る。白い烏はいない。おおかたガラス越しに騒動が伝わり、逃げてしまったのだろう。
(飛ぶところを見たかったけど……まあいいか)
習一は強引に贈られた花束をたずさえ、自分の病室へもどった。
タグ:習一
2020年04月01日
習一篇−2章6
次の日も習一は空調のととのった病棟内で運動と休憩を繰り返した。散歩をしたのちに寝台でクールダウンし、柔軟体操をする。そういったサイクルをこなすうちに疲れが出てきて、習一は横になった。床頭台のほうへ寝返りをうつと、習一のものではない文具が目につく。
(そういや、まだあの医者に返せてないな)
若い医者の落とし物を本人に返却する機会がこない。あの医者は昨日おとといと連続で非番だったようで、昨日は一度も姿を見なかった。
(オレ、明日に退院だと昨日言われたけど……)
看護師に退院をせがんだあとに、退院日を告げられた。習一はこのままあの医者に会えずに退院するのだろうか、とすこし心配になる。
(そんときは看護師に返してもらうか)
さいわい信用のおける看護師はいる。習一がすぐに想像した人物は昨日習一に節介を焼いてきた女性だ。彼女に些事を任せるのを視野に入れておいた。
習一が目先の算段を考えていたところ、その思案が取り消される人物が入室してきた。二連休を経た医者がきたのである。若い医者は習一の退院日が決まったことを祝ってきた。習一はそんなことより気がかりだった用件をすませる。
「とりあえず、アンタのもんを返しておくぞ」
習一は医者の文具を早々に返す。これで肩の荷がおりて、寛容な心持ちになる。
「ほかに用はあるのか?」
習一がたずねると、医者はうなる。
「うーんと、ほかの人には言いふらさないでほしいことを話そうかと思うんですが」
「ここだけの話、か?」
医者はうなずき、病室の椅子に座る。長話をする姿勢のようだ。習一は他言無用の内容に惹きつけられ、話が長くなりそうな雰囲気への嫌悪を感じなかった。
「これから話すことは信じなくてもかまわないです」
「なんだよ、もったいぶって」
「小田切さんが一か月もねむっていたことと、いまになって覚醒できたこと……たぶん、普通の病気や治療では起きえないことだと思います」
「それが……なんだ? 原因不明の病気なんて世の中にあるんじゃないのか」
治療の困難な難病奇病はいまなお発見されているという。習一は自身の症状もそういった稀な症例なのだと思い、いまさら解説されることではない、と答えようとした。
「はい、現代の医学では理解がおよばない病気はあります」
軟弱そうだった青年が習一を見る。習一がはじめて見る、彼の毅然とした態度だ。
「でも、あなたの場合は病気とはすこしちがう気がするんです」
「じゃあなんなんだと思ってるんだ?」
「呪い、のような……超常的な力がはたらいてたんじゃないかと」
習一はまったくバカげた話だと感じ、つい
「警官に先を越されたからってそんな言い訳を」
とあきれた。医者は頭を何度も縦にふって「そう言いたくなるのもわかります」と平身低頭する。
「僕がこんな非科学的なことを考えるのにも根拠がありまして……」
「……アンタ、ほかにやることがないのか?」
習一は興味がわかず、横になった。この態度は座位をとるのがむずかしい者をのぞき、他人と会話をする際には推奨されない。習一の不遜さを目の当たりにした医者が話をあきらめるかと思ったが、医者は席を立たない。
「その態勢でいいです。僕の話を聞いていてください」
医者がめげずに話をつづける。習一は先日、自分が他者に説明を省かせたせいでのちのち不便が発生した経験を思い出し、天井を見続けながら傾聴した。
去年、若い医者の友人は交通事故に巻きこまれ、落命してもおかしくない被害に遭った。事故当時、友人は不思議な声を聞いた。その声は死の淵にいる者を救おうとし、「生きたいと願え」という一風変わった要求をしてきた。友人は必死に生を願い、そのおかげなのか重傷を負ったものの命だけは助かった。のちに友人はこの病院で治療を受け、入院生活でも不思議な現象に遭遇した。友人が入室した病棟の患者たちがたびたび朝寝坊をするようになったのだ。そういった日の夜中、友人は何者かが自身の体に触れてくるのを感じた。ある夜、友人はその何者かを捕まえ、相手が女性だと判明した。女性はすぐに逃げてしまい、その後は病院に現れず、患者らの寝坊はもともと寝すぎる者以外、おさまったという。
「他人の健康状態や生命力を左右できる存在がいるのかもしれないと……友人の話を聞いて、考えるようになりました。だから警察官さんがあなたを目覚めさせると言ったとき、僕はその言葉を信じられたんです」
若い医者が露木の要請を快諾できた背景が知れた。当事者が知っておく意義はある内容だとわかり、習一はなおも耳を傾けた。
「あなたは不思議な力をもっただれかのせいで、長く眠らされていたんだと思います」
「朝寝坊してた連中の、もっと重たいバージョンの呪いがオレにかかってたと?」
習一が話者の言わんとすることをさきにのべた。青年は「そんな感じです」と習一の予想に同調する。
「これは僕の想像なので、信じてくれなくてもいいです。でも僕らのまわりには奇妙な生き物が隠れている……その可能性をあなたには知っておいてほしかったんです」
「知って、オレにどうしろって?」
「覚悟……まではしなくていいですが、そういう非科学的なことが起きうると考えておいたらいいと思います。僕の場合、そのおかげであなたの回復の手助けができましたし」
物事に対して柔軟そうな医者とて、事前情報なしでは、警官が不治の患者を治すとの申し出は了承しにくかったらしい。その実体験をもとの助言だと習一は納得した。しかし奇怪な出来事に何回も関わるものだろうか、と習一は確率の低さをかんがみ、あまり気に留めないでおいた。
言いたかったことを言えた医者は席を立つ。彼の退室を習一は臥床したまま見送ろうとした。しかし医者は足を止めている。
「そうそう、さっきは『この話を言いふらさないで』とは言いましたけど、言ってもいい人がいます。僕の友人と、友人の話をよく聞いていた小山田さんです」
小山田といえば習一が看護師から連絡先を教えてもらった女子の名前である。
「あなたは小山田さんとなら話せますよね」
「ああ、オレはアンタの友だちがどんなやつだか知らないしな」
「もし僕の友人に会いたいなら僕がたのんでおきますけど」
「いや、いい。そいつよりは小山田のほうが、オレの知りたいことをたくさん聞き出せる気がする」
その予測は医者も同じだったようで、青年はあっさり引き下がる。伝えうる情報を伝えきったらしい医者が退室していった。
習一はひとりになる。ふたたび寝そべり、医者の医者らしからぬ幻想的な予見を反芻する。
(奇妙なこと……もうあったな)
いまの習一が認識する範囲内でも、不可思議なことが二つ起きている。ひとつは不可解な長いねむりから目覚めたこと、もうひとつは習一の記憶が部分的に消されたことである。しかもその記憶をもとにもどせると露木は言い、そのために習一は今後しばらく銀髪の教師と同行することになった。
(記憶を消すのももどすのも、どういう理屈なんだか……)
その疑問は習一の知識では仮説の立てようがない。徒労におわる思考に区切りをつけ、習一は確実に見返りのある体力づくりをしに病室を出た。
(そういや、まだあの医者に返せてないな)
若い医者の落とし物を本人に返却する機会がこない。あの医者は昨日おとといと連続で非番だったようで、昨日は一度も姿を見なかった。
(オレ、明日に退院だと昨日言われたけど……)
看護師に退院をせがんだあとに、退院日を告げられた。習一はこのままあの医者に会えずに退院するのだろうか、とすこし心配になる。
(そんときは看護師に返してもらうか)
さいわい信用のおける看護師はいる。習一がすぐに想像した人物は昨日習一に節介を焼いてきた女性だ。彼女に些事を任せるのを視野に入れておいた。
習一が目先の算段を考えていたところ、その思案が取り消される人物が入室してきた。二連休を経た医者がきたのである。若い医者は習一の退院日が決まったことを祝ってきた。習一はそんなことより気がかりだった用件をすませる。
「とりあえず、アンタのもんを返しておくぞ」
習一は医者の文具を早々に返す。これで肩の荷がおりて、寛容な心持ちになる。
「ほかに用はあるのか?」
習一がたずねると、医者はうなる。
「うーんと、ほかの人には言いふらさないでほしいことを話そうかと思うんですが」
「ここだけの話、か?」
医者はうなずき、病室の椅子に座る。長話をする姿勢のようだ。習一は他言無用の内容に惹きつけられ、話が長くなりそうな雰囲気への嫌悪を感じなかった。
「これから話すことは信じなくてもかまわないです」
「なんだよ、もったいぶって」
「小田切さんが一か月もねむっていたことと、いまになって覚醒できたこと……たぶん、普通の病気や治療では起きえないことだと思います」
「それが……なんだ? 原因不明の病気なんて世の中にあるんじゃないのか」
治療の困難な難病奇病はいまなお発見されているという。習一は自身の症状もそういった稀な症例なのだと思い、いまさら解説されることではない、と答えようとした。
「はい、現代の医学では理解がおよばない病気はあります」
軟弱そうだった青年が習一を見る。習一がはじめて見る、彼の毅然とした態度だ。
「でも、あなたの場合は病気とはすこしちがう気がするんです」
「じゃあなんなんだと思ってるんだ?」
「呪い、のような……超常的な力がはたらいてたんじゃないかと」
習一はまったくバカげた話だと感じ、つい
「警官に先を越されたからってそんな言い訳を」
とあきれた。医者は頭を何度も縦にふって「そう言いたくなるのもわかります」と平身低頭する。
「僕がこんな非科学的なことを考えるのにも根拠がありまして……」
「……アンタ、ほかにやることがないのか?」
習一は興味がわかず、横になった。この態度は座位をとるのがむずかしい者をのぞき、他人と会話をする際には推奨されない。習一の不遜さを目の当たりにした医者が話をあきらめるかと思ったが、医者は席を立たない。
「その態勢でいいです。僕の話を聞いていてください」
医者がめげずに話をつづける。習一は先日、自分が他者に説明を省かせたせいでのちのち不便が発生した経験を思い出し、天井を見続けながら傾聴した。
去年、若い医者の友人は交通事故に巻きこまれ、落命してもおかしくない被害に遭った。事故当時、友人は不思議な声を聞いた。その声は死の淵にいる者を救おうとし、「生きたいと願え」という一風変わった要求をしてきた。友人は必死に生を願い、そのおかげなのか重傷を負ったものの命だけは助かった。のちに友人はこの病院で治療を受け、入院生活でも不思議な現象に遭遇した。友人が入室した病棟の患者たちがたびたび朝寝坊をするようになったのだ。そういった日の夜中、友人は何者かが自身の体に触れてくるのを感じた。ある夜、友人はその何者かを捕まえ、相手が女性だと判明した。女性はすぐに逃げてしまい、その後は病院に現れず、患者らの寝坊はもともと寝すぎる者以外、おさまったという。
「他人の健康状態や生命力を左右できる存在がいるのかもしれないと……友人の話を聞いて、考えるようになりました。だから警察官さんがあなたを目覚めさせると言ったとき、僕はその言葉を信じられたんです」
若い医者が露木の要請を快諾できた背景が知れた。当事者が知っておく意義はある内容だとわかり、習一はなおも耳を傾けた。
「あなたは不思議な力をもっただれかのせいで、長く眠らされていたんだと思います」
「朝寝坊してた連中の、もっと重たいバージョンの呪いがオレにかかってたと?」
習一が話者の言わんとすることをさきにのべた。青年は「そんな感じです」と習一の予想に同調する。
「これは僕の想像なので、信じてくれなくてもいいです。でも僕らのまわりには奇妙な生き物が隠れている……その可能性をあなたには知っておいてほしかったんです」
「知って、オレにどうしろって?」
「覚悟……まではしなくていいですが、そういう非科学的なことが起きうると考えておいたらいいと思います。僕の場合、そのおかげであなたの回復の手助けができましたし」
物事に対して柔軟そうな医者とて、事前情報なしでは、警官が不治の患者を治すとの申し出は了承しにくかったらしい。その実体験をもとの助言だと習一は納得した。しかし奇怪な出来事に何回も関わるものだろうか、と習一は確率の低さをかんがみ、あまり気に留めないでおいた。
言いたかったことを言えた医者は席を立つ。彼の退室を習一は臥床したまま見送ろうとした。しかし医者は足を止めている。
「そうそう、さっきは『この話を言いふらさないで』とは言いましたけど、言ってもいい人がいます。僕の友人と、友人の話をよく聞いていた小山田さんです」
小山田といえば習一が看護師から連絡先を教えてもらった女子の名前である。
「あなたは小山田さんとなら話せますよね」
「ああ、オレはアンタの友だちがどんなやつだか知らないしな」
「もし僕の友人に会いたいなら僕がたのんでおきますけど」
「いや、いい。そいつよりは小山田のほうが、オレの知りたいことをたくさん聞き出せる気がする」
その予測は医者も同じだったようで、青年はあっさり引き下がる。伝えうる情報を伝えきったらしい医者が退室していった。
習一はひとりになる。ふたたび寝そべり、医者の医者らしからぬ幻想的な予見を反芻する。
(奇妙なこと……もうあったな)
いまの習一が認識する範囲内でも、不可思議なことが二つ起きている。ひとつは不可解な長いねむりから目覚めたこと、もうひとつは習一の記憶が部分的に消されたことである。しかもその記憶をもとにもどせると露木は言い、そのために習一は今後しばらく銀髪の教師と同行することになった。
(記憶を消すのももどすのも、どういう理屈なんだか……)
その疑問は習一の知識では仮説の立てようがない。徒労におわる思考に区切りをつけ、習一は確実に見返りのある体力づくりをしに病室を出た。
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