2020年04月01日
習一篇−2章6
次の日も習一は空調のととのった病棟内で運動と休憩を繰り返した。散歩をしたのちに寝台でクールダウンし、柔軟体操をする。そういったサイクルをこなすうちに疲れが出てきて、習一は横になった。床頭台のほうへ寝返りをうつと、習一のものではない文具が目につく。
(そういや、まだあの医者に返せてないな)
若い医者の落とし物を本人に返却する機会がこない。あの医者は昨日おとといと連続で非番だったようで、昨日は一度も姿を見なかった。
(オレ、明日に退院だと昨日言われたけど……)
看護師に退院をせがんだあとに、退院日を告げられた。習一はこのままあの医者に会えずに退院するのだろうか、とすこし心配になる。
(そんときは看護師に返してもらうか)
さいわい信用のおける看護師はいる。習一がすぐに想像した人物は昨日習一に節介を焼いてきた女性だ。彼女に些事を任せるのを視野に入れておいた。
習一が目先の算段を考えていたところ、その思案が取り消される人物が入室してきた。二連休を経た医者がきたのである。若い医者は習一の退院日が決まったことを祝ってきた。習一はそんなことより気がかりだった用件をすませる。
「とりあえず、アンタのもんを返しておくぞ」
習一は医者の文具を早々に返す。これで肩の荷がおりて、寛容な心持ちになる。
「ほかに用はあるのか?」
習一がたずねると、医者はうなる。
「うーんと、ほかの人には言いふらさないでほしいことを話そうかと思うんですが」
「ここだけの話、か?」
医者はうなずき、病室の椅子に座る。長話をする姿勢のようだ。習一は他言無用の内容に惹きつけられ、話が長くなりそうな雰囲気への嫌悪を感じなかった。
「これから話すことは信じなくてもかまわないです」
「なんだよ、もったいぶって」
「小田切さんが一か月もねむっていたことと、いまになって覚醒できたこと……たぶん、普通の病気や治療では起きえないことだと思います」
「それが……なんだ? 原因不明の病気なんて世の中にあるんじゃないのか」
治療の困難な難病奇病はいまなお発見されているという。習一は自身の症状もそういった稀な症例なのだと思い、いまさら解説されることではない、と答えようとした。
「はい、現代の医学では理解がおよばない病気はあります」
軟弱そうだった青年が習一を見る。習一がはじめて見る、彼の毅然とした態度だ。
「でも、あなたの場合は病気とはすこしちがう気がするんです」
「じゃあなんなんだと思ってるんだ?」
「呪い、のような……超常的な力がはたらいてたんじゃないかと」
習一はまったくバカげた話だと感じ、つい
「警官に先を越されたからってそんな言い訳を」
とあきれた。医者は頭を何度も縦にふって「そう言いたくなるのもわかります」と平身低頭する。
「僕がこんな非科学的なことを考えるのにも根拠がありまして……」
「……アンタ、ほかにやることがないのか?」
習一は興味がわかず、横になった。この態度は座位をとるのがむずかしい者をのぞき、他人と会話をする際には推奨されない。習一の不遜さを目の当たりにした医者が話をあきらめるかと思ったが、医者は席を立たない。
「その態勢でいいです。僕の話を聞いていてください」
医者がめげずに話をつづける。習一は先日、自分が他者に説明を省かせたせいでのちのち不便が発生した経験を思い出し、天井を見続けながら傾聴した。
去年、若い医者の友人は交通事故に巻きこまれ、落命してもおかしくない被害に遭った。事故当時、友人は不思議な声を聞いた。その声は死の淵にいる者を救おうとし、「生きたいと願え」という一風変わった要求をしてきた。友人は必死に生を願い、そのおかげなのか重傷を負ったものの命だけは助かった。のちに友人はこの病院で治療を受け、入院生活でも不思議な現象に遭遇した。友人が入室した病棟の患者たちがたびたび朝寝坊をするようになったのだ。そういった日の夜中、友人は何者かが自身の体に触れてくるのを感じた。ある夜、友人はその何者かを捕まえ、相手が女性だと判明した。女性はすぐに逃げてしまい、その後は病院に現れず、患者らの寝坊はもともと寝すぎる者以外、おさまったという。
「他人の健康状態や生命力を左右できる存在がいるのかもしれないと……友人の話を聞いて、考えるようになりました。だから警察官さんがあなたを目覚めさせると言ったとき、僕はその言葉を信じられたんです」
若い医者が露木の要請を快諾できた背景が知れた。当事者が知っておく意義はある内容だとわかり、習一はなおも耳を傾けた。
「あなたは不思議な力をもっただれかのせいで、長く眠らされていたんだと思います」
「朝寝坊してた連中の、もっと重たいバージョンの呪いがオレにかかってたと?」
習一が話者の言わんとすることをさきにのべた。青年は「そんな感じです」と習一の予想に同調する。
「これは僕の想像なので、信じてくれなくてもいいです。でも僕らのまわりには奇妙な生き物が隠れている……その可能性をあなたには知っておいてほしかったんです」
「知って、オレにどうしろって?」
「覚悟……まではしなくていいですが、そういう非科学的なことが起きうると考えておいたらいいと思います。僕の場合、そのおかげであなたの回復の手助けができましたし」
物事に対して柔軟そうな医者とて、事前情報なしでは、警官が不治の患者を治すとの申し出は了承しにくかったらしい。その実体験をもとの助言だと習一は納得した。しかし奇怪な出来事に何回も関わるものだろうか、と習一は確率の低さをかんがみ、あまり気に留めないでおいた。
言いたかったことを言えた医者は席を立つ。彼の退室を習一は臥床したまま見送ろうとした。しかし医者は足を止めている。
「そうそう、さっきは『この話を言いふらさないで』とは言いましたけど、言ってもいい人がいます。僕の友人と、友人の話をよく聞いていた小山田さんです」
小山田といえば習一が看護師から連絡先を教えてもらった女子の名前である。
「あなたは小山田さんとなら話せますよね」
「ああ、オレはアンタの友だちがどんなやつだか知らないしな」
「もし僕の友人に会いたいなら僕がたのんでおきますけど」
「いや、いい。そいつよりは小山田のほうが、オレの知りたいことをたくさん聞き出せる気がする」
その予測は医者も同じだったようで、青年はあっさり引き下がる。伝えうる情報を伝えきったらしい医者が退室していった。
習一はひとりになる。ふたたび寝そべり、医者の医者らしからぬ幻想的な予見を反芻する。
(奇妙なこと……もうあったな)
いまの習一が認識する範囲内でも、不可思議なことが二つ起きている。ひとつは不可解な長いねむりから目覚めたこと、もうひとつは習一の記憶が部分的に消されたことである。しかもその記憶をもとにもどせると露木は言い、そのために習一は今後しばらく銀髪の教師と同行することになった。
(記憶を消すのももどすのも、どういう理屈なんだか……)
その疑問は習一の知識では仮説の立てようがない。徒労におわる思考に区切りをつけ、習一は確実に見返りのある体力づくりをしに病室を出た。
(そういや、まだあの医者に返せてないな)
若い医者の落とし物を本人に返却する機会がこない。あの医者は昨日おとといと連続で非番だったようで、昨日は一度も姿を見なかった。
(オレ、明日に退院だと昨日言われたけど……)
看護師に退院をせがんだあとに、退院日を告げられた。習一はこのままあの医者に会えずに退院するのだろうか、とすこし心配になる。
(そんときは看護師に返してもらうか)
さいわい信用のおける看護師はいる。習一がすぐに想像した人物は昨日習一に節介を焼いてきた女性だ。彼女に些事を任せるのを視野に入れておいた。
習一が目先の算段を考えていたところ、その思案が取り消される人物が入室してきた。二連休を経た医者がきたのである。若い医者は習一の退院日が決まったことを祝ってきた。習一はそんなことより気がかりだった用件をすませる。
「とりあえず、アンタのもんを返しておくぞ」
習一は医者の文具を早々に返す。これで肩の荷がおりて、寛容な心持ちになる。
「ほかに用はあるのか?」
習一がたずねると、医者はうなる。
「うーんと、ほかの人には言いふらさないでほしいことを話そうかと思うんですが」
「ここだけの話、か?」
医者はうなずき、病室の椅子に座る。長話をする姿勢のようだ。習一は他言無用の内容に惹きつけられ、話が長くなりそうな雰囲気への嫌悪を感じなかった。
「これから話すことは信じなくてもかまわないです」
「なんだよ、もったいぶって」
「小田切さんが一か月もねむっていたことと、いまになって覚醒できたこと……たぶん、普通の病気や治療では起きえないことだと思います」
「それが……なんだ? 原因不明の病気なんて世の中にあるんじゃないのか」
治療の困難な難病奇病はいまなお発見されているという。習一は自身の症状もそういった稀な症例なのだと思い、いまさら解説されることではない、と答えようとした。
「はい、現代の医学では理解がおよばない病気はあります」
軟弱そうだった青年が習一を見る。習一がはじめて見る、彼の毅然とした態度だ。
「でも、あなたの場合は病気とはすこしちがう気がするんです」
「じゃあなんなんだと思ってるんだ?」
「呪い、のような……超常的な力がはたらいてたんじゃないかと」
習一はまったくバカげた話だと感じ、つい
「警官に先を越されたからってそんな言い訳を」
とあきれた。医者は頭を何度も縦にふって「そう言いたくなるのもわかります」と平身低頭する。
「僕がこんな非科学的なことを考えるのにも根拠がありまして……」
「……アンタ、ほかにやることがないのか?」
習一は興味がわかず、横になった。この態度は座位をとるのがむずかしい者をのぞき、他人と会話をする際には推奨されない。習一の不遜さを目の当たりにした医者が話をあきらめるかと思ったが、医者は席を立たない。
「その態勢でいいです。僕の話を聞いていてください」
医者がめげずに話をつづける。習一は先日、自分が他者に説明を省かせたせいでのちのち不便が発生した経験を思い出し、天井を見続けながら傾聴した。
去年、若い医者の友人は交通事故に巻きこまれ、落命してもおかしくない被害に遭った。事故当時、友人は不思議な声を聞いた。その声は死の淵にいる者を救おうとし、「生きたいと願え」という一風変わった要求をしてきた。友人は必死に生を願い、そのおかげなのか重傷を負ったものの命だけは助かった。のちに友人はこの病院で治療を受け、入院生活でも不思議な現象に遭遇した。友人が入室した病棟の患者たちがたびたび朝寝坊をするようになったのだ。そういった日の夜中、友人は何者かが自身の体に触れてくるのを感じた。ある夜、友人はその何者かを捕まえ、相手が女性だと判明した。女性はすぐに逃げてしまい、その後は病院に現れず、患者らの寝坊はもともと寝すぎる者以外、おさまったという。
「他人の健康状態や生命力を左右できる存在がいるのかもしれないと……友人の話を聞いて、考えるようになりました。だから警察官さんがあなたを目覚めさせると言ったとき、僕はその言葉を信じられたんです」
若い医者が露木の要請を快諾できた背景が知れた。当事者が知っておく意義はある内容だとわかり、習一はなおも耳を傾けた。
「あなたは不思議な力をもっただれかのせいで、長く眠らされていたんだと思います」
「朝寝坊してた連中の、もっと重たいバージョンの呪いがオレにかかってたと?」
習一が話者の言わんとすることをさきにのべた。青年は「そんな感じです」と習一の予想に同調する。
「これは僕の想像なので、信じてくれなくてもいいです。でも僕らのまわりには奇妙な生き物が隠れている……その可能性をあなたには知っておいてほしかったんです」
「知って、オレにどうしろって?」
「覚悟……まではしなくていいですが、そういう非科学的なことが起きうると考えておいたらいいと思います。僕の場合、そのおかげであなたの回復の手助けができましたし」
物事に対して柔軟そうな医者とて、事前情報なしでは、警官が不治の患者を治すとの申し出は了承しにくかったらしい。その実体験をもとの助言だと習一は納得した。しかし奇怪な出来事に何回も関わるものだろうか、と習一は確率の低さをかんがみ、あまり気に留めないでおいた。
言いたかったことを言えた医者は席を立つ。彼の退室を習一は臥床したまま見送ろうとした。しかし医者は足を止めている。
「そうそう、さっきは『この話を言いふらさないで』とは言いましたけど、言ってもいい人がいます。僕の友人と、友人の話をよく聞いていた小山田さんです」
小山田といえば習一が看護師から連絡先を教えてもらった女子の名前である。
「あなたは小山田さんとなら話せますよね」
「ああ、オレはアンタの友だちがどんなやつだか知らないしな」
「もし僕の友人に会いたいなら僕がたのんでおきますけど」
「いや、いい。そいつよりは小山田のほうが、オレの知りたいことをたくさん聞き出せる気がする」
その予測は医者も同じだったようで、青年はあっさり引き下がる。伝えうる情報を伝えきったらしい医者が退室していった。
習一はひとりになる。ふたたび寝そべり、医者の医者らしからぬ幻想的な予見を反芻する。
(奇妙なこと……もうあったな)
いまの習一が認識する範囲内でも、不可思議なことが二つ起きている。ひとつは不可解な長いねむりから目覚めたこと、もうひとつは習一の記憶が部分的に消されたことである。しかもその記憶をもとにもどせると露木は言い、そのために習一は今後しばらく銀髪の教師と同行することになった。
(記憶を消すのももどすのも、どういう理屈なんだか……)
その疑問は習一の知識では仮説の立てようがない。徒労におわる思考に区切りをつけ、習一は確実に見返りのある体力づくりをしに病室を出た。
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