新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2020年03月08日
習一篇−2章3
習一は薄くてかるい布団で自分の視界をおおっていた。徐々に寝苦しくなり、布団をかぶってから数分も立たないうちに布団をどける。
(あー、むしゃくしゃする)
だれへ向けた怒りなのかわからない感情に突きうごかされ、体を起こす。起きてみると気分転換によい道具が手近なところにあった。教師が習一のためにのこした電子端末である。
(……中身、見てみるか)
習一は自分がつっぱねた相手の厚意に甘えることにわずかな歯がゆさを感じつつも、面白そうな遊び道具を手に取る。
(これはあいつのものなのか……?)
教師は習一と円滑な交流ができるよう、入院生活で暇を持てあます患者がよろこぶ機器を貸与した。習一に対するご機嫌取りの結果だ。しかしこれが教師の私物とはかぎらない。彼のほかにも習一を支援したがる存在がいる。あの掴みどころのない警官である。彼が気を利かせて、自身の持ちものを教師にもたせた線もある。
習一はノートサイズの端末を操作し、収録されているデータを点検した。所有者の個性が反映されやすいデータというと、まっさきに写真を思いつく。
(ふつうは写真を消してから渡してきそうだが……)
赤の他人に私生活をのぞかれるのは恥ずかしいことである。プライバシーの侵害になりうるデータは削除されて当然であり、その最たるものが写真である。ところが習一の予想とは裏腹に、端末には写真の画像データが入っていた。画面いっぱいに表示していくと、保存されている画像のおもな被写体は動物だと知れた。白黒で毛足の長い犬が寝転ぶ姿や、その犬の胴体にちいさな男の子が抱きつく様子のほか、塀の上をあるく猫、フェンスに留まる鳥など。ほのぼのとした画像群だ。
この写真はあの教師が撮影したのか、べつのだれかが撮影したのかは、習一には判断できない。いま推測できることは──
(あいつは動物が好きなのか?)
習一はその可能性を意外に感じた。教師の外見は素行がわるそうであり、反対に内面は生真面目そうであったが、獣を愛する要素は微塵も伝わらなかった。
(どういうつもりでこの写真を入れてんのか、こんど聞いてみるか)
その問答はこの端末の所有者をあきらかにする効果もある。所有者および教師の嗜好を知って得をすることは特にないだろうが、習一は自分が気になった質問を頭の隅に置いておいた。
習一は次々に動物画像を切り替えていき、最後の画像までまんべんなく閲覧した。やはり一貫して動物を写しとった画像群である。わざわざそんな確認をする自分に、我ながらすこしおどろいた。
習一は自分のことを動物好きだとは思っていない。動物の写真を見て悦に入る経験がなかったため、こんなに集中して動物を見れる性分ではないと考えていた。
(動物がきらい、というわけでもないが)
そもそもが動物を見たり触れたりする機会がほとんどない。そのせいで動物への好悪の情が自覚できていなかった。その原因は動物嫌いの父である。
父は実物の獣はおろか、写真や映像の動物さえ視界から排除させたがった。それゆえ動物の映像番組は父がいるまえでは見れなかったし、学校指定の形式のノートに動物が表紙を飾るときは習一が父に隠れてノートを使った。母が子に教養のための図鑑を買い与えようとしたときも、動物園で観察できるような生き物の解説本は候補にあげなかった。動物の本が家にあることが父にバレればとがめられる、と母がおそれたからだろう。当然家では動物を飼ったことはなく、習一がかよった幼稚園や学校でも動物の飼育活動がなかった影響で、習一は動物に関する知識や体験がとぼしくなった。
動物を飼いたい、と主張することも習一はしなかった。それは願ってはいけないことだと明確にわかる出来事が幼少期に起きた。習一がはじめて就学する前後のこと、自宅の庭に人をおそれない猫がやってきたことがある。好奇心の強い習一は妹とともにその猫とたわむれた。猫は手加減の下手な妹が力強くなでても逃げない、人好きな性格だった。そのおおらかさを習一は気に入ったおぼえがある。猫は幼い兄妹に友好的だったが、いきなり全速力で遁走した。父が大声で兄妹を叱ったせいである。
父は子らが野良猫とふれあったことを憤慨し、兄妹に手洗いとうがいと全身の着替えまで命じた。父にとって動物は穢れそのもののようで、溺愛する娘にさえきつく叱り、今後こんなことがないようにと兄妹に言いつけた。当時の習一は従順な少年であったので、父の教えを絶対視した。その事件を機に、習一は動物に関心を寄せないようすごしてきた。だが現在の習一は父を敵視しており、その教えを守る動機はもはやなくなっている。
(家に動物をあがりこませるのも、いいイヤがらせになるか?)
母と妹は動物に苦手意識がないため、そちらへの直接的な被害はない。だがもし獣が家じゅうを徘徊したら、父は動物の追放と掃除を家族にさせるかもしれない。それでは無関係な母たちに迷惑がかかる。それゆえこの案は棄却した。
(動物はもういいな。ほかになんかたのしめるもんがないか?)
習一は端末の所有者特定を保留し、好奇心のままに画像以外のデータを見物する。そのうちに病室に看護師がやってきた。習一は接点をもっていなかった、若そうな女性である。どうやら点滴のパックの交換をしにきたようだ。習一はやはりまだ自分の点滴が外されないのだとすこしがっかりした。しかし交換作業をする看護師は「明日の午前中に外していいみたいです」と言い、そして点滴が外されたあとの入浴はどうかとすすめてきた。習一は自分の要求が通ったことをよろこぶ一方、入浴という行為に引っ掛かる。
(風呂……入れてなかったんだよな?)
習一はひと月ばかし昏睡状態でいた、と周囲の大人たちは言う。その間、入浴はできていない。しかしいまの自分の体臭が気にならなかった。昏睡のタイミングは気候が蒸し暑くなる時期の夜、しかも野外にいたときだったそうだから、その日はきっと体を洗えていない。以後の意識のない間はずっと寝たきりでいたはずなのに──と思うと、急に羞恥心が活発になる仮説に気づく。
(まさか……看護師連中に体を洗われてた?)
院内は不衛生が厳禁な場所ゆえに現実味のある可能性だ。看護師というと女性の比率が高い職業であり、現に習一が見かける看護師も女性ばかりなのを考慮すると、異性に裸を見られていたということになる。
(医者もやられたらはずかしいこと……)
習一の担当医師ではない若い医者が、そのような治療を習一が受けていたと話したことがある。詳細は習一の精神衛生のために伏せられた。その配慮がここで無に帰すのを、薄い布団を頭まで被りながらこらえた。
(あー、むしゃくしゃする)
だれへ向けた怒りなのかわからない感情に突きうごかされ、体を起こす。起きてみると気分転換によい道具が手近なところにあった。教師が習一のためにのこした電子端末である。
(……中身、見てみるか)
習一は自分がつっぱねた相手の厚意に甘えることにわずかな歯がゆさを感じつつも、面白そうな遊び道具を手に取る。
(これはあいつのものなのか……?)
教師は習一と円滑な交流ができるよう、入院生活で暇を持てあます患者がよろこぶ機器を貸与した。習一に対するご機嫌取りの結果だ。しかしこれが教師の私物とはかぎらない。彼のほかにも習一を支援したがる存在がいる。あの掴みどころのない警官である。彼が気を利かせて、自身の持ちものを教師にもたせた線もある。
習一はノートサイズの端末を操作し、収録されているデータを点検した。所有者の個性が反映されやすいデータというと、まっさきに写真を思いつく。
(ふつうは写真を消してから渡してきそうだが……)
赤の他人に私生活をのぞかれるのは恥ずかしいことである。プライバシーの侵害になりうるデータは削除されて当然であり、その最たるものが写真である。ところが習一の予想とは裏腹に、端末には写真の画像データが入っていた。画面いっぱいに表示していくと、保存されている画像のおもな被写体は動物だと知れた。白黒で毛足の長い犬が寝転ぶ姿や、その犬の胴体にちいさな男の子が抱きつく様子のほか、塀の上をあるく猫、フェンスに留まる鳥など。ほのぼのとした画像群だ。
この写真はあの教師が撮影したのか、べつのだれかが撮影したのかは、習一には判断できない。いま推測できることは──
(あいつは動物が好きなのか?)
習一はその可能性を意外に感じた。教師の外見は素行がわるそうであり、反対に内面は生真面目そうであったが、獣を愛する要素は微塵も伝わらなかった。
(どういうつもりでこの写真を入れてんのか、こんど聞いてみるか)
その問答はこの端末の所有者をあきらかにする効果もある。所有者および教師の嗜好を知って得をすることは特にないだろうが、習一は自分が気になった質問を頭の隅に置いておいた。
習一は次々に動物画像を切り替えていき、最後の画像までまんべんなく閲覧した。やはり一貫して動物を写しとった画像群である。わざわざそんな確認をする自分に、我ながらすこしおどろいた。
習一は自分のことを動物好きだとは思っていない。動物の写真を見て悦に入る経験がなかったため、こんなに集中して動物を見れる性分ではないと考えていた。
(動物がきらい、というわけでもないが)
そもそもが動物を見たり触れたりする機会がほとんどない。そのせいで動物への好悪の情が自覚できていなかった。その原因は動物嫌いの父である。
父は実物の獣はおろか、写真や映像の動物さえ視界から排除させたがった。それゆえ動物の映像番組は父がいるまえでは見れなかったし、学校指定の形式のノートに動物が表紙を飾るときは習一が父に隠れてノートを使った。母が子に教養のための図鑑を買い与えようとしたときも、動物園で観察できるような生き物の解説本は候補にあげなかった。動物の本が家にあることが父にバレればとがめられる、と母がおそれたからだろう。当然家では動物を飼ったことはなく、習一がかよった幼稚園や学校でも動物の飼育活動がなかった影響で、習一は動物に関する知識や体験がとぼしくなった。
動物を飼いたい、と主張することも習一はしなかった。それは願ってはいけないことだと明確にわかる出来事が幼少期に起きた。習一がはじめて就学する前後のこと、自宅の庭に人をおそれない猫がやってきたことがある。好奇心の強い習一は妹とともにその猫とたわむれた。猫は手加減の下手な妹が力強くなでても逃げない、人好きな性格だった。そのおおらかさを習一は気に入ったおぼえがある。猫は幼い兄妹に友好的だったが、いきなり全速力で遁走した。父が大声で兄妹を叱ったせいである。
父は子らが野良猫とふれあったことを憤慨し、兄妹に手洗いとうがいと全身の着替えまで命じた。父にとって動物は穢れそのもののようで、溺愛する娘にさえきつく叱り、今後こんなことがないようにと兄妹に言いつけた。当時の習一は従順な少年であったので、父の教えを絶対視した。その事件を機に、習一は動物に関心を寄せないようすごしてきた。だが現在の習一は父を敵視しており、その教えを守る動機はもはやなくなっている。
(家に動物をあがりこませるのも、いいイヤがらせになるか?)
母と妹は動物に苦手意識がないため、そちらへの直接的な被害はない。だがもし獣が家じゅうを徘徊したら、父は動物の追放と掃除を家族にさせるかもしれない。それでは無関係な母たちに迷惑がかかる。それゆえこの案は棄却した。
(動物はもういいな。ほかになんかたのしめるもんがないか?)
習一は端末の所有者特定を保留し、好奇心のままに画像以外のデータを見物する。そのうちに病室に看護師がやってきた。習一は接点をもっていなかった、若そうな女性である。どうやら点滴のパックの交換をしにきたようだ。習一はやはりまだ自分の点滴が外されないのだとすこしがっかりした。しかし交換作業をする看護師は「明日の午前中に外していいみたいです」と言い、そして点滴が外されたあとの入浴はどうかとすすめてきた。習一は自分の要求が通ったことをよろこぶ一方、入浴という行為に引っ掛かる。
(風呂……入れてなかったんだよな?)
習一はひと月ばかし昏睡状態でいた、と周囲の大人たちは言う。その間、入浴はできていない。しかしいまの自分の体臭が気にならなかった。昏睡のタイミングは気候が蒸し暑くなる時期の夜、しかも野外にいたときだったそうだから、その日はきっと体を洗えていない。以後の意識のない間はずっと寝たきりでいたはずなのに──と思うと、急に羞恥心が活発になる仮説に気づく。
(まさか……看護師連中に体を洗われてた?)
院内は不衛生が厳禁な場所ゆえに現実味のある可能性だ。看護師というと女性の比率が高い職業であり、現に習一が見かける看護師も女性ばかりなのを考慮すると、異性に裸を見られていたということになる。
(医者もやられたらはずかしいこと……)
習一の担当医師ではない若い医者が、そのような治療を習一が受けていたと話したことがある。詳細は習一の精神衛生のために伏せられた。その配慮がここで無に帰すのを、薄い布団を頭まで被りながらこらえた。
タグ:習一
2020年02月29日
習一篇−2章2
習一は教師がもってきた端末をさっそく操作してみようと手をのばした。だが物でいいように操れる男児だと見做されるのが不服だ。教師が去ったあとで操作しようと思い、まずは教師との話をおわらせようと思った。
教師は黄色のサングラスをかけた双眼で、点滴を見上げる。
「まだ点滴が取れないのですね」
習一も自分の腕から管でつながる容器を見る。
「これは栄養剤なんだとよ」
「食事では充分な栄養が摂れませんか」
「そうらしい」
「元気になるのには時間がかかりそうですね」
黒シャツを着た教師は習一の体調を気遣ってきた。習一は趣旨を話さない訪問者にいらだちを感じてくる。
「なあ、世間話はどうでもいいんだよ」
教師は習一の顔を見て「ではすこし確認しますが」と言う。
「私の名前は申し上げましたね」
「ああ、なんか言ってたな」
習一は彼が母親に自己紹介をしたのを見聞きしていたが、真剣には聞いていない。
「アンタの名前がなんだろうとオレは『アンタ』としかよばねえぞ」
「私の名前を呼ばないのは貴方の自由ですが、私の呼び名は知っておいてください。今後のやり取りに支障が出ます」
「オレはアンタと一緒に行動するとは決めてないんだぞ」
習一は意地悪く言い返した。教師が閉口するかと思いきや、彼は顔色を変えずに「そうでしたね」と簡単に折れる。
「ではこたびの面会に関わらない説明は不十分なままにしておきましょう。それが貴方の希望のようですし」
開き直りともとれるセリフであったが、教師の声色に変化はない。嫌味でもなんでもなく、それが心のままに出た言葉らしい。
「貴方が部分的に失くした記憶の復元をするために、私と行動する件の詳細ですが──」
教師がやっと主題に入る。習一は「具体的になにをやる?」と返答の範囲をせばめた。
「私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりでして、その補填となる追試か補習を受けてもらいたいと思います」
習一は困惑した。この男は習一の学校の教師ではない。その提案内容は本来、習一の担任がうながすことだ。よその教師がよその生徒の学校生活を案じるべき道理はない。
「貴方は不可抗力で試験を受けられなかった生徒です。きっと雒英《らくえい》の先生方の温情に期待できます」
「待ってくれ、アンタはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「ええ、主たる目的ではありません。私たちが一緒にいれば貴方の記憶がもどるそうですから、そのついでです」
「だからって、なんでそんなめんどくせーことを……」
「それとも、こんな気心の知れない男と二人きりで夏のバカンスを楽しみたいですか?」
夏のバカンスを楽しむ──習一はこの教師が水着を着て、浜辺でくつろぐ様子がパっと頭にうかんだ。色黒かつサングラスを常用する彼なら夏の海が似合いそうではある。だがそんな光景を習一が見たいかと言えば、断固としてノーである。
「それはイヤだ……」
「そう思ってもらえて安心しました」
行楽は教師にとっても避けたい行動計画だという。習一はその根拠を、問題児の監督がむずかしくなるせいか、と思った。まだ学校という範囲のせまい領域に習一をしばりつけておけばこの教師が楽をできる、と。
「私は遊び方をよく知らないので遊楽の期待にはそえかねます」
「なんだよ、アンタは仕事人間なのか?」
「ええ、そういったところです」
教師は遊びの経験不足ゆえに渋っているらしい。アウトローじみた見た目とはちがってかなり真面目な大人のようだ。習一は外見との差異のせいで素直に信じられない。
「そんな黒シャツを着てて、サングラスをかけてるやつがか?」
「ほう、このファッションをする人には遊び人が多いと」
「遊び人つうか……」
女性に金を貢がせる職業の人がよくやりそうな恰好だ、と習一はテレビや創作の世界で知ったイメージをもとに思った。だが実態は知らない。そのため無難に「フツーの社会人はしない格好だろうな」と答えた。また、この教師の名乗った名前が西洋風だったのを考えると、自身の抱えるステレオタイプは日本独自のものかもしれないと考え直す。
「外国じゃどうだか知らないが……格好の話はいい。アンタなんかに復学の手伝いができるのか?」
「交渉してみます」
習一の学校は保守的な体制である。前例のない申し出を受け入れるとは考えにくかった。
「あそこの教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう」
教師は習一に所属をおとしめられたというのに、その批判を物ともしない宣言をしだす。
「雒英高校の方々が私の申し出をこばめば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。もし了承されたら、貴方は私の指示にしたがって、復学の準備をする。これでいかがです?」
成否の二パターンの結果を提示してきた。これはつまり──
「賭ける気か?」
「はい」
提案者は真顔で即答した。自信があるのかないのか、習一には読めない。学校の内情を知る習一も結果がどう転ぶかはなんとも言えなかった。あの学校にはすくなからず心ある教師は在席する。運よくその教師が事をすすめてくれれば達成できる可能性はあった。だが達成できたとしても、この異国風の男がほかの教師陣に白い目で見られるのは明白だ。
「いいぜ、やってみればいい」
習一は教師の挑戦を鼻で笑う。
「どのみち、あんたは恥をかくぞ」
「はい、これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のごとく流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。なのにこの男は自己のプライドは気に留めないらしい。
「私から伝えたいことは以上です。ほかに聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。それを質問の意図なし、と教師は判断する。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい、せっかちな男たちだと習一は思った。とっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか?」
「はい、何度か貴方と会っています」
「いつ会った?」
「その詳細は後日、貴方の記憶が復活したときに話しましょう」
習一がうっかり「そうか」と引き下がりかけたくらいに、教師は自然体で返答を濁した。教師がみずから質問を受け付けると言ったそばからこれである。習一は彼の二枚舌ぶりに不快感を吐露する。
「オレに質問をさせたくせに、答えられてねえな」
「はい。いまの私から言う意義はないかと思います」
「あんたのことを聞いてんのに、あんたが答えるべきじゃないってのか?」
「おっしゃるとおりです」
人を食ったような応答だ。習一はだんだん、この男が外面がよいだけの軽薄野郎の疑いが湧いてくる。
「オレをおちょくってんのか?」
「いえ、答えられる質問には答えるつもりでした。貴方を不快にさせたいとは思っていません」
教師は習一から視線を外して、眉を落とす。
「回答をこばむかわりと言ってはなんですが、貴方は快適な環境づくりに努めてください。それがいま、貴方にもっとも必要なことです」
この教師は無理難題な努力をすすめてきた。それができていれば不良に身をやつしていないのに、と習一は彼の無理解をさとる。
「とっとと帰れ」
習一はそっぽを向いた。これが拒絶の意思表示だ。この場で暴れる体力も、口論を発展させる気力も、現在の習一にはなかった。
銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一はすぐに臥床する。寒くもないのに、掛け布団を頭から足先まですっぽりかぶった。
教師は黄色のサングラスをかけた双眼で、点滴を見上げる。
「まだ点滴が取れないのですね」
習一も自分の腕から管でつながる容器を見る。
「これは栄養剤なんだとよ」
「食事では充分な栄養が摂れませんか」
「そうらしい」
「元気になるのには時間がかかりそうですね」
黒シャツを着た教師は習一の体調を気遣ってきた。習一は趣旨を話さない訪問者にいらだちを感じてくる。
「なあ、世間話はどうでもいいんだよ」
教師は習一の顔を見て「ではすこし確認しますが」と言う。
「私の名前は申し上げましたね」
「ああ、なんか言ってたな」
習一は彼が母親に自己紹介をしたのを見聞きしていたが、真剣には聞いていない。
「アンタの名前がなんだろうとオレは『アンタ』としかよばねえぞ」
「私の名前を呼ばないのは貴方の自由ですが、私の呼び名は知っておいてください。今後のやり取りに支障が出ます」
「オレはアンタと一緒に行動するとは決めてないんだぞ」
習一は意地悪く言い返した。教師が閉口するかと思いきや、彼は顔色を変えずに「そうでしたね」と簡単に折れる。
「ではこたびの面会に関わらない説明は不十分なままにしておきましょう。それが貴方の希望のようですし」
開き直りともとれるセリフであったが、教師の声色に変化はない。嫌味でもなんでもなく、それが心のままに出た言葉らしい。
「貴方が部分的に失くした記憶の復元をするために、私と行動する件の詳細ですが──」
教師がやっと主題に入る。習一は「具体的になにをやる?」と返答の範囲をせばめた。
「私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりでして、その補填となる追試か補習を受けてもらいたいと思います」
習一は困惑した。この男は習一の学校の教師ではない。その提案内容は本来、習一の担任がうながすことだ。よその教師がよその生徒の学校生活を案じるべき道理はない。
「貴方は不可抗力で試験を受けられなかった生徒です。きっと雒英《らくえい》の先生方の温情に期待できます」
「待ってくれ、アンタはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「ええ、主たる目的ではありません。私たちが一緒にいれば貴方の記憶がもどるそうですから、そのついでです」
「だからって、なんでそんなめんどくせーことを……」
「それとも、こんな気心の知れない男と二人きりで夏のバカンスを楽しみたいですか?」
夏のバカンスを楽しむ──習一はこの教師が水着を着て、浜辺でくつろぐ様子がパっと頭にうかんだ。色黒かつサングラスを常用する彼なら夏の海が似合いそうではある。だがそんな光景を習一が見たいかと言えば、断固としてノーである。
「それはイヤだ……」
「そう思ってもらえて安心しました」
行楽は教師にとっても避けたい行動計画だという。習一はその根拠を、問題児の監督がむずかしくなるせいか、と思った。まだ学校という範囲のせまい領域に習一をしばりつけておけばこの教師が楽をできる、と。
「私は遊び方をよく知らないので遊楽の期待にはそえかねます」
「なんだよ、アンタは仕事人間なのか?」
「ええ、そういったところです」
教師は遊びの経験不足ゆえに渋っているらしい。アウトローじみた見た目とはちがってかなり真面目な大人のようだ。習一は外見との差異のせいで素直に信じられない。
「そんな黒シャツを着てて、サングラスをかけてるやつがか?」
「ほう、このファッションをする人には遊び人が多いと」
「遊び人つうか……」
女性に金を貢がせる職業の人がよくやりそうな恰好だ、と習一はテレビや創作の世界で知ったイメージをもとに思った。だが実態は知らない。そのため無難に「フツーの社会人はしない格好だろうな」と答えた。また、この教師の名乗った名前が西洋風だったのを考えると、自身の抱えるステレオタイプは日本独自のものかもしれないと考え直す。
「外国じゃどうだか知らないが……格好の話はいい。アンタなんかに復学の手伝いができるのか?」
「交渉してみます」
習一の学校は保守的な体制である。前例のない申し出を受け入れるとは考えにくかった。
「あそこの教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう」
教師は習一に所属をおとしめられたというのに、その批判を物ともしない宣言をしだす。
「雒英高校の方々が私の申し出をこばめば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。もし了承されたら、貴方は私の指示にしたがって、復学の準備をする。これでいかがです?」
成否の二パターンの結果を提示してきた。これはつまり──
「賭ける気か?」
「はい」
提案者は真顔で即答した。自信があるのかないのか、習一には読めない。学校の内情を知る習一も結果がどう転ぶかはなんとも言えなかった。あの学校にはすくなからず心ある教師は在席する。運よくその教師が事をすすめてくれれば達成できる可能性はあった。だが達成できたとしても、この異国風の男がほかの教師陣に白い目で見られるのは明白だ。
「いいぜ、やってみればいい」
習一は教師の挑戦を鼻で笑う。
「どのみち、あんたは恥をかくぞ」
「はい、これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のごとく流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。なのにこの男は自己のプライドは気に留めないらしい。
「私から伝えたいことは以上です。ほかに聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。それを質問の意図なし、と教師は判断する。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい、せっかちな男たちだと習一は思った。とっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか?」
「はい、何度か貴方と会っています」
「いつ会った?」
「その詳細は後日、貴方の記憶が復活したときに話しましょう」
習一がうっかり「そうか」と引き下がりかけたくらいに、教師は自然体で返答を濁した。教師がみずから質問を受け付けると言ったそばからこれである。習一は彼の二枚舌ぶりに不快感を吐露する。
「オレに質問をさせたくせに、答えられてねえな」
「はい。いまの私から言う意義はないかと思います」
「あんたのことを聞いてんのに、あんたが答えるべきじゃないってのか?」
「おっしゃるとおりです」
人を食ったような応答だ。習一はだんだん、この男が外面がよいだけの軽薄野郎の疑いが湧いてくる。
「オレをおちょくってんのか?」
「いえ、答えられる質問には答えるつもりでした。貴方を不快にさせたいとは思っていません」
教師は習一から視線を外して、眉を落とす。
「回答をこばむかわりと言ってはなんですが、貴方は快適な環境づくりに努めてください。それがいま、貴方にもっとも必要なことです」
この教師は無理難題な努力をすすめてきた。それができていれば不良に身をやつしていないのに、と習一は彼の無理解をさとる。
「とっとと帰れ」
習一はそっぽを向いた。これが拒絶の意思表示だ。この場で暴れる体力も、口論を発展させる気力も、現在の習一にはなかった。
銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一はすぐに臥床する。寒くもないのに、掛け布団を頭から足先まですっぽりかぶった。
タグ:習一