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2020年03月08日

習一篇−2章3

 習一は薄くてかるい布団で自分の視界をおおっていた。徐々に寝苦しくなり、布団をかぶってから数分も立たないうちに布団をどける。
(あー、むしゃくしゃする)
 だれへ向けた怒りなのかわからない感情に突きうごかされ、体を起こす。起きてみると気分転換によい道具が手近なところにあった。教師が習一のためにのこした電子端末である。
(……中身、見てみるか)
 習一は自分がつっぱねた相手の厚意に甘えることにわずかな歯がゆさを感じつつも、面白そうな遊び道具を手に取る。
(これはあいつのものなのか……?)
 教師は習一と円滑な交流ができるよう、入院生活で暇を持てあます患者がよろこぶ機器を貸与した。習一に対するご機嫌取りの結果だ。しかしこれが教師の私物とはかぎらない。彼のほかにも習一を支援したがる存在がいる。あの掴みどころのない警官である。彼が気を利かせて、自身の持ちものを教師にもたせた線もある。
 習一はノートサイズの端末を操作し、収録されているデータを点検した。所有者の個性が反映されやすいデータというと、まっさきに写真を思いつく。
(ふつうは写真を消してから渡してきそうだが……)
 赤の他人に私生活をのぞかれるのは恥ずかしいことである。プライバシーの侵害になりうるデータは削除されて当然であり、その最たるものが写真である。ところが習一の予想とは裏腹に、端末には写真の画像データが入っていた。画面いっぱいに表示していくと、保存されている画像のおもな被写体は動物だと知れた。白黒で毛足の長い犬が寝転ぶ姿や、その犬の胴体にちいさな男の子が抱きつく様子のほか、塀の上をあるく猫、フェンスに留まる鳥など。ほのぼのとした画像群だ。
 この写真はあの教師が撮影したのか、べつのだれかが撮影したのかは、習一には判断できない。いま推測できることは──
(あいつは動物が好きなのか?)
 習一はその可能性を意外に感じた。教師の外見は素行がわるそうであり、反対に内面は生真面目そうであったが、獣を愛する要素は微塵も伝わらなかった。
(どういうつもりでこの写真を入れてんのか、こんど聞いてみるか)
 その問答はこの端末の所有者をあきらかにする効果もある。所有者および教師の嗜好を知って得をすることは特にないだろうが、習一は自分が気になった質問を頭の隅に置いておいた。
 習一は次々に動物画像を切り替えていき、最後の画像までまんべんなく閲覧した。やはり一貫して動物を写しとった画像群である。わざわざそんな確認をする自分に、我ながらすこしおどろいた。
 習一は自分のことを動物好きだとは思っていない。動物の写真を見て悦に入る経験がなかったため、こんなに集中して動物を見れる性分ではないと考えていた。
(動物がきらい、というわけでもないが)
 そもそもが動物を見たり触れたりする機会がほとんどない。そのせいで動物への好悪の情が自覚できていなかった。その原因は動物嫌いの父である。
 父は実物の獣はおろか、写真や映像の動物さえ視界から排除させたがった。それゆえ動物の映像番組は父がいるまえでは見れなかったし、学校指定の形式のノートに動物が表紙を飾るときは習一が父に隠れてノートを使った。母が子に教養のための図鑑を買い与えようとしたときも、動物園で観察できるような生き物の解説本は候補にあげなかった。動物の本が家にあることが父にバレればとがめられる、と母がおそれたからだろう。当然家では動物を飼ったことはなく、習一がかよった幼稚園や学校でも動物の飼育活動がなかった影響で、習一は動物に関する知識や体験がとぼしくなった。
 動物を飼いたい、と主張することも習一はしなかった。それは願ってはいけないことだと明確にわかる出来事が幼少期に起きた。習一がはじめて就学する前後のこと、自宅の庭に人をおそれない猫がやってきたことがある。好奇心の強い習一は妹とともにその猫とたわむれた。猫は手加減の下手な妹が力強くなでても逃げない、人好きな性格だった。そのおおらかさを習一は気に入ったおぼえがある。猫は幼い兄妹に友好的だったが、いきなり全速力で遁走した。父が大声で兄妹を叱ったせいである。
 父は子らが野良猫とふれあったことを憤慨し、兄妹に手洗いとうがいと全身の着替えまで命じた。父にとって動物は穢れそのもののようで、溺愛する娘にさえきつく叱り、今後こんなことがないようにと兄妹に言いつけた。当時の習一は従順な少年であったので、父の教えを絶対視した。その事件を機に、習一は動物に関心を寄せないようすごしてきた。だが現在の習一は父を敵視しており、その教えを守る動機はもはやなくなっている。
(家に動物をあがりこませるのも、いいイヤがらせになるか?)
 母と妹は動物に苦手意識がないため、そちらへの直接的な被害はない。だがもし獣が家じゅうを徘徊したら、父は動物の追放と掃除を家族にさせるかもしれない。それでは無関係な母たちに迷惑がかかる。それゆえこの案は棄却した。
(動物はもういいな。ほかになんかたのしめるもんがないか?)
 習一は端末の所有者特定を保留し、好奇心のままに画像以外のデータを見物する。そのうちに病室に看護師がやってきた。習一は接点をもっていなかった、若そうな女性である。どうやら点滴のパックの交換をしにきたようだ。習一はやはりまだ自分の点滴が外されないのだとすこしがっかりした。しかし交換作業をする看護師は「明日の午前中に外していいみたいです」と言い、そして点滴が外されたあとの入浴はどうかとすすめてきた。習一は自分の要求が通ったことをよろこぶ一方、入浴という行為に引っ掛かる。
(風呂……入れてなかったんだよな?)
 習一はひと月ばかし昏睡状態でいた、と周囲の大人たちは言う。その間、入浴はできていない。しかしいまの自分の体臭が気にならなかった。昏睡のタイミングは気候が蒸し暑くなる時期の夜、しかも野外にいたときだったそうだから、その日はきっと体を洗えていない。以後の意識のない間はずっと寝たきりでいたはずなのに──と思うと、急に羞恥心が活発になる仮説に気づく。
(まさか……看護師連中に体を洗われてた?)
 院内は不衛生が厳禁な場所ゆえに現実味のある可能性だ。看護師というと女性の比率が高い職業であり、現に習一が見かける看護師も女性ばかりなのを考慮すると、異性に裸を見られていたということになる。
(医者もやられたらはずかしいこと……)
 習一の担当医師ではない若い医者が、そのような治療を習一が受けていたと話したことがある。詳細は習一の精神衛生のために伏せられた。その配慮がここで無に帰すのを、薄い布団を頭まで被りながらこらえた。

タグ:習一
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posted by 三利実巳 at 01:50 | Comment(0) | 長編習一 
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