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2020年02月22日
習一篇−2章1
銀髪の教師はひととおりの自己紹介を習一の母に行なった。西洋人らしきフルネームと、才穎高校の教職員という身分と、露木という警官と知り合いであることを述べる。名前以外は習一が事前に知りえていた内容である。
(そういや、名前は聞かなかったな)
別段必要ではない情報だ。習一は彼と親睦を深める意思はない。このへだたりをたもつには相手の名前を呼んではいけないと考えている。ただあの警官は一般的に最優先で伝える事柄を言っていなかったと、いまさらながらに気づいた。
紹介がおわった直後、色黒な教師は自身の黄色のサングラスを習一に向ける。
「私はツユキさんから貴方と今後の話をするよう指示されました。ですが貴方のお母さんにも話してほしいとは依頼されていません」
母に席をはずしてもらうか否か、その判断を教師はあおいでくる。
「私は親御さんがいらっしゃってもかまわないのですが……貴方の意思を尊重します」
教師は習一の決定を優先するという意思表示をした。この発言のおかげで、母が異論をとなえる隙が減る。教師が遠回しに母に釘を差した影響か、母はすこし居心地がわるそうな表情になった。
習一は最初から母に同席させるつもりがない。なので「アンタと二人で話がしたい」と言い張った。教師は「わかりました」と答えると、母の顔を見て、
「ではお母さん、この部屋から離れてもらえますか」
と丁重に退室をもとめた。母はちいさくうなずき、手ぶらで出ていこうとする。母が外出時に持ちあるく鞄は室内に置いていくようだ。つまり子が教師との対談をおえたあとでふたたび病室にくるつもりである。あるいは退室したと見せかけて、立ち聞きをする魂胆かもしれない。
習一は母の行動を見逃さず、「家に帰れ」と要求する。
「今日はもうこなくていい」
教師も母に「そのようにお願いできますか」と習一に加勢した。母は教師にも帰宅をうながされたために、自身の鞄をもって廊下へ出ていった。
習一は母がまことに病室のまえから立ち去ったのかが気になり、出入り口の戸に注目する。引き戸越しに、廊下から聞こえる物音に集中した。すると教師が引き戸を開け、左右を確認する。
「親御さんはちゃんとお帰りになるようですよ」
教師がそう言った直後、開いた戸の奥から足音が聞こえた。その音は遠ざかっていく。きっと母がまだいたのだ。それを教師はやさしい言葉遣いで圧力をかけ、母に帰宅を強制したらしい。その対応は意図したものかそうでないのかを習一は確認しにかかる。
「うちの母親を帰らせてくれたのか」
教師に言動の意図を質問した。長身の教師は引き戸を閉めたのち、「いえ」と否定する。
「親御さんは買い出しのメモを見ているようでした。私が顔を出さなくとも帰るご意思はあったと思います」
教師は母の行動に疑いをもっていない。つまり母への言葉かけには裏の意味がなかったようだ。それでも習一は母への疑心がぬけない。
「メモを見るふりをしながら盗み聞きすることもあるだろ」
「盗み聞き、ですか」
教師はなぜか寝台横の床頭台に注目した。そこには若い医者の遺失物であるペンが置いてある。
「このペン……が気になるか?」
「はい、そういった文具に録音機能をつけたものも出回っていますから」
「録音……」
習一はペンを乱暴につかむ。分解できる部品は分解し、中に機械が入っているかをたしかめた。ペンは筆記機能を果たす部品のみで構成されており、習一は安堵する。
「なんだ、普通のペンか」
習一は無害だとわかったペンの復元をはじめる。そのそばで教師は「それはどなたのものです?」と話をつづけた。
「この病院の医者だろうが……今日はもう家に帰っちまったはずだ」
「どういったいきさつで、ここにお医者さんの私物があるのですか?」
「アンタがくるまえにオレと話してたんだ。そんときにわすれていきやがった」
習一はペンをもとの形にもどした。よく考えてみればあの医者が習一の身辺に興味をもつとは思えず、妙な仕掛けを残していくわけがないと納得する。
「ただのわすれもんに決まってるか……」
「従業員の方に、持ち主へ返してもらうようにたのんでおきましょうか?」
教師が手のひらを上に向け、習一に差し出した。習一は言われるがまま教師にペンを預けようかとした。だが彼の手を見ると、途端に反抗したくなる。理由はよくわからない。なんとなく、彼にしたがいたくないという気持ちが強まったのだ。こういう反骨心は不良少年たる習一にとって、なんらめずらしくないものだ。ただその反抗の裏側に、底の知れない恐怖の存在も感じた。
「……やめとく」
「なぜです?」
「なんていう名前の医者だか知らないし、もしほかのやつに渡して、ペンがだれのもんだかわかんなくなっちまったらまずいだろ」
「では貴方が直接返す、ということでよろしいですね」
「ああ、そうする」
習一はそれらしい理屈をならべて、やりすごした。上半身をかたむけてペンを床頭台へ置き、そこから姿勢をもどす。その間中、どうして自分がこの男におそれをいだくのかを考えてみた。その結果、長身の男がずっとそばで立っているせいだという仮説に落ち着く。
「いいかげんに座れよ。そこに椅子あるだろ」
習一が粗暴に着席をすすめたところ、教師は「お言葉に甘えます」とまるで厚意に感謝するような返事をした。
訪問者は備えつけの椅子に静かに座る。黒い鞄を膝のうえにのせ、そこから板状のなにかを取り出す。
「先に渡しておきましょう」
教師はB5サイズほどのタブレット端末を見せる。手帳のようなカバーをつけてあり、大切にされているものらしかった。
「これは貴方に貸します。電子書籍やオフラインで遊べるゲームのデータが入っていますから、退屈しのぎになるかと」
「いいのか?」
「はい。貴方がいらなくなったときに返してください」
教師は端末をベッドテーブルに置いた。習一にはねがってもない物品の支給である。これで消灯時間になって寝つけなくても時間をつぶせる。病院でめざめた初日に、不仲な父の幻影に悩まされた習一にとって、多大な安心感を与えてくれる製品だ。しかし決して安物ではない機器を不良少年に貸与するとは不用心である。
「パクられるとは思わないのか?」
「あまりに返却がおそいときは私が催促します」
教師の目つきが若干きつくなる。
「あげるわけではないので、破損させた場合もそれなりの覚悟をしてくださいね」
脅しめいた忠告をしつつ、端末の充電器も寝台上のテーブルにのせた。習一は教師の前腕の鍛えぶりを見て、この端末は丁寧にあつかったほうがよさそうだと気圧された。
(そういや、名前は聞かなかったな)
別段必要ではない情報だ。習一は彼と親睦を深める意思はない。このへだたりをたもつには相手の名前を呼んではいけないと考えている。ただあの警官は一般的に最優先で伝える事柄を言っていなかったと、いまさらながらに気づいた。
紹介がおわった直後、色黒な教師は自身の黄色のサングラスを習一に向ける。
「私はツユキさんから貴方と今後の話をするよう指示されました。ですが貴方のお母さんにも話してほしいとは依頼されていません」
母に席をはずしてもらうか否か、その判断を教師はあおいでくる。
「私は親御さんがいらっしゃってもかまわないのですが……貴方の意思を尊重します」
教師は習一の決定を優先するという意思表示をした。この発言のおかげで、母が異論をとなえる隙が減る。教師が遠回しに母に釘を差した影響か、母はすこし居心地がわるそうな表情になった。
習一は最初から母に同席させるつもりがない。なので「アンタと二人で話がしたい」と言い張った。教師は「わかりました」と答えると、母の顔を見て、
「ではお母さん、この部屋から離れてもらえますか」
と丁重に退室をもとめた。母はちいさくうなずき、手ぶらで出ていこうとする。母が外出時に持ちあるく鞄は室内に置いていくようだ。つまり子が教師との対談をおえたあとでふたたび病室にくるつもりである。あるいは退室したと見せかけて、立ち聞きをする魂胆かもしれない。
習一は母の行動を見逃さず、「家に帰れ」と要求する。
「今日はもうこなくていい」
教師も母に「そのようにお願いできますか」と習一に加勢した。母は教師にも帰宅をうながされたために、自身の鞄をもって廊下へ出ていった。
習一は母がまことに病室のまえから立ち去ったのかが気になり、出入り口の戸に注目する。引き戸越しに、廊下から聞こえる物音に集中した。すると教師が引き戸を開け、左右を確認する。
「親御さんはちゃんとお帰りになるようですよ」
教師がそう言った直後、開いた戸の奥から足音が聞こえた。その音は遠ざかっていく。きっと母がまだいたのだ。それを教師はやさしい言葉遣いで圧力をかけ、母に帰宅を強制したらしい。その対応は意図したものかそうでないのかを習一は確認しにかかる。
「うちの母親を帰らせてくれたのか」
教師に言動の意図を質問した。長身の教師は引き戸を閉めたのち、「いえ」と否定する。
「親御さんは買い出しのメモを見ているようでした。私が顔を出さなくとも帰るご意思はあったと思います」
教師は母の行動に疑いをもっていない。つまり母への言葉かけには裏の意味がなかったようだ。それでも習一は母への疑心がぬけない。
「メモを見るふりをしながら盗み聞きすることもあるだろ」
「盗み聞き、ですか」
教師はなぜか寝台横の床頭台に注目した。そこには若い医者の遺失物であるペンが置いてある。
「このペン……が気になるか?」
「はい、そういった文具に録音機能をつけたものも出回っていますから」
「録音……」
習一はペンを乱暴につかむ。分解できる部品は分解し、中に機械が入っているかをたしかめた。ペンは筆記機能を果たす部品のみで構成されており、習一は安堵する。
「なんだ、普通のペンか」
習一は無害だとわかったペンの復元をはじめる。そのそばで教師は「それはどなたのものです?」と話をつづけた。
「この病院の医者だろうが……今日はもう家に帰っちまったはずだ」
「どういったいきさつで、ここにお医者さんの私物があるのですか?」
「アンタがくるまえにオレと話してたんだ。そんときにわすれていきやがった」
習一はペンをもとの形にもどした。よく考えてみればあの医者が習一の身辺に興味をもつとは思えず、妙な仕掛けを残していくわけがないと納得する。
「ただのわすれもんに決まってるか……」
「従業員の方に、持ち主へ返してもらうようにたのんでおきましょうか?」
教師が手のひらを上に向け、習一に差し出した。習一は言われるがまま教師にペンを預けようかとした。だが彼の手を見ると、途端に反抗したくなる。理由はよくわからない。なんとなく、彼にしたがいたくないという気持ちが強まったのだ。こういう反骨心は不良少年たる習一にとって、なんらめずらしくないものだ。ただその反抗の裏側に、底の知れない恐怖の存在も感じた。
「……やめとく」
「なぜです?」
「なんていう名前の医者だか知らないし、もしほかのやつに渡して、ペンがだれのもんだかわかんなくなっちまったらまずいだろ」
「では貴方が直接返す、ということでよろしいですね」
「ああ、そうする」
習一はそれらしい理屈をならべて、やりすごした。上半身をかたむけてペンを床頭台へ置き、そこから姿勢をもどす。その間中、どうして自分がこの男におそれをいだくのかを考えてみた。その結果、長身の男がずっとそばで立っているせいだという仮説に落ち着く。
「いいかげんに座れよ。そこに椅子あるだろ」
習一が粗暴に着席をすすめたところ、教師は「お言葉に甘えます」とまるで厚意に感謝するような返事をした。
訪問者は備えつけの椅子に静かに座る。黒い鞄を膝のうえにのせ、そこから板状のなにかを取り出す。
「先に渡しておきましょう」
教師はB5サイズほどのタブレット端末を見せる。手帳のようなカバーをつけてあり、大切にされているものらしかった。
「これは貴方に貸します。電子書籍やオフラインで遊べるゲームのデータが入っていますから、退屈しのぎになるかと」
「いいのか?」
「はい。貴方がいらなくなったときに返してください」
教師は端末をベッドテーブルに置いた。習一にはねがってもない物品の支給である。これで消灯時間になって寝つけなくても時間をつぶせる。病院でめざめた初日に、不仲な父の幻影に悩まされた習一にとって、多大な安心感を与えてくれる製品だ。しかし決して安物ではない機器を不良少年に貸与するとは不用心である。
「パクられるとは思わないのか?」
「あまりに返却がおそいときは私が催促します」
教師の目つきが若干きつくなる。
「あげるわけではないので、破損させた場合もそれなりの覚悟をしてくださいね」
脅しめいた忠告をしつつ、端末の充電器も寝台上のテーブルにのせた。習一は教師の前腕の鍛えぶりを見て、この端末は丁寧にあつかったほうがよさそうだと気圧された。
タグ:習一
2020年02月17日
習一篇−1章6
私服の医者が去ったあとの室内に、軸の太いペンが一本落ちていた。習一と母の私物ではない。落とし主は状況的に、若い医者の可能性が高い。習一は医者が忘れものを取りにくる未来を見越して、一時的にペンを病室に保管しておくことにした。だがあの医者は今日、休みであったのにもかかわらず職場へやってきたのを考えてみると、たかだかペンひとつのためにもどってくる可能性は低いようにも習一は思った。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
タグ:習一