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2018年03月10日
拓馬篇−4章2 ★
ヤマダを迎えにきた保護者は頭にねずみ色の手ぬぐいを巻いていた。それは彼が飲食店の勤務中によく着用する頭巾だ。
「ノブさん、仕事を抜けてきたのか?」
「ん? ああ、まだ客が入る時間じゃねえ。抜けるってもんでもない」
ノブは快活な笑みを見せた。彼の視線は拓馬からスライドして、銀髪の教師でとまる。
「その髪……あんたがシド先生か。娘から話は聞いてる」
「はい。先日はジャージを貸していただきまして、ありがとうございます」
両者の衣服の貸し借りは先日の体育祭のときに行なわれた。シドは運動着を持たない。そのため彼は普段のスーツ姿で体育祭の予行演習に参加した。それを見たヤマダはシドが不便だろうと思い、自身の父のジャージを貸した。シドとノブは背丈がほぼ同じだったので、そのジャージはシドの体にも合った。
「礼はいいさ。あんなもんじゃ、あんたにかけてる苦労がチャラになりゃしない」
この言葉は、現在進行形で娘が迷惑をかけることを指すように拓馬は聞こえた。婉曲的な謝罪にシドは「承知のうえです」と答える。
「そのために私は雇われたのです。オヤマダさんが気に病む必要はありません」
気にしないでとシドは主張するものの、自身が迷惑を被ったことを肯定する言い方だ。あまりノブへのなぐさめになっていない。実際問題、しなくてもいいことをしでかした生徒を、教師がてずから病院へ移送する事態は、本来の業務外である。それを迷惑でないと断ずるのは空虚なウソになる。これがこの教師なりの誠実さなのだと拓馬は思った。
ノブはシドの言う「承知」の意味に見当がつき、「あんたも災難だな」と言う。
「生徒が藪蛇をつつく連中で、大変だろ?」
「いえ、私がのぞんでやっていることです。不満はありません」
「ずいぶんと人ができてるんだな……」
ノブは率直に感心した。その感想自体はいいのだが、彼はずっと娘をほったらかしにしている。拓馬には常識外れな行動に見えた。
(まずはケガした娘を気にしねえかな……)
この反応には一応の理由がある。ノブは電話口で娘の元気な声を聞いていた。だから被害を軽視するのだろう。しかしずっと雑談ばかりもしていられない。拓馬はノブに本来の目的を告げる。
「ノブさん、早いとこ受付で診察代を払ってくれるか? 受付の人がにらんでるぞ」
本当に受付の職員がノブを見ている。ただ注目の原因はノブの騒がしさにある。彼は声も体も大きい。存在感が強烈なのだ。
ノブは「おう、行ってくる」と応じて、今度は受付の職員に話しかけた。新人教師は本日まみえたヤマダの保護者を見つめる。
「あの方が、オヤマダさんのお父さんですね」
「そうだよ。顔はヤマダと似てるけど、体格と中身はジモンだな」
ノブはジモンの実家の飲食店で勤務している。その影響で、客からはノブがジモンの父だとまちがえられることがあった。二人に共通する特徴は、第一に筋力秀でた身体、第二に豪放磊落な性格。そのうえノブは娘と同世代な男子を実の息子のように目をかけるふしがある。それらノブの特徴は、他人がジモンの親だと勘違いするに足るものだ。そして拓馬自身も、付き合いの長いノブには家族にも似た親愛の情をもっている。
疑似親が病院の職員に「あんがとさん!」と礼を述べた。ノブが拓馬たちのもとに舞いもどってくる。彼はここにきてやっと「最近よく寝るんだよなぁ」と娘に関心をそそぐ。
「それでよ先生、娘はなんともないんだろ?」
「はい。ですが念のため、今日明日中は安静にするようご配慮をお願いします」
「わかった。母親から言いきかせりゃ、おとなしくするはずだ」
ノブは娘のまえにしゃがむ。娘の顔に手をのばして、頬を左右に引っ張ったりもどしたりする。まるで子どものいたずらのようだ。
「ノブさんは全然、心配してねえのな」
「なんの、平気に決まってるだろ」
ノブが破顔一笑する。
「おれの子どもの中で一番つえー子だからな!」
ヤマダの父親は底抜けに明るく言った。その明るさが逆に、拓馬の同情心を湧かせる。
(ヤマダの兄弟……か)
拓馬は伝聞によってその存在を知っている。この目で見たことはなかった。
ノブは拓馬との雑談を切り上げると、しゃがんだ状態のまま、くるっと背を向ける。彼はヤマダの両腕を自身の両肩に乗せる。
(おぶっていくんだな)
拓馬は移乗の補助をする。ヤマダの上半身を、ノブの背に預けさせる。ヤマダが後方へ倒れてこないよう、その背中を押さえた。
ノブが娘のひざ裏に手をかけたとき、ヤマダの目が開く。彼女は寝起きにぼーっとしやすいことを拓馬は知っていたが、手短に事情を説明する。
「ノブさんが迎えにきた。一緒に帰れよ」
ノブは娘の了承を得るまえにヤマダを担ぎ上げた。寝ぼけるヤマダはノブの背にもたれかかっている。が、急にノブの両肩に手を置き、ぴんと腕を伸ばす。
「ヤだな、先生がいい」
ヤマダは父親を拒絶する。ごねる娘の態度に、ノブはわかりやすい不満顔をつくる。
「ゼータク言うな、ありがたーくオヤジの背中を借りてけ」
「先生は油くさくないんだもん」
ノブの職務上の臭いか加齢臭かはわからぬ体臭を、ヤマダは嫌っているらしい。臭いに心当たりのあるノブは臭気の存在を否定せず、別の観点で反論する。
「だいたいな、先生みたいな立派な男前とちんちくりんなお前じゃ釣り合わねえってもんだ。身のほどをわきまえろ」
「図体がデカイだけの大飯食らいのくせに」
「体が大きいぶん、たくさん食うのはしゃーねえだろ」
「先生は背が高くても、昼飯をコーヒーですます少食派だぞー」
「そういう人は朝飯と夕飯をたーんと食ってんだよ。なぁ先生?」
親子の罵り合いにシドが巻きこまれた。彼は「え?」とかつてないうろたえを見せる。拓馬は助け舟を出すことにした。
「ここは病院だ。親子喧嘩は外でやってくれ」
拓馬は「帰った帰った」と二、三度手をはらう。ノブは「そりゃそうだな」と拓馬の指示にしたがった。ヤマダを背負ったノブが数歩進み、ふいに立ち止まる。
「そういや、先生に聞いておきたいんだが」
ノブが体の向きを変える。シドは「なんでしょう」と聞き返した。
「先生の知り合いに、先生の体をもっと大きくした感じの、若い男はいるか?」
「……存じあげないですね。その男がどうかしましたか」
「そいつの目や髪の色が……先生と似てると思ったんだ。変なことを言ってすまん」
「いえ、お気になさることではありません」
「あと、もうひとつ言いわすれてた。娘たちを守ってくれてありがとな」
ノブは大きく口角をあげてみせたのち、出口へ向かう。彼らが病院を出ていく。あたりは嵐が過ぎ去ったかのごとく静かになった。拓馬たちは次に、拓馬の保護者の来訪を待つ。
拓馬が電話をかけた相手は父親だ。父にとって今日は休日出勤をした代わりの休み。外出の予定はなく、一日家にいるはずだった。それなのに出勤していたノブより出遅れるとは、と父親の鈍くささをうらめしく感じた。
拓馬がひまつぶしに無言の教師を見てみると、彼の黄色いサングラスがないことをあらためて気づいた。取り立てて聞くべきことではないと思いつつも、そこを話の起点とする。
「先生、サングラスはどうしたんだ?」
「慌てていたもので、学校に置いてきました」
「へえ、学校で外すことがあるんだな」
「色ペンを使うときは外しています。使いたい色ペンとちがう色を使うおそれがあるので」
「めんどくさいことやってんな。最初からサングラスなしでもいいんじゃないか?」
ヤマダが収集した話によると、シドのサングラスはコンプレックスを隠すためのものらしい。青い瞳が周囲の奇異の目にさらされるのを、嫌がってのことだとか。拓馬にはそこまで気をつかわなくてよい事柄だと思える。
「先生の目が青いからって、からかったり怖がったりする生徒はいないと思うぞ」
「実はその理由は建前です」
「え、ウソなのか?」
「まったくの嘘でもないのですが、私にこだわりがあるのです」
どんなこだわりだろう、と拓馬は思ったが深追いをやめた。
(俺が聞いていい話じゃなさそうだな)
簡単に他言できることなら建前なぞ用いないはずだ。詮索すると無礼にあたりそうで、拓馬はだまった。
拓馬がなにも言わないでいると、やはりシドも説明を加えなかった。みずから教える気はないらしい。
会話のネタが尽きた拓馬は出入り口の自動扉を見張る。何人かそぞろに出たり入ったりする。そんな中、やっと待ち人らしき中年を発見する。中年は周りをきょろきょろ見ながら歩き、拓馬と視線が合うとまっすぐに近寄ってきた。ノブを見たあとでは貧相な体型に思えるが、十人並みな容姿だ。これが拓馬の父である。
「ごめん、待たせたね」
父は拓馬の額にある、ガーゼの上にそっと手のひらを置く。
「傷は……この一か所ですんだのか」
父の手からじんわりと温かい感触が広がった。拓馬が負傷したとき、父はよく文字通りの手当てをする。原理は不明だが、父がこうやると傷がはやく治るのだ。浅い傷ならば一晩で完治できるほどである。霊視だけの拓馬とはちがい、父はいろいろと器用な能力を持つ人だ。
次に父はシドに深々と頭を下げる。
「先生、お忙しいのに息子を病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」
これが拓馬にとっての常識的な言動だ。
「もう平気ですから、どうかお仕事にもどってください」
お騒がせしてすいませんでした、と父がもう一度シドに頭を下げる。一連の動作中、なぜかシドは返事も身じろぎもしない。茫然自失でいる。傍目にはだれも奇矯なことなどしていないのだが。
「先生? 固まっちゃって、どうしたんだよ」
「え……いえ、すいません」
シドは頭をかるく振る。どうにも反応が変だ。
「今日の私は調子が悪いようです。早々に失礼します」
シドは席を立ち、父に深々と一礼する。そしてこちらの反応を待たずに去った。父はきょとんとした顔をする。
「先生はお疲れなのかね?」
「うーん、いろいろあったし……」
思えばシドがなんでもないことで驚愕するシーンはまえにもあった。ヤマダが彼にあだ名をつけたとき、ただのニックネームだというのに、彼はいまと同じように当惑した。拓馬にはなんでもないことでも、シドの感受性では真新しいものを感じているのだろうか。
「ま、いいや。早いとこ帰ろう」
拓馬は見飽きた広間に別れを告げるべく、父に清算を急かした。財布を広げる父の後ろ姿を見ると、ズボンの尻ポケットからナイロンの袋がはみ出ている。その袋はよく犬の散歩のときに持ち歩くものだ。
(トーマの散歩に行ってたのか)
拓馬が父に連絡をしたとき、父は外出中だった。そこから家へ引き返すロスがあり、病院到着が遅れたのだと拓馬は納得がいった。
「ノブさん、仕事を抜けてきたのか?」
「ん? ああ、まだ客が入る時間じゃねえ。抜けるってもんでもない」
ノブは快活な笑みを見せた。彼の視線は拓馬からスライドして、銀髪の教師でとまる。
「その髪……あんたがシド先生か。娘から話は聞いてる」
「はい。先日はジャージを貸していただきまして、ありがとうございます」
両者の衣服の貸し借りは先日の体育祭のときに行なわれた。シドは運動着を持たない。そのため彼は普段のスーツ姿で体育祭の予行演習に参加した。それを見たヤマダはシドが不便だろうと思い、自身の父のジャージを貸した。シドとノブは背丈がほぼ同じだったので、そのジャージはシドの体にも合った。
「礼はいいさ。あんなもんじゃ、あんたにかけてる苦労がチャラになりゃしない」
この言葉は、現在進行形で娘が迷惑をかけることを指すように拓馬は聞こえた。婉曲的な謝罪にシドは「承知のうえです」と答える。
「そのために私は雇われたのです。オヤマダさんが気に病む必要はありません」
気にしないでとシドは主張するものの、自身が迷惑を被ったことを肯定する言い方だ。あまりノブへのなぐさめになっていない。実際問題、しなくてもいいことをしでかした生徒を、教師がてずから病院へ移送する事態は、本来の業務外である。それを迷惑でないと断ずるのは空虚なウソになる。これがこの教師なりの誠実さなのだと拓馬は思った。
ノブはシドの言う「承知」の意味に見当がつき、「あんたも災難だな」と言う。
「生徒が藪蛇をつつく連中で、大変だろ?」
「いえ、私がのぞんでやっていることです。不満はありません」
「ずいぶんと人ができてるんだな……」
ノブは率直に感心した。その感想自体はいいのだが、彼はずっと娘をほったらかしにしている。拓馬には常識外れな行動に見えた。
(まずはケガした娘を気にしねえかな……)
この反応には一応の理由がある。ノブは電話口で娘の元気な声を聞いていた。だから被害を軽視するのだろう。しかしずっと雑談ばかりもしていられない。拓馬はノブに本来の目的を告げる。
「ノブさん、早いとこ受付で診察代を払ってくれるか? 受付の人がにらんでるぞ」
本当に受付の職員がノブを見ている。ただ注目の原因はノブの騒がしさにある。彼は声も体も大きい。存在感が強烈なのだ。
ノブは「おう、行ってくる」と応じて、今度は受付の職員に話しかけた。新人教師は本日まみえたヤマダの保護者を見つめる。
「あの方が、オヤマダさんのお父さんですね」
「そうだよ。顔はヤマダと似てるけど、体格と中身はジモンだな」
ノブはジモンの実家の飲食店で勤務している。その影響で、客からはノブがジモンの父だとまちがえられることがあった。二人に共通する特徴は、第一に筋力秀でた身体、第二に豪放磊落な性格。そのうえノブは娘と同世代な男子を実の息子のように目をかけるふしがある。それらノブの特徴は、他人がジモンの親だと勘違いするに足るものだ。そして拓馬自身も、付き合いの長いノブには家族にも似た親愛の情をもっている。
疑似親が病院の職員に「あんがとさん!」と礼を述べた。ノブが拓馬たちのもとに舞いもどってくる。彼はここにきてやっと「最近よく寝るんだよなぁ」と娘に関心をそそぐ。
「それでよ先生、娘はなんともないんだろ?」
「はい。ですが念のため、今日明日中は安静にするようご配慮をお願いします」
「わかった。母親から言いきかせりゃ、おとなしくするはずだ」
ノブは娘のまえにしゃがむ。娘の顔に手をのばして、頬を左右に引っ張ったりもどしたりする。まるで子どものいたずらのようだ。
「ノブさんは全然、心配してねえのな」
「なんの、平気に決まってるだろ」
ノブが破顔一笑する。
「おれの子どもの中で一番つえー子だからな!」
ヤマダの父親は底抜けに明るく言った。その明るさが逆に、拓馬の同情心を湧かせる。
(ヤマダの兄弟……か)
拓馬は伝聞によってその存在を知っている。この目で見たことはなかった。
ノブは拓馬との雑談を切り上げると、しゃがんだ状態のまま、くるっと背を向ける。彼はヤマダの両腕を自身の両肩に乗せる。
(おぶっていくんだな)
拓馬は移乗の補助をする。ヤマダの上半身を、ノブの背に預けさせる。ヤマダが後方へ倒れてこないよう、その背中を押さえた。
ノブが娘のひざ裏に手をかけたとき、ヤマダの目が開く。彼女は寝起きにぼーっとしやすいことを拓馬は知っていたが、手短に事情を説明する。
「ノブさんが迎えにきた。一緒に帰れよ」
ノブは娘の了承を得るまえにヤマダを担ぎ上げた。寝ぼけるヤマダはノブの背にもたれかかっている。が、急にノブの両肩に手を置き、ぴんと腕を伸ばす。
「ヤだな、先生がいい」
ヤマダは父親を拒絶する。ごねる娘の態度に、ノブはわかりやすい不満顔をつくる。
「ゼータク言うな、ありがたーくオヤジの背中を借りてけ」
「先生は油くさくないんだもん」
ノブの職務上の臭いか加齢臭かはわからぬ体臭を、ヤマダは嫌っているらしい。臭いに心当たりのあるノブは臭気の存在を否定せず、別の観点で反論する。
「だいたいな、先生みたいな立派な男前とちんちくりんなお前じゃ釣り合わねえってもんだ。身のほどをわきまえろ」
「図体がデカイだけの大飯食らいのくせに」
「体が大きいぶん、たくさん食うのはしゃーねえだろ」
「先生は背が高くても、昼飯をコーヒーですます少食派だぞー」
「そういう人は朝飯と夕飯をたーんと食ってんだよ。なぁ先生?」
親子の罵り合いにシドが巻きこまれた。彼は「え?」とかつてないうろたえを見せる。拓馬は助け舟を出すことにした。
「ここは病院だ。親子喧嘩は外でやってくれ」
拓馬は「帰った帰った」と二、三度手をはらう。ノブは「そりゃそうだな」と拓馬の指示にしたがった。ヤマダを背負ったノブが数歩進み、ふいに立ち止まる。
「そういや、先生に聞いておきたいんだが」
ノブが体の向きを変える。シドは「なんでしょう」と聞き返した。
「先生の知り合いに、先生の体をもっと大きくした感じの、若い男はいるか?」
「……存じあげないですね。その男がどうかしましたか」
「そいつの目や髪の色が……先生と似てると思ったんだ。変なことを言ってすまん」
「いえ、お気になさることではありません」
「あと、もうひとつ言いわすれてた。娘たちを守ってくれてありがとな」
ノブは大きく口角をあげてみせたのち、出口へ向かう。彼らが病院を出ていく。あたりは嵐が過ぎ去ったかのごとく静かになった。拓馬たちは次に、拓馬の保護者の来訪を待つ。
拓馬が電話をかけた相手は父親だ。父にとって今日は休日出勤をした代わりの休み。外出の予定はなく、一日家にいるはずだった。それなのに出勤していたノブより出遅れるとは、と父親の鈍くささをうらめしく感じた。
拓馬がひまつぶしに無言の教師を見てみると、彼の黄色いサングラスがないことをあらためて気づいた。取り立てて聞くべきことではないと思いつつも、そこを話の起点とする。
「先生、サングラスはどうしたんだ?」
「慌てていたもので、学校に置いてきました」
「へえ、学校で外すことがあるんだな」
「色ペンを使うときは外しています。使いたい色ペンとちがう色を使うおそれがあるので」
「めんどくさいことやってんな。最初からサングラスなしでもいいんじゃないか?」
ヤマダが収集した話によると、シドのサングラスはコンプレックスを隠すためのものらしい。青い瞳が周囲の奇異の目にさらされるのを、嫌がってのことだとか。拓馬にはそこまで気をつかわなくてよい事柄だと思える。
「先生の目が青いからって、からかったり怖がったりする生徒はいないと思うぞ」
「実はその理由は建前です」
「え、ウソなのか?」
「まったくの嘘でもないのですが、私にこだわりがあるのです」
どんなこだわりだろう、と拓馬は思ったが深追いをやめた。
(俺が聞いていい話じゃなさそうだな)
簡単に他言できることなら建前なぞ用いないはずだ。詮索すると無礼にあたりそうで、拓馬はだまった。
拓馬がなにも言わないでいると、やはりシドも説明を加えなかった。みずから教える気はないらしい。
会話のネタが尽きた拓馬は出入り口の自動扉を見張る。何人かそぞろに出たり入ったりする。そんな中、やっと待ち人らしき中年を発見する。中年は周りをきょろきょろ見ながら歩き、拓馬と視線が合うとまっすぐに近寄ってきた。ノブを見たあとでは貧相な体型に思えるが、十人並みな容姿だ。これが拓馬の父である。
「ごめん、待たせたね」
父は拓馬の額にある、ガーゼの上にそっと手のひらを置く。
「傷は……この一か所ですんだのか」
父の手からじんわりと温かい感触が広がった。拓馬が負傷したとき、父はよく文字通りの手当てをする。原理は不明だが、父がこうやると傷がはやく治るのだ。浅い傷ならば一晩で完治できるほどである。霊視だけの拓馬とはちがい、父はいろいろと器用な能力を持つ人だ。
次に父はシドに深々と頭を下げる。
「先生、お忙しいのに息子を病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」
これが拓馬にとっての常識的な言動だ。
「もう平気ですから、どうかお仕事にもどってください」
お騒がせしてすいませんでした、と父がもう一度シドに頭を下げる。一連の動作中、なぜかシドは返事も身じろぎもしない。茫然自失でいる。傍目にはだれも奇矯なことなどしていないのだが。
「先生? 固まっちゃって、どうしたんだよ」
「え……いえ、すいません」
シドは頭をかるく振る。どうにも反応が変だ。
「今日の私は調子が悪いようです。早々に失礼します」
シドは席を立ち、父に深々と一礼する。そしてこちらの反応を待たずに去った。父はきょとんとした顔をする。
「先生はお疲れなのかね?」
「うーん、いろいろあったし……」
思えばシドがなんでもないことで驚愕するシーンはまえにもあった。ヤマダが彼にあだ名をつけたとき、ただのニックネームだというのに、彼はいまと同じように当惑した。拓馬にはなんでもないことでも、シドの感受性では真新しいものを感じているのだろうか。
「ま、いいや。早いとこ帰ろう」
拓馬は見飽きた広間に別れを告げるべく、父に清算を急かした。財布を広げる父の後ろ姿を見ると、ズボンの尻ポケットからナイロンの袋がはみ出ている。その袋はよく犬の散歩のときに持ち歩くものだ。
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拓馬が父に連絡をしたとき、父は外出中だった。そこから家へ引き返すロスがあり、病院到着が遅れたのだと拓馬は納得がいった。
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2018年03月07日
拓馬篇−4章1 ★
拓馬は外科の診察を終えた。総合受付前にある、背もたれつきの長椅子に座る。手持無沙汰ゆえ、自身のこめかみに施された処方をさわった。厚みのあるガーゼの上に、つるつるした紙テープが格子状に貼ってある。素人でもできそうな処置だ。医者は看護師が血を拭きとった傷口を見て、軽傷と診断した。そのうえでこの簡素な処置を最善とみなした。
(父さんを呼ばなくてもよかったかな……)
病院へ向かう道中、ヤマダが「保険証を持ってきてもらおう」と言いだし、それぞれの親に連絡をした。拓馬はなりゆきで父に連絡を取ったが、いらぬ心配をかけたという後悔が湧きあがる。また、ほかにも気がかりなことがあった。ヤマダが自身の携帯電話を使用したあと、ずっと眠りこけた。あれは睡眠ではなく、意識を失っていたのではないか。
(どこで聞いたかな……車にぶつかられた人が、見た目の傷はなかったのに急に死んだ話)
その話の人物は、事故直後に病院で治療を受ければ生きのびる可能性があったという。「これぐらい平気」と楽観したがゆえの悲劇だとか。だがそう楽観するのも仕方がないらしい。人間は突然の事故に遭遇すると脳が興奮状態になり、痛覚がにぶることもある。そのときは痛みを感じなくとも、体内では着実に異変が進行し、取り返しのつかない事態におちいる──ヤマダもその危険はあるのだ。
拓馬が冷静に状況整理をしていると廊下の角からシドがあらわれた。彼はまた女子を横抱きで運んでいた。拓馬は互いの状況確認をし、ヤマダは無事だと聞けて、安心した。
シドはヤマダを拓馬の隣に座らせた。彼女の体を支えながら、シド自身も椅子に腰かける。ヤマダはまだ寝ている。彼女のポニーテールの房の中に、黒く丸い物体がこそっと姿を出した。これは拓馬が昔から見える、なんらかの異形だ。ヤマダに憑いているようだが害はなく、拓馬たちは長年放置しつづけた。
「こいつ、ずっと眠りっぱなしだな」
「はい。お疲れなのでしょう」
ヤマダはシドの二の腕にもたれかかる。さながら電車内で居眠りをする乗客のようだ。
(先生、ムリしてるんじゃないのか?)
家族や親友を枕がわりにするのはいい。だが他人に甘える行為を続けさせてよいのか。そう思った拓馬は「いい加減起こしたら?」と提案した。シドは首を横に振る。
「私はこのままでかまいません」
「無事なやつを甘やかさなくたって……」
「危険な思いをしたのですから、充分に休んでいただきたい」
一番の危険人物が言うセリフか、と拓馬は心中で指摘した。この男はひとりの少年を絞め殺す寸前まで苦しめた。刃物を向けてきた相手とはいえ、過剰防衛に相当する。
(その話、いましとくか)
気乗りしないが、教師の常軌を逸した行動はやはり捨ておけない。二度めがないよう、彼のゆがんだ認識にゆさぶりをかけておく。
「先生はどうしてあの不良を……半殺しの目に遭わせたんだ?」
拓馬は受付を見ながら話す。このときばかりは相手と顔をあわせる度胸がなかった。
「ああいう手合いは執念深いのです。あのまま帰しては貴方たちに仕返しをしてきます」
「それで、あんなに痛めつけたと?」
「はい。報復の意欲をそぐようにしました」
「もし死なせたらどうする?」
「さきほども言いましたが、手加減は心得ています」
確固たる自信を持った返答だ。その自信にふさわしく、シドの武芸の腕前は拓馬を数段しのいでいる。未熟な拓馬が、実力者にけちをつけることはできなかった。
「私は貴方たちに傷ついてほしくありません。それをわかっていただきたい」
その言葉に嘘偽りがないと、拓馬は感じる。
(俺たちの安全を考えて、か……)
良心から出た言動ならばなにをしても良いわけはないが、拓馬は反論の意思がついえた。
しばしの沈黙が続く。拓馬は重い空気のまま親を待つことに耐えられず、雑談をする。
「先生は警備員だったんだってな」
「はい、そうです」
「警備の仕事っつったら、俺がパッと思いつくのはデパートとかマンションの見張り番だ。オッサンか爺ちゃんがよくやってるやつな」
「ええ、中高年の守衛さんは見かけますね」
「でも、先生がしてた仕事はもっと危険なやつじゃないか?」
そう言った直後、拓馬は自分がまた重たい話題をもちかけたことに気付いた。だが後戻りはできない。この機会に質問をしておく。
「人が死なない範囲の手加減を知ってるっていうの、普通の警備員には無い技術だよ」
人がギリギリ生きていられる責苦を熟知するということは、逆説的に人が死ぬ境界線を知っていることにもなる。そんなことを知れる職業には、本当に人が死ぬところに立ち会う仕事内容がふくまれるのだろう。人死にが出る、戦闘技術を要する職種とは──
(軍人とか……殺し屋?)
平和な世界を生きる拓馬には現実味のない職業だ。しかも仮説の二つめに出てきた職業内容は犯罪である。そのような汚れた前職嫌疑をかけてはシドに失礼だ。拓馬はもうすこしマシな職種や話題を考える。
「……エスピーって言ったっけ。偉い人を守る仕事な。先生はそういうのやれるくらい腕が立ちそうだ」
今日のシドの戦いぶりを見て、教師には過ぎた戦闘能力を持つことが顕在化した。今度はそういう流れにもっていく。
「転職するにしても、武道家や警察官でもやっていけそうだ。なんで教師になろうとしたのかわかんねえよ」
シドは返答しない。拓馬は無礼な質問をしたかと不安になる。
「あ、言っとくけど、先生が教師に向かないってわけじゃないからな」
「そうなのですか? 貴方は私に格闘技術を活かす職を勧めたように聞こえましたが」
「そうじゃない。先生は知らないだろうけど、去年、教師になったばっかりのヤス先生と比べりゃ全然ちがうよ」
若手の社会教師は新任当初、見るも無残な授業を行なっていた。緊張のしすぎで声がどもったり、授業の時間配分がうまくいかずに予定した試験の範囲をせばめたりした。これがもし受験勉強にはげむ上級生の受け持ちをしていたなら、大ヒンシュクを買う失敗だ。それでも当人の一生懸命ぶりはみなが認めるところであり、人柄でどうにか今年度の勤務を継続できたような人物である。そういった失態を、シドは一度もやらかしていない。
「ヤス先生は、あれで愛嬌があっていいんだけどさ。シド先生は安心して見ていられる。一学期だけで終わるのはもったいない、と思うくらいだよ」
拓馬はシドと対比する若手教師をおとしめすぎない程度に、シドの指導力を称賛した。その言葉は拓馬の正直な感想だ。急ごしらえの美辞麗句では決してない。
「だからさ、俺は純粋に、先生が教師を目指したわけが気になるんだ」
こういった質問はヤマダが口にしそうなものだ、と拓馬は我ながら思った。拓馬がこれほど他人に関心を示すことはあまりなかった。武芸家のはしくれとして、やはり強者には心惹かれるものがあるのかもしれない。
「たしか先生は今年で二十七歳になると言ったな」
その個人情報は彼の初授業時、シドへの質疑応答のときに彼が答えたことだ。
「その武術はたぶん、教師を目指すよりまえに、身に着いてたもんだろ?」
「それは……そうですね」
「それも、ほんの数年鍛えてとどく域じゃない。幼いときから仕込まれたんだろ?」
拓馬は幼少時から父の希望に沿い、さまざまな武芸に師事した。その師匠たちは達人級の者もいれば素人に毛が生えた程度のうさんくさい者もいたが、拓馬はそれなりに強者を知っているつもりだ。拓馬が知る強者とは、幼少時から武術に慣れ親しんだ者ばかり。
「それだけ強くなるのは大変だったはずだ。で、教師になるときはまた勉強で大変な思いをするじゃないか。そんなことしなくても先生は生きていけるだろうに、なんでまるで正反対な世界に入ったんだ?」
シドは口元を手で覆い、黙考した。拓馬は疑問の補足が出尽くしたので、沈黙が続く。
「……ネギシさんの言う通りです」
ぽつぽつと、独り言のようにシドがしゃべりはじめた。
「私は物心がついたころ、あらゆる武術を学びました。不出来なもので、どれも半端な修練のまま終えます。学ぶのをやめたあと……私にとって争い事は身近な存在になります」
拓馬がはじめて聞いた過去だ。シドは口にあてた手をおろす。
「それが嫌になったのです。これが、私が戦闘にかかわる職業を避ける理由です」
「戦うことが嫌いになったってことか……」
「次の質問は『なぜ就任の条件が厳しい教職をめざしたのか』でしょうか」
「まあそうだけど……でもそれはいいや」
「なぜです?」
「先生は教師に向いてると思うからさ。戦いのがイヤで、ほかの仕事をするとなったら、ほっといても教師になってそうな気がする」
シドは拓馬の言い分に釈然としないようだ。しかし拓馬は彼が腑に落ちる言い方が思いつけない。もっと伝わりやすい言葉を、と考えていると、突然わしわしと頭をなでられる。
「拓馬もケガしちまったのか?」
拓馬はびっくりしたが、その聞きなれた声に安心感をおぼえた。
「男はそれぐらい、わんぱくやってるのがちょうどいいぜ」
ふりむけばヤマダと目鼻立ちが似た、大柄な中年が立っている。目じりがつりあがるせいで性格のキツそうな印象を受ける反面、人懐っこい性格をしていた。彼がヤマダの父だ。シドはこの中年が教え子の親だと察し、頭を深く下げた。
(父さんを呼ばなくてもよかったかな……)
病院へ向かう道中、ヤマダが「保険証を持ってきてもらおう」と言いだし、それぞれの親に連絡をした。拓馬はなりゆきで父に連絡を取ったが、いらぬ心配をかけたという後悔が湧きあがる。また、ほかにも気がかりなことがあった。ヤマダが自身の携帯電話を使用したあと、ずっと眠りこけた。あれは睡眠ではなく、意識を失っていたのではないか。
(どこで聞いたかな……車にぶつかられた人が、見た目の傷はなかったのに急に死んだ話)
その話の人物は、事故直後に病院で治療を受ければ生きのびる可能性があったという。「これぐらい平気」と楽観したがゆえの悲劇だとか。だがそう楽観するのも仕方がないらしい。人間は突然の事故に遭遇すると脳が興奮状態になり、痛覚がにぶることもある。そのときは痛みを感じなくとも、体内では着実に異変が進行し、取り返しのつかない事態におちいる──ヤマダもその危険はあるのだ。
拓馬が冷静に状況整理をしていると廊下の角からシドがあらわれた。彼はまた女子を横抱きで運んでいた。拓馬は互いの状況確認をし、ヤマダは無事だと聞けて、安心した。
シドはヤマダを拓馬の隣に座らせた。彼女の体を支えながら、シド自身も椅子に腰かける。ヤマダはまだ寝ている。彼女のポニーテールの房の中に、黒く丸い物体がこそっと姿を出した。これは拓馬が昔から見える、なんらかの異形だ。ヤマダに憑いているようだが害はなく、拓馬たちは長年放置しつづけた。
「こいつ、ずっと眠りっぱなしだな」
「はい。お疲れなのでしょう」
ヤマダはシドの二の腕にもたれかかる。さながら電車内で居眠りをする乗客のようだ。
(先生、ムリしてるんじゃないのか?)
家族や親友を枕がわりにするのはいい。だが他人に甘える行為を続けさせてよいのか。そう思った拓馬は「いい加減起こしたら?」と提案した。シドは首を横に振る。
「私はこのままでかまいません」
「無事なやつを甘やかさなくたって……」
「危険な思いをしたのですから、充分に休んでいただきたい」
一番の危険人物が言うセリフか、と拓馬は心中で指摘した。この男はひとりの少年を絞め殺す寸前まで苦しめた。刃物を向けてきた相手とはいえ、過剰防衛に相当する。
(その話、いましとくか)
気乗りしないが、教師の常軌を逸した行動はやはり捨ておけない。二度めがないよう、彼のゆがんだ認識にゆさぶりをかけておく。
「先生はどうしてあの不良を……半殺しの目に遭わせたんだ?」
拓馬は受付を見ながら話す。このときばかりは相手と顔をあわせる度胸がなかった。
「ああいう手合いは執念深いのです。あのまま帰しては貴方たちに仕返しをしてきます」
「それで、あんなに痛めつけたと?」
「はい。報復の意欲をそぐようにしました」
「もし死なせたらどうする?」
「さきほども言いましたが、手加減は心得ています」
確固たる自信を持った返答だ。その自信にふさわしく、シドの武芸の腕前は拓馬を数段しのいでいる。未熟な拓馬が、実力者にけちをつけることはできなかった。
「私は貴方たちに傷ついてほしくありません。それをわかっていただきたい」
その言葉に嘘偽りがないと、拓馬は感じる。
(俺たちの安全を考えて、か……)
良心から出た言動ならばなにをしても良いわけはないが、拓馬は反論の意思がついえた。
しばしの沈黙が続く。拓馬は重い空気のまま親を待つことに耐えられず、雑談をする。
「先生は警備員だったんだってな」
「はい、そうです」
「警備の仕事っつったら、俺がパッと思いつくのはデパートとかマンションの見張り番だ。オッサンか爺ちゃんがよくやってるやつな」
「ええ、中高年の守衛さんは見かけますね」
「でも、先生がしてた仕事はもっと危険なやつじゃないか?」
そう言った直後、拓馬は自分がまた重たい話題をもちかけたことに気付いた。だが後戻りはできない。この機会に質問をしておく。
「人が死なない範囲の手加減を知ってるっていうの、普通の警備員には無い技術だよ」
人がギリギリ生きていられる責苦を熟知するということは、逆説的に人が死ぬ境界線を知っていることにもなる。そんなことを知れる職業には、本当に人が死ぬところに立ち会う仕事内容がふくまれるのだろう。人死にが出る、戦闘技術を要する職種とは──
(軍人とか……殺し屋?)
平和な世界を生きる拓馬には現実味のない職業だ。しかも仮説の二つめに出てきた職業内容は犯罪である。そのような汚れた前職嫌疑をかけてはシドに失礼だ。拓馬はもうすこしマシな職種や話題を考える。
「……エスピーって言ったっけ。偉い人を守る仕事な。先生はそういうのやれるくらい腕が立ちそうだ」
今日のシドの戦いぶりを見て、教師には過ぎた戦闘能力を持つことが顕在化した。今度はそういう流れにもっていく。
「転職するにしても、武道家や警察官でもやっていけそうだ。なんで教師になろうとしたのかわかんねえよ」
シドは返答しない。拓馬は無礼な質問をしたかと不安になる。
「あ、言っとくけど、先生が教師に向かないってわけじゃないからな」
「そうなのですか? 貴方は私に格闘技術を活かす職を勧めたように聞こえましたが」
「そうじゃない。先生は知らないだろうけど、去年、教師になったばっかりのヤス先生と比べりゃ全然ちがうよ」
若手の社会教師は新任当初、見るも無残な授業を行なっていた。緊張のしすぎで声がどもったり、授業の時間配分がうまくいかずに予定した試験の範囲をせばめたりした。これがもし受験勉強にはげむ上級生の受け持ちをしていたなら、大ヒンシュクを買う失敗だ。それでも当人の一生懸命ぶりはみなが認めるところであり、人柄でどうにか今年度の勤務を継続できたような人物である。そういった失態を、シドは一度もやらかしていない。
「ヤス先生は、あれで愛嬌があっていいんだけどさ。シド先生は安心して見ていられる。一学期だけで終わるのはもったいない、と思うくらいだよ」
拓馬はシドと対比する若手教師をおとしめすぎない程度に、シドの指導力を称賛した。その言葉は拓馬の正直な感想だ。急ごしらえの美辞麗句では決してない。
「だからさ、俺は純粋に、先生が教師を目指したわけが気になるんだ」
こういった質問はヤマダが口にしそうなものだ、と拓馬は我ながら思った。拓馬がこれほど他人に関心を示すことはあまりなかった。武芸家のはしくれとして、やはり強者には心惹かれるものがあるのかもしれない。
「たしか先生は今年で二十七歳になると言ったな」
その個人情報は彼の初授業時、シドへの質疑応答のときに彼が答えたことだ。
「その武術はたぶん、教師を目指すよりまえに、身に着いてたもんだろ?」
「それは……そうですね」
「それも、ほんの数年鍛えてとどく域じゃない。幼いときから仕込まれたんだろ?」
拓馬は幼少時から父の希望に沿い、さまざまな武芸に師事した。その師匠たちは達人級の者もいれば素人に毛が生えた程度のうさんくさい者もいたが、拓馬はそれなりに強者を知っているつもりだ。拓馬が知る強者とは、幼少時から武術に慣れ親しんだ者ばかり。
「それだけ強くなるのは大変だったはずだ。で、教師になるときはまた勉強で大変な思いをするじゃないか。そんなことしなくても先生は生きていけるだろうに、なんでまるで正反対な世界に入ったんだ?」
シドは口元を手で覆い、黙考した。拓馬は疑問の補足が出尽くしたので、沈黙が続く。
「……ネギシさんの言う通りです」
ぽつぽつと、独り言のようにシドがしゃべりはじめた。
「私は物心がついたころ、あらゆる武術を学びました。不出来なもので、どれも半端な修練のまま終えます。学ぶのをやめたあと……私にとって争い事は身近な存在になります」
拓馬がはじめて聞いた過去だ。シドは口にあてた手をおろす。
「それが嫌になったのです。これが、私が戦闘にかかわる職業を避ける理由です」
「戦うことが嫌いになったってことか……」
「次の質問は『なぜ就任の条件が厳しい教職をめざしたのか』でしょうか」
「まあそうだけど……でもそれはいいや」
「なぜです?」
「先生は教師に向いてると思うからさ。戦いのがイヤで、ほかの仕事をするとなったら、ほっといても教師になってそうな気がする」
シドは拓馬の言い分に釈然としないようだ。しかし拓馬は彼が腑に落ちる言い方が思いつけない。もっと伝わりやすい言葉を、と考えていると、突然わしわしと頭をなでられる。
「拓馬もケガしちまったのか?」
拓馬はびっくりしたが、その聞きなれた声に安心感をおぼえた。
「男はそれぐらい、わんぱくやってるのがちょうどいいぜ」
ふりむけばヤマダと目鼻立ちが似た、大柄な中年が立っている。目じりがつりあがるせいで性格のキツそうな印象を受ける反面、人懐っこい性格をしていた。彼がヤマダの父だ。シドはこの中年が教え子の親だと察し、頭を深く下げた。