2018年09月18日
拓馬篇−終章* ★
拍手が巻きおこった。この拍手は白いシャツを着たスーツ姿の男性に向けられたもの。彼も復職する教師だ。姓を八巻という。彼は去年に重傷を負った影響で長期間のいとまをとっていた。一部の生徒はこの場ではじめての顔あわせとなる。漏れのない紹介を一度にすませるために式典の場で挨拶することになった。
病み上がりの教師が壇を下りた。彼に引き続き、銀髪の男が壇へのぼる。可動式の低い階段をあがった先に演台があり、その後ろに立つ。眼下にたたずむ子どもたちに一礼した。
マイクの角度はまえの使用者が調整したままでちょうどよい。男は演台に両手をつき、演説を始める。
「Hello, everyone!」
表情はきわめてにこやかであるよう心掛けた。その態度は初授業時のものと変わりない。
「My name is Sage Ivan Dale. 私とは一学期にお会いできた方もいらっしゃいますね」
男もまた部分的に生徒と関わった教師だ。この場を借りて自己紹介をする。
「私はもう一度、才穎高校の教師になることができました。このかけがえのない幸運に、皆さんにも天におわす神さまにもお礼を申しあげたい気分です」
こうは言うが、男に神への信仰心があるわけではない。彼は天命──生まれた時から定まった運命──という概念をみとめている。その物の考えを植えつけたのは、この国のすこし昔の時代を生きた女性。その人物の主義主張が男の道徳観にも影響していた。男が主命に疑問を感じるようになったのも、彼女の教えが仁と義をおもんじたことに端を発している。
「楽しい英語の指導ができるよう心を砕いていきますので、どうかお付き合いください」
最低限の話をやりおえた。これで幕引きしてもよかったが、めずらしく魔がさして、私情をまじえた自己紹介もする。
「それと、私には愛称があります。S・I・Dでシド。そう呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が部分的に聞こえた。それは一学期に親しくしていた、義侠心あふれる子たちの声だ。その応答がなによりうれしく、男は自然と笑んだ。
男は自身の呼びかけに反応を示したであろう子どもたちを見た。そのうちのひとりの男子生徒に着目する。その男子は贋物の壇上に立った時に対峙した相手。あまり感情を表に出さない男子に、ささやかな笑みが口元に生まれている。彼の警戒心はすでにない。かつてのおびえた表情は、ニセの学校内だけの悪夢でおわるのだ。
男は演説を終え、会釈をする。会場中に拍手が一斉に起きた。この拍手は男を彼らの同胞として受け入れる合図である。その歓迎は本来不当なもの。男が彼らにちかい見てくれを繕っている成果だ。化けの皮がいつはがれるとも知れないが、いまは装いつづけることを優先する。その行為が、確定された未来へつながると考えた。
壇を下りる男の脳裏にはこの世界にとっての未来人がうかぶ。その者が、男の未来の呼び名を口にしていた。それは男にとっての過去の出来事である。不可思議なことだが、そういうねじれた時間軸の存在はもはや男の驚愕に値しない。むしろ自身の行ないはあらかじめさだまったものだという肯定の指標にさえなっている。
自己決定とは無関係なさだめにあらがう意志はなかった。世界の理にさからいつづけることでまねく結果に興味がないわけでもないが、それ以上に天命が順当に履行されていくのか見届けたい気持ちがまさった。まるで答案の答え合わせをしていくかのような気分だ。こんな気楽な感覚は、この学校へきた当初にはありえなかったことだ。
自身が名乗るべき名を知るときまで、男には即自的な任務遂行がかなわぬことへの背徳心があった。その思いが陰に隠れ、晴れ晴れしい気持ちで歓迎の音を耳にすることができている。
男の胸に、執拗に絡みつく重いしこりはもうない。しかし完全な楽観もしがたい。案内の乏しい行き先に、幸が訪れるか不幸に転落するか。結末の見通しはつかないのだ。不確定だからこそ、その道筋に憂苦は感じなかった。己と同胞、そして主の道が繋がる望みがある。望みが叶えば、多大な恩情をかけてくれた師に報いることもできる。それはきっと、何物にもかえがたい誇りになる。
かつての異界で一度投げられた名を、自身を示す旗として掲げ、シドは歩みはじめた。
病み上がりの教師が壇を下りた。彼に引き続き、銀髪の男が壇へのぼる。可動式の低い階段をあがった先に演台があり、その後ろに立つ。眼下にたたずむ子どもたちに一礼した。
マイクの角度はまえの使用者が調整したままでちょうどよい。男は演台に両手をつき、演説を始める。
「Hello, everyone!」
表情はきわめてにこやかであるよう心掛けた。その態度は初授業時のものと変わりない。
「My name is Sage Ivan Dale. 私とは一学期にお会いできた方もいらっしゃいますね」
男もまた部分的に生徒と関わった教師だ。この場を借りて自己紹介をする。
「私はもう一度、才穎高校の教師になることができました。このかけがえのない幸運に、皆さんにも天におわす神さまにもお礼を申しあげたい気分です」
こうは言うが、男に神への信仰心があるわけではない。彼は天命──生まれた時から定まった運命──という概念をみとめている。その物の考えを植えつけたのは、この国のすこし昔の時代を生きた女性。その人物の主義主張が男の道徳観にも影響していた。男が主命に疑問を感じるようになったのも、彼女の教えが仁と義をおもんじたことに端を発している。
「楽しい英語の指導ができるよう心を砕いていきますので、どうかお付き合いください」
最低限の話をやりおえた。これで幕引きしてもよかったが、めずらしく魔がさして、私情をまじえた自己紹介もする。
「それと、私には愛称があります。S・I・Dでシド。そう呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が部分的に聞こえた。それは一学期に親しくしていた、義侠心あふれる子たちの声だ。その応答がなによりうれしく、男は自然と笑んだ。
男は自身の呼びかけに反応を示したであろう子どもたちを見た。そのうちのひとりの男子生徒に着目する。その男子は贋物の壇上に立った時に対峙した相手。あまり感情を表に出さない男子に、ささやかな笑みが口元に生まれている。彼の警戒心はすでにない。かつてのおびえた表情は、ニセの学校内だけの悪夢でおわるのだ。
男は演説を終え、会釈をする。会場中に拍手が一斉に起きた。この拍手は男を彼らの同胞として受け入れる合図である。その歓迎は本来不当なもの。男が彼らにちかい見てくれを繕っている成果だ。化けの皮がいつはがれるとも知れないが、いまは装いつづけることを優先する。その行為が、確定された未来へつながると考えた。
壇を下りる男の脳裏にはこの世界にとっての未来人がうかぶ。その者が、男の未来の呼び名を口にしていた。それは男にとっての過去の出来事である。不可思議なことだが、そういうねじれた時間軸の存在はもはや男の驚愕に値しない。むしろ自身の行ないはあらかじめさだまったものだという肯定の指標にさえなっている。
自己決定とは無関係なさだめにあらがう意志はなかった。世界の理にさからいつづけることでまねく結果に興味がないわけでもないが、それ以上に天命が順当に履行されていくのか見届けたい気持ちがまさった。まるで答案の答え合わせをしていくかのような気分だ。こんな気楽な感覚は、この学校へきた当初にはありえなかったことだ。
自身が名乗るべき名を知るときまで、男には即自的な任務遂行がかなわぬことへの背徳心があった。その思いが陰に隠れ、晴れ晴れしい気持ちで歓迎の音を耳にすることができている。
男の胸に、執拗に絡みつく重いしこりはもうない。しかし完全な楽観もしがたい。案内の乏しい行き先に、幸が訪れるか不幸に転落するか。結末の見通しはつかないのだ。不確定だからこそ、その道筋に憂苦は感じなかった。己と同胞、そして主の道が繋がる望みがある。望みが叶えば、多大な恩情をかけてくれた師に報いることもできる。それはきっと、何物にもかえがたい誇りになる。
かつての異界で一度投げられた名を、自身を示す旗として掲げ、シドは歩みはじめた。
タグ:拓馬
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