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2018年03月03日
拓馬篇−3章◆ ☆
体育祭が無事に終幕した──とは一部をのぞく生徒の感想だ。体育祭終了後すぐの授業日、気まずい思いをいだく女子が一人で職員室へ向かっている。彼女の目的は教師に貸した運動着を返してもらうことだ。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
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2018年02月28日
拓馬篇−3章4
拓馬は走っていた。学校のトラックを一周半。それが自身に任されたメドレーリレーでの走行距離だ。
このリレーは男女別、学年ごと、かつクラス対抗で行なう。各学年に四クラスあるので、一度に走る生徒は四名。同クラスから四人の選手を選び、一番走者は一周二百メートルあるトラックを半周、二番走者はトラック一周、という具合に走行順によって走る距離が変わる。
拓馬は三番めの走者だ。自分がバトンを受け継いだ時点で、後続との距離はへだたっていた。三郎とジモンがそれだけ引き離したのだ。拓馬が走ることで、他クラスの走者との開きはなお広がる。
(いまのうちに稼いでおかねえと……)
同じ組のアンカーが不安の種だ。四番走者は成石。「いちばん注目を浴びる」という理由で、自己顕示欲のかたまりな男子がアンカーに志願した。勝算度外視なやつだと拓馬はあきれきっている。実際問題、成石はリレーの選手に抜擢しうる速さはあった。しかしトラック二周分という、もっとも長い距離を走るアンカーに最適かというと、自信はなかった。
勝ちにいく役割分担をするとしたら、トリを飾るべきは毎日のように部活で長距離を走る仙谷かジモンだ。拓馬は自身の瞬発力に自負心は持っているが、持久力では剣道部の二人に劣ると思っている。そんな拓馬が三百メートルの走破を担当する理由も、やはり成石にある。
「ぼくの前がデカブツやイケメンじゃ、ぼくがあまり目立てない」
という戦術もへったくれもない意見を反映した結果だ。こんなくだらない発言は無視すればいいものを、ジモンが「じゃあ拓馬が三番かの」と答え、三郎もその前提でみずからの走順を決定した。
(これで負けたら、成石が恥かくだけだ)
拓馬はプラスチック製のバトンを握りしめた。スタート地点に一番乗りで通過する。拓馬のゴールである半周先では、たすきを肩にかけた走者がならんでいた。バトンとたすきの色が合致する者めがけて、拓馬は太ももや前腕を振る。体育祭当日の疲労が蓄積する体に鞭打って、最後の追いこみをかけた。
四人のアンカーのうち、余裕綽々な表情の男子がかるく走りはじめた。そいつに拓馬はバトンと助言を渡す。
「手ぇ、抜くなよ!」
アンカーに速いやつがいる、とは息の乱れのせいで言えなかった。拓馬は肩を上下しつつ、ほかの走者の進路を妨害しないようにトラックの内側へすすんだ。白線の中へ入ると、上空をあおぐ。
「はぁ、しんどいな……」
リレーの前にも拓馬は全力疾走をする競技に出ていた。競技名こそ綱引きだが、特殊なルールがあった。参加者の半数はトラックを四分の三周走ってから綱引きに加わるのだ。その性質上、最初から綱を引く者は動きがにぶいか重量のある者、援軍としてはせ参じる者は力が弱いか足の速い者が多く振り分けられる。拓馬はぶっちぎりの走力ゆえに援軍側にまわっており、そこで己の俊足を観客に見せつけたばかりだった。
(トーマなら、どれだけでも走れるんだろうけど……)
走ることに特化した犬とそうでない人間とでは、体力の消耗の仕方がかなりちがう。オフリードが許可された敷地内に飼い犬を放てば、拓馬はいつも犬に引っかき回された。健康な犬にはかなわぬ体力をなげきつつ、地べたに座ろうとした。
「いい走りだったぞ、タクマ!」
他クラスのアンカーが話しかけてくる。彼は去年、拓馬と同じクラスだった若浜という男子だ。成人に見える風貌だが拓馬たちとは同じ年齢である。
「お前ほどの男ならトモエを任せられるというもの」
トモエとは名木野の下の名前だ。若浜と名木野は幼馴染だという。彼は内気な名木野になにくれと世話を焼いていた。その保護者ぶりゆえに、純愛好きな校長の好みのペアであろうことは想像にかたくない。にもかかわらず今年は別々のクラスになっている。おそらくはリーダーシップをとれる生徒を各クラスに分配した結果だ。彼と仙谷は同じクラスになれない、とヤマダなどは言っている。
「なにを、父親くせーことを……」
会話は続かなかった。次々にバトンがアンカーに渡る。若浜もバトンを受け取る姿勢に入り、最後尾の走者として走った。スタートを切る時点で最下位という状況だ。それでいながら、拓馬は四位が若浜の最終的な順位だとは思わなかった。
(こいつがつえーんだよなぁ)
若浜は陸上部に所属していない。が、リレーでは決まって好成績をあげるのだと名木野が談じていた。ただし純粋な百メートル走では拓馬に分がある。それは体育の授業時の体力測定において明確な数字に出ていた。そのため百メートルより長い距離か、あるいはチームプレー時の責任感が、若浜にとってのベストな走りを生み出すらしかった。
拓馬の予想にたがわず、大人びた同級生はぐんぐん追い上げていった。仲間の遅れを一人で取りもどそうとしているのか、トラックを一周まわったころには現在二位の走者の後ろにせまっていた。
(この調子じゃ、抜かされるか?)
三位と二位の座が交代した直後、歓声が起こった。ほとんどが生徒で占める観客は、もと最下位走者が首位を獲得できるか否かに着目している。その関心が成石にも伝わったらしい。彼はカーブを曲がるついでに直近の後続走者を確認した。そうして「まずい」と言いたげな顔で、スピードをあげた。拓馬は内心、成石が追い抜かれればさぞかし盛り上がるだろう、と不謹慎な考えが浮かんだ。
現実はそんなに刺激的ではなかった。成石が死にもの狂いでラストスパートをかけ、首位独走を維持したまま到着した。その二秒ばかりあとに、会場の注目を集めた走者がゴールする。拓馬はもっぱら若浜に視線をやり、
「すげえな、最下位から二位に上がって!」
と心からの賛辞をのべた。若浜は片手をあげたきり、うつむいて荒い呼吸をくりかえした。そのやり取りがおもしろくないのは成石である。
「ぼくが……きみの、チームメイト、だろ……?」
成石が膝に手をつき、途切れとぎれな声で拓馬にうったえた。彼の不服は拓馬の優先順位にある。ねぎらいの言葉を真っ先にライバルにかけたのを問題視しているのだ。拓馬は成石が話しにくい状況下なのをいいことに、ズバズバ言ってやることにする。
「俺の感想はたぶん、このリレーを見てたみんなが思ってることだぞ」
「ぼくの活躍は……」
「無いも同然だな。つうか、ジモンたちが距離を稼いだおかげの一位だろ?」
チームのがんばりを成石で消費した。その言葉が正確でない可能性を拓馬は感じている。四番走者が成石以外であっても、若浜に食いつかれる走りになっていたかもしれない。しかし、成石があれだけ追い詰められたのだ。言われた本人は否定の余地がないと思ったらしい。がっくり肩を落とした、ように拓馬には見えた。
「なんて、せちがらい……学校だ……」
気落ちしたそぶりがあわれだった。拓馬は一応のなぐさめをかける。
「だけど、三人だけじゃ一位はとれっこねーんだ。……」
いい締めの言葉がうかばない。拓馬は照れくさい謝意を言っておくことにする。
「そこは感謝してる」
相手の反応を見ずに、拓馬は自身の応援席へ向かった。今度は上級生のリレーがはじまる。競技の記録係につかまっている二年のアンカーをこの場に残して、部外者はとっとと退散することにした。
応援席とは教室の椅子をグラウンドへ移動しただけの簡単な座席だ。そこには、生徒がまばらにいた。リレーの次に二人三脚の競技があり、その参加者はすでに待機場所へ行ったようだった。
拓馬は自席にどっかと座る。茶を飲むために椅子の下にある荷物をとろうとしたところ、モコモコとした物体に触れた。見ればそこに猫がいる。黒い縞模様の野良猫だ。
「なんだぁ? こんなとこに──」
「さっきまではきみの椅子に乗ってたよ」
拓馬の後方から話しかけられた。話者は貧相な体型の男子だ。椙守は体操着姿になるといっそう肉付きのわるさが露呈していた。体育祭は彼にとってあまり楽しい行事ではないだろうが、いまは機嫌がよさそうだ。
「お前、この猫をずっと見てたのか?」
「見てたというか……」
椙守の椅子の位置が左右の椅子よりも前進していた。どうやら彼は自席に座りながら拓馬の椅子にいた猫を触っていたようだ。椙守は意外にも猫好きなのでその行為は不思議でなかった。
「じゃあヤマダも猫にかまってたんじゃないか?」
「そうなんだが、急に次の二人三脚に出ることになったんだ」
「だれと?」
「シルバーグレイな先生とだ」
拓馬は選手の待機場所をさがした。教員や放送担当の生徒がすずむテントの横で、複数の男女がかたまっている。そこに立つ全身灰色の教師がもっとも目についた。銀色の髪と、灰色のジャージが同化している。そのとなりにポニーテールの女子もいる。
「え、シド先生と?」
「彼女と組むのは校長の指示だそうだ」
競技には一部、教員も参加する。それは得点にならない、ただのパフォーマンスだ。同行者がだれであってもよいはずなのだが。
「ロコツに仕掛けてくるな、あのハゲめ」
「先生とヤマダは仲がいいから、妥当な組みあわせだろうけど」
「それは否定しない。先生が着てるジャージ、ノブさんのだしな」
かの最小限主義者(ミニマリスト)は体育祭予行演習の際、スーツ姿で参加していた。彼は私服どころか運動着も持っていないのだ。それをヤマダが見かね、父親のジャージを貸すと提案した。ヤマダの父とシドの背丈は同程度。それゆえ、ジャージ姿の教師はまるで元から彼の私物であったかのごとく着こなしている。
「気を利かすイコール好きってことじゃねえと思うが」
「でも僕らよりは脈がありそうだろ?」
「そうかもしんねえけど、一学期が終わったらいなくなる人だからな。発展しようがない」
「惜しい話だ……もっといてくれればいいのに」
「なんだよ、いつのまにシド先生を気に入ってたんだ?」
拓馬が知る、椙守とシドの接触は肥料運びの時だけだ。この時に椙守はシドからの多大な評価を受けた。以降、椙守のイライラは軽減したように拓馬は感じている。
「やっぱり『強くなる』って言われたの、うれしいのか?」
「そりゃあ……そうさ。僕には無縁なことだと、あきらめてたんだから」
「自信がついたのはいいが、素質だけじゃあ強くはなれねえぞ」
「わかってるさ。ちょっとずつ、進歩していってる──」
椙守はトレーニング話をしはじめた。その運動量は文化系の女子のダイエットかと思うような軽いものだ。成果はこの際どうでもよい。悲観的な彼が前向きな活動をすること自体が、拓馬は重要だと思った。
(有りだよな、こういうウソは)
正直なところ、拓馬はシドの鑑定をいまだに信じられなかった。椙守は幼少時も現在も運動音痴な男子なのだ。人並みの身体能力を得た様子さえ想像がつかない。
(ああやって他人を褒めて伸ばす人が教師に向いてるんだろうな)
それこそ天性の素質なのかもしれない。そんなふうに拓馬はシドの適性を見出した。
このリレーは男女別、学年ごと、かつクラス対抗で行なう。各学年に四クラスあるので、一度に走る生徒は四名。同クラスから四人の選手を選び、一番走者は一周二百メートルあるトラックを半周、二番走者はトラック一周、という具合に走行順によって走る距離が変わる。
拓馬は三番めの走者だ。自分がバトンを受け継いだ時点で、後続との距離はへだたっていた。三郎とジモンがそれだけ引き離したのだ。拓馬が走ることで、他クラスの走者との開きはなお広がる。
(いまのうちに稼いでおかねえと……)
同じ組のアンカーが不安の種だ。四番走者は成石。「いちばん注目を浴びる」という理由で、自己顕示欲のかたまりな男子がアンカーに志願した。勝算度外視なやつだと拓馬はあきれきっている。実際問題、成石はリレーの選手に抜擢しうる速さはあった。しかしトラック二周分という、もっとも長い距離を走るアンカーに最適かというと、自信はなかった。
勝ちにいく役割分担をするとしたら、トリを飾るべきは毎日のように部活で長距離を走る仙谷かジモンだ。拓馬は自身の瞬発力に自負心は持っているが、持久力では剣道部の二人に劣ると思っている。そんな拓馬が三百メートルの走破を担当する理由も、やはり成石にある。
「ぼくの前がデカブツやイケメンじゃ、ぼくがあまり目立てない」
という戦術もへったくれもない意見を反映した結果だ。こんなくだらない発言は無視すればいいものを、ジモンが「じゃあ拓馬が三番かの」と答え、三郎もその前提でみずからの走順を決定した。
(これで負けたら、成石が恥かくだけだ)
拓馬はプラスチック製のバトンを握りしめた。スタート地点に一番乗りで通過する。拓馬のゴールである半周先では、たすきを肩にかけた走者がならんでいた。バトンとたすきの色が合致する者めがけて、拓馬は太ももや前腕を振る。体育祭当日の疲労が蓄積する体に鞭打って、最後の追いこみをかけた。
四人のアンカーのうち、余裕綽々な表情の男子がかるく走りはじめた。そいつに拓馬はバトンと助言を渡す。
「手ぇ、抜くなよ!」
アンカーに速いやつがいる、とは息の乱れのせいで言えなかった。拓馬は肩を上下しつつ、ほかの走者の進路を妨害しないようにトラックの内側へすすんだ。白線の中へ入ると、上空をあおぐ。
「はぁ、しんどいな……」
リレーの前にも拓馬は全力疾走をする競技に出ていた。競技名こそ綱引きだが、特殊なルールがあった。参加者の半数はトラックを四分の三周走ってから綱引きに加わるのだ。その性質上、最初から綱を引く者は動きがにぶいか重量のある者、援軍としてはせ参じる者は力が弱いか足の速い者が多く振り分けられる。拓馬はぶっちぎりの走力ゆえに援軍側にまわっており、そこで己の俊足を観客に見せつけたばかりだった。
(トーマなら、どれだけでも走れるんだろうけど……)
走ることに特化した犬とそうでない人間とでは、体力の消耗の仕方がかなりちがう。オフリードが許可された敷地内に飼い犬を放てば、拓馬はいつも犬に引っかき回された。健康な犬にはかなわぬ体力をなげきつつ、地べたに座ろうとした。
「いい走りだったぞ、タクマ!」
他クラスのアンカーが話しかけてくる。彼は去年、拓馬と同じクラスだった若浜という男子だ。成人に見える風貌だが拓馬たちとは同じ年齢である。
「お前ほどの男ならトモエを任せられるというもの」
トモエとは名木野の下の名前だ。若浜と名木野は幼馴染だという。彼は内気な名木野になにくれと世話を焼いていた。その保護者ぶりゆえに、純愛好きな校長の好みのペアであろうことは想像にかたくない。にもかかわらず今年は別々のクラスになっている。おそらくはリーダーシップをとれる生徒を各クラスに分配した結果だ。彼と仙谷は同じクラスになれない、とヤマダなどは言っている。
「なにを、父親くせーことを……」
会話は続かなかった。次々にバトンがアンカーに渡る。若浜もバトンを受け取る姿勢に入り、最後尾の走者として走った。スタートを切る時点で最下位という状況だ。それでいながら、拓馬は四位が若浜の最終的な順位だとは思わなかった。
(こいつがつえーんだよなぁ)
若浜は陸上部に所属していない。が、リレーでは決まって好成績をあげるのだと名木野が談じていた。ただし純粋な百メートル走では拓馬に分がある。それは体育の授業時の体力測定において明確な数字に出ていた。そのため百メートルより長い距離か、あるいはチームプレー時の責任感が、若浜にとってのベストな走りを生み出すらしかった。
拓馬の予想にたがわず、大人びた同級生はぐんぐん追い上げていった。仲間の遅れを一人で取りもどそうとしているのか、トラックを一周まわったころには現在二位の走者の後ろにせまっていた。
(この調子じゃ、抜かされるか?)
三位と二位の座が交代した直後、歓声が起こった。ほとんどが生徒で占める観客は、もと最下位走者が首位を獲得できるか否かに着目している。その関心が成石にも伝わったらしい。彼はカーブを曲がるついでに直近の後続走者を確認した。そうして「まずい」と言いたげな顔で、スピードをあげた。拓馬は内心、成石が追い抜かれればさぞかし盛り上がるだろう、と不謹慎な考えが浮かんだ。
現実はそんなに刺激的ではなかった。成石が死にもの狂いでラストスパートをかけ、首位独走を維持したまま到着した。その二秒ばかりあとに、会場の注目を集めた走者がゴールする。拓馬はもっぱら若浜に視線をやり、
「すげえな、最下位から二位に上がって!」
と心からの賛辞をのべた。若浜は片手をあげたきり、うつむいて荒い呼吸をくりかえした。そのやり取りがおもしろくないのは成石である。
「ぼくが……きみの、チームメイト、だろ……?」
成石が膝に手をつき、途切れとぎれな声で拓馬にうったえた。彼の不服は拓馬の優先順位にある。ねぎらいの言葉を真っ先にライバルにかけたのを問題視しているのだ。拓馬は成石が話しにくい状況下なのをいいことに、ズバズバ言ってやることにする。
「俺の感想はたぶん、このリレーを見てたみんなが思ってることだぞ」
「ぼくの活躍は……」
「無いも同然だな。つうか、ジモンたちが距離を稼いだおかげの一位だろ?」
チームのがんばりを成石で消費した。その言葉が正確でない可能性を拓馬は感じている。四番走者が成石以外であっても、若浜に食いつかれる走りになっていたかもしれない。しかし、成石があれだけ追い詰められたのだ。言われた本人は否定の余地がないと思ったらしい。がっくり肩を落とした、ように拓馬には見えた。
「なんて、せちがらい……学校だ……」
気落ちしたそぶりがあわれだった。拓馬は一応のなぐさめをかける。
「だけど、三人だけじゃ一位はとれっこねーんだ。……」
いい締めの言葉がうかばない。拓馬は照れくさい謝意を言っておくことにする。
「そこは感謝してる」
相手の反応を見ずに、拓馬は自身の応援席へ向かった。今度は上級生のリレーがはじまる。競技の記録係につかまっている二年のアンカーをこの場に残して、部外者はとっとと退散することにした。
応援席とは教室の椅子をグラウンドへ移動しただけの簡単な座席だ。そこには、生徒がまばらにいた。リレーの次に二人三脚の競技があり、その参加者はすでに待機場所へ行ったようだった。
拓馬は自席にどっかと座る。茶を飲むために椅子の下にある荷物をとろうとしたところ、モコモコとした物体に触れた。見ればそこに猫がいる。黒い縞模様の野良猫だ。
「なんだぁ? こんなとこに──」
「さっきまではきみの椅子に乗ってたよ」
拓馬の後方から話しかけられた。話者は貧相な体型の男子だ。椙守は体操着姿になるといっそう肉付きのわるさが露呈していた。体育祭は彼にとってあまり楽しい行事ではないだろうが、いまは機嫌がよさそうだ。
「お前、この猫をずっと見てたのか?」
「見てたというか……」
椙守の椅子の位置が左右の椅子よりも前進していた。どうやら彼は自席に座りながら拓馬の椅子にいた猫を触っていたようだ。椙守は意外にも猫好きなのでその行為は不思議でなかった。
「じゃあヤマダも猫にかまってたんじゃないか?」
「そうなんだが、急に次の二人三脚に出ることになったんだ」
「だれと?」
「シルバーグレイな先生とだ」
拓馬は選手の待機場所をさがした。教員や放送担当の生徒がすずむテントの横で、複数の男女がかたまっている。そこに立つ全身灰色の教師がもっとも目についた。銀色の髪と、灰色のジャージが同化している。そのとなりにポニーテールの女子もいる。
「え、シド先生と?」
「彼女と組むのは校長の指示だそうだ」
競技には一部、教員も参加する。それは得点にならない、ただのパフォーマンスだ。同行者がだれであってもよいはずなのだが。
「ロコツに仕掛けてくるな、あのハゲめ」
「先生とヤマダは仲がいいから、妥当な組みあわせだろうけど」
「それは否定しない。先生が着てるジャージ、ノブさんのだしな」
かの最小限主義者(ミニマリスト)は体育祭予行演習の際、スーツ姿で参加していた。彼は私服どころか運動着も持っていないのだ。それをヤマダが見かね、父親のジャージを貸すと提案した。ヤマダの父とシドの背丈は同程度。それゆえ、ジャージ姿の教師はまるで元から彼の私物であったかのごとく着こなしている。
「気を利かすイコール好きってことじゃねえと思うが」
「でも僕らよりは脈がありそうだろ?」
「そうかもしんねえけど、一学期が終わったらいなくなる人だからな。発展しようがない」
「惜しい話だ……もっといてくれればいいのに」
「なんだよ、いつのまにシド先生を気に入ってたんだ?」
拓馬が知る、椙守とシドの接触は肥料運びの時だけだ。この時に椙守はシドからの多大な評価を受けた。以降、椙守のイライラは軽減したように拓馬は感じている。
「やっぱり『強くなる』って言われたの、うれしいのか?」
「そりゃあ……そうさ。僕には無縁なことだと、あきらめてたんだから」
「自信がついたのはいいが、素質だけじゃあ強くはなれねえぞ」
「わかってるさ。ちょっとずつ、進歩していってる──」
椙守はトレーニング話をしはじめた。その運動量は文化系の女子のダイエットかと思うような軽いものだ。成果はこの際どうでもよい。悲観的な彼が前向きな活動をすること自体が、拓馬は重要だと思った。
(有りだよな、こういうウソは)
正直なところ、拓馬はシドの鑑定をいまだに信じられなかった。椙守は幼少時も現在も運動音痴な男子なのだ。人並みの身体能力を得た様子さえ想像がつかない。
(ああやって他人を褒めて伸ばす人が教師に向いてるんだろうな)
それこそ天性の素質なのかもしれない。そんなふうに拓馬はシドの適性を見出した。
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