2018年03月03日
拓馬篇−3章◆ ☆
体育祭が無事に終幕した──とは一部をのぞく生徒の感想だ。体育祭終了後すぐの授業日、気まずい思いをいだく女子が一人で職員室へ向かっている。彼女の目的は教師に貸した運動着を返してもらうことだ。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
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