2018年02月28日
拓馬篇−3章4
拓馬は走っていた。学校のトラックを一周半。それが自身に任されたメドレーリレーでの走行距離だ。
このリレーは男女別、学年ごと、かつクラス対抗で行なう。各学年に四クラスあるので、一度に走る生徒は四名。同クラスから四人の選手を選び、一番走者は一周二百メートルあるトラックを半周、二番走者はトラック一周、という具合に走行順によって走る距離が変わる。
拓馬は三番めの走者だ。自分がバトンを受け継いだ時点で、後続との距離はへだたっていた。三郎とジモンがそれだけ引き離したのだ。拓馬が走ることで、他クラスの走者との開きはなお広がる。
(いまのうちに稼いでおかねえと……)
同じ組のアンカーが不安の種だ。四番走者は成石。「いちばん注目を浴びる」という理由で、自己顕示欲のかたまりな男子がアンカーに志願した。勝算度外視なやつだと拓馬はあきれきっている。実際問題、成石はリレーの選手に抜擢しうる速さはあった。しかしトラック二周分という、もっとも長い距離を走るアンカーに最適かというと、自信はなかった。
勝ちにいく役割分担をするとしたら、トリを飾るべきは毎日のように部活で長距離を走る仙谷かジモンだ。拓馬は自身の瞬発力に自負心は持っているが、持久力では剣道部の二人に劣ると思っている。そんな拓馬が三百メートルの走破を担当する理由も、やはり成石にある。
「ぼくの前がデカブツやイケメンじゃ、ぼくがあまり目立てない」
という戦術もへったくれもない意見を反映した結果だ。こんなくだらない発言は無視すればいいものを、ジモンが「じゃあ拓馬が三番かの」と答え、三郎もその前提でみずからの走順を決定した。
(これで負けたら、成石が恥かくだけだ)
拓馬はプラスチック製のバトンを握りしめた。スタート地点に一番乗りで通過する。拓馬のゴールである半周先では、たすきを肩にかけた走者がならんでいた。バトンとたすきの色が合致する者めがけて、拓馬は太ももや前腕を振る。体育祭当日の疲労が蓄積する体に鞭打って、最後の追いこみをかけた。
四人のアンカーのうち、余裕綽々な表情の男子がかるく走りはじめた。そいつに拓馬はバトンと助言を渡す。
「手ぇ、抜くなよ!」
アンカーに速いやつがいる、とは息の乱れのせいで言えなかった。拓馬は肩を上下しつつ、ほかの走者の進路を妨害しないようにトラックの内側へすすんだ。白線の中へ入ると、上空をあおぐ。
「はぁ、しんどいな……」
リレーの前にも拓馬は全力疾走をする競技に出ていた。競技名こそ綱引きだが、特殊なルールがあった。参加者の半数はトラックを四分の三周走ってから綱引きに加わるのだ。その性質上、最初から綱を引く者は動きがにぶいか重量のある者、援軍としてはせ参じる者は力が弱いか足の速い者が多く振り分けられる。拓馬はぶっちぎりの走力ゆえに援軍側にまわっており、そこで己の俊足を観客に見せつけたばかりだった。
(トーマなら、どれだけでも走れるんだろうけど……)
走ることに特化した犬とそうでない人間とでは、体力の消耗の仕方がかなりちがう。オフリードが許可された敷地内に飼い犬を放てば、拓馬はいつも犬に引っかき回された。健康な犬にはかなわぬ体力をなげきつつ、地べたに座ろうとした。
「いい走りだったぞ、タクマ!」
他クラスのアンカーが話しかけてくる。彼は去年、拓馬と同じクラスだった若浜という男子だ。成人に見える風貌だが拓馬たちとは同じ年齢である。
「お前ほどの男ならトモエを任せられるというもの」
トモエとは名木野の下の名前だ。若浜と名木野は幼馴染だという。彼は内気な名木野になにくれと世話を焼いていた。その保護者ぶりゆえに、純愛好きな校長の好みのペアであろうことは想像にかたくない。にもかかわらず今年は別々のクラスになっている。おそらくはリーダーシップをとれる生徒を各クラスに分配した結果だ。彼と仙谷は同じクラスになれない、とヤマダなどは言っている。
「なにを、父親くせーことを……」
会話は続かなかった。次々にバトンがアンカーに渡る。若浜もバトンを受け取る姿勢に入り、最後尾の走者として走った。スタートを切る時点で最下位という状況だ。それでいながら、拓馬は四位が若浜の最終的な順位だとは思わなかった。
(こいつがつえーんだよなぁ)
若浜は陸上部に所属していない。が、リレーでは決まって好成績をあげるのだと名木野が談じていた。ただし純粋な百メートル走では拓馬に分がある。それは体育の授業時の体力測定において明確な数字に出ていた。そのため百メートルより長い距離か、あるいはチームプレー時の責任感が、若浜にとってのベストな走りを生み出すらしかった。
拓馬の予想にたがわず、大人びた同級生はぐんぐん追い上げていった。仲間の遅れを一人で取りもどそうとしているのか、トラックを一周まわったころには現在二位の走者の後ろにせまっていた。
(この調子じゃ、抜かされるか?)
三位と二位の座が交代した直後、歓声が起こった。ほとんどが生徒で占める観客は、もと最下位走者が首位を獲得できるか否かに着目している。その関心が成石にも伝わったらしい。彼はカーブを曲がるついでに直近の後続走者を確認した。そうして「まずい」と言いたげな顔で、スピードをあげた。拓馬は内心、成石が追い抜かれればさぞかし盛り上がるだろう、と不謹慎な考えが浮かんだ。
現実はそんなに刺激的ではなかった。成石が死にもの狂いでラストスパートをかけ、首位独走を維持したまま到着した。その二秒ばかりあとに、会場の注目を集めた走者がゴールする。拓馬はもっぱら若浜に視線をやり、
「すげえな、最下位から二位に上がって!」
と心からの賛辞をのべた。若浜は片手をあげたきり、うつむいて荒い呼吸をくりかえした。そのやり取りがおもしろくないのは成石である。
「ぼくが……きみの、チームメイト、だろ……?」
成石が膝に手をつき、途切れとぎれな声で拓馬にうったえた。彼の不服は拓馬の優先順位にある。ねぎらいの言葉を真っ先にライバルにかけたのを問題視しているのだ。拓馬は成石が話しにくい状況下なのをいいことに、ズバズバ言ってやることにする。
「俺の感想はたぶん、このリレーを見てたみんなが思ってることだぞ」
「ぼくの活躍は……」
「無いも同然だな。つうか、ジモンたちが距離を稼いだおかげの一位だろ?」
チームのがんばりを成石で消費した。その言葉が正確でない可能性を拓馬は感じている。四番走者が成石以外であっても、若浜に食いつかれる走りになっていたかもしれない。しかし、成石があれだけ追い詰められたのだ。言われた本人は否定の余地がないと思ったらしい。がっくり肩を落とした、ように拓馬には見えた。
「なんて、せちがらい……学校だ……」
気落ちしたそぶりがあわれだった。拓馬は一応のなぐさめをかける。
「だけど、三人だけじゃ一位はとれっこねーんだ。……」
いい締めの言葉がうかばない。拓馬は照れくさい謝意を言っておくことにする。
「そこは感謝してる」
相手の反応を見ずに、拓馬は自身の応援席へ向かった。今度は上級生のリレーがはじまる。競技の記録係につかまっている二年のアンカーをこの場に残して、部外者はとっとと退散することにした。
応援席とは教室の椅子をグラウンドへ移動しただけの簡単な座席だ。そこには、生徒がまばらにいた。リレーの次に二人三脚の競技があり、その参加者はすでに待機場所へ行ったようだった。
拓馬は自席にどっかと座る。茶を飲むために椅子の下にある荷物をとろうとしたところ、モコモコとした物体に触れた。見ればそこに猫がいる。黒い縞模様の野良猫だ。
「なんだぁ? こんなとこに──」
「さっきまではきみの椅子に乗ってたよ」
拓馬の後方から話しかけられた。話者は貧相な体型の男子だ。椙守は体操着姿になるといっそう肉付きのわるさが露呈していた。体育祭は彼にとってあまり楽しい行事ではないだろうが、いまは機嫌がよさそうだ。
「お前、この猫をずっと見てたのか?」
「見てたというか……」
椙守の椅子の位置が左右の椅子よりも前進していた。どうやら彼は自席に座りながら拓馬の椅子にいた猫を触っていたようだ。椙守は意外にも猫好きなのでその行為は不思議でなかった。
「じゃあヤマダも猫にかまってたんじゃないか?」
「そうなんだが、急に次の二人三脚に出ることになったんだ」
「だれと?」
「シルバーグレイな先生とだ」
拓馬は選手の待機場所をさがした。教員や放送担当の生徒がすずむテントの横で、複数の男女がかたまっている。そこに立つ全身灰色の教師がもっとも目についた。銀色の髪と、灰色のジャージが同化している。そのとなりにポニーテールの女子もいる。
「え、シド先生と?」
「彼女と組むのは校長の指示だそうだ」
競技には一部、教員も参加する。それは得点にならない、ただのパフォーマンスだ。同行者がだれであってもよいはずなのだが。
「ロコツに仕掛けてくるな、あのハゲめ」
「先生とヤマダは仲がいいから、妥当な組みあわせだろうけど」
「それは否定しない。先生が着てるジャージ、ノブさんのだしな」
かの最小限主義者(ミニマリスト)は体育祭予行演習の際、スーツ姿で参加していた。彼は私服どころか運動着も持っていないのだ。それをヤマダが見かね、父親のジャージを貸すと提案した。ヤマダの父とシドの背丈は同程度。それゆえ、ジャージ姿の教師はまるで元から彼の私物であったかのごとく着こなしている。
「気を利かすイコール好きってことじゃねえと思うが」
「でも僕らよりは脈がありそうだろ?」
「そうかもしんねえけど、一学期が終わったらいなくなる人だからな。発展しようがない」
「惜しい話だ……もっといてくれればいいのに」
「なんだよ、いつのまにシド先生を気に入ってたんだ?」
拓馬が知る、椙守とシドの接触は肥料運びの時だけだ。この時に椙守はシドからの多大な評価を受けた。以降、椙守のイライラは軽減したように拓馬は感じている。
「やっぱり『強くなる』って言われたの、うれしいのか?」
「そりゃあ……そうさ。僕には無縁なことだと、あきらめてたんだから」
「自信がついたのはいいが、素質だけじゃあ強くはなれねえぞ」
「わかってるさ。ちょっとずつ、進歩していってる──」
椙守はトレーニング話をしはじめた。その運動量は文化系の女子のダイエットかと思うような軽いものだ。成果はこの際どうでもよい。悲観的な彼が前向きな活動をすること自体が、拓馬は重要だと思った。
(有りだよな、こういうウソは)
正直なところ、拓馬はシドの鑑定をいまだに信じられなかった。椙守は幼少時も現在も運動音痴な男子なのだ。人並みの身体能力を得た様子さえ想像がつかない。
(ああやって他人を褒めて伸ばす人が教師に向いてるんだろうな)
それこそ天性の素質なのかもしれない。そんなふうに拓馬はシドの適性を見出した。
このリレーは男女別、学年ごと、かつクラス対抗で行なう。各学年に四クラスあるので、一度に走る生徒は四名。同クラスから四人の選手を選び、一番走者は一周二百メートルあるトラックを半周、二番走者はトラック一周、という具合に走行順によって走る距離が変わる。
拓馬は三番めの走者だ。自分がバトンを受け継いだ時点で、後続との距離はへだたっていた。三郎とジモンがそれだけ引き離したのだ。拓馬が走ることで、他クラスの走者との開きはなお広がる。
(いまのうちに稼いでおかねえと……)
同じ組のアンカーが不安の種だ。四番走者は成石。「いちばん注目を浴びる」という理由で、自己顕示欲のかたまりな男子がアンカーに志願した。勝算度外視なやつだと拓馬はあきれきっている。実際問題、成石はリレーの選手に抜擢しうる速さはあった。しかしトラック二周分という、もっとも長い距離を走るアンカーに最適かというと、自信はなかった。
勝ちにいく役割分担をするとしたら、トリを飾るべきは毎日のように部活で長距離を走る仙谷かジモンだ。拓馬は自身の瞬発力に自負心は持っているが、持久力では剣道部の二人に劣ると思っている。そんな拓馬が三百メートルの走破を担当する理由も、やはり成石にある。
「ぼくの前がデカブツやイケメンじゃ、ぼくがあまり目立てない」
という戦術もへったくれもない意見を反映した結果だ。こんなくだらない発言は無視すればいいものを、ジモンが「じゃあ拓馬が三番かの」と答え、三郎もその前提でみずからの走順を決定した。
(これで負けたら、成石が恥かくだけだ)
拓馬はプラスチック製のバトンを握りしめた。スタート地点に一番乗りで通過する。拓馬のゴールである半周先では、たすきを肩にかけた走者がならんでいた。バトンとたすきの色が合致する者めがけて、拓馬は太ももや前腕を振る。体育祭当日の疲労が蓄積する体に鞭打って、最後の追いこみをかけた。
四人のアンカーのうち、余裕綽々な表情の男子がかるく走りはじめた。そいつに拓馬はバトンと助言を渡す。
「手ぇ、抜くなよ!」
アンカーに速いやつがいる、とは息の乱れのせいで言えなかった。拓馬は肩を上下しつつ、ほかの走者の進路を妨害しないようにトラックの内側へすすんだ。白線の中へ入ると、上空をあおぐ。
「はぁ、しんどいな……」
リレーの前にも拓馬は全力疾走をする競技に出ていた。競技名こそ綱引きだが、特殊なルールがあった。参加者の半数はトラックを四分の三周走ってから綱引きに加わるのだ。その性質上、最初から綱を引く者は動きがにぶいか重量のある者、援軍としてはせ参じる者は力が弱いか足の速い者が多く振り分けられる。拓馬はぶっちぎりの走力ゆえに援軍側にまわっており、そこで己の俊足を観客に見せつけたばかりだった。
(トーマなら、どれだけでも走れるんだろうけど……)
走ることに特化した犬とそうでない人間とでは、体力の消耗の仕方がかなりちがう。オフリードが許可された敷地内に飼い犬を放てば、拓馬はいつも犬に引っかき回された。健康な犬にはかなわぬ体力をなげきつつ、地べたに座ろうとした。
「いい走りだったぞ、タクマ!」
他クラスのアンカーが話しかけてくる。彼は去年、拓馬と同じクラスだった若浜という男子だ。成人に見える風貌だが拓馬たちとは同じ年齢である。
「お前ほどの男ならトモエを任せられるというもの」
トモエとは名木野の下の名前だ。若浜と名木野は幼馴染だという。彼は内気な名木野になにくれと世話を焼いていた。その保護者ぶりゆえに、純愛好きな校長の好みのペアであろうことは想像にかたくない。にもかかわらず今年は別々のクラスになっている。おそらくはリーダーシップをとれる生徒を各クラスに分配した結果だ。彼と仙谷は同じクラスになれない、とヤマダなどは言っている。
「なにを、父親くせーことを……」
会話は続かなかった。次々にバトンがアンカーに渡る。若浜もバトンを受け取る姿勢に入り、最後尾の走者として走った。スタートを切る時点で最下位という状況だ。それでいながら、拓馬は四位が若浜の最終的な順位だとは思わなかった。
(こいつがつえーんだよなぁ)
若浜は陸上部に所属していない。が、リレーでは決まって好成績をあげるのだと名木野が談じていた。ただし純粋な百メートル走では拓馬に分がある。それは体育の授業時の体力測定において明確な数字に出ていた。そのため百メートルより長い距離か、あるいはチームプレー時の責任感が、若浜にとってのベストな走りを生み出すらしかった。
拓馬の予想にたがわず、大人びた同級生はぐんぐん追い上げていった。仲間の遅れを一人で取りもどそうとしているのか、トラックを一周まわったころには現在二位の走者の後ろにせまっていた。
(この調子じゃ、抜かされるか?)
三位と二位の座が交代した直後、歓声が起こった。ほとんどが生徒で占める観客は、もと最下位走者が首位を獲得できるか否かに着目している。その関心が成石にも伝わったらしい。彼はカーブを曲がるついでに直近の後続走者を確認した。そうして「まずい」と言いたげな顔で、スピードをあげた。拓馬は内心、成石が追い抜かれればさぞかし盛り上がるだろう、と不謹慎な考えが浮かんだ。
現実はそんなに刺激的ではなかった。成石が死にもの狂いでラストスパートをかけ、首位独走を維持したまま到着した。その二秒ばかりあとに、会場の注目を集めた走者がゴールする。拓馬はもっぱら若浜に視線をやり、
「すげえな、最下位から二位に上がって!」
と心からの賛辞をのべた。若浜は片手をあげたきり、うつむいて荒い呼吸をくりかえした。そのやり取りがおもしろくないのは成石である。
「ぼくが……きみの、チームメイト、だろ……?」
成石が膝に手をつき、途切れとぎれな声で拓馬にうったえた。彼の不服は拓馬の優先順位にある。ねぎらいの言葉を真っ先にライバルにかけたのを問題視しているのだ。拓馬は成石が話しにくい状況下なのをいいことに、ズバズバ言ってやることにする。
「俺の感想はたぶん、このリレーを見てたみんなが思ってることだぞ」
「ぼくの活躍は……」
「無いも同然だな。つうか、ジモンたちが距離を稼いだおかげの一位だろ?」
チームのがんばりを成石で消費した。その言葉が正確でない可能性を拓馬は感じている。四番走者が成石以外であっても、若浜に食いつかれる走りになっていたかもしれない。しかし、成石があれだけ追い詰められたのだ。言われた本人は否定の余地がないと思ったらしい。がっくり肩を落とした、ように拓馬には見えた。
「なんて、せちがらい……学校だ……」
気落ちしたそぶりがあわれだった。拓馬は一応のなぐさめをかける。
「だけど、三人だけじゃ一位はとれっこねーんだ。……」
いい締めの言葉がうかばない。拓馬は照れくさい謝意を言っておくことにする。
「そこは感謝してる」
相手の反応を見ずに、拓馬は自身の応援席へ向かった。今度は上級生のリレーがはじまる。競技の記録係につかまっている二年のアンカーをこの場に残して、部外者はとっとと退散することにした。
応援席とは教室の椅子をグラウンドへ移動しただけの簡単な座席だ。そこには、生徒がまばらにいた。リレーの次に二人三脚の競技があり、その参加者はすでに待機場所へ行ったようだった。
拓馬は自席にどっかと座る。茶を飲むために椅子の下にある荷物をとろうとしたところ、モコモコとした物体に触れた。見ればそこに猫がいる。黒い縞模様の野良猫だ。
「なんだぁ? こんなとこに──」
「さっきまではきみの椅子に乗ってたよ」
拓馬の後方から話しかけられた。話者は貧相な体型の男子だ。椙守は体操着姿になるといっそう肉付きのわるさが露呈していた。体育祭は彼にとってあまり楽しい行事ではないだろうが、いまは機嫌がよさそうだ。
「お前、この猫をずっと見てたのか?」
「見てたというか……」
椙守の椅子の位置が左右の椅子よりも前進していた。どうやら彼は自席に座りながら拓馬の椅子にいた猫を触っていたようだ。椙守は意外にも猫好きなのでその行為は不思議でなかった。
「じゃあヤマダも猫にかまってたんじゃないか?」
「そうなんだが、急に次の二人三脚に出ることになったんだ」
「だれと?」
「シルバーグレイな先生とだ」
拓馬は選手の待機場所をさがした。教員や放送担当の生徒がすずむテントの横で、複数の男女がかたまっている。そこに立つ全身灰色の教師がもっとも目についた。銀色の髪と、灰色のジャージが同化している。そのとなりにポニーテールの女子もいる。
「え、シド先生と?」
「彼女と組むのは校長の指示だそうだ」
競技には一部、教員も参加する。それは得点にならない、ただのパフォーマンスだ。同行者がだれであってもよいはずなのだが。
「ロコツに仕掛けてくるな、あのハゲめ」
「先生とヤマダは仲がいいから、妥当な組みあわせだろうけど」
「それは否定しない。先生が着てるジャージ、ノブさんのだしな」
かの最小限主義者(ミニマリスト)は体育祭予行演習の際、スーツ姿で参加していた。彼は私服どころか運動着も持っていないのだ。それをヤマダが見かね、父親のジャージを貸すと提案した。ヤマダの父とシドの背丈は同程度。それゆえ、ジャージ姿の教師はまるで元から彼の私物であったかのごとく着こなしている。
「気を利かすイコール好きってことじゃねえと思うが」
「でも僕らよりは脈がありそうだろ?」
「そうかもしんねえけど、一学期が終わったらいなくなる人だからな。発展しようがない」
「惜しい話だ……もっといてくれればいいのに」
「なんだよ、いつのまにシド先生を気に入ってたんだ?」
拓馬が知る、椙守とシドの接触は肥料運びの時だけだ。この時に椙守はシドからの多大な評価を受けた。以降、椙守のイライラは軽減したように拓馬は感じている。
「やっぱり『強くなる』って言われたの、うれしいのか?」
「そりゃあ……そうさ。僕には無縁なことだと、あきらめてたんだから」
「自信がついたのはいいが、素質だけじゃあ強くはなれねえぞ」
「わかってるさ。ちょっとずつ、進歩していってる──」
椙守はトレーニング話をしはじめた。その運動量は文化系の女子のダイエットかと思うような軽いものだ。成果はこの際どうでもよい。悲観的な彼が前向きな活動をすること自体が、拓馬は重要だと思った。
(有りだよな、こういうウソは)
正直なところ、拓馬はシドの鑑定をいまだに信じられなかった。椙守は幼少時も現在も運動音痴な男子なのだ。人並みの身体能力を得た様子さえ想像がつかない。
(ああやって他人を褒めて伸ばす人が教師に向いてるんだろうな)
それこそ天性の素質なのかもしれない。そんなふうに拓馬はシドの適性を見出した。
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