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2018年02月25日
拓馬篇−3章3 ★
若い英語教師が昏倒した日から十日あまりが経った。その間、拓馬はあることに気付いた。ヤマダを見守る狐が、いなくなった。これはおそらく、シズカが狐にあらたな指示を出したせいであろう。拓馬はその確認を取るため、電子メールをシズカに送っておいた。また、どうしてヤマダの護衛派遣をやめたのか理由を直接聞くつもりで、連日パソコンを起動する。電話を掛けてもよいのだが、シズカは不規則な時間で就労する社会人。電話をかけると仕事に差し支えが出そうで、気が咎めた。
一学期の授業で学ぶ英単語を調べ尽くそうとする平日の夜、音声通信の承諾を求める音が鳴った。拓馬は即座に通話の準備をする。通話者はいつものとおりにあいさつをした。直後、『ごめんね』と謝られる。
『きみにキツネの件を知らせなくて悪かった』
「どうかしたんですか?」
『状況報告をしに帰ってもらったんだ。気になるネタをつかんできたからね』
「どんなネタか聞いてもいいですか」
『大型連休あたりの金曜の夜だったかな。また道端で倒れてる男性がいた。それを発見した人が、拓馬くんの同級生の須坂って子』
同級生の名を言われた拓馬はおどろいた。シズカにはまだ転校生の詳細を教えていない。
「なんで須坂の名前を知ってるんです?」
『きみたちのそばにいた子はちゃーんと、きみたちの話を聞いてるんだよ』
「あのキツネが教えたんですか」
『そういうことだ。ツキちゃんが聞いた情報だと、須坂さんが最初の被害者も発見したという話だけど……それで合ってるかい?』
拓馬は初耳だったので、正直に「聞いてないです」と答えた。
『ん? じゃあヤマダさんはまだきみに伝えてないのか。先走っちゃったね』
成石が被害に遭った以後、ヤマダは事件解決に乗り気な三郎から情報を聞いていたようだった。須坂の名を知れた狐なら、二人のやり取りもこっそり見聞きしたのだろう。拓馬は「あとでヤマダに聞いておきます」と答え、この話題は終結した。
シズカは『ほかに言うことはあるかなぁ』と話題を模索した。拓馬もなんだか引っ掛かりを感じて、通話を終わらせる気になれない。
(俺がシズカさんにメール出したきっかけは……キツネがいなくなったからだ。そのキツネを最後に見たのは……?)
シズカが狐経由で入手した新情報とは、連休中の出来事。その次の週に中間テストがあった。テスト期間中は狐がこちらにいたはず。
(テストが終わったあとにキツネを見なくなった……じゃあ、テスト前に須坂が二度目の被害者を見つけたことは、キツネがいなくなったことと関係ない?)
シズカは狐の直接的な帰還理由を述べていない──そう察した拓馬は詰問にならないよう細心の注意をはらい、質問する。
「それで……キツネは連休がおわったあともこっちにいたと思うんですけど、その、連休中に起きた事件とはべつの理由があって、帰らせたんですか?」
『お、鋭いね。その通りだよ』
シズカはクイズの正解を当てたかのように称賛した。拓馬は相手に悪気はないのだと知りつつも、自分の質問をはぐらかされていたことに寂しさを感じた。
『だけど有益な情報をゲットしてないんだ』
「その話、俺に言えます?」
『いまは教えられない。これはイジワルで言ってるんじゃないよ』
シズカなりに最善の手を考えているのだ。拓馬は疑問が解消されないことを我慢した。その思いが伝わったのか、『これは言っておこう』とシズカが落ち着いたトーンで言う。
『拓馬くんの近くには狐が見える人がいる、かもしれない』
「幽霊の見える人がいる?」
『すこしちがう。おれの友だちが見えても、幽霊は見えない人もいる。現におれがそう……いい機会だ、幽霊じゃない人外が見える人についておさらいしよう』
シズカは前にも説明したことを話す気だ。知識の正確さに自信のない拓馬は静聴する。
『ざっと三種類のタイプがいる。一つめ、生まれつき見える人。これは拓馬くんだ。二つめ、おれの友だちが住む世界へ行って、帰ってきた人。これがおれ。三つめはわかる?』
「向こうの世界からきた人、でしたっけ」
『そう、向こうの住民だ』
シズカは過去にこの世界とはべつの世界へ迷いこみ、そこで狐などの仲間を得てきた。向こうの世界から帰ってくるにはとある装置を使うという。その装置はシズカが二つの世界を行き来できるように取り計らったとか。しかしそうすることで起きる弊害もある。
「向こうから悪意をもって来る連中が、きっとあらわれる……シズカさんはそいつらの警戒をしたくて、警察官になったんですよね」
『うん、それが警官になった志望動機だね。冷静に考えたらあんまり意味がなさそうなんだけど』
警官になったことが無意味だという理由──それは各々の時間のありようにあるという。
(あっちとこっちで行き着く時代がバラバラだとか、言ってたっけ?)
たとえば向こうの世界からくる悪人が、シズカの生まれる前や死後にこの世界へおとずれたら。それではシズカがどんな生き方をしていようと、対処しようがないのだ。
『でも向こうではおれの時代からきた日本人とたくさん会えたし、なにか運命的なものを惹きつける世代だと思うんだ、おれたち』
シズカの発想に対して拓馬は実感がわかず、「はあ」とややめんどくさそうに答えた。拓馬が対話に飽きてきたことを感じたシズカは『本題にもどすとね』と軌道修正をかける。
『拓馬くんの近くには異界の者が見える人がいる、としたら、その人を刺激したくない。そんなわけで、いまは普通の動物をよそおった猫を送るよ。最近野良猫が増えたと思ったら、その中におれの友だちがいるかもね』
別れの挨拶を交わし、通信は途絶えた。拓馬の勤勉な高校生期間はいったん終わる。次なる目標は体育祭。拓馬は早めに床に就いた。
一学期の授業で学ぶ英単語を調べ尽くそうとする平日の夜、音声通信の承諾を求める音が鳴った。拓馬は即座に通話の準備をする。通話者はいつものとおりにあいさつをした。直後、『ごめんね』と謝られる。
『きみにキツネの件を知らせなくて悪かった』
「どうかしたんですか?」
『状況報告をしに帰ってもらったんだ。気になるネタをつかんできたからね』
「どんなネタか聞いてもいいですか」
『大型連休あたりの金曜の夜だったかな。また道端で倒れてる男性がいた。それを発見した人が、拓馬くんの同級生の須坂って子』
同級生の名を言われた拓馬はおどろいた。シズカにはまだ転校生の詳細を教えていない。
「なんで須坂の名前を知ってるんです?」
『きみたちのそばにいた子はちゃーんと、きみたちの話を聞いてるんだよ』
「あのキツネが教えたんですか」
『そういうことだ。ツキちゃんが聞いた情報だと、須坂さんが最初の被害者も発見したという話だけど……それで合ってるかい?』
拓馬は初耳だったので、正直に「聞いてないです」と答えた。
『ん? じゃあヤマダさんはまだきみに伝えてないのか。先走っちゃったね』
成石が被害に遭った以後、ヤマダは事件解決に乗り気な三郎から情報を聞いていたようだった。須坂の名を知れた狐なら、二人のやり取りもこっそり見聞きしたのだろう。拓馬は「あとでヤマダに聞いておきます」と答え、この話題は終結した。
シズカは『ほかに言うことはあるかなぁ』と話題を模索した。拓馬もなんだか引っ掛かりを感じて、通話を終わらせる気になれない。
(俺がシズカさんにメール出したきっかけは……キツネがいなくなったからだ。そのキツネを最後に見たのは……?)
シズカが狐経由で入手した新情報とは、連休中の出来事。その次の週に中間テストがあった。テスト期間中は狐がこちらにいたはず。
(テストが終わったあとにキツネを見なくなった……じゃあ、テスト前に須坂が二度目の被害者を見つけたことは、キツネがいなくなったことと関係ない?)
シズカは狐の直接的な帰還理由を述べていない──そう察した拓馬は詰問にならないよう細心の注意をはらい、質問する。
「それで……キツネは連休がおわったあともこっちにいたと思うんですけど、その、連休中に起きた事件とはべつの理由があって、帰らせたんですか?」
『お、鋭いね。その通りだよ』
シズカはクイズの正解を当てたかのように称賛した。拓馬は相手に悪気はないのだと知りつつも、自分の質問をはぐらかされていたことに寂しさを感じた。
『だけど有益な情報をゲットしてないんだ』
「その話、俺に言えます?」
『いまは教えられない。これはイジワルで言ってるんじゃないよ』
シズカなりに最善の手を考えているのだ。拓馬は疑問が解消されないことを我慢した。その思いが伝わったのか、『これは言っておこう』とシズカが落ち着いたトーンで言う。
『拓馬くんの近くには狐が見える人がいる、かもしれない』
「幽霊の見える人がいる?」
『すこしちがう。おれの友だちが見えても、幽霊は見えない人もいる。現におれがそう……いい機会だ、幽霊じゃない人外が見える人についておさらいしよう』
シズカは前にも説明したことを話す気だ。知識の正確さに自信のない拓馬は静聴する。
『ざっと三種類のタイプがいる。一つめ、生まれつき見える人。これは拓馬くんだ。二つめ、おれの友だちが住む世界へ行って、帰ってきた人。これがおれ。三つめはわかる?』
「向こうの世界からきた人、でしたっけ」
『そう、向こうの住民だ』
シズカは過去にこの世界とはべつの世界へ迷いこみ、そこで狐などの仲間を得てきた。向こうの世界から帰ってくるにはとある装置を使うという。その装置はシズカが二つの世界を行き来できるように取り計らったとか。しかしそうすることで起きる弊害もある。
「向こうから悪意をもって来る連中が、きっとあらわれる……シズカさんはそいつらの警戒をしたくて、警察官になったんですよね」
『うん、それが警官になった志望動機だね。冷静に考えたらあんまり意味がなさそうなんだけど』
警官になったことが無意味だという理由──それは各々の時間のありようにあるという。
(あっちとこっちで行き着く時代がバラバラだとか、言ってたっけ?)
たとえば向こうの世界からくる悪人が、シズカの生まれる前や死後にこの世界へおとずれたら。それではシズカがどんな生き方をしていようと、対処しようがないのだ。
『でも向こうではおれの時代からきた日本人とたくさん会えたし、なにか運命的なものを惹きつける世代だと思うんだ、おれたち』
シズカの発想に対して拓馬は実感がわかず、「はあ」とややめんどくさそうに答えた。拓馬が対話に飽きてきたことを感じたシズカは『本題にもどすとね』と軌道修正をかける。
『拓馬くんの近くには異界の者が見える人がいる、としたら、その人を刺激したくない。そんなわけで、いまは普通の動物をよそおった猫を送るよ。最近野良猫が増えたと思ったら、その中におれの友だちがいるかもね』
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2018年02月23日
拓馬篇−3章2 ☆
休みが明け、拓馬は中間テストの真っ只中にいた。最後の科目は拓馬の苦手とする古典だ。この時限の試験監督は銀髪の英語教師。彼は教卓の椅子に座っていた。その教師がやおら席を立つ。彼は教室の後方へすすみ、拓馬の視界から外れた。
「はい、どうぞ」
男子生徒の謝辞が聞こえた。落とした筆記用具をシドが拾ったようだ。試験中は生徒が勝手に席を離れてはいけない規則があり、そのために監督者が適宜対処する。雑用を終えた教師はすぐ教卓にもどる、はずだった。
教室中に鈍い音が響く。拓馬が教師の所在をさがすと、いつも高い位置にある銀髪が、生徒の机と同じくらいの高さにあった。
「失礼! つまづいてしまいました」
弱るのは髪の色素だけで充分、と軽口を述べながら彼は立ちあがった。教師が鎮座すると試験は再開する。無事終わると答案が最後列の席から前へと渡った。それらの紙束をシドが回収する。
「皆さん、お疲れさまです。結果は後日、授業で」
監督者は教室を出た。拓馬はさっさと帰り支度をする。その最中にヤマダが来たので話しかける。
「これでテストが終わったな。最終日も半日で帰れるのはいい」
「タッちゃん、いまから暇ある?」
「答えの確認でもするのか?」
「シド先生、あのまんまだと本当に倒れそう。一緒に帰るように誘ってみるから、タッちゃんも付き添ってくれる?」
ヤマダは教師の転倒を一時の不注意として見過ごす気がない。拓馬は先日、シドが疲労ぎみであったのを思い出した。だが、それとさきほどのつまづきに強い関連性があるだろうか。
「こけたくらいで大げさな」
「タッちゃんは先生の顔を見てないからだよ」
「そんなにつらそうだったか?」
ヤマダが二度うなずいた。彼女は本気である。
「帰る道中に先生が倒れたら二人で運ぼう。とにかく、話をつけてくる!」
ヤマダとそのお守りの白い狐が教室を走り出た。拓馬が廊下に行ってみると、答案の束を持つシドが他の女子生徒に捕まっていた。女子らに解放された後、ヤマダが声をかける。会話は拓馬に聞こえない。
「あれ、帰らないの?」
千智が拓馬に話しかけてきた。彼女は自身の鞄を持っている。
「ヤマダがシド先生を早く帰らせようとしてるんだ。それが終わるのを待ってる」
千智はヤマダと教師のやり取りに目を向ける。
「先生がさっき転んだから?」
「ああ、放っておいたら先生が倒れるって……」
「まあ、ヘンといったらヘンよね。三郎の攻撃を全部かわせる人が、なにもない床でつまづくなんて」
三郎が徒手でシドに挑む様子を拓馬も遠巻きに見たおぼえがある。終始じっくり観戦したわけではないが、避ける動作中に足がふらつくところは見せなかった。今日は本当に、調子をくずしているのかもしれない。
「あ! 危ない!」
千智は鞄をその場に放りすてた。なにか異変が起きたのだ。
(まさか先生がたおれて……)
拓馬は千智の背を追いかけるように走る。進行方向にいる大柄な教師は、女子生徒にもたれかかっていた。小柄な生徒は教師の体を支えきれない。両者が体勢を崩す。大きな音が廊下に響く。拓馬たちが駆け寄った時にはすでに二人が倒れ、教師は生徒に覆い被さっていた。
「先生、どうしたの! ヤマちゃんが潰れちゃう!」
千智が彼らの耳元でさけんだ。教師の意識はなく、下敷きになった生徒も反応がない。さいわい生徒の後頭部は教師の右手で守られてあった。次なる懸念はヤマダの安静だ。
拓馬は「先生をどかすぞ」と宣言した。ヤマダの上半身だけでも負荷を取り除かなくては。そう判断して教師の肩を押そうとした時、教師が目を開ける。倒れた時の衝撃でサングラスはずり落ちており、青色の目が露わになる。
「シド先生、気がついた?」
千智が意識確認の言葉を投げかける。返答するより先にシドは上半身を起こした。答案用紙の束をもつ左手で体を支え、ヤマダの体の上から離れる。左手でヤマダの頭を持ち上げると、彼女の頭を庇護した右手が自由になる。
「……無様なところをお見せしました」
シドは座位に体勢を変えながらつぶやいた。いたって冷静に、落ちかかったサングラスをかけなおす。彼は立膝をつき、ヤマダの肩と腿の裏に腕を通す。
「オヤマダさんを保健室へ運びます。ネギシさんは答案を職員室へ届けてくれますか?」
いましがた昏倒した男が、気絶中の女子を運ぼうとしている。その無謀な行為を拓馬は受け入れられない。
「俺がヤマダを運ぶよ。先生は早く帰ったほうがいい」
「私は平気です。もうなんともありません」
シドがヤマダの上体を起こす。するとヤマダが目覚め、拓馬と目が合う。
「……あれ? 学校?」
次にヤマダは自身の体を支える者の顔を見ると硬直した。反対にシドは笑みを浮かべる。
「痛いところはありませんか?」
ヤマダは視線をそらして「えっと……」と口ごもった。状況がまだ飲みこめないらしく、返答に窮している。そこへ慌ただしく廊下を駆ける音が近づいてきた。
「おい! 先生が倒れたって……」
拓馬らの担任の教師が騒ぎを聞きつけたようだ。本摩はシドと生徒たちを見て、ぽかんとする。
「小山田が倒れた、のか?」
本摩は自分の知る情報と目の前の光景との相違に困惑していた。シドはヤマダから手を放し、立ち上がる。
「私がオヤマダさんを巻きこんで倒れました。お騒がせして申し訳ありません」
「どうして倒れたんだ?」
「ただの疲労です。ご心配には及びません」
「そうか。それなら今日は早退しなさい」
「そこまでは……」
「明日も休んでおきなさい。意識を失うなんて只事じゃないぞ。そんな調子で学校にいて、また生徒に心配をかけさせたいのか?」
本摩にはめずらしい、高圧的な物言いだった。新人の教師は反論ができない。
「俺がほかの先生たちに話をつけておく。いいね?」
若い教師は「はい」と承諾した。本摩は落ちた答案用紙の束を拾い、生徒に話しかける。
「根岸、小山田の面倒を頼むぞ」
「わかってます」
「野依、今日のことをあまり言いふらすんじゃないぞ」
「あたしに言うことがそれですか?」
口の軽い者扱いを受けた千智は口をとがらせた。本摩はにっこり笑って「なぁに、ただの冗談だ」とはぐらかす。同じ表情のまま、本摩がシドに顔をむける。
「シド先生が頑張り屋なのはみんなわかっているよ。あとのことは俺に任せてほしい」
ついさっきシドにぶつけた態度と一転して、柔和な言い方だ。優しく言うだけでは真面目すぎるシドが納得しないと判断したのだろう。拓馬は本摩の話術に感心した。
教師二人が職員室へもどる。その後姿を見た拓馬たちも帰宅することにした。ヤマダはシドへの心配が抜けない様子だったが、本人がもう平気だと言ったことを拓馬がさとし、二人はそのまま一緒に帰った。
「はい、どうぞ」
男子生徒の謝辞が聞こえた。落とした筆記用具をシドが拾ったようだ。試験中は生徒が勝手に席を離れてはいけない規則があり、そのために監督者が適宜対処する。雑用を終えた教師はすぐ教卓にもどる、はずだった。
教室中に鈍い音が響く。拓馬が教師の所在をさがすと、いつも高い位置にある銀髪が、生徒の机と同じくらいの高さにあった。
「失礼! つまづいてしまいました」
弱るのは髪の色素だけで充分、と軽口を述べながら彼は立ちあがった。教師が鎮座すると試験は再開する。無事終わると答案が最後列の席から前へと渡った。それらの紙束をシドが回収する。
「皆さん、お疲れさまです。結果は後日、授業で」
監督者は教室を出た。拓馬はさっさと帰り支度をする。その最中にヤマダが来たので話しかける。
「これでテストが終わったな。最終日も半日で帰れるのはいい」
「タッちゃん、いまから暇ある?」
「答えの確認でもするのか?」
「シド先生、あのまんまだと本当に倒れそう。一緒に帰るように誘ってみるから、タッちゃんも付き添ってくれる?」
ヤマダは教師の転倒を一時の不注意として見過ごす気がない。拓馬は先日、シドが疲労ぎみであったのを思い出した。だが、それとさきほどのつまづきに強い関連性があるだろうか。
「こけたくらいで大げさな」
「タッちゃんは先生の顔を見てないからだよ」
「そんなにつらそうだったか?」
ヤマダが二度うなずいた。彼女は本気である。
「帰る道中に先生が倒れたら二人で運ぼう。とにかく、話をつけてくる!」
ヤマダとそのお守りの白い狐が教室を走り出た。拓馬が廊下に行ってみると、答案の束を持つシドが他の女子生徒に捕まっていた。女子らに解放された後、ヤマダが声をかける。会話は拓馬に聞こえない。
「あれ、帰らないの?」
千智が拓馬に話しかけてきた。彼女は自身の鞄を持っている。
「ヤマダがシド先生を早く帰らせようとしてるんだ。それが終わるのを待ってる」
千智はヤマダと教師のやり取りに目を向ける。
「先生がさっき転んだから?」
「ああ、放っておいたら先生が倒れるって……」
「まあ、ヘンといったらヘンよね。三郎の攻撃を全部かわせる人が、なにもない床でつまづくなんて」
三郎が徒手でシドに挑む様子を拓馬も遠巻きに見たおぼえがある。終始じっくり観戦したわけではないが、避ける動作中に足がふらつくところは見せなかった。今日は本当に、調子をくずしているのかもしれない。
「あ! 危ない!」
千智は鞄をその場に放りすてた。なにか異変が起きたのだ。
(まさか先生がたおれて……)
拓馬は千智の背を追いかけるように走る。進行方向にいる大柄な教師は、女子生徒にもたれかかっていた。小柄な生徒は教師の体を支えきれない。両者が体勢を崩す。大きな音が廊下に響く。拓馬たちが駆け寄った時にはすでに二人が倒れ、教師は生徒に覆い被さっていた。
「先生、どうしたの! ヤマちゃんが潰れちゃう!」
千智が彼らの耳元でさけんだ。教師の意識はなく、下敷きになった生徒も反応がない。さいわい生徒の後頭部は教師の右手で守られてあった。次なる懸念はヤマダの安静だ。
拓馬は「先生をどかすぞ」と宣言した。ヤマダの上半身だけでも負荷を取り除かなくては。そう判断して教師の肩を押そうとした時、教師が目を開ける。倒れた時の衝撃でサングラスはずり落ちており、青色の目が露わになる。
「シド先生、気がついた?」
千智が意識確認の言葉を投げかける。返答するより先にシドは上半身を起こした。答案用紙の束をもつ左手で体を支え、ヤマダの体の上から離れる。左手でヤマダの頭を持ち上げると、彼女の頭を庇護した右手が自由になる。
「……無様なところをお見せしました」
シドは座位に体勢を変えながらつぶやいた。いたって冷静に、落ちかかったサングラスをかけなおす。彼は立膝をつき、ヤマダの肩と腿の裏に腕を通す。
「オヤマダさんを保健室へ運びます。ネギシさんは答案を職員室へ届けてくれますか?」
いましがた昏倒した男が、気絶中の女子を運ぼうとしている。その無謀な行為を拓馬は受け入れられない。
「俺がヤマダを運ぶよ。先生は早く帰ったほうがいい」
「私は平気です。もうなんともありません」
シドがヤマダの上体を起こす。するとヤマダが目覚め、拓馬と目が合う。
「……あれ? 学校?」
次にヤマダは自身の体を支える者の顔を見ると硬直した。反対にシドは笑みを浮かべる。
「痛いところはありませんか?」
ヤマダは視線をそらして「えっと……」と口ごもった。状況がまだ飲みこめないらしく、返答に窮している。そこへ慌ただしく廊下を駆ける音が近づいてきた。
「おい! 先生が倒れたって……」
拓馬らの担任の教師が騒ぎを聞きつけたようだ。本摩はシドと生徒たちを見て、ぽかんとする。
「小山田が倒れた、のか?」
本摩は自分の知る情報と目の前の光景との相違に困惑していた。シドはヤマダから手を放し、立ち上がる。
「私がオヤマダさんを巻きこんで倒れました。お騒がせして申し訳ありません」
「どうして倒れたんだ?」
「ただの疲労です。ご心配には及びません」
「そうか。それなら今日は早退しなさい」
「そこまでは……」
「明日も休んでおきなさい。意識を失うなんて只事じゃないぞ。そんな調子で学校にいて、また生徒に心配をかけさせたいのか?」
本摩にはめずらしい、高圧的な物言いだった。新人の教師は反論ができない。
「俺がほかの先生たちに話をつけておく。いいね?」
若い教師は「はい」と承諾した。本摩は落ちた答案用紙の束を拾い、生徒に話しかける。
「根岸、小山田の面倒を頼むぞ」
「わかってます」
「野依、今日のことをあまり言いふらすんじゃないぞ」
「あたしに言うことがそれですか?」
口の軽い者扱いを受けた千智は口をとがらせた。本摩はにっこり笑って「なぁに、ただの冗談だ」とはぐらかす。同じ表情のまま、本摩がシドに顔をむける。
「シド先生が頑張り屋なのはみんなわかっているよ。あとのことは俺に任せてほしい」
ついさっきシドにぶつけた態度と一転して、柔和な言い方だ。優しく言うだけでは真面目すぎるシドが納得しないと判断したのだろう。拓馬は本摩の話術に感心した。
教師二人が職員室へもどる。その後姿を見た拓馬たちも帰宅することにした。ヤマダはシドへの心配が抜けない様子だったが、本人がもう平気だと言ったことを拓馬がさとし、二人はそのまま一緒に帰った。
タグ:拓馬