新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2018年04月13日
拓馬篇−4章6 ★
拓馬が不審な大男を見かけた翌週、仲間内にそのことが知れ渡っていた。三郎に一報入れた情報がすぐに伝播したらしい。その結果、拓馬が登校した直後に、早速千智に捕まった。
だが千智は大男でなく、須坂の実姉である水卜律子を話題にとりあげた。顔の小ささや着ていた服など、拓馬には興味のない質問ばかりだ。千智にとって律子はあこがれの芸能人なようで、話はホームルーム開始まで続いた。
午前の授業が終わってなお千智の情熱は冷めなかった。拓馬は彼女と一緒に昼食をとる。
「記者ってのは芸能人を追いかけて、他県までくるんだな」
「知らない? 水卜律子のスキャンダル!」
千智はゴシップを周知の事実のように言い放つ。芸能関連にうとい拓馬には初耳だった。
「何ヶ月前だったか、同業の男と熱愛してるとさわがれたの。写真もおさえられたって」
「へー、めでたい話……じゃないのか?」
「全然! 相手の男にはほかにパートナーがいたんだから」
拓馬は耳を疑った。拓馬が会った女性は略奪愛をしでかす毒婦に見えなかったのだ。
「浮気だなんだってテレビでも言われてたはずよ。それで味を占めた連中が、新しい特ダネを集めにきてたんじゃないの」
水卜が須坂と会うのは週末の夜。意中の人のもとへ足繁く通っているとの邪推が成り立つ。若く美しい芸能人にはありがちな話だ。
「でもあれ、やらせかなにかに決まってる」
千智が息巻いた。他人の恋愛模様をそこまで言い切れるのか、と拓馬は疑問をいだく。
「なんでウソだとわかるんだ?」
「水卜さんの理想の男性像と全然ちがうもん。雑誌で『知的で優しい人が好み』だと言ってたのよ。あの俳優崩れったら、クイズ番組でおバカタレントといい勝負するバカ」
知的で優しい男性、と聞いて拓馬はシドを連想した。この場ではだまっておく。
「だいたい、ヤツはまぐれでヒット作を出した程度の落ちぶれた俳優よ。売れっ子で美人な水卜さんがなびかないって」
「じゃ、なんで一緒にいた?」
「罠よワナ! 水卜さんを使って、ヤツが返り咲こうとしてるんでしょ」
「そんなの、水卜さんが否定したらそれで終わりの話だろ?」
「ヤツは話題を集めれば仕事がもらえると思ってんじゃないの。バカだから目先のことしか考えられないのよ」
千智の意見は理屈に合っているようだ。ただしその根底には「あんな男は水卜律子にふさわしくない」という感情論がある。千智の願望が多分にふくんでいるやもしれず、拓馬は話半分に聞いておいた。
千智の熱弁が一段落ついたとき、三郎が声をかけてくる。
「くだんの不審者に出会ったときのこと、くわしく話してくれるか?」
朝は千智に拓馬を奪われ、聞き損ねた質問なのだろう。拓馬はかるく首をかしげる。
「もう全部伝えたよ。あいつは須坂の周りをうろついてる。たぶん須坂を守ってるんだろうけど、理由はさっぱりだ」
「うーむ、襲われた成石はめぐり合わせがわるかった、ということか……」
「須坂はしばらく姉と会わないそうだ。それで大男が現れなかったら一件落着だろ?」
「腑に落ちないが、様子を見てみるか。……協力に感謝する」
三郎は引きさがった。三郎の話が終わったのを見届けた千智が再度拓馬に話しかける。
「例の男の人を見たんでしょ。どんな人?」
「俺が見たのはシルエットだけだよ。須坂も、男がサングラスをかけてたせいで顔はわからなかったとさ」
「なぁんだ、カッコイイのかわかんないのね」
「カッコイイ、わるいはどうでもいいだろ。いまんとこストーカーだぞ、そいつ」
「そう? かよわい女の子を影で守るのってステキじゃない。あたしも守られてみたい」
拓馬は思わず出そうになった言葉を飲みくだした。男顔負けの脚力をもつ千智へ「お前は守られる必要がない」と言えば不機嫌になるのは目に見えていた。
「あ、本物のカッコイイ人がきたわ」
千智の視線は教室の出入り口にある。そこに褐色の肌の教師がいた。手には花柄の包みがある。彼のシックな装いにそぐわない模様だが、拓馬はその包みに見覚えがあった。ヤマダの私物だ。ヤマダが慌てた様子で、持ち物を届けに来た人物に駆けよる。
「先生! その弁当、だれから?」
「貴女のお母さんから預かりました。家にわすれていったそうですね」
「うん、そうなの。届けてくれてありがとう」
ヤマダは弁当を受け取った。教師が去るために足を引くのを、ヤマダが引き留める。
「あれ……先生、指輪は?」
「え? ああ、ありますよ」
シドはズポンのポケットから指輪を出した。彼はいつも白い宝石のついた指輪を左手の人差し指にはめていた。
「手をよごしたので、指輪を外して、洗ったままにしていました。よく気付きましたね」
「存在感あるからね、その指輪……タイピンとケンカしないデザインでよかった」
シドのみぞおち付近にはネクタイピンが装着してある。その装飾品は拓馬たちが不良少年と争ったあとに見かけるようになった。三色の宝石がはめこんであるのが特徴的だ。
「ええ、こちらのタイピンはとても役に立っています。ところで、この宝石になにか由来や意味はあるのでしょうか?」
「なんかあるらしいんだけど、はっきりしたことは知らない。それ、気になる?」
「実は校長がたいへん興味津々でして」
「だったらオヤジに聞いてよ。もし校長と一緒に聞くならジモンちの店でね」
千智は二人のやり取りを食い入るように見ている。かと思うと深いため息をつく。
「シド先生ってヤマちゃんがお気に入りよね。ちょっと妬けちゃう」
「そうか? いろんな女子に絡まれてるが」
その中には須坂の姿もあった。ただし彼女の場合はシドから話しかけており、むしろシドは須坂を気にしているように拓馬は感じた。
「そりゃそうだけど、あの二人が一緒なことが多くない? 体育祭の前後がとくに」
「あんときは先生、体操着が無かったからな。その貸し借りのときに接点は増えるさ」
「必要なときに必要な助けをしてあげる、てのがポイント高いのね。見習わなくちゃ」
千智は拓馬の主旨とは異なる理解を示した。拓馬はその読解を議論する気は起きない。かわりに千智の想い人だといわれる人物について、疑問が生じる。
「そういや、よその学校にいる彼氏はどうなってんだ?」
千智は人差し指を立てて左右に振る。
「やぁね、校長避けに言ってる彼氏でしょ」
千智は恋話好きな校長を遠ざける目的で、他校に恋人がいるという建前を吹聴していた。学外に恋愛対象がいれば校長の観測から外れる、という理屈だ。
「多少は仲がよくなきゃ偽装できないだろ?」
「そうは言うけどねえ、あっちはあたしよか拓馬が好きなのよ」
拓馬は反射的に防御の姿勢をとる。千智はまちがって伝わった語意を弁解する。
「べつにホモホモしい意味じゃなくてね。拓馬は去年、空手の大会に参加してたでしょ。そこであんたが負かした子。おぼえてる?」
「いや、ぜんぜん……」
拓馬は自身が空手部に所属することさえわすれかけていた。今年から部員が自分だけになってしまい、現在は廃部同然の状態だ。
「今年は拓馬が出ないで県大会で優勝したから、悔しがってね。『あいつを倒さなくては本当の勝利はない』と意気込んでたわ」
「そう言われてもな……部員が卒業して、いなくなっちまったんだから出ようがない」
「個人の部で出場できたじゃない。拓馬ならいい成績だせたんじゃないの」
「俺は順位や勝ち負けに興味ねえんだ。普通に生活できりゃそれでいい」
拓馬が空手部に入部した理由は自己鍛錬であったり、周囲に流された結果であったりする。大会で優勝を目指す、といった欲求は皆無。そこが陸上部で好成績をのこす千智とは価値観が異なる部分だ。
そうこう話すうちに二人の昼食が終わる。拓馬はヤマダの様子を見た。すでにシドとは話がつき、彼女は自席へ着くところだった。その席とまわりはなぜか物で散らかっている。拓馬は荒れたヤマダの席へ近づく。
「なんでこんなに物をぶちまけてるんだ?」
「それが、弁当だけじゃなくて財布もわすれて。百円でものこってないか探してた」
おそらく、弁当がない代替案として昼食を買おうと考えたのだろう。昼食代さがしに荷物を漁った、という経緯だ。ヤマダは整理をはじめる。拓馬も床に落ちた物をひろおうとして、小さな巾着袋をもつ。水色がかった灰色の生地でできている。袋の中央をつまむと細長く硬い物の感触がした。
「それ、中にアメジストのかけらがある」
「紫水晶か。病気に効くとかなんとか、ミスミさんが言ってた気がする」
ヤマダの母は護符やパワーストーンに関心のある人だ。その影響でヤマダもお守りを常に所持している。
「そうそう、お母さんが私にくれた原石の残り。ほしかったらあげるよ」
「遠慮する。こういうので俺にくる災難が防げるとは思わねえから」
「苦労人の星の下で生まれた子には、効き目ないだろうね」
ヤマダは笑いながらも着実に収納を進めた。すっきり整頓ができて、ようやく弁当の包みを開ける。ラップにくるんだサンドイッチが並んでいた。そのひとつを拓馬に差し出す。
「これはあげる。サブちゃんのわがままに付きあってくれたお礼ね」
「お、いいのか」
拓馬は素直に受け取った。ヤマダがサンドイッチを昼食に持ってくるときは大抵多めに用意する。それは友人に与える分だ。たとえ昼食時に満腹でサンドイッチが食べられなくとも、放課後に食べるおやつにちょうどよい。
「お礼といや、シド先生のタイピン──」
「あれはわたしがもってたやつ」
「やっぱりか。たしかノブさんが使ってた」
「そう。オヤジがもう仕事でスーツを着る機会がないから、わたしにくれたタイピンね。まえにタッちゃんにあげようとしたら、いらないって言われた」
「ものすごく高そうで、もらえなかったな」
子どもが使うには高価すぎる素材でできた品物だった、と拓馬は記憶している。
「あげちゃっていいのか?」
「それがね、先生があんまりノリ気じゃなくて、一学期の間だけ貸すことになった」
「ノブさんには了解をもらったか?」
「『お前の好きにしろ』ってさ。わたしが持ってても使わないし、アグレッシブでジェントルな人に使われるのが一番いいんだよ」
ヤマダは相容れなさそうな形容詞を並べたが、二つともシドには適合する。あのように活発に動き回る人がそもそもネクタイピンを使わないのが奇妙なくらいだ。
「先生にはちょうどいいか。タイピンがあったらネクタイを損しなくてすんだだろうし」
「あー、あのネクタイはわたしが貰ったよ」
「直すのか?」
「生地を再利用して小物にするつもり」
ヤマダは「思い出の品になるよ」と付け加える。アレを思い出にしていいものか、と拓馬は心配しつつ席にもどる。不良の件も不審者のことも、これで収まった。平々凡々に過ごせる開放感に浸り、午後の授業を受けた。
だが千智は大男でなく、須坂の実姉である水卜律子を話題にとりあげた。顔の小ささや着ていた服など、拓馬には興味のない質問ばかりだ。千智にとって律子はあこがれの芸能人なようで、話はホームルーム開始まで続いた。
午前の授業が終わってなお千智の情熱は冷めなかった。拓馬は彼女と一緒に昼食をとる。
「記者ってのは芸能人を追いかけて、他県までくるんだな」
「知らない? 水卜律子のスキャンダル!」
千智はゴシップを周知の事実のように言い放つ。芸能関連にうとい拓馬には初耳だった。
「何ヶ月前だったか、同業の男と熱愛してるとさわがれたの。写真もおさえられたって」
「へー、めでたい話……じゃないのか?」
「全然! 相手の男にはほかにパートナーがいたんだから」
拓馬は耳を疑った。拓馬が会った女性は略奪愛をしでかす毒婦に見えなかったのだ。
「浮気だなんだってテレビでも言われてたはずよ。それで味を占めた連中が、新しい特ダネを集めにきてたんじゃないの」
水卜が須坂と会うのは週末の夜。意中の人のもとへ足繁く通っているとの邪推が成り立つ。若く美しい芸能人にはありがちな話だ。
「でもあれ、やらせかなにかに決まってる」
千智が息巻いた。他人の恋愛模様をそこまで言い切れるのか、と拓馬は疑問をいだく。
「なんでウソだとわかるんだ?」
「水卜さんの理想の男性像と全然ちがうもん。雑誌で『知的で優しい人が好み』だと言ってたのよ。あの俳優崩れったら、クイズ番組でおバカタレントといい勝負するバカ」
知的で優しい男性、と聞いて拓馬はシドを連想した。この場ではだまっておく。
「だいたい、ヤツはまぐれでヒット作を出した程度の落ちぶれた俳優よ。売れっ子で美人な水卜さんがなびかないって」
「じゃ、なんで一緒にいた?」
「罠よワナ! 水卜さんを使って、ヤツが返り咲こうとしてるんでしょ」
「そんなの、水卜さんが否定したらそれで終わりの話だろ?」
「ヤツは話題を集めれば仕事がもらえると思ってんじゃないの。バカだから目先のことしか考えられないのよ」
千智の意見は理屈に合っているようだ。ただしその根底には「あんな男は水卜律子にふさわしくない」という感情論がある。千智の願望が多分にふくんでいるやもしれず、拓馬は話半分に聞いておいた。
千智の熱弁が一段落ついたとき、三郎が声をかけてくる。
「くだんの不審者に出会ったときのこと、くわしく話してくれるか?」
朝は千智に拓馬を奪われ、聞き損ねた質問なのだろう。拓馬はかるく首をかしげる。
「もう全部伝えたよ。あいつは須坂の周りをうろついてる。たぶん須坂を守ってるんだろうけど、理由はさっぱりだ」
「うーむ、襲われた成石はめぐり合わせがわるかった、ということか……」
「須坂はしばらく姉と会わないそうだ。それで大男が現れなかったら一件落着だろ?」
「腑に落ちないが、様子を見てみるか。……協力に感謝する」
三郎は引きさがった。三郎の話が終わったのを見届けた千智が再度拓馬に話しかける。
「例の男の人を見たんでしょ。どんな人?」
「俺が見たのはシルエットだけだよ。須坂も、男がサングラスをかけてたせいで顔はわからなかったとさ」
「なぁんだ、カッコイイのかわかんないのね」
「カッコイイ、わるいはどうでもいいだろ。いまんとこストーカーだぞ、そいつ」
「そう? かよわい女の子を影で守るのってステキじゃない。あたしも守られてみたい」
拓馬は思わず出そうになった言葉を飲みくだした。男顔負けの脚力をもつ千智へ「お前は守られる必要がない」と言えば不機嫌になるのは目に見えていた。
「あ、本物のカッコイイ人がきたわ」
千智の視線は教室の出入り口にある。そこに褐色の肌の教師がいた。手には花柄の包みがある。彼のシックな装いにそぐわない模様だが、拓馬はその包みに見覚えがあった。ヤマダの私物だ。ヤマダが慌てた様子で、持ち物を届けに来た人物に駆けよる。
「先生! その弁当、だれから?」
「貴女のお母さんから預かりました。家にわすれていったそうですね」
「うん、そうなの。届けてくれてありがとう」
ヤマダは弁当を受け取った。教師が去るために足を引くのを、ヤマダが引き留める。
「あれ……先生、指輪は?」
「え? ああ、ありますよ」
シドはズポンのポケットから指輪を出した。彼はいつも白い宝石のついた指輪を左手の人差し指にはめていた。
「手をよごしたので、指輪を外して、洗ったままにしていました。よく気付きましたね」
「存在感あるからね、その指輪……タイピンとケンカしないデザインでよかった」
シドのみぞおち付近にはネクタイピンが装着してある。その装飾品は拓馬たちが不良少年と争ったあとに見かけるようになった。三色の宝石がはめこんであるのが特徴的だ。
「ええ、こちらのタイピンはとても役に立っています。ところで、この宝石になにか由来や意味はあるのでしょうか?」
「なんかあるらしいんだけど、はっきりしたことは知らない。それ、気になる?」
「実は校長がたいへん興味津々でして」
「だったらオヤジに聞いてよ。もし校長と一緒に聞くならジモンちの店でね」
千智は二人のやり取りを食い入るように見ている。かと思うと深いため息をつく。
「シド先生ってヤマちゃんがお気に入りよね。ちょっと妬けちゃう」
「そうか? いろんな女子に絡まれてるが」
その中には須坂の姿もあった。ただし彼女の場合はシドから話しかけており、むしろシドは須坂を気にしているように拓馬は感じた。
「そりゃそうだけど、あの二人が一緒なことが多くない? 体育祭の前後がとくに」
「あんときは先生、体操着が無かったからな。その貸し借りのときに接点は増えるさ」
「必要なときに必要な助けをしてあげる、てのがポイント高いのね。見習わなくちゃ」
千智は拓馬の主旨とは異なる理解を示した。拓馬はその読解を議論する気は起きない。かわりに千智の想い人だといわれる人物について、疑問が生じる。
「そういや、よその学校にいる彼氏はどうなってんだ?」
千智は人差し指を立てて左右に振る。
「やぁね、校長避けに言ってる彼氏でしょ」
千智は恋話好きな校長を遠ざける目的で、他校に恋人がいるという建前を吹聴していた。学外に恋愛対象がいれば校長の観測から外れる、という理屈だ。
「多少は仲がよくなきゃ偽装できないだろ?」
「そうは言うけどねえ、あっちはあたしよか拓馬が好きなのよ」
拓馬は反射的に防御の姿勢をとる。千智はまちがって伝わった語意を弁解する。
「べつにホモホモしい意味じゃなくてね。拓馬は去年、空手の大会に参加してたでしょ。そこであんたが負かした子。おぼえてる?」
「いや、ぜんぜん……」
拓馬は自身が空手部に所属することさえわすれかけていた。今年から部員が自分だけになってしまい、現在は廃部同然の状態だ。
「今年は拓馬が出ないで県大会で優勝したから、悔しがってね。『あいつを倒さなくては本当の勝利はない』と意気込んでたわ」
「そう言われてもな……部員が卒業して、いなくなっちまったんだから出ようがない」
「個人の部で出場できたじゃない。拓馬ならいい成績だせたんじゃないの」
「俺は順位や勝ち負けに興味ねえんだ。普通に生活できりゃそれでいい」
拓馬が空手部に入部した理由は自己鍛錬であったり、周囲に流された結果であったりする。大会で優勝を目指す、といった欲求は皆無。そこが陸上部で好成績をのこす千智とは価値観が異なる部分だ。
そうこう話すうちに二人の昼食が終わる。拓馬はヤマダの様子を見た。すでにシドとは話がつき、彼女は自席へ着くところだった。その席とまわりはなぜか物で散らかっている。拓馬は荒れたヤマダの席へ近づく。
「なんでこんなに物をぶちまけてるんだ?」
「それが、弁当だけじゃなくて財布もわすれて。百円でものこってないか探してた」
おそらく、弁当がない代替案として昼食を買おうと考えたのだろう。昼食代さがしに荷物を漁った、という経緯だ。ヤマダは整理をはじめる。拓馬も床に落ちた物をひろおうとして、小さな巾着袋をもつ。水色がかった灰色の生地でできている。袋の中央をつまむと細長く硬い物の感触がした。
「それ、中にアメジストのかけらがある」
「紫水晶か。病気に効くとかなんとか、ミスミさんが言ってた気がする」
ヤマダの母は護符やパワーストーンに関心のある人だ。その影響でヤマダもお守りを常に所持している。
「そうそう、お母さんが私にくれた原石の残り。ほしかったらあげるよ」
「遠慮する。こういうので俺にくる災難が防げるとは思わねえから」
「苦労人の星の下で生まれた子には、効き目ないだろうね」
ヤマダは笑いながらも着実に収納を進めた。すっきり整頓ができて、ようやく弁当の包みを開ける。ラップにくるんだサンドイッチが並んでいた。そのひとつを拓馬に差し出す。
「これはあげる。サブちゃんのわがままに付きあってくれたお礼ね」
「お、いいのか」
拓馬は素直に受け取った。ヤマダがサンドイッチを昼食に持ってくるときは大抵多めに用意する。それは友人に与える分だ。たとえ昼食時に満腹でサンドイッチが食べられなくとも、放課後に食べるおやつにちょうどよい。
「お礼といや、シド先生のタイピン──」
「あれはわたしがもってたやつ」
「やっぱりか。たしかノブさんが使ってた」
「そう。オヤジがもう仕事でスーツを着る機会がないから、わたしにくれたタイピンね。まえにタッちゃんにあげようとしたら、いらないって言われた」
「ものすごく高そうで、もらえなかったな」
子どもが使うには高価すぎる素材でできた品物だった、と拓馬は記憶している。
「あげちゃっていいのか?」
「それがね、先生があんまりノリ気じゃなくて、一学期の間だけ貸すことになった」
「ノブさんには了解をもらったか?」
「『お前の好きにしろ』ってさ。わたしが持ってても使わないし、アグレッシブでジェントルな人に使われるのが一番いいんだよ」
ヤマダは相容れなさそうな形容詞を並べたが、二つともシドには適合する。あのように活発に動き回る人がそもそもネクタイピンを使わないのが奇妙なくらいだ。
「先生にはちょうどいいか。タイピンがあったらネクタイを損しなくてすんだだろうし」
「あー、あのネクタイはわたしが貰ったよ」
「直すのか?」
「生地を再利用して小物にするつもり」
ヤマダは「思い出の品になるよ」と付け加える。アレを思い出にしていいものか、と拓馬は心配しつつ席にもどる。不良の件も不審者のことも、これで収まった。平々凡々に過ごせる開放感に浸り、午後の授業を受けた。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
2018年04月08日
拓馬篇−4章◆ ★
美弥の姉──律子はチェーン店での遅まきの夕食を注文し終えた。美弥は姉とともに、同席者の男子と向かい合う状態で、テーブル席に着いている。
律子は初対面の少年に声をかける。
「おごってあげるけど……なにも頼まなくていいの?」
「おかまいなく……」
この男子は一向に律子と目線を合わせない。角度的には顔を合わせても、べつのところに視線をやっているように見えた。そんなふうに、男性が律子を直視できない理由はある。律子は子役上がりの女優である。成長してからは容貌にますます磨きが入り、その容姿を前にして照れてしまうのだ。あるいは著名な人物と出会った興奮をおさえる、ということありえそうだ。
ところが、根岸からは浮ついた感情が伝わってこなかった。美弥には彼の反応が純粋な人見知りのように感じた。あるいは女性慣れしていないウブな少年のようでもある。
(女の免疫があると思ってたけど)
根岸という男子は女子生徒との交友がある。そのやり取りの印象では、彼はどこかしら女子を異性に見ていないふしがあった。とくにヤマダとあだ名される女子との仲が顕著だ。ヤマダは樺島融子という歌手と似た容姿をしており、その歌手は人を選ぶタイプの美人だ。最大公約数的に好かれる律子とはちがった魅力の持ち主とはいえ、そういった美人に似た女子を友とする男子なのだ。彼ならば律子相手にも平然と接すると美弥は期待していた。
(仙谷のほうはぜんぜん、いつもと変わらなかったのに)
仙谷とは大型連休中、個人経営の喫茶店で鉢合わせになった。そのときの彼は店の従業員で、料理を運んだり食器を片づけたりといった雑用をしていた。その店は本来、女性従業員ばかり勤めている。仙谷は繁忙期の助っ人に入ったのだという。男性店員がいない店だと思って安心していた美弥には衝撃的な出会いだった。
そのときの美弥は律子同伴で店を訪れており、仙谷の興味は美弥にばかり注がれた。彼の関心は、美弥が知らぬ間に遭遇する不審人物にあった。その態度は学校で見かけた様子と同じであり、美貌の有名人がそばにいても仙谷は意に介さなかった。
仙谷の質問を受けるさなか、律子は正直に不審者の存在におじけづくことを話した。それを知ったときの仙谷は、カッコいいところを美女に見せようという虚栄心なく、義憤に駆られていた。その熱意を美弥はうっとうしいと感じた。その反面、この男子は打算抜きで行動する人物だと信じるようになった。
律子に群がる男にはよく、律子を利用する目的で近づく者がいる。そいつらは律子に損な役回りをさせることで、自己の満足を得ようとするのだ。今晩駅舎で遭遇した二人組がまさにそうだ。彼らは有名人の私生活を暴露しようとした記者。ああいう詮索をするやからを、美弥は嫌う。他人が知らなくてもよいことを根掘り葉掘りほじくる無粋さといい、有る事ない事を書きたてるでたらめさもヘドが出るほど汚らわしく思っている。そういった心無い記者のせいで美弥は以前いた学校から追い出され、転校する事態になった。今日会った連中が、美弥の環境を変えた記者と同一かはわからないが、美弥は自分の受けた不合理を怒りに転換せずにはいられなかった。
そういった利己的な男どもがいたせいで、美弥は男性を毛嫌いするようになった。しかしそう見下げ果てなくてもいい男性もいると、最近の美弥は考え直しつつある。
根岸はバツがわるそうに「二人は姉妹で合ってるか?」と美弥にたずねてきた。そんなことは仙谷から聞いているだろうが、これはあくまで確認だ。
「ええ、姉妹よ」
「お姉さんの名字は水卜《みうら》……だよな。芸名?」
根岸は姉妹の名乗る姓がちがうのを理由に、まことの姉妹かどうか確証を得られなかったらしい。美弥は「昔は母の名字を名乗っていたの」と事実を話す。
「水卜で名前が通ってるから、戸籍の名前が変わっても仕事ではそのままにしてる」
「お母さんが再婚して、須坂になったと?」
「そう思ってていい」
美弥は真相を明かさなかった。母が他界したあと、父が娘二人を引き取ったことは、この場ではなんの用も成さない情報だ。いま話すべきは、複雑な身の上話ではない。
歓談中とは言えない空気の中、律子の注文した料理が運ばれてきた。美弥の姉がひとり、夕食を食べる。
「なんだか悪いわね、一人だけ食べて」
「いいの、私は根岸くんと話がしたいから」
優しい声色とは裏腹に、美弥は根岸への詰問の姿勢をとる。対する根岸は冷水の入ったコップに口をつけた。
「今日は何人で捜査ごっこをやってたの?」
「全員の名前をあげろってか?」
根岸は美弥相手には遠慮のない語勢で言ってくる。若干反抗的な態度とも取れなくはないが、美弥は根岸のことを話の通じる相手だと認めているので、そこは見過ごす。
「べつに、だいたいは想像つくから言わなくてもいい」
「じゃあなんで聞いた?」
「あなたもその仲間も、こんなことしててなんになるの? それがわからない」
「三郎の気がすむようにしてるんだ。あいつが騒がなきゃ、俺だって家でおとなしくしてるよ」
仙谷がいなければ根岸は捜査ごっこをしない。その明言は、根岸が自発的に美弥たちを助けようとしていないことを指している。それが常識的な姿勢とはいえ、美弥は根岸の非協力的な発言に落胆する。
「……そう。じゃ、私がへんな男につきまとわれてると知っても、なにもしたくはないのね」
「なにもしないってことはない」
根岸は決然と言いきる。
「そういう変質者の対処が上手な知り合いがいるんだ。その人に相談はする」
「へえ、じゃあその人にはこのことを言ってあるの?」
「もう知ってるよ。須坂が駅に行った帰りに、倒れてる成石を見つけたって。それからは成石をおそった犯人を捜してくれてる」
美弥のあずかり知らぬところで協力者がいる。その事実を知った美弥は胸がかるくなった気した。この土地では、他者に救いの手をのばす者がこんなにもいるのだ。以前の美弥の環境では考えられないことだ。
「その知り合いは警官だ。もし犯人の特徴がわかるなら、その人に伝えれば早く解決できると思う。なにか教えてくれるか?」
「で、私があなたに教えたことは仙谷くんにも伝えるの?」
美弥は半分冗談で質問した。根岸は「そうなるな」とあっさり認める。
「あいつに言ったところで、どうなるもんでもなさそうだけど……言わなきゃあいつは納得しねえから」
「めんどくさい友だちなのね」
「まーな。でもイヤなとこがひとつあるからって拒んでいられないだろ? そんなんじゃ、だれとも人付き合いができなくなるし──」
ずいぶん大人びた思想だと美弥は思った。自身はのぞまぬ危険に、友人の要求で立ち向かわされるのを、たった一つの友人の短所として大目に見る。その度量の広さは感嘆に値する。
(冷めてるみたいでも、お人好しね……)
根岸は他者への関心のうすい人間に見えるが、ひとたび親しくなってしまえば情け深い性格が出てくるようだ。その情が、美弥にも発揮されるのだろうか。そんなことを美弥が思ううち、話題は警官への情報提供向けの聴取に変わる。
「今日出くわした、へんな男って二種類いたよな。カメラを持ってた男二人と、馬鹿力な大男」
「あなた、ずっと見てたの?」
「ああ、見張ってた」
根岸は臆面もなく白状した。美弥が彼を非難するつもりがないことは前もって伝えたため、発言に遠慮や虚飾はしていないようだ。
「須坂はどっちが成石に手ぇ出したやつだと思う?」
「それは大男のほうね」
「なんでそう思う?」
「カメラマンのほうは記者だもの。雑誌のネタさがしにお姉ちゃんを尾行してたわけ。妹の私のほうを追いかけないと思う。今日だってあいつらは電車に乗って、お姉ちゃんのことを調べてたし……」
「そう、か……いまのとこ、須坂が駅にいく道中に不審者が出てるもんな」
根岸は苦々しい顔で美弥の意見に同意した。その反応の意図が不明である。
「大男が犯人だと、都合がわるいの?」
「そりゃあ、あんなに強いやつは俺らにゃどうしようもないからな。普通の警官でもムリあるぞ」
大男は怪力のうえに俊敏さもあわせ持っていた。並大抵の武道修練者では対抗できなさそうだ。ならば根岸の知人だという警官も、太刀打ちできないのではないか。
「じゃあ、あなたの知り合いもお手上げ?」
美弥は率直な疑問を投げた。そこに根岸たちの実力不足をなじる意図はない。「そうだ」と根岸が答えるものと予想していたが、意外にも彼は「いや、大丈夫」と言う。
「居所さえわかれば、あの人はとっつかまえてくれる」
「そんなに強い人なの?」
「強い仲間がいっぱいいる人だよ」
警官の仲間、といえば同職の警官か。現在の美弥の被害の度合いからは、ひとりの警官さえ動員できる気がしない。夜に出歩かなければいい──そんな短絡的な自衛策を講じられて、あとは無視を決めこまれそうだ。美弥は根岸の主張が絵空事に感じる。
「まだ事件にもなってないのに、警官がたくさんうごける?」
「そのへんは企業秘密ってことで、聞かないでくれるか」
「むりなら『無理』だと言っていいのよ」
「気休めで言ってるんじゃない」
根岸はやや強い口調で否定した。彼は甘言を弄しているわけではないらしい。
「とにかく、いまはすこしでも手がかりがほしい」
きつく当たったのを反省してか、根岸の声がやさしくなる。
「あの帽子の男がお前をつけまわす理由、なんか心当たりあるか?」
「ぜんぜんない。いままで会ったことだってないもの」
「目的がさっぱりわかんねえんだな」
「私を守ってくれてるみたいだけど、どうしてなのかがわからきなゃ、不気味で……」
「良い人ぶってるすきを狙って、なにかされでもしたら──」
不穏なことを言いかける根岸に「ねえ」と律子が口をはさむ。律子はすっかり食事を食べきっていた。
「わたしたち、しばらく会わないほうがいいのかしら?」
その案は美弥も考えていたことだ。しかし実行するには姉の負担も大きい。
「今日会った男の人、美弥がわたしと会うときに現れるんでしょう。わたしたちが会うのをやめたらいなくなるんじゃない?」
美弥はしばし姉を見つめた。律子の訪問は律子自身の心の安定のためにしていることだ。彼女がもっとも信頼する者が妹であり、そう自負するがゆえに美弥も姉の来訪を止めないでいた。
「……そうね、それが無難かも。でも、いいの?」
「美弥が心配で会いにきていたけれど、そのせいで心配事が増えるんじゃ意味ないもの」
律子の言い分と美弥の考えが正反対になっている。これは根岸という第三者に向けての虚勢だと、美弥は判断した。大の女優が未成年の子どもを心の支えにしている、などという弱さをひけらかしたくないのだ。
律子の承諾を美弥が反対する理由はない。だが賛同を確信できない他人はいる。
「根岸くんもそれでいい?」
「へ? なんで俺に聞くんだ」
根岸は呆然とした。当然といえば当然だ。彼も被害者のうちである。美弥は彼を経由して仙谷に伝えてもらうつもりで、話をすすめる。
「あの男の人がいなくなったら、捜査ごっこができなくなるでしょ」
「それは俺の趣味じゃない。俺も、騒ぎの原因がなくなれば御の字だよ」
「じゃあ、決まりね」
根岸の同意を得ての決定なら、仙谷も納得がいくはず。美弥は大男とは別種の騒がしい人物が鎮静化するのを期待した。
対談のめどがつき、美弥たちは喫茶店を出る。店の外で根岸が「アパートまでおくろうか」と提案したが、その必要はないと美弥はことわる。
「あなたも早く帰ったら? 仙谷くんとつもる話があるんじゃないの」
「まあ、今日あったことは知らせるつもりだけど……あ、そうだ」
根岸は大男の身体的特徴をたずねてきた。間近で目撃した美弥でしか知り得ぬことを聞きだそうとしているのだ。だが美弥は根岸が気付いた以上のことは言えない。大男はあまりに突然な登場を果たしたため、念入りな観察ができなかった。
「ごめんなさい。あんまり、見てなかった」
「顔も見えなかったか?」
「顔? そういえば──」
目元がまったくわからなかった。あれは、黒いレンズの眼鏡をかけていたのだろうか。
「たぶん、サングラスをかけてた。そのせいで、ぜんぜん顔がわからない」
「こんな夜に、サングラスを?」
「変装かしらね、お姉ちゃんもよくかけるし」
律子がバッグから濃い色のレンズの眼鏡を出してみせる。彼女は駅で美弥と会うまで、そのサングラスをかけていた。もちろん変装目当てである。
根岸はうーんとうなる。疑問がさらに疑問をよんでいるようだ。
「そういう変装って、自分を知ってるだれかに、自分だと気付かれたくないからやることだろ?」
「お姉ちゃんの場合はそうね。だったらなに、あのサングラスの男も、有名人だっていうの?」
「いや……その、水卜さんの知り合いかもしれないと思って」
その可能性はある。顔の広い律子を慕う者が、ふびんな女性とその妹を守ろうとする、という可能性が。
「須坂たちの知ってる人のなかに、あんなゴツイ男はいるかな?」
「ううん、知らない。お姉ちゃんはどう?」
律子は首を横にふる。
「ああいう筋肉質な男の人とは仕事で何人か会ったことあるけど、ちがう人ね。まず、声がはじめて聞く感じだった──」
根岸が「あの男、しゃべってたのか?」と美弥に聞いた。遠巻きに見ていた彼には知り得ないことだ。美弥はサングラスの男の言動を根岸に説明する。
「えっと、たしか……記者のカメラを壊したときに『二度と近づくな』って、連中をおどしてた。私が食ってかかったから、あいつらが私たちの敵だと、あのサングラスの人は思ったんでしょうね」
現段階では、奇妙な男は美弥たちを助けてくれている。そのことを知った根岸は「話を聞いてるだけだといい人っぽいんだがなぁ」と割り切れない感想を述べた。
「私たちがわかるのはこのくらいね。あとはダメもとで警察官の人にも言っておいて」
「ああ、そうする」
事情聴取に満足がいった根岸は帰路についた。美弥も下宿先へ向かうつもりで姉の様子を見る。律子はなぜだかほほえんでいた。
「お姉ちゃん?」
「男の子とも、ふつうに話せてるのね」
律子は美弥の男性への態度が軟化したことによろこんでいるらしい。言外に恋話めいた冷やかしを美弥は感じた。姉が妙な期待を持たぬよう、先手を打つ。
「あの子は……私に興味がないから、あんまり男だと思わずに話せるみたい」
「そうなの? 最初はなんだか照れてるみたいだったけれど」
「あれはお姉ちゃんを意識してたのよ。学校じゃ、ああはならない」
美弥はアパートを目指しつつ、学校でのクラスメイトの話をした。その話はこれまでにも何度か告げてある。今日はとりわけ、美弥のまわりで起きる事件に首をつっこむ生徒について紹介した。
今回の帰り道は、倒れている人を発見しなかった。本日あの大男が襲撃した対象は記者二人だけ。それも憎たらしい連中を成敗してくれたのだ。美弥は胸がすく思いがした。
律子は初対面の少年に声をかける。
「おごってあげるけど……なにも頼まなくていいの?」
「おかまいなく……」
この男子は一向に律子と目線を合わせない。角度的には顔を合わせても、べつのところに視線をやっているように見えた。そんなふうに、男性が律子を直視できない理由はある。律子は子役上がりの女優である。成長してからは容貌にますます磨きが入り、その容姿を前にして照れてしまうのだ。あるいは著名な人物と出会った興奮をおさえる、ということありえそうだ。
ところが、根岸からは浮ついた感情が伝わってこなかった。美弥には彼の反応が純粋な人見知りのように感じた。あるいは女性慣れしていないウブな少年のようでもある。
(女の免疫があると思ってたけど)
根岸という男子は女子生徒との交友がある。そのやり取りの印象では、彼はどこかしら女子を異性に見ていないふしがあった。とくにヤマダとあだ名される女子との仲が顕著だ。ヤマダは樺島融子という歌手と似た容姿をしており、その歌手は人を選ぶタイプの美人だ。最大公約数的に好かれる律子とはちがった魅力の持ち主とはいえ、そういった美人に似た女子を友とする男子なのだ。彼ならば律子相手にも平然と接すると美弥は期待していた。
(仙谷のほうはぜんぜん、いつもと変わらなかったのに)
仙谷とは大型連休中、個人経営の喫茶店で鉢合わせになった。そのときの彼は店の従業員で、料理を運んだり食器を片づけたりといった雑用をしていた。その店は本来、女性従業員ばかり勤めている。仙谷は繁忙期の助っ人に入ったのだという。男性店員がいない店だと思って安心していた美弥には衝撃的な出会いだった。
そのときの美弥は律子同伴で店を訪れており、仙谷の興味は美弥にばかり注がれた。彼の関心は、美弥が知らぬ間に遭遇する不審人物にあった。その態度は学校で見かけた様子と同じであり、美貌の有名人がそばにいても仙谷は意に介さなかった。
仙谷の質問を受けるさなか、律子は正直に不審者の存在におじけづくことを話した。それを知ったときの仙谷は、カッコいいところを美女に見せようという虚栄心なく、義憤に駆られていた。その熱意を美弥はうっとうしいと感じた。その反面、この男子は打算抜きで行動する人物だと信じるようになった。
律子に群がる男にはよく、律子を利用する目的で近づく者がいる。そいつらは律子に損な役回りをさせることで、自己の満足を得ようとするのだ。今晩駅舎で遭遇した二人組がまさにそうだ。彼らは有名人の私生活を暴露しようとした記者。ああいう詮索をするやからを、美弥は嫌う。他人が知らなくてもよいことを根掘り葉掘りほじくる無粋さといい、有る事ない事を書きたてるでたらめさもヘドが出るほど汚らわしく思っている。そういった心無い記者のせいで美弥は以前いた学校から追い出され、転校する事態になった。今日会った連中が、美弥の環境を変えた記者と同一かはわからないが、美弥は自分の受けた不合理を怒りに転換せずにはいられなかった。
そういった利己的な男どもがいたせいで、美弥は男性を毛嫌いするようになった。しかしそう見下げ果てなくてもいい男性もいると、最近の美弥は考え直しつつある。
根岸はバツがわるそうに「二人は姉妹で合ってるか?」と美弥にたずねてきた。そんなことは仙谷から聞いているだろうが、これはあくまで確認だ。
「ええ、姉妹よ」
「お姉さんの名字は水卜《みうら》……だよな。芸名?」
根岸は姉妹の名乗る姓がちがうのを理由に、まことの姉妹かどうか確証を得られなかったらしい。美弥は「昔は母の名字を名乗っていたの」と事実を話す。
「水卜で名前が通ってるから、戸籍の名前が変わっても仕事ではそのままにしてる」
「お母さんが再婚して、須坂になったと?」
「そう思ってていい」
美弥は真相を明かさなかった。母が他界したあと、父が娘二人を引き取ったことは、この場ではなんの用も成さない情報だ。いま話すべきは、複雑な身の上話ではない。
歓談中とは言えない空気の中、律子の注文した料理が運ばれてきた。美弥の姉がひとり、夕食を食べる。
「なんだか悪いわね、一人だけ食べて」
「いいの、私は根岸くんと話がしたいから」
優しい声色とは裏腹に、美弥は根岸への詰問の姿勢をとる。対する根岸は冷水の入ったコップに口をつけた。
「今日は何人で捜査ごっこをやってたの?」
「全員の名前をあげろってか?」
根岸は美弥相手には遠慮のない語勢で言ってくる。若干反抗的な態度とも取れなくはないが、美弥は根岸のことを話の通じる相手だと認めているので、そこは見過ごす。
「べつに、だいたいは想像つくから言わなくてもいい」
「じゃあなんで聞いた?」
「あなたもその仲間も、こんなことしててなんになるの? それがわからない」
「三郎の気がすむようにしてるんだ。あいつが騒がなきゃ、俺だって家でおとなしくしてるよ」
仙谷がいなければ根岸は捜査ごっこをしない。その明言は、根岸が自発的に美弥たちを助けようとしていないことを指している。それが常識的な姿勢とはいえ、美弥は根岸の非協力的な発言に落胆する。
「……そう。じゃ、私がへんな男につきまとわれてると知っても、なにもしたくはないのね」
「なにもしないってことはない」
根岸は決然と言いきる。
「そういう変質者の対処が上手な知り合いがいるんだ。その人に相談はする」
「へえ、じゃあその人にはこのことを言ってあるの?」
「もう知ってるよ。須坂が駅に行った帰りに、倒れてる成石を見つけたって。それからは成石をおそった犯人を捜してくれてる」
美弥のあずかり知らぬところで協力者がいる。その事実を知った美弥は胸がかるくなった気した。この土地では、他者に救いの手をのばす者がこんなにもいるのだ。以前の美弥の環境では考えられないことだ。
「その知り合いは警官だ。もし犯人の特徴がわかるなら、その人に伝えれば早く解決できると思う。なにか教えてくれるか?」
「で、私があなたに教えたことは仙谷くんにも伝えるの?」
美弥は半分冗談で質問した。根岸は「そうなるな」とあっさり認める。
「あいつに言ったところで、どうなるもんでもなさそうだけど……言わなきゃあいつは納得しねえから」
「めんどくさい友だちなのね」
「まーな。でもイヤなとこがひとつあるからって拒んでいられないだろ? そんなんじゃ、だれとも人付き合いができなくなるし──」
ずいぶん大人びた思想だと美弥は思った。自身はのぞまぬ危険に、友人の要求で立ち向かわされるのを、たった一つの友人の短所として大目に見る。その度量の広さは感嘆に値する。
(冷めてるみたいでも、お人好しね……)
根岸は他者への関心のうすい人間に見えるが、ひとたび親しくなってしまえば情け深い性格が出てくるようだ。その情が、美弥にも発揮されるのだろうか。そんなことを美弥が思ううち、話題は警官への情報提供向けの聴取に変わる。
「今日出くわした、へんな男って二種類いたよな。カメラを持ってた男二人と、馬鹿力な大男」
「あなた、ずっと見てたの?」
「ああ、見張ってた」
根岸は臆面もなく白状した。美弥が彼を非難するつもりがないことは前もって伝えたため、発言に遠慮や虚飾はしていないようだ。
「須坂はどっちが成石に手ぇ出したやつだと思う?」
「それは大男のほうね」
「なんでそう思う?」
「カメラマンのほうは記者だもの。雑誌のネタさがしにお姉ちゃんを尾行してたわけ。妹の私のほうを追いかけないと思う。今日だってあいつらは電車に乗って、お姉ちゃんのことを調べてたし……」
「そう、か……いまのとこ、須坂が駅にいく道中に不審者が出てるもんな」
根岸は苦々しい顔で美弥の意見に同意した。その反応の意図が不明である。
「大男が犯人だと、都合がわるいの?」
「そりゃあ、あんなに強いやつは俺らにゃどうしようもないからな。普通の警官でもムリあるぞ」
大男は怪力のうえに俊敏さもあわせ持っていた。並大抵の武道修練者では対抗できなさそうだ。ならば根岸の知人だという警官も、太刀打ちできないのではないか。
「じゃあ、あなたの知り合いもお手上げ?」
美弥は率直な疑問を投げた。そこに根岸たちの実力不足をなじる意図はない。「そうだ」と根岸が答えるものと予想していたが、意外にも彼は「いや、大丈夫」と言う。
「居所さえわかれば、あの人はとっつかまえてくれる」
「そんなに強い人なの?」
「強い仲間がいっぱいいる人だよ」
警官の仲間、といえば同職の警官か。現在の美弥の被害の度合いからは、ひとりの警官さえ動員できる気がしない。夜に出歩かなければいい──そんな短絡的な自衛策を講じられて、あとは無視を決めこまれそうだ。美弥は根岸の主張が絵空事に感じる。
「まだ事件にもなってないのに、警官がたくさんうごける?」
「そのへんは企業秘密ってことで、聞かないでくれるか」
「むりなら『無理』だと言っていいのよ」
「気休めで言ってるんじゃない」
根岸はやや強い口調で否定した。彼は甘言を弄しているわけではないらしい。
「とにかく、いまはすこしでも手がかりがほしい」
きつく当たったのを反省してか、根岸の声がやさしくなる。
「あの帽子の男がお前をつけまわす理由、なんか心当たりあるか?」
「ぜんぜんない。いままで会ったことだってないもの」
「目的がさっぱりわかんねえんだな」
「私を守ってくれてるみたいだけど、どうしてなのかがわからきなゃ、不気味で……」
「良い人ぶってるすきを狙って、なにかされでもしたら──」
不穏なことを言いかける根岸に「ねえ」と律子が口をはさむ。律子はすっかり食事を食べきっていた。
「わたしたち、しばらく会わないほうがいいのかしら?」
その案は美弥も考えていたことだ。しかし実行するには姉の負担も大きい。
「今日会った男の人、美弥がわたしと会うときに現れるんでしょう。わたしたちが会うのをやめたらいなくなるんじゃない?」
美弥はしばし姉を見つめた。律子の訪問は律子自身の心の安定のためにしていることだ。彼女がもっとも信頼する者が妹であり、そう自負するがゆえに美弥も姉の来訪を止めないでいた。
「……そうね、それが無難かも。でも、いいの?」
「美弥が心配で会いにきていたけれど、そのせいで心配事が増えるんじゃ意味ないもの」
律子の言い分と美弥の考えが正反対になっている。これは根岸という第三者に向けての虚勢だと、美弥は判断した。大の女優が未成年の子どもを心の支えにしている、などという弱さをひけらかしたくないのだ。
律子の承諾を美弥が反対する理由はない。だが賛同を確信できない他人はいる。
「根岸くんもそれでいい?」
「へ? なんで俺に聞くんだ」
根岸は呆然とした。当然といえば当然だ。彼も被害者のうちである。美弥は彼を経由して仙谷に伝えてもらうつもりで、話をすすめる。
「あの男の人がいなくなったら、捜査ごっこができなくなるでしょ」
「それは俺の趣味じゃない。俺も、騒ぎの原因がなくなれば御の字だよ」
「じゃあ、決まりね」
根岸の同意を得ての決定なら、仙谷も納得がいくはず。美弥は大男とは別種の騒がしい人物が鎮静化するのを期待した。
対談のめどがつき、美弥たちは喫茶店を出る。店の外で根岸が「アパートまでおくろうか」と提案したが、その必要はないと美弥はことわる。
「あなたも早く帰ったら? 仙谷くんとつもる話があるんじゃないの」
「まあ、今日あったことは知らせるつもりだけど……あ、そうだ」
根岸は大男の身体的特徴をたずねてきた。間近で目撃した美弥でしか知り得ぬことを聞きだそうとしているのだ。だが美弥は根岸が気付いた以上のことは言えない。大男はあまりに突然な登場を果たしたため、念入りな観察ができなかった。
「ごめんなさい。あんまり、見てなかった」
「顔も見えなかったか?」
「顔? そういえば──」
目元がまったくわからなかった。あれは、黒いレンズの眼鏡をかけていたのだろうか。
「たぶん、サングラスをかけてた。そのせいで、ぜんぜん顔がわからない」
「こんな夜に、サングラスを?」
「変装かしらね、お姉ちゃんもよくかけるし」
律子がバッグから濃い色のレンズの眼鏡を出してみせる。彼女は駅で美弥と会うまで、そのサングラスをかけていた。もちろん変装目当てである。
根岸はうーんとうなる。疑問がさらに疑問をよんでいるようだ。
「そういう変装って、自分を知ってるだれかに、自分だと気付かれたくないからやることだろ?」
「お姉ちゃんの場合はそうね。だったらなに、あのサングラスの男も、有名人だっていうの?」
「いや……その、水卜さんの知り合いかもしれないと思って」
その可能性はある。顔の広い律子を慕う者が、ふびんな女性とその妹を守ろうとする、という可能性が。
「須坂たちの知ってる人のなかに、あんなゴツイ男はいるかな?」
「ううん、知らない。お姉ちゃんはどう?」
律子は首を横にふる。
「ああいう筋肉質な男の人とは仕事で何人か会ったことあるけど、ちがう人ね。まず、声がはじめて聞く感じだった──」
根岸が「あの男、しゃべってたのか?」と美弥に聞いた。遠巻きに見ていた彼には知り得ないことだ。美弥はサングラスの男の言動を根岸に説明する。
「えっと、たしか……記者のカメラを壊したときに『二度と近づくな』って、連中をおどしてた。私が食ってかかったから、あいつらが私たちの敵だと、あのサングラスの人は思ったんでしょうね」
現段階では、奇妙な男は美弥たちを助けてくれている。そのことを知った根岸は「話を聞いてるだけだといい人っぽいんだがなぁ」と割り切れない感想を述べた。
「私たちがわかるのはこのくらいね。あとはダメもとで警察官の人にも言っておいて」
「ああ、そうする」
事情聴取に満足がいった根岸は帰路についた。美弥も下宿先へ向かうつもりで姉の様子を見る。律子はなぜだかほほえんでいた。
「お姉ちゃん?」
「男の子とも、ふつうに話せてるのね」
律子は美弥の男性への態度が軟化したことによろこんでいるらしい。言外に恋話めいた冷やかしを美弥は感じた。姉が妙な期待を持たぬよう、先手を打つ。
「あの子は……私に興味がないから、あんまり男だと思わずに話せるみたい」
「そうなの? 最初はなんだか照れてるみたいだったけれど」
「あれはお姉ちゃんを意識してたのよ。学校じゃ、ああはならない」
美弥はアパートを目指しつつ、学校でのクラスメイトの話をした。その話はこれまでにも何度か告げてある。今日はとりわけ、美弥のまわりで起きる事件に首をつっこむ生徒について紹介した。
今回の帰り道は、倒れている人を発見しなかった。本日あの大男が襲撃した対象は記者二人だけ。それも憎たらしい連中を成敗してくれたのだ。美弥は胸がすく思いがした。