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2018年04月27日

拓馬篇−5章◆ ★

 日付がもうじき変わるころ、ヤマダは夜道を歩いていた。その動機は父が勤務先の店でわすれてきた手帳を取りにいくこと。いまの父は酩酊しており、足元がふらつくありさまだったので、娘が代わりに店まで向かう。娘を送り出す父は例の大男の出没を心配し、家にある木刀を持っていくよう勧めたが、ヤマダは断った。そんな棒切れで対処できる相手ではないとわかっていたからだ。それに、大男が気に掛ける少女はしばらく夜間の外出をしない。その男が出る可能性は低かった。

 ヤマダが歩を進めていると、街灯の光の中に影がよぎる。ヤマダはびっくりして、足を止めた。目を凝らし、影が何者なのか確認する。背の高い人だ。高い位置にあるつば広の帽子、父以上に大きな体。それらの特徴をありのままに目にすると、ヤマダの全身に緊張が走った。
 噂に聞いた対象が、いる。よもやあらわれはしないと思っていた存在だ。
(引き返す?)
 だが遺失物を一晩放置しておくわけにはいかない。店にはせっかちな店員がいる。その人物はジモンの母。彼女は息子とちがって効率的、かつ人情に欠けた速断をする場合がある。この状況下で起こりうるのは、店内の清掃の邪魔になる遺失物をばっさり廃棄すること。というのも、店の本格的な清掃は従業員が帰ったあとにジモン一家がおこなう。それゆえ、忘れ物を回収するならいまがチャンスだ。
 どうしたものかとヤマダは迷う。
(でも、あの人におそわれると決まっちゃいないし……)
 まだこちらに勘付いていないのかもしれない。ここは待機し、大男に先行させることにした。ヤマダは電灯付きの電信柱の影に隠れる。
(だいたい、あの人がわたしを捕まえる意味がある?)
 大男は不審者ではあるが、変質者とは毛色のちがった人物。なんらかの信条にもとづいて行動する男性であり、その行動理由にヤマダは抵触しないはずだ。そのように考え、ヤマダは平常心をとりもどした。
 問題の人影が見えなくなる。不可解な対象は遠のいた。ヤマダが歩こうとしたとき、後方に奇異な気配を感じた。体を圧迫するなにか。
(なにもいないはず……)
 と思いつつも、右拳を思いきり後ろへ振る。放った裏拳は、なにかに接触する。
(え、人?)
 ヤマダの右手は大きな手の中に収まった。何者かが拳を受け止めたのだ。その人物は、ヤマダの視界では顔が入りきらなかった。いま見えるのは、厚い胸元だ。
「……よく、気が付いた」
 低い声だった。ヤマダが声の主を見上げてみる。相手の目元は黒いレンズの眼鏡でおおわれていた。暗い夜にもかかわらずサングラスをかけた大男。拓馬が伝えてくれた通りの外見だ。ヤマダは瞬時に自身の危急をさとった。
「大人しくしていれば痛いことはしない」
 次の瞬間、視界が旋回した。大男に腕を引っ張られ、ヤマダは背後をとられる。痛めつけない、との宣言と捕縛術のごとき行動は言行が一致していない。そう感じたヤマダは不信がこみあげる。
「わたしを捕まえて、なにする気だ!」
 ヤマダはさけんだ。その行為には、緊急事態を近隣住民へ伝える意図もあった。
「力を分けてもらう」
 案外、大男は素直に答えた。話せばわかる人かも、とヤマダは希望が湧く。だがその言葉の意味はよくわからない。
「チカラって? 栄養ドリンクじゃダメ?」
「……こちらの人間が摂る栄養では足りん」
「『こちら』って……じゃあ、あなたはちがう世界の人?」
 拓馬には年上の知人がおり、その人物が訪れたという異世界がある。その知人はそこから特殊な犬猫らを呼び出し、日々人助けをしているのだ。彼は拓馬の知り合いゆえに、ヤマダは直接話を交わした経験がない。かの人物に、いろいろとたずねてみたいという知的好奇心をずっとおさえていた。欲求を満たせる人物がこの場にいる。ヤマダは大男への恐怖よりも好奇が上回ってきた。
「いずれわかる」
 大男の手のひらがヤマダの顎に当たる。彼の指がヤマダの頬をつつんだ。思いのほかソフトに触れられており、ヤマダはこの態勢に危険を感じなかった。そのまま話を続ける。
「力をあなたにあげたら、わたしはどうなるの?」
「どうもしない。眠くなるだけだ」
「いまねちゃったらマズイよ。オヤジの忘れ物を取りにいくところなんだから」
 大男は返答しない。ヤマダがあまりに普通に物を言うので、彼が当惑したかのような雰囲気が伝わった。ヤマダ自身も、この状況下で平常心をたもつ己が奇特だと思う。なぜだか、彼とは常識的な出会い方をすれば友人になれる気さえしていた。ヤマダは大男への理解を深めたいと考えたが、徐々に体の力が抜けてきて、思考がにぶくなる。
(ほんとに、眠気がきた……)
 大男の宣告通りだ。彼が手にかけた被害者のように、野宿させられてしまうのだろうか。ヤマダは外でねたくない、と意思表明したかった。しかし声が出なかった。
 ヤマダが睡魔におそわれる中、かすかに人の声が耳にとどく。声は一種類のみ。電話を通じての会話中らしい。電話中の人物がヤマダの視界に入る。ヤマダは内心驚いた。あの長めな金髪は三郎たちが挑んだ不良集団のリーダーだ。
「……このあたりの野郎だってわかってる──」
 金髪はずんずんとヤマダたちのいるほうへ近寄ってくる。彼は通話に夢中になっているのか、ヤマダたちを視認できる範囲に入っても反応はない。
「…………あんな暴力教師にビビってられるか! 情けねえ──」
 自分を痛めつけた者たちへの報復を画策しているようだ。その場にいたヤマダも対象だろう。ヤマダはこの現況こそをマズイと感じた。こちらは穏便にすませられそうにない。
「馬鹿なことを……」
 頭上より憤慨が混じる声が漏れる。大男の非難は金髪がヤマダらの目の前を通過する際に発せられた。至近距離での発話があっても、金髪は無人のごとき態度をつらぬく。
(もしかして、わたしたちが見えてない?)
 姿が消え、発した言葉も常人には感知できない──それは人ならざる者たちが有する特徴だ。どういうわけか、ヤマダもその同類と化しているらしかった。
 金髪の少年は暗がりに溶けた。ヤマダは眠気で立つ力を失い、体の重心を後方に預ける。ヤマダを拘束する両手が離れた。大男は自由になった手で、ヤマダの腹部を支え、頭をなでる。ヤマダは彼の行為を不快に感じなかった。むしろ庇護されているような安心感を得た。
 ヤマダは睡魔に屈し、まぶたを落とす。本格的に寝に入ると大男に体を持ち上げられた。その抱え方は横抱きだった。
(先生……?)
 ヤマダはいまの自身の姿勢をもとに、金髪らと衝突した直後のことを思い出した。あのときも、ヤマダは横抱きで運ばれ、その移動中をねてすごした。偶然だろうか、と考えるうちに意識が混濁してしまい、それ以上の思考はとだえた。

posted by 三利実巳 at 23:55 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年04月19日

拓馬篇−5章◇

 平日の夜、夕食時をややすぎたころ。ノブは客が使った鉄板の周りを整理した。使用済みの食器をかさね、コンパクトになった食器類を盆に置く。卓上の清掃をするまえに一度食器を引っ込めようと思い、盆を持ち上げた。そこへ最年少な店員が「校長!」とさけぶのを耳にする。
(ん? 校長?)
 年若い店員は高校生。彼が通う学校はノブの娘の通学先でもある。ノブは学校関連の客が来店したのかと思い、玄関を見た。娘と同年の店員が、二人の客を案内している。一人は恰幅のよい中年。ふくよかな体型のほか、電灯にもとにかがやく額はまさしく才穎高校の校長の特徴をそなえていた。もう一人は中年につきしたがう背の高い偉丈夫。ノブはこの長身の男性に注目した。とくに彼のネクタイに差してある、タイピンに。
(ちゃんと、使われてるんだな)
 娘に渡って以来、ここ数年は箱に入れたままだった物だ。ノブの思惑としては、このようなかたちでふたたび目にするとは思っていなかった。
 先だって娘が「これを先生にあげたい」と言い出した。その時はノブの胸がざわついていた。それは他人が身に着けるにはふさわしくない、個人的な想いがつまった装身具なのだ。ノブはその仔細をついぞ子に告げることはなかった。それゆえ、この世にただ一つのタイピンが、ただのきれいなアクセサリーだと娘が見做すのも無理はなかった。
 ノブが清掃途中のテーブルを離れた直後、校長が「この席はどうかね?」と未整理の卓上を指した。案内役の現役高校生たるジモンが「まだ片付け中なもんで」と断りを入れる。校長が笑顔で「それでいいのだよ」と言う。
「小山田さんとおしゃべりがしたくてね。のんびーり仕事をしてもらってかまわないんだが、どうだろう?」
「はあ……ノブさん、どうする?」
 ジモンが厨房にむかうノブにたずねた。さいわい客入りのピークはすぎている。人手が一人いないも同然になっても、店に迷惑をかけるおそれはなさそうだ。
「客の言うとおりにしよう」
 ノブは奇妙な提案を受け入れた。この店は大衆向けのお好み焼屋。学校の長が生徒の保護者と真面目に対談するにはそぐわない場だ。そのため、重苦しい話題はしないものとノブは予測した。
 ノブは食器を流し台に放置し、食卓の清掃道具を持ち出す。卓上を拭く布巾と、アルコール除菌用のスプレーと、鉄板にのこる食材のカスやコゲをこそげ落とすヘラなどだ。一式を持って、校長らが待つテーブルへ移動した。
 ノブが二人の学校関係者がいる卓上を見ると、鉄板の外にも油よごれがある。客が手をよごすまえに、そこから掃除することにした。「いま拭きますんでね」と校長らに宣告したのちにスプレーをふきかける。作業中のノブに、校長は「私たちにおどろかれたかね」と気さくに話しはじめる。
「これはプライベートで来ているので、気楽に接してもらえるとありがたいのだがね」
「冷やかしじゃないんなら、どれだけ来てくれてもかまわんですよ」
「もちろん、注文はしますとも」
 校長が手ずからメニュー表を若手教師に渡す。
「シド先生、好きなのを選んでいいよ」
 教師はメニューを受け取りはしたが、「勝手がわからないもので」と開かない。
「校長がお決めになったのと同じものを、お願いします」
「なんだね、きみはお好み焼を食べたことがないのかね?」
「こういうお店での飲食は、あまりしたことがなくて」
「ほんとにきみは『遊ぶ』という経験が足りておらんな」
「不勉強で申しわけありません」
「あやまるようなことじゃないが……まあいい、私が選んであげよう」
 校長はメニュー表をながめだした。ノブは自身の立場上、校長の雑談よりも注文を優先するべきだと考え、そのまま清掃作業をつづける。
(『のんびりやってくれ』か)
 校長はそんな注文をノブ個人につけた。気持ちだけ念入りに掃除することにする。
 ひとしきり拭き掃除がおわり、鉄板の清浄にかかった。ヘラを使って鉄板上のカスをあつめる。簡単に取れるものはさっさとゴミ入れに入れた。ヘラだけでは取れない、こびりついた焦げには水をかける。そのまま熱していくとよごれが取れるようになる。
「このミックス玉にしようか。最初から二人前のものをたのんでしまおう」
 校長が注文を決めた。ノブはオーダーの確認を校長でなく部下のほうにする。
「ミックスで、よろしいんで?」
「はい。お願いします」
 人のよい笑顔で承諾された。校長に注文を委任した側はまことにその決定にしたがうつもりだ。ノブは清掃の手を止める。わすれぬうちに注文票に書きつけ、オーダーを出した。ほかの客の注文から先に取りかかってほしい、とそえて。
 ノブが厨房からもどってくると、さっそく校長が話を再開する。
「あなたの娘さんがこちらの先生と親しいのを、ご存知だろうか?」
「そうでしょうな。家でも話は聞きますんで」
「では彼のタイピンのことも?」
「そりゃ聞きましたよ。なんせおれが使ってたもんです。あいつは家族が大事にしてたもんを勝手に他人にはやりません」
「そこが不思議でねえ」
 校長はヘラで掻き出されたよごれの行き先をじっと見ている。
「どうして男物のタイピンを娘さんにあげたんです? どうせ使わないなら、あなたがずっと持っていてもよかったでしょうに」
 もっともな指摘ではある。が、わざわざ店に来てまで質問する内容だろうか。ノブは「そんなことを聞きに?」と口に出しかけた。しかし客商売でぶしつけな物言いはひかえるべきである。
「あれはおれの子どもに持たせたかったんですよ」
 率直な理由を明かした。しかしこれだけでは説明不足。あらたに質問を受けてしまうので、補足をする。
「おれの気の早い友人がむかし、息子用に用意してくれました。あいにくウチは男の子が育たなかったもんで、娘にやったわけですよ」
 ノブは最低限必要な返答をしておいた。これで理屈は通るはずだし、その説明は自身の判断理由とも合致している。ノブは長話を必要はないと見て、清掃の仕上げにかかった。
「『育たなかった』……?」
 校長がぼそっとつぶやいた。ノブはあえて伏せた事実を掘り返されると察し、鉄板に油をなじませる手が止まった。
「それは『生まれてはいた』ということですかな」
「息子が……ですか?」
「ええ。いくら友人が厚意で用意してくれたものといっても、まだ居もしない子どものために、これだけ立派なタイピンを仕立てるとは思えんのでね」
「どっかの売れ残りを押しつけられただけかも」
 ノブは可能性が無いとわかっている仮説を提起した。追究をかわす一助になると思ってのわるあがきだ。しかし「それはないと思います」と教師が両断してしまう。
「私は貴方の御夫人とお会いしています。御夫人はタイピンにある宝石の名前に、なんらかの思い入れがあるように見受けられました」
 正直者な妻を立脚地とされてはノブの分がわるい。いよいよごまかしは利かなくなってきた、とノブは覚悟を決めた。
「貴方がた夫妻にとって、特別な意味がこもっているのではありませんか」
「それを知ってどうする」
「単純な興味です。貴方が教えたくないのでしたら、私もこれ以上はお尋ねしません」
 言いたくない、という感情はノブ自身の嫌悪からくるものではない。それを聞かされた他人が不快な思いをするのではないかという気がかりゆえ。
(この先生は、きっと大丈夫だ)
 不穏な要素はすでに校長が推測のうちに指摘している。それを知ってなお好奇心を隠さないのは、彼がまことに知りたいと思っているからにちがいない。
「メシがまずくなっても責任は取れんぜ」
 ノブは他人行儀の外ヅラをはずした。「手帳を取ってくる」と客に言い置き、テーブルを離れた。ノブの手帳にはタイピンのことをメモした紙が綴ってある。廃棄するには忍びなく、かといって家に放置しておけば娘に見られそうだと考え、鞄に入れっぱなしにしているのだ。
 ノブが従業員用更衣室から手帳をたずさえ、もどる。教職員のいるテーブルには清掃道具が片付けられ、かわりに注文した具材の入ったボウルが置かれていた。お冷とおしぼり、取り皿に箸も用意してある。
「ありゃ、もう来ちまったか」
「ジモンくんのお母さんが支度してくれてね」
「なぁ先生がた、おれが焼こうか?」
「焼きながらでは手帳が読めないのではないかね」
「んじゃ、ページだけ開いとくから見てくれよ」
 ノブは教師陣が知りたがっている部分をめくり、それを色黒の教師に渡した。校長に手帳をやらなかったのは、この中年なら目当てのページ以外も勝手に見そうだと警戒したためだ。
「トウレンセキ……?」
 教師がつぶやいた。手帳をのぞき見る校長も「ほほう、その赤っぽい石がかね」とタイピンの宝石について口にした。ノブはお好み焼を調理しつつ説明を加える。
「宝石の和名でも英名でも、頭文字を抜きだせば言葉ができるってえ仕掛けだ。むかしのヨーロッパでそういう暗号が流行ったとかなんとか」
 校長が「おお、リガードジュエリー!」と興奮する。
「貴族の間で告白のかわりに用いられたという! ロマンチックなアイテムですな」
「ウチのは色恋関係ないけどな」
 校長はいささかがっかりしたようで「まあ息子さん用ですしな」と声の調子が下がった。教師は校長の反応を気に留めず、順繰りに宝石名を読みあげた。そこから導きだされる言葉は──
「『トオル』……」
 教師がよぶ名に、ノブは胸を衝かれる。親しい知人以外、生きていたことさえ知られていない存在の名前だ。
「それが、貴方の息子さんの名前なのですか?」
「そうさ。最初に生まれた子なんだ」
「そのことを、娘さんは知っておいでですか」
「兄や姉がいたことは伝えてある。けど、そのタイピンに兄貴の名前が隠れてるとは教えてない。だから、娘が先生にそれをやったことに深い理由はないんだ」
 ノブがはじめてこの教師と会った時、彼のネクタイに大きな切れ込みができていた。そのネクタイを最近娘が家に持ってきた折、その損害の理由をたずねてみると、娘がタイピンを教師に使わせる意味がわかった。教師がタイピンを着用していればネクタイは無事であったはず、という教訓から出た行動だと。
「べつに『兄だと思うくらい好き』とか『小山田家の息子になれ』とかいう、校長がよろこびそうな裏のメッセージはねえからな?」
 ノブは校長に釘を刺した。校長は「そこは断言できないでしょう」と反論する。
「彼女はなかなか目ざとい子です。どこかでタイピンの意味を知ったのやも」
「つっても一学期かぎりの貸し出しだろ? プレゼントじゃねえんだから」
「むむむ、なぜそうも否定される?」
「それが現実的だと思うからさ。ウチの娘は校長みたいな頭はしてないんでな」
 いろんな意味で、とノブはこれみよがしに校長の広い額を凝視した。校長は露出した頭皮を手でおおう。
「まったく、親子そろってハゲネタいじりがお好きなようですな」
「いやすまんね。おれもあいつも、校長が嫌いでやってるんじゃあない。ペチペチさわってみたいなーぐらいの愛情はあるんですよ」
「私はいじられても気にしないタチだがね、大事な話をそうやって煙にまくのはいかがなものですかな」
「大事なことはもう話したじゃないですか。おれには早死にした長男がいて、その形見がシド先生の着けてるタイピンだって」
 再度深刻な過去を打ち明けても、場の空気が重くなっていない。ノブはこの状況を意外に感じた。息子のことを話す前は「聞き手を不愉快にさせてしまう」と気乗りしなかったが、話を傾聴した校長も教師も、来店時の様子と変わりないように見える。しょせんは他人事の昔話だ。過去にノブが経験した悲憤は、他者にとってはその程度のものだと、気が楽になった。
 ノブはお好み焼をヘラでひっくり返した。片面がうまく焼きあがっている。完成までもうしばらく話ができそうだ。ノブは教師の胸元を見る。
「なんだったら先生、そのタイピンをもらってくれないか?」
「こんなに貴重なものを、よろしいのですか?」
「いいんだよ、おれらには必要ないんだ」
「思い出の品でしょう?」
「先生たちと話してると、昔を引きずってちゃいけねえと思えてきてな」
 その思いはこれまでに薄々湧き上がっていたものだ。きっかけが、ようやく巡ってきた。
「おれには娘がいる。何人も子どもはいなくなっちまったけど、あいつだけは元気でいてくれてるんだ。いつまでも最初の子に囚われてたんじゃ、いま生きてる娘がかわいそうな気がするんだよ」
 教師が悲痛な面持ちをした。ノブは彼に精神的負担のかかる提案をしてしまったと悔いる。
「そんないわくつきのもんを持っていたかねえよな。先生は質屋じゃないんだし」
「いえ、そこは気になりませんが……」
「じゃ、どこに引っ掛かってる?」
「とても失礼なことを言ってしまいますが、それでもよろしいですか」
「ああ、いいぜ。正直に言ってくれ」
「もし娘さんが若くに亡くなったとしても、このタイピンを手放したいと思いますか?」
 ノブは唖然とした。このやさしげな教師が物騒な未来をつきつけてくるとは予想だにしていなかった。
「人の生き死には予測できません。老いた者から先に逝くとはさだまっていない……それはお子さんを亡くされた貴方がよくご存知のはずです」
「言いたいことはわかるが……なんでそんなことを気にする?」
「私はいずれこの国を発つつもりです。あとで『タイピンを返してほしい』と貴方がお思いになっても、取り返しがつきません」
 教師の問いは彼なりの誠意だとノブは理解した。他国へ行く相手に譲渡してもいいのかと、彼は言いたいのだろう。
「うーん、そう言われると惜しいような」
「でしょう? ですからこのタイピンは予定通り、私が才穎高校を去る時に残していきます」
「いやぁ、そこまで気を遣ってもらえるとは思わなかったな」
 娘が死没する未来を持ち出されたノブは内心「なにを言うんだこいつは」と教師を不審がっていた。この教師は娘の生死を取り沙汰しているのではない。子の形見を手放した際にノブが後悔しやすい状況が、娘の早世だと教師が思っただけのことだ。ノブがそう解釈すると、かえって教師の印象がよくなる。
「ずいぶん想像力のある人なんだな。よく他人のことをそれだけ考えられるもんだ」
「ほめられるようなことではありません。私はこの職に就くまで、あまりにも鈍感に生きてきましたから」
「鈍感?」
 このワードに校長は「にぶいのは恋のほうだろう!」と強い興味を示した。校長は校内でいかに新任教師の彼が女子に好かれているかをのべた。それ以降は校長の一人語りとなる。ノブへの質問は出尽くしたと見えて、ノブはお好み焼を切り分けると「あとは好きに食べてくれ」とテーブルをはなれた。
 業務にもどるノブを、教師がさびしそうな顔で見送る。彼はいったいなんの同情をまだいだいているのだろう、とノブは不思議がった。
(たくさん子どもを亡くしたと、言っちまったせいかな)
 教師が予想したであろう長男以外にも、ノブは夭折した子の存在を明かした。それは事実であるし、別段不幸ぶるつもりはなかったのだが、やはりあわれな親に映るのか。
(ま、どーでもいいな)
 身の上を知る教員が増えたからといって、なにが変わるわけでもない。ノブは教師の視線を差し置き、客が去ったばかりのテーブルの清掃に取りかかった。

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posted by 三利実巳 at 07:00 | Comment(0) | 長編拓馬 
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