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2018年05月13日
拓馬篇−5章3 ★
学校には早朝の部活をしにくる生徒がまばらにいた。けれども拓馬のクラスにはだれもいなかった。普段の拓馬の登校時間帯は、生徒の半数前後があつまるころ。無人の教室を目にするのは、帰宅が遅くなったときくらいだ。見慣れた教室でありながら、現在の雰囲気は異質だと感じた。
(ヤマダはきてないか……)
彼女の弁当と朝食も、おもに親が用意する。拓馬の場合は父が気を利かせてくれたおかげで早く出発できたが、小山田家ではうまく事が運んでいないのかもしれない。
拓馬は自席に着く。時間つぶしがてら教科書類をながめた。数分が経つと廊下から足音が響く。せわしない音だ。音と音の間隔がみじかいため、走っているようである。その音が拓馬のいる教室のまえで止まった。リュックサックを背負うヤマダが入室する。彼女は息を切らして、拓馬の付近にある椅子へ座る。
「タッちゃんといっしょに学校へ行こうかと思ったんだけど、もう行っちゃったって親御さんに言われてさ、いそいできたよ」
「まだ俺に言うことが残ってたのか?」
「うん、けっこう大事なこと! まえにケンカやった金髪の子、おぼえてる?」
拓馬は大男の話が展開されると身構えていた。想定外からの質問を受け、混乱する。
「え……金髪?」
「雒英《らくえい》の制服を着てた子だよ」
拓馬は通算二回会った。一回めは道ばたで通りすがり、二回めはヤマダたちと同じ場で。
「髪が長くって、ちょっと女っぽい子ね。今日の夜中、その子も見かけたんだよ。だれかに電話してる最中で……わたしたちに仕返しする計画を立ててるみたいだった」
あの金髪が復讐をくわだてている──シドが恐れていたことだ。それゆえ、かの教師は蛮行としか思えぬ体罰を金髪にふるった。金髪の復讐心を削ぐために、恐怖心を植えつける作戦だったとか。それが功を成さなかった。
(だいぶ執念深い相手なんだな……)
金髪とシドとの力量の差は歴然だ。そんな強大な相手が拓馬らの後ろにいると知ってなお、あの少年は対抗心を燃やしているとは。
「先生が負ける心配はないんだけど……だれかが人質にとられでもしたら、先生が大変でしょ? しばらくはひとりで外をうろつかないほうがいいのかな」
「みんなが危ないな……声かけとくか」
ヤマダは「ただね」と心配そうに言う。
「サブちゃんにこのことを言ったら、またなんかやりだしそうじゃない?」
「興奮はするだろうが、やれることはないんじゃないか? いまはあの不良連中がどこにいるのか、わかってないだろ」
「その居場所を探す──とか?」
ありえそうではあった。そして三郎ならば見つけた不良らに「そんなに負けたことがくやしいならもう一度手合せしよう」という具合に、彼らの思惑とは明後日の方向へ突き進んでしまいかねない。彼らはおそらく、正攻法で三郎たちに勝つ気などないのだ。憂さを晴らせれば手段はなんでもよいはず。
「また藪蛇をつつくのも、どうかと思って」
「……三郎にはだまっとこう」
「シド先生はどうしよう?」
これもややこしい質問だ。この件に深く関わったシドにも注意をうながすべきではある。しかし彼の職務外の負担が大きい。拓馬らが直接教師に救援を求めたなら、彼は万全の対策を講じる必要性が出てくる。真面目なシドがほどよく手を抜くことは考えにくい。
「あー、うーん……俺らからは知らせないほうがいいんじゃないか?」
「うん。あの先生だと背負いこんじゃいそうだしね」
「それに、あの地獄耳な校長がどっかで聞きつけてくるだろ。校長が『まずい』と思えば先生のほうにも話がいくって」
「じゃあわたしたちだけで注意しようか」
「教えておくやつは、ジモンと、千智?」
この二人に注意をよびかけたとして、その後どうなるか。拓馬はすこし考えてみて、たったいま決めたことのひとつをムダにする気がした。
「その二人に言ったら、サブちゃんにも伝わっちゃいそうだね」
「隠し事はできねえもんな、あいつら」
どちらも三郎の友人。会話のついででぽろっと言う様子は拓馬も想像がついた。
「先生以外にはぜんぶ言っちゃう?」
「そうしとこう。お前に任せていいか?」
「うん、今日中に伝わるようにする。あとね、これはあつかましいかもしれないけど」
ヤマダはうつむく。この態度は拓馬に対する遠慮ではなさそうだ。
「シズカさんに言ったら、その金髪くんをおさえられるかな?」
その依頼はおそらく大男を捕縛するよりも難度は低い。だが、そうであるからこそ頼みにくい。拓馬は首を横にふる。
「それまでシズカさん頼りじゃ、気が引ける。あの人は無限に働けるわけじゃないんだ」
「あのキツネを呼ぶのも、疲れるんだっけ」
「本業でもそいつらを頼るときがあるんだってさ。あまり力を無駄遣いさせたくない」
「わかった。金髪くんはこっちで対処する」
ヤマダは立ち上がった。彼女自身の席へと移るつもりだ。拓馬はこれで会話を切り上げてよいものか迷う。
(父さんが見たこと……ヤマダは知らないんだよな?)
父が今朝拓馬に告白した内容は、ヤマダが寝ている間に起きたことだという。自身の身に降りかかったことはなんであれ、知りたいと思って当然だ。その判断のもと、拓馬はヤマダに父の目撃証言を伝えた。知られざる出来事を知ったヤマダはやはりおどろいた。だがおどろきのポイントが拓馬の予想とちがった。彼女の開口一番に発した感想は「よくバレなかったね」だ。拓馬の父が大男の様子観察を果たしたことを、意外そうに言う。
「あの大男さんって、人の気配に敏感だと思ったんだけど」
たしかにそうだと拓馬も思った。だが父と話す際は感じなかった疑問だ。その根底には父の有する異能力への信頼がある。
「父さんはいろいろ特殊だからな……」
「『気付かれないように』と願ったら、ほんとうに気付かれなくなったのかな?」
「たぶん、そんな感じだな。ケガを治すときも『早く治れ』って念じるらしいぞ」
「便利だね。その力でトーマの考えてることも、わかるかな」
トーマは根岸家の飼い犬の名だ。あのオス犬は情緒豊かなタチである。
「それは見てりゃだいたいわかるよ」
二人の会話がたわいない雑談に変じたころ、足音がかさなって聞こえはじめた。多くの生徒が学校に着く時間帯になったのだ。拓馬は自席にて、朝早く登校する生徒をながめた。
(ヤマダはきてないか……)
彼女の弁当と朝食も、おもに親が用意する。拓馬の場合は父が気を利かせてくれたおかげで早く出発できたが、小山田家ではうまく事が運んでいないのかもしれない。
拓馬は自席に着く。時間つぶしがてら教科書類をながめた。数分が経つと廊下から足音が響く。せわしない音だ。音と音の間隔がみじかいため、走っているようである。その音が拓馬のいる教室のまえで止まった。リュックサックを背負うヤマダが入室する。彼女は息を切らして、拓馬の付近にある椅子へ座る。
「タッちゃんといっしょに学校へ行こうかと思ったんだけど、もう行っちゃったって親御さんに言われてさ、いそいできたよ」
「まだ俺に言うことが残ってたのか?」
「うん、けっこう大事なこと! まえにケンカやった金髪の子、おぼえてる?」
拓馬は大男の話が展開されると身構えていた。想定外からの質問を受け、混乱する。
「え……金髪?」
「雒英《らくえい》の制服を着てた子だよ」
拓馬は通算二回会った。一回めは道ばたで通りすがり、二回めはヤマダたちと同じ場で。
「髪が長くって、ちょっと女っぽい子ね。今日の夜中、その子も見かけたんだよ。だれかに電話してる最中で……わたしたちに仕返しする計画を立ててるみたいだった」
あの金髪が復讐をくわだてている──シドが恐れていたことだ。それゆえ、かの教師は蛮行としか思えぬ体罰を金髪にふるった。金髪の復讐心を削ぐために、恐怖心を植えつける作戦だったとか。それが功を成さなかった。
(だいぶ執念深い相手なんだな……)
金髪とシドとの力量の差は歴然だ。そんな強大な相手が拓馬らの後ろにいると知ってなお、あの少年は対抗心を燃やしているとは。
「先生が負ける心配はないんだけど……だれかが人質にとられでもしたら、先生が大変でしょ? しばらくはひとりで外をうろつかないほうがいいのかな」
「みんなが危ないな……声かけとくか」
ヤマダは「ただね」と心配そうに言う。
「サブちゃんにこのことを言ったら、またなんかやりだしそうじゃない?」
「興奮はするだろうが、やれることはないんじゃないか? いまはあの不良連中がどこにいるのか、わかってないだろ」
「その居場所を探す──とか?」
ありえそうではあった。そして三郎ならば見つけた不良らに「そんなに負けたことがくやしいならもう一度手合せしよう」という具合に、彼らの思惑とは明後日の方向へ突き進んでしまいかねない。彼らはおそらく、正攻法で三郎たちに勝つ気などないのだ。憂さを晴らせれば手段はなんでもよいはず。
「また藪蛇をつつくのも、どうかと思って」
「……三郎にはだまっとこう」
「シド先生はどうしよう?」
これもややこしい質問だ。この件に深く関わったシドにも注意をうながすべきではある。しかし彼の職務外の負担が大きい。拓馬らが直接教師に救援を求めたなら、彼は万全の対策を講じる必要性が出てくる。真面目なシドがほどよく手を抜くことは考えにくい。
「あー、うーん……俺らからは知らせないほうがいいんじゃないか?」
「うん。あの先生だと背負いこんじゃいそうだしね」
「それに、あの地獄耳な校長がどっかで聞きつけてくるだろ。校長が『まずい』と思えば先生のほうにも話がいくって」
「じゃあわたしたちだけで注意しようか」
「教えておくやつは、ジモンと、千智?」
この二人に注意をよびかけたとして、その後どうなるか。拓馬はすこし考えてみて、たったいま決めたことのひとつをムダにする気がした。
「その二人に言ったら、サブちゃんにも伝わっちゃいそうだね」
「隠し事はできねえもんな、あいつら」
どちらも三郎の友人。会話のついででぽろっと言う様子は拓馬も想像がついた。
「先生以外にはぜんぶ言っちゃう?」
「そうしとこう。お前に任せていいか?」
「うん、今日中に伝わるようにする。あとね、これはあつかましいかもしれないけど」
ヤマダはうつむく。この態度は拓馬に対する遠慮ではなさそうだ。
「シズカさんに言ったら、その金髪くんをおさえられるかな?」
その依頼はおそらく大男を捕縛するよりも難度は低い。だが、そうであるからこそ頼みにくい。拓馬は首を横にふる。
「それまでシズカさん頼りじゃ、気が引ける。あの人は無限に働けるわけじゃないんだ」
「あのキツネを呼ぶのも、疲れるんだっけ」
「本業でもそいつらを頼るときがあるんだってさ。あまり力を無駄遣いさせたくない」
「わかった。金髪くんはこっちで対処する」
ヤマダは立ち上がった。彼女自身の席へと移るつもりだ。拓馬はこれで会話を切り上げてよいものか迷う。
(父さんが見たこと……ヤマダは知らないんだよな?)
父が今朝拓馬に告白した内容は、ヤマダが寝ている間に起きたことだという。自身の身に降りかかったことはなんであれ、知りたいと思って当然だ。その判断のもと、拓馬はヤマダに父の目撃証言を伝えた。知られざる出来事を知ったヤマダはやはりおどろいた。だがおどろきのポイントが拓馬の予想とちがった。彼女の開口一番に発した感想は「よくバレなかったね」だ。拓馬の父が大男の様子観察を果たしたことを、意外そうに言う。
「あの大男さんって、人の気配に敏感だと思ったんだけど」
たしかにそうだと拓馬も思った。だが父と話す際は感じなかった疑問だ。その根底には父の有する異能力への信頼がある。
「父さんはいろいろ特殊だからな……」
「『気付かれないように』と願ったら、ほんとうに気付かれなくなったのかな?」
「たぶん、そんな感じだな。ケガを治すときも『早く治れ』って念じるらしいぞ」
「便利だね。その力でトーマの考えてることも、わかるかな」
トーマは根岸家の飼い犬の名だ。あのオス犬は情緒豊かなタチである。
「それは見てりゃだいたいわかるよ」
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2018年05月09日
拓馬篇−5章2 ★
ヤマダが根岸宅を出たあと、拓馬は早々に制服に着替えた。いつもの登校時間より早いが、家にいても落ち着かないので、とっとと登校しようと思った。
拓馬は食事をしに居間へ入った。居間と一体型になった台所に父が立っている。拓馬の家ではたいてい母が朝食を用意するのだが、早起きした父が家事をこなすこともままあった。父以外はまだ起きていないらしい。
拓馬は父に簡単な挨拶をしてから「食うもんある?」とたずねた。父は四角いフライパンで玉子を調理しながら「昨日の残り物が電子レンジにある」と答える。
「いまあたためてる。拓馬が食べると思って」
「ああ、ありがとう」
拓馬は昨夜のメニューがシチューだったのを思い出し、引き出しからスプーンを取った。
「さっき、小山田さんの娘さんがきてたね」
父はやはり気付いていた。拓馬はどこをどう教えていいものやら言葉に詰まる。
「え、ああ、ちょっと話があって」
「今日の夜中にあったこと?」
「へ? なんで知ってる?」
まさか父が盗み聞きをしたか、と拓馬は父の顔をのぞきこんだ。父は苦笑する。
「話すとすこし長くなるんだが、いいかな?」
どうやら拓馬らの会話から得た知識ではないらしい。拓馬は父への信頼を取りもどし、稼働中の電子レンジのボタンを操作する。
「じゃ、飯を食いながら聞く」
拓馬は電子レンジ内にある、ほんのり温まった陶器をテーブルに運んだ。
「昨日はゴミ置き場の鍵を開けるのをうっかり忘れてたから、夜中に出かけたんだ」
父は事の次第を説明しはじめる。
「それから家について、さあ寝ようと思ったら、家の外から男性の話し声が聞こえてきて、その話が気になったから物陰に隠れてたんだよ。そうしたら、妖怪かなにかが、だれかとしゃべってたんだ」
「どうやって人間じゃないとわかったんだ?」
「断片的にしか聞き取れなかったが、言ってることが普通の人じゃないみたいで──」
父は「いや、ちがうか」と自身の説明を否定する。
「話し声が聞こえたときは、内容をわかってなかった。だから勘だな。『この話し声は人間のものじゃない』と、なんとなく感じた」
父は霊的なものに対する感覚が人一倍すぐれている。そのセンサーがはたらいたことを、拓馬は疑わない。
「父さんの勘は、きっと合ってると思う」
その思いはたとえヤマダの体験を聞かされていなかったとしても変わらない。それだけ拓馬は父の能力を信じていた。
「そいつがうちの家の前を通りすぎたのを見計らって、顔を出したら、ずいぶん大きい人影が小山田さんちへ入っていった。ますます気になって、その後ろを追いかけたんだ」
父は平皿に不格好な玉子焼きをのせた。しゃべりながらの作業のせいで、きれいに焼けなかったのだろう。この一家は見た目の不出来を気にする性分ではなく、食べられれば成功作である。父は完成した料理を切り分けた。そのうちの極端に小さくなった部分を三切れ小皿にのせ、拓馬に渡した。残った見た目のよい部分は弁当のおかずに入れるのだ。
次に父は片手鍋に水を入れ、コンロで熱しはじめた。お湯で食材を茹でるのか汁物を作るのか。しかし父はただ突っ立っている。
「そうしたらその大きい人が玄関口で、小山田さんちの娘さんを寝かせて、その子にまた話しているんだ。とても親しげにね……」
「そのデカイやつはヤマダが好きなのか?」
「どうだろう……彼女に憑《と》りつくなにかを、彼女と一緒くたにあつかっている……ふうに見えたかな。きっとお化け同士の会話をしていたんだと思う。私の耳だと、ひとりの男性の声しか聞きとれなかったけどね」
ヤマダに憑《つ》いたなにか──拓馬はヤマダの身にまとわりつく、黒く小さな物体を連想した。あれが大男の知り合いなのか。
「もしかして、クロスケが?」
その呼び名はヤマダがつけた。彼女につきまとう人外のことを、父も見聞きしている。父は「そうかもしれない」とうなずく。
「……そんなことがあったから、今朝の拓馬が早起きしたことも納得できるんだ」
説明の区切りがついた父は調理を再開する。冷蔵庫から水菜を一袋出して、水洗いした。鍋の湯は水菜を湯がくための下準備だ。
「拓馬と娘さんの話は短かったようだし、本当はまだ話せることがあるんじゃないかな」
「そう言われれば……あっさりした言い方だったな。『自分がこんな目に遭った』ってことは二の次で、『そうしなきゃいけない訳ありな人を助けて』と、たのみにきた感じで」
「たのむって、拓馬に? お坊さん?」
「警官やってるお坊さんのほう。俺はなんにもできねーもん」
シズカと拓馬とは大きく異なる点がある。人外が見えるだけの拓馬とちがって、彼は人外への対処法を持つ。そのことを父は知っているのに、わざわざ確認してくるのを拓馬はわずらわしく感じた。
「拓馬だからできることだってあるとも」
「どんな?」
「今日は早く学校に行って、あの子の話をじっくり聞いてあげなさい。彼女もたぶん、家でのんびりしてる気分じゃなさそうだ」
「よくそんなにあいつの行動が読めるな。父さんが直接話を聞いたんじゃねえのに」
「長く生きてたらそれくらい想像ができるように……ならない人はならないな、うん」
父の予想は経験にもとづく推察だ。それは他者に関心をそそぐ者にだけ培われる能力である。自分にしか興味のない人間はどれだけの歳月をかけても習得しえない。
「あの子は拓馬だからなんでも言えるんだよ。これは、よその大人じゃできない」
ふいに拓馬の足元があたたかくなった。テーブルの下をのぞくとトーマが足にまとわりついている。拓馬だけがさきにご飯を食べるのを、うらやましがっているのだろうか。拓馬をじっと見上げる目には愛嬌があった。
「ほら、拓馬はトーマが自分のところにきたら、うれしくなるだろ?」
「え? まあ、そりゃ……」
「そばにいてくれるだけで、気持ちが楽になる……それは素敵な能力だよ」
父がトーマのことを口にする意味──拓馬は会話の前後をかえりみて、これは一続きの話題なのだと察する。
「じゃあなんだ、俺があいつの癒しになってるってか? 犬といっしょ?」
父はプラスチック製ボウルに入れたサラダをかきまぜた。その顔は笑っている。
「癒し、だったらトーマの勝ちだな」
「だろ? 例えがわりぃよ」
「すまん、言葉が足りなかった。ようは、だれかの役に立つ力には種類がいろいろあるってことだ。お坊さんの問題解決能力はたしかにすばらしい。でもその力が拓馬にないからといって、引け目に感じる必要はないんだよ」
父は拓馬の自己肯定感の低さを見抜いている。もとより拓馬はそういった発言を過去にしてきたのだから、別段おどろくことではない。だがこの場でなぐさめを受けるとは思っていなかった。拓馬がどう返答していいものか考えあぐねると、足音が近づいてきた。
「あら、もうご飯の支度をしてるの?」
朝食作りの主役な母がようやく起床した。父は調理役を母と交代し、成果物を皿と弁当へ盛る作業に徹する。そうしてできた弁当を拓馬が持ち、早足で家を出た。
拓馬は食事をしに居間へ入った。居間と一体型になった台所に父が立っている。拓馬の家ではたいてい母が朝食を用意するのだが、早起きした父が家事をこなすこともままあった。父以外はまだ起きていないらしい。
拓馬は父に簡単な挨拶をしてから「食うもんある?」とたずねた。父は四角いフライパンで玉子を調理しながら「昨日の残り物が電子レンジにある」と答える。
「いまあたためてる。拓馬が食べると思って」
「ああ、ありがとう」
拓馬は昨夜のメニューがシチューだったのを思い出し、引き出しからスプーンを取った。
「さっき、小山田さんの娘さんがきてたね」
父はやはり気付いていた。拓馬はどこをどう教えていいものやら言葉に詰まる。
「え、ああ、ちょっと話があって」
「今日の夜中にあったこと?」
「へ? なんで知ってる?」
まさか父が盗み聞きをしたか、と拓馬は父の顔をのぞきこんだ。父は苦笑する。
「話すとすこし長くなるんだが、いいかな?」
どうやら拓馬らの会話から得た知識ではないらしい。拓馬は父への信頼を取りもどし、稼働中の電子レンジのボタンを操作する。
「じゃ、飯を食いながら聞く」
拓馬は電子レンジ内にある、ほんのり温まった陶器をテーブルに運んだ。
「昨日はゴミ置き場の鍵を開けるのをうっかり忘れてたから、夜中に出かけたんだ」
父は事の次第を説明しはじめる。
「それから家について、さあ寝ようと思ったら、家の外から男性の話し声が聞こえてきて、その話が気になったから物陰に隠れてたんだよ。そうしたら、妖怪かなにかが、だれかとしゃべってたんだ」
「どうやって人間じゃないとわかったんだ?」
「断片的にしか聞き取れなかったが、言ってることが普通の人じゃないみたいで──」
父は「いや、ちがうか」と自身の説明を否定する。
「話し声が聞こえたときは、内容をわかってなかった。だから勘だな。『この話し声は人間のものじゃない』と、なんとなく感じた」
父は霊的なものに対する感覚が人一倍すぐれている。そのセンサーがはたらいたことを、拓馬は疑わない。
「父さんの勘は、きっと合ってると思う」
その思いはたとえヤマダの体験を聞かされていなかったとしても変わらない。それだけ拓馬は父の能力を信じていた。
「そいつがうちの家の前を通りすぎたのを見計らって、顔を出したら、ずいぶん大きい人影が小山田さんちへ入っていった。ますます気になって、その後ろを追いかけたんだ」
父は平皿に不格好な玉子焼きをのせた。しゃべりながらの作業のせいで、きれいに焼けなかったのだろう。この一家は見た目の不出来を気にする性分ではなく、食べられれば成功作である。父は完成した料理を切り分けた。そのうちの極端に小さくなった部分を三切れ小皿にのせ、拓馬に渡した。残った見た目のよい部分は弁当のおかずに入れるのだ。
次に父は片手鍋に水を入れ、コンロで熱しはじめた。お湯で食材を茹でるのか汁物を作るのか。しかし父はただ突っ立っている。
「そうしたらその大きい人が玄関口で、小山田さんちの娘さんを寝かせて、その子にまた話しているんだ。とても親しげにね……」
「そのデカイやつはヤマダが好きなのか?」
「どうだろう……彼女に憑《と》りつくなにかを、彼女と一緒くたにあつかっている……ふうに見えたかな。きっとお化け同士の会話をしていたんだと思う。私の耳だと、ひとりの男性の声しか聞きとれなかったけどね」
ヤマダに憑《つ》いたなにか──拓馬はヤマダの身にまとわりつく、黒く小さな物体を連想した。あれが大男の知り合いなのか。
「もしかして、クロスケが?」
その呼び名はヤマダがつけた。彼女につきまとう人外のことを、父も見聞きしている。父は「そうかもしれない」とうなずく。
「……そんなことがあったから、今朝の拓馬が早起きしたことも納得できるんだ」
説明の区切りがついた父は調理を再開する。冷蔵庫から水菜を一袋出して、水洗いした。鍋の湯は水菜を湯がくための下準備だ。
「拓馬と娘さんの話は短かったようだし、本当はまだ話せることがあるんじゃないかな」
「そう言われれば……あっさりした言い方だったな。『自分がこんな目に遭った』ってことは二の次で、『そうしなきゃいけない訳ありな人を助けて』と、たのみにきた感じで」
「たのむって、拓馬に? お坊さん?」
「警官やってるお坊さんのほう。俺はなんにもできねーもん」
シズカと拓馬とは大きく異なる点がある。人外が見えるだけの拓馬とちがって、彼は人外への対処法を持つ。そのことを父は知っているのに、わざわざ確認してくるのを拓馬はわずらわしく感じた。
「拓馬だからできることだってあるとも」
「どんな?」
「今日は早く学校に行って、あの子の話をじっくり聞いてあげなさい。彼女もたぶん、家でのんびりしてる気分じゃなさそうだ」
「よくそんなにあいつの行動が読めるな。父さんが直接話を聞いたんじゃねえのに」
「長く生きてたらそれくらい想像ができるように……ならない人はならないな、うん」
父の予想は経験にもとづく推察だ。それは他者に関心をそそぐ者にだけ培われる能力である。自分にしか興味のない人間はどれだけの歳月をかけても習得しえない。
「あの子は拓馬だからなんでも言えるんだよ。これは、よその大人じゃできない」
ふいに拓馬の足元があたたかくなった。テーブルの下をのぞくとトーマが足にまとわりついている。拓馬だけがさきにご飯を食べるのを、うらやましがっているのだろうか。拓馬をじっと見上げる目には愛嬌があった。
「ほら、拓馬はトーマが自分のところにきたら、うれしくなるだろ?」
「え? まあ、そりゃ……」
「そばにいてくれるだけで、気持ちが楽になる……それは素敵な能力だよ」
父がトーマのことを口にする意味──拓馬は会話の前後をかえりみて、これは一続きの話題なのだと察する。
「じゃあなんだ、俺があいつの癒しになってるってか? 犬といっしょ?」
父はプラスチック製ボウルに入れたサラダをかきまぜた。その顔は笑っている。
「癒し、だったらトーマの勝ちだな」
「だろ? 例えがわりぃよ」
「すまん、言葉が足りなかった。ようは、だれかの役に立つ力には種類がいろいろあるってことだ。お坊さんの問題解決能力はたしかにすばらしい。でもその力が拓馬にないからといって、引け目に感じる必要はないんだよ」
父は拓馬の自己肯定感の低さを見抜いている。もとより拓馬はそういった発言を過去にしてきたのだから、別段おどろくことではない。だがこの場でなぐさめを受けるとは思っていなかった。拓馬がどう返答していいものか考えあぐねると、足音が近づいてきた。
「あら、もうご飯の支度をしてるの?」
朝食作りの主役な母がようやく起床した。父は調理役を母と交代し、成果物を皿と弁当へ盛る作業に徹する。そうしてできた弁当を拓馬が持ち、早足で家を出た。