2018年05月09日
拓馬篇−5章2 ★
ヤマダが根岸宅を出たあと、拓馬は早々に制服に着替えた。いつもの登校時間より早いが、家にいても落ち着かないので、とっとと登校しようと思った。
拓馬は食事をしに居間へ入った。居間と一体型になった台所に父が立っている。拓馬の家ではたいてい母が朝食を用意するのだが、早起きした父が家事をこなすこともままあった。父以外はまだ起きていないらしい。
拓馬は父に簡単な挨拶をしてから「食うもんある?」とたずねた。父は四角いフライパンで玉子を調理しながら「昨日の残り物が電子レンジにある」と答える。
「いまあたためてる。拓馬が食べると思って」
「ああ、ありがとう」
拓馬は昨夜のメニューがシチューだったのを思い出し、引き出しからスプーンを取った。
「さっき、小山田さんの娘さんがきてたね」
父はやはり気付いていた。拓馬はどこをどう教えていいものやら言葉に詰まる。
「え、ああ、ちょっと話があって」
「今日の夜中にあったこと?」
「へ? なんで知ってる?」
まさか父が盗み聞きをしたか、と拓馬は父の顔をのぞきこんだ。父は苦笑する。
「話すとすこし長くなるんだが、いいかな?」
どうやら拓馬らの会話から得た知識ではないらしい。拓馬は父への信頼を取りもどし、稼働中の電子レンジのボタンを操作する。
「じゃ、飯を食いながら聞く」
拓馬は電子レンジ内にある、ほんのり温まった陶器をテーブルに運んだ。
「昨日はゴミ置き場の鍵を開けるのをうっかり忘れてたから、夜中に出かけたんだ」
父は事の次第を説明しはじめる。
「それから家について、さあ寝ようと思ったら、家の外から男性の話し声が聞こえてきて、その話が気になったから物陰に隠れてたんだよ。そうしたら、妖怪かなにかが、だれかとしゃべってたんだ」
「どうやって人間じゃないとわかったんだ?」
「断片的にしか聞き取れなかったが、言ってることが普通の人じゃないみたいで──」
父は「いや、ちがうか」と自身の説明を否定する。
「話し声が聞こえたときは、内容をわかってなかった。だから勘だな。『この話し声は人間のものじゃない』と、なんとなく感じた」
父は霊的なものに対する感覚が人一倍すぐれている。そのセンサーがはたらいたことを、拓馬は疑わない。
「父さんの勘は、きっと合ってると思う」
その思いはたとえヤマダの体験を聞かされていなかったとしても変わらない。それだけ拓馬は父の能力を信じていた。
「そいつがうちの家の前を通りすぎたのを見計らって、顔を出したら、ずいぶん大きい人影が小山田さんちへ入っていった。ますます気になって、その後ろを追いかけたんだ」
父は平皿に不格好な玉子焼きをのせた。しゃべりながらの作業のせいで、きれいに焼けなかったのだろう。この一家は見た目の不出来を気にする性分ではなく、食べられれば成功作である。父は完成した料理を切り分けた。そのうちの極端に小さくなった部分を三切れ小皿にのせ、拓馬に渡した。残った見た目のよい部分は弁当のおかずに入れるのだ。
次に父は片手鍋に水を入れ、コンロで熱しはじめた。お湯で食材を茹でるのか汁物を作るのか。しかし父はただ突っ立っている。
「そうしたらその大きい人が玄関口で、小山田さんちの娘さんを寝かせて、その子にまた話しているんだ。とても親しげにね……」
「そのデカイやつはヤマダが好きなのか?」
「どうだろう……彼女に憑《と》りつくなにかを、彼女と一緒くたにあつかっている……ふうに見えたかな。きっとお化け同士の会話をしていたんだと思う。私の耳だと、ひとりの男性の声しか聞きとれなかったけどね」
ヤマダに憑《つ》いたなにか──拓馬はヤマダの身にまとわりつく、黒く小さな物体を連想した。あれが大男の知り合いなのか。
「もしかして、クロスケが?」
その呼び名はヤマダがつけた。彼女につきまとう人外のことを、父も見聞きしている。父は「そうかもしれない」とうなずく。
「……そんなことがあったから、今朝の拓馬が早起きしたことも納得できるんだ」
説明の区切りがついた父は調理を再開する。冷蔵庫から水菜を一袋出して、水洗いした。鍋の湯は水菜を湯がくための下準備だ。
「拓馬と娘さんの話は短かったようだし、本当はまだ話せることがあるんじゃないかな」
「そう言われれば……あっさりした言い方だったな。『自分がこんな目に遭った』ってことは二の次で、『そうしなきゃいけない訳ありな人を助けて』と、たのみにきた感じで」
「たのむって、拓馬に? お坊さん?」
「警官やってるお坊さんのほう。俺はなんにもできねーもん」
シズカと拓馬とは大きく異なる点がある。人外が見えるだけの拓馬とちがって、彼は人外への対処法を持つ。そのことを父は知っているのに、わざわざ確認してくるのを拓馬はわずらわしく感じた。
「拓馬だからできることだってあるとも」
「どんな?」
「今日は早く学校に行って、あの子の話をじっくり聞いてあげなさい。彼女もたぶん、家でのんびりしてる気分じゃなさそうだ」
「よくそんなにあいつの行動が読めるな。父さんが直接話を聞いたんじゃねえのに」
「長く生きてたらそれくらい想像ができるように……ならない人はならないな、うん」
父の予想は経験にもとづく推察だ。それは他者に関心をそそぐ者にだけ培われる能力である。自分にしか興味のない人間はどれだけの歳月をかけても習得しえない。
「あの子は拓馬だからなんでも言えるんだよ。これは、よその大人じゃできない」
ふいに拓馬の足元があたたかくなった。テーブルの下をのぞくとトーマが足にまとわりついている。拓馬だけがさきにご飯を食べるのを、うらやましがっているのだろうか。拓馬をじっと見上げる目には愛嬌があった。
「ほら、拓馬はトーマが自分のところにきたら、うれしくなるだろ?」
「え? まあ、そりゃ……」
「そばにいてくれるだけで、気持ちが楽になる……それは素敵な能力だよ」
父がトーマのことを口にする意味──拓馬は会話の前後をかえりみて、これは一続きの話題なのだと察する。
「じゃあなんだ、俺があいつの癒しになってるってか? 犬といっしょ?」
父はプラスチック製ボウルに入れたサラダをかきまぜた。その顔は笑っている。
「癒し、だったらトーマの勝ちだな」
「だろ? 例えがわりぃよ」
「すまん、言葉が足りなかった。ようは、だれかの役に立つ力には種類がいろいろあるってことだ。お坊さんの問題解決能力はたしかにすばらしい。でもその力が拓馬にないからといって、引け目に感じる必要はないんだよ」
父は拓馬の自己肯定感の低さを見抜いている。もとより拓馬はそういった発言を過去にしてきたのだから、別段おどろくことではない。だがこの場でなぐさめを受けるとは思っていなかった。拓馬がどう返答していいものか考えあぐねると、足音が近づいてきた。
「あら、もうご飯の支度をしてるの?」
朝食作りの主役な母がようやく起床した。父は調理役を母と交代し、成果物を皿と弁当へ盛る作業に徹する。そうしてできた弁当を拓馬が持ち、早足で家を出た。
拓馬は食事をしに居間へ入った。居間と一体型になった台所に父が立っている。拓馬の家ではたいてい母が朝食を用意するのだが、早起きした父が家事をこなすこともままあった。父以外はまだ起きていないらしい。
拓馬は父に簡単な挨拶をしてから「食うもんある?」とたずねた。父は四角いフライパンで玉子を調理しながら「昨日の残り物が電子レンジにある」と答える。
「いまあたためてる。拓馬が食べると思って」
「ああ、ありがとう」
拓馬は昨夜のメニューがシチューだったのを思い出し、引き出しからスプーンを取った。
「さっき、小山田さんの娘さんがきてたね」
父はやはり気付いていた。拓馬はどこをどう教えていいものやら言葉に詰まる。
「え、ああ、ちょっと話があって」
「今日の夜中にあったこと?」
「へ? なんで知ってる?」
まさか父が盗み聞きをしたか、と拓馬は父の顔をのぞきこんだ。父は苦笑する。
「話すとすこし長くなるんだが、いいかな?」
どうやら拓馬らの会話から得た知識ではないらしい。拓馬は父への信頼を取りもどし、稼働中の電子レンジのボタンを操作する。
「じゃ、飯を食いながら聞く」
拓馬は電子レンジ内にある、ほんのり温まった陶器をテーブルに運んだ。
「昨日はゴミ置き場の鍵を開けるのをうっかり忘れてたから、夜中に出かけたんだ」
父は事の次第を説明しはじめる。
「それから家について、さあ寝ようと思ったら、家の外から男性の話し声が聞こえてきて、その話が気になったから物陰に隠れてたんだよ。そうしたら、妖怪かなにかが、だれかとしゃべってたんだ」
「どうやって人間じゃないとわかったんだ?」
「断片的にしか聞き取れなかったが、言ってることが普通の人じゃないみたいで──」
父は「いや、ちがうか」と自身の説明を否定する。
「話し声が聞こえたときは、内容をわかってなかった。だから勘だな。『この話し声は人間のものじゃない』と、なんとなく感じた」
父は霊的なものに対する感覚が人一倍すぐれている。そのセンサーがはたらいたことを、拓馬は疑わない。
「父さんの勘は、きっと合ってると思う」
その思いはたとえヤマダの体験を聞かされていなかったとしても変わらない。それだけ拓馬は父の能力を信じていた。
「そいつがうちの家の前を通りすぎたのを見計らって、顔を出したら、ずいぶん大きい人影が小山田さんちへ入っていった。ますます気になって、その後ろを追いかけたんだ」
父は平皿に不格好な玉子焼きをのせた。しゃべりながらの作業のせいで、きれいに焼けなかったのだろう。この一家は見た目の不出来を気にする性分ではなく、食べられれば成功作である。父は完成した料理を切り分けた。そのうちの極端に小さくなった部分を三切れ小皿にのせ、拓馬に渡した。残った見た目のよい部分は弁当のおかずに入れるのだ。
次に父は片手鍋に水を入れ、コンロで熱しはじめた。お湯で食材を茹でるのか汁物を作るのか。しかし父はただ突っ立っている。
「そうしたらその大きい人が玄関口で、小山田さんちの娘さんを寝かせて、その子にまた話しているんだ。とても親しげにね……」
「そのデカイやつはヤマダが好きなのか?」
「どうだろう……彼女に憑《と》りつくなにかを、彼女と一緒くたにあつかっている……ふうに見えたかな。きっとお化け同士の会話をしていたんだと思う。私の耳だと、ひとりの男性の声しか聞きとれなかったけどね」
ヤマダに憑《つ》いたなにか──拓馬はヤマダの身にまとわりつく、黒く小さな物体を連想した。あれが大男の知り合いなのか。
「もしかして、クロスケが?」
その呼び名はヤマダがつけた。彼女につきまとう人外のことを、父も見聞きしている。父は「そうかもしれない」とうなずく。
「……そんなことがあったから、今朝の拓馬が早起きしたことも納得できるんだ」
説明の区切りがついた父は調理を再開する。冷蔵庫から水菜を一袋出して、水洗いした。鍋の湯は水菜を湯がくための下準備だ。
「拓馬と娘さんの話は短かったようだし、本当はまだ話せることがあるんじゃないかな」
「そう言われれば……あっさりした言い方だったな。『自分がこんな目に遭った』ってことは二の次で、『そうしなきゃいけない訳ありな人を助けて』と、たのみにきた感じで」
「たのむって、拓馬に? お坊さん?」
「警官やってるお坊さんのほう。俺はなんにもできねーもん」
シズカと拓馬とは大きく異なる点がある。人外が見えるだけの拓馬とちがって、彼は人外への対処法を持つ。そのことを父は知っているのに、わざわざ確認してくるのを拓馬はわずらわしく感じた。
「拓馬だからできることだってあるとも」
「どんな?」
「今日は早く学校に行って、あの子の話をじっくり聞いてあげなさい。彼女もたぶん、家でのんびりしてる気分じゃなさそうだ」
「よくそんなにあいつの行動が読めるな。父さんが直接話を聞いたんじゃねえのに」
「長く生きてたらそれくらい想像ができるように……ならない人はならないな、うん」
父の予想は経験にもとづく推察だ。それは他者に関心をそそぐ者にだけ培われる能力である。自分にしか興味のない人間はどれだけの歳月をかけても習得しえない。
「あの子は拓馬だからなんでも言えるんだよ。これは、よその大人じゃできない」
ふいに拓馬の足元があたたかくなった。テーブルの下をのぞくとトーマが足にまとわりついている。拓馬だけがさきにご飯を食べるのを、うらやましがっているのだろうか。拓馬をじっと見上げる目には愛嬌があった。
「ほら、拓馬はトーマが自分のところにきたら、うれしくなるだろ?」
「え? まあ、そりゃ……」
「そばにいてくれるだけで、気持ちが楽になる……それは素敵な能力だよ」
父がトーマのことを口にする意味──拓馬は会話の前後をかえりみて、これは一続きの話題なのだと察する。
「じゃあなんだ、俺があいつの癒しになってるってか? 犬といっしょ?」
父はプラスチック製ボウルに入れたサラダをかきまぜた。その顔は笑っている。
「癒し、だったらトーマの勝ちだな」
「だろ? 例えがわりぃよ」
「すまん、言葉が足りなかった。ようは、だれかの役に立つ力には種類がいろいろあるってことだ。お坊さんの問題解決能力はたしかにすばらしい。でもその力が拓馬にないからといって、引け目に感じる必要はないんだよ」
父は拓馬の自己肯定感の低さを見抜いている。もとより拓馬はそういった発言を過去にしてきたのだから、別段おどろくことではない。だがこの場でなぐさめを受けるとは思っていなかった。拓馬がどう返答していいものか考えあぐねると、足音が近づいてきた。
「あら、もうご飯の支度をしてるの?」
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