2018年04月08日
拓馬篇−4章◆ ★
美弥の姉──律子はチェーン店での遅まきの夕食を注文し終えた。美弥は姉とともに、同席者の男子と向かい合う状態で、テーブル席に着いている。
律子は初対面の少年に声をかける。
「おごってあげるけど……なにも頼まなくていいの?」
「おかまいなく……」
この男子は一向に律子と目線を合わせない。角度的には顔を合わせても、べつのところに視線をやっているように見えた。そんなふうに、男性が律子を直視できない理由はある。律子は子役上がりの女優である。成長してからは容貌にますます磨きが入り、その容姿を前にして照れてしまうのだ。あるいは著名な人物と出会った興奮をおさえる、ということありえそうだ。
ところが、根岸からは浮ついた感情が伝わってこなかった。美弥には彼の反応が純粋な人見知りのように感じた。あるいは女性慣れしていないウブな少年のようでもある。
(女の免疫があると思ってたけど)
根岸という男子は女子生徒との交友がある。そのやり取りの印象では、彼はどこかしら女子を異性に見ていないふしがあった。とくにヤマダとあだ名される女子との仲が顕著だ。ヤマダは樺島融子という歌手と似た容姿をしており、その歌手は人を選ぶタイプの美人だ。最大公約数的に好かれる律子とはちがった魅力の持ち主とはいえ、そういった美人に似た女子を友とする男子なのだ。彼ならば律子相手にも平然と接すると美弥は期待していた。
(仙谷のほうはぜんぜん、いつもと変わらなかったのに)
仙谷とは大型連休中、個人経営の喫茶店で鉢合わせになった。そのときの彼は店の従業員で、料理を運んだり食器を片づけたりといった雑用をしていた。その店は本来、女性従業員ばかり勤めている。仙谷は繁忙期の助っ人に入ったのだという。男性店員がいない店だと思って安心していた美弥には衝撃的な出会いだった。
そのときの美弥は律子同伴で店を訪れており、仙谷の興味は美弥にばかり注がれた。彼の関心は、美弥が知らぬ間に遭遇する不審人物にあった。その態度は学校で見かけた様子と同じであり、美貌の有名人がそばにいても仙谷は意に介さなかった。
仙谷の質問を受けるさなか、律子は正直に不審者の存在におじけづくことを話した。それを知ったときの仙谷は、カッコいいところを美女に見せようという虚栄心なく、義憤に駆られていた。その熱意を美弥はうっとうしいと感じた。その反面、この男子は打算抜きで行動する人物だと信じるようになった。
律子に群がる男にはよく、律子を利用する目的で近づく者がいる。そいつらは律子に損な役回りをさせることで、自己の満足を得ようとするのだ。今晩駅舎で遭遇した二人組がまさにそうだ。彼らは有名人の私生活を暴露しようとした記者。ああいう詮索をするやからを、美弥は嫌う。他人が知らなくてもよいことを根掘り葉掘りほじくる無粋さといい、有る事ない事を書きたてるでたらめさもヘドが出るほど汚らわしく思っている。そういった心無い記者のせいで美弥は以前いた学校から追い出され、転校する事態になった。今日会った連中が、美弥の環境を変えた記者と同一かはわからないが、美弥は自分の受けた不合理を怒りに転換せずにはいられなかった。
そういった利己的な男どもがいたせいで、美弥は男性を毛嫌いするようになった。しかしそう見下げ果てなくてもいい男性もいると、最近の美弥は考え直しつつある。
根岸はバツがわるそうに「二人は姉妹で合ってるか?」と美弥にたずねてきた。そんなことは仙谷から聞いているだろうが、これはあくまで確認だ。
「ええ、姉妹よ」
「お姉さんの名字は水卜《みうら》……だよな。芸名?」
根岸は姉妹の名乗る姓がちがうのを理由に、まことの姉妹かどうか確証を得られなかったらしい。美弥は「昔は母の名字を名乗っていたの」と事実を話す。
「水卜で名前が通ってるから、戸籍の名前が変わっても仕事ではそのままにしてる」
「お母さんが再婚して、須坂になったと?」
「そう思ってていい」
美弥は真相を明かさなかった。母が他界したあと、父が娘二人を引き取ったことは、この場ではなんの用も成さない情報だ。いま話すべきは、複雑な身の上話ではない。
歓談中とは言えない空気の中、律子の注文した料理が運ばれてきた。美弥の姉がひとり、夕食を食べる。
「なんだか悪いわね、一人だけ食べて」
「いいの、私は根岸くんと話がしたいから」
優しい声色とは裏腹に、美弥は根岸への詰問の姿勢をとる。対する根岸は冷水の入ったコップに口をつけた。
「今日は何人で捜査ごっこをやってたの?」
「全員の名前をあげろってか?」
根岸は美弥相手には遠慮のない語勢で言ってくる。若干反抗的な態度とも取れなくはないが、美弥は根岸のことを話の通じる相手だと認めているので、そこは見過ごす。
「べつに、だいたいは想像つくから言わなくてもいい」
「じゃあなんで聞いた?」
「あなたもその仲間も、こんなことしててなんになるの? それがわからない」
「三郎の気がすむようにしてるんだ。あいつが騒がなきゃ、俺だって家でおとなしくしてるよ」
仙谷がいなければ根岸は捜査ごっこをしない。その明言は、根岸が自発的に美弥たちを助けようとしていないことを指している。それが常識的な姿勢とはいえ、美弥は根岸の非協力的な発言に落胆する。
「……そう。じゃ、私がへんな男につきまとわれてると知っても、なにもしたくはないのね」
「なにもしないってことはない」
根岸は決然と言いきる。
「そういう変質者の対処が上手な知り合いがいるんだ。その人に相談はする」
「へえ、じゃあその人にはこのことを言ってあるの?」
「もう知ってるよ。須坂が駅に行った帰りに、倒れてる成石を見つけたって。それからは成石をおそった犯人を捜してくれてる」
美弥のあずかり知らぬところで協力者がいる。その事実を知った美弥は胸がかるくなった気した。この土地では、他者に救いの手をのばす者がこんなにもいるのだ。以前の美弥の環境では考えられないことだ。
「その知り合いは警官だ。もし犯人の特徴がわかるなら、その人に伝えれば早く解決できると思う。なにか教えてくれるか?」
「で、私があなたに教えたことは仙谷くんにも伝えるの?」
美弥は半分冗談で質問した。根岸は「そうなるな」とあっさり認める。
「あいつに言ったところで、どうなるもんでもなさそうだけど……言わなきゃあいつは納得しねえから」
「めんどくさい友だちなのね」
「まーな。でもイヤなとこがひとつあるからって拒んでいられないだろ? そんなんじゃ、だれとも人付き合いができなくなるし──」
ずいぶん大人びた思想だと美弥は思った。自身はのぞまぬ危険に、友人の要求で立ち向かわされるのを、たった一つの友人の短所として大目に見る。その度量の広さは感嘆に値する。
(冷めてるみたいでも、お人好しね……)
根岸は他者への関心のうすい人間に見えるが、ひとたび親しくなってしまえば情け深い性格が出てくるようだ。その情が、美弥にも発揮されるのだろうか。そんなことを美弥が思ううち、話題は警官への情報提供向けの聴取に変わる。
「今日出くわした、へんな男って二種類いたよな。カメラを持ってた男二人と、馬鹿力な大男」
「あなた、ずっと見てたの?」
「ああ、見張ってた」
根岸は臆面もなく白状した。美弥が彼を非難するつもりがないことは前もって伝えたため、発言に遠慮や虚飾はしていないようだ。
「須坂はどっちが成石に手ぇ出したやつだと思う?」
「それは大男のほうね」
「なんでそう思う?」
「カメラマンのほうは記者だもの。雑誌のネタさがしにお姉ちゃんを尾行してたわけ。妹の私のほうを追いかけないと思う。今日だってあいつらは電車に乗って、お姉ちゃんのことを調べてたし……」
「そう、か……いまのとこ、須坂が駅にいく道中に不審者が出てるもんな」
根岸は苦々しい顔で美弥の意見に同意した。その反応の意図が不明である。
「大男が犯人だと、都合がわるいの?」
「そりゃあ、あんなに強いやつは俺らにゃどうしようもないからな。普通の警官でもムリあるぞ」
大男は怪力のうえに俊敏さもあわせ持っていた。並大抵の武道修練者では対抗できなさそうだ。ならば根岸の知人だという警官も、太刀打ちできないのではないか。
「じゃあ、あなたの知り合いもお手上げ?」
美弥は率直な疑問を投げた。そこに根岸たちの実力不足をなじる意図はない。「そうだ」と根岸が答えるものと予想していたが、意外にも彼は「いや、大丈夫」と言う。
「居所さえわかれば、あの人はとっつかまえてくれる」
「そんなに強い人なの?」
「強い仲間がいっぱいいる人だよ」
警官の仲間、といえば同職の警官か。現在の美弥の被害の度合いからは、ひとりの警官さえ動員できる気がしない。夜に出歩かなければいい──そんな短絡的な自衛策を講じられて、あとは無視を決めこまれそうだ。美弥は根岸の主張が絵空事に感じる。
「まだ事件にもなってないのに、警官がたくさんうごける?」
「そのへんは企業秘密ってことで、聞かないでくれるか」
「むりなら『無理』だと言っていいのよ」
「気休めで言ってるんじゃない」
根岸はやや強い口調で否定した。彼は甘言を弄しているわけではないらしい。
「とにかく、いまはすこしでも手がかりがほしい」
きつく当たったのを反省してか、根岸の声がやさしくなる。
「あの帽子の男がお前をつけまわす理由、なんか心当たりあるか?」
「ぜんぜんない。いままで会ったことだってないもの」
「目的がさっぱりわかんねえんだな」
「私を守ってくれてるみたいだけど、どうしてなのかがわからきなゃ、不気味で……」
「良い人ぶってるすきを狙って、なにかされでもしたら──」
不穏なことを言いかける根岸に「ねえ」と律子が口をはさむ。律子はすっかり食事を食べきっていた。
「わたしたち、しばらく会わないほうがいいのかしら?」
その案は美弥も考えていたことだ。しかし実行するには姉の負担も大きい。
「今日会った男の人、美弥がわたしと会うときに現れるんでしょう。わたしたちが会うのをやめたらいなくなるんじゃない?」
美弥はしばし姉を見つめた。律子の訪問は律子自身の心の安定のためにしていることだ。彼女がもっとも信頼する者が妹であり、そう自負するがゆえに美弥も姉の来訪を止めないでいた。
「……そうね、それが無難かも。でも、いいの?」
「美弥が心配で会いにきていたけれど、そのせいで心配事が増えるんじゃ意味ないもの」
律子の言い分と美弥の考えが正反対になっている。これは根岸という第三者に向けての虚勢だと、美弥は判断した。大の女優が未成年の子どもを心の支えにしている、などという弱さをひけらかしたくないのだ。
律子の承諾を美弥が反対する理由はない。だが賛同を確信できない他人はいる。
「根岸くんもそれでいい?」
「へ? なんで俺に聞くんだ」
根岸は呆然とした。当然といえば当然だ。彼も被害者のうちである。美弥は彼を経由して仙谷に伝えてもらうつもりで、話をすすめる。
「あの男の人がいなくなったら、捜査ごっこができなくなるでしょ」
「それは俺の趣味じゃない。俺も、騒ぎの原因がなくなれば御の字だよ」
「じゃあ、決まりね」
根岸の同意を得ての決定なら、仙谷も納得がいくはず。美弥は大男とは別種の騒がしい人物が鎮静化するのを期待した。
対談のめどがつき、美弥たちは喫茶店を出る。店の外で根岸が「アパートまでおくろうか」と提案したが、その必要はないと美弥はことわる。
「あなたも早く帰ったら? 仙谷くんとつもる話があるんじゃないの」
「まあ、今日あったことは知らせるつもりだけど……あ、そうだ」
根岸は大男の身体的特徴をたずねてきた。間近で目撃した美弥でしか知り得ぬことを聞きだそうとしているのだ。だが美弥は根岸が気付いた以上のことは言えない。大男はあまりに突然な登場を果たしたため、念入りな観察ができなかった。
「ごめんなさい。あんまり、見てなかった」
「顔も見えなかったか?」
「顔? そういえば──」
目元がまったくわからなかった。あれは、黒いレンズの眼鏡をかけていたのだろうか。
「たぶん、サングラスをかけてた。そのせいで、ぜんぜん顔がわからない」
「こんな夜に、サングラスを?」
「変装かしらね、お姉ちゃんもよくかけるし」
律子がバッグから濃い色のレンズの眼鏡を出してみせる。彼女は駅で美弥と会うまで、そのサングラスをかけていた。もちろん変装目当てである。
根岸はうーんとうなる。疑問がさらに疑問をよんでいるようだ。
「そういう変装って、自分を知ってるだれかに、自分だと気付かれたくないからやることだろ?」
「お姉ちゃんの場合はそうね。だったらなに、あのサングラスの男も、有名人だっていうの?」
「いや……その、水卜さんの知り合いかもしれないと思って」
その可能性はある。顔の広い律子を慕う者が、ふびんな女性とその妹を守ろうとする、という可能性が。
「須坂たちの知ってる人のなかに、あんなゴツイ男はいるかな?」
「ううん、知らない。お姉ちゃんはどう?」
律子は首を横にふる。
「ああいう筋肉質な男の人とは仕事で何人か会ったことあるけど、ちがう人ね。まず、声がはじめて聞く感じだった──」
根岸が「あの男、しゃべってたのか?」と美弥に聞いた。遠巻きに見ていた彼には知り得ないことだ。美弥はサングラスの男の言動を根岸に説明する。
「えっと、たしか……記者のカメラを壊したときに『二度と近づくな』って、連中をおどしてた。私が食ってかかったから、あいつらが私たちの敵だと、あのサングラスの人は思ったんでしょうね」
現段階では、奇妙な男は美弥たちを助けてくれている。そのことを知った根岸は「話を聞いてるだけだといい人っぽいんだがなぁ」と割り切れない感想を述べた。
「私たちがわかるのはこのくらいね。あとはダメもとで警察官の人にも言っておいて」
「ああ、そうする」
事情聴取に満足がいった根岸は帰路についた。美弥も下宿先へ向かうつもりで姉の様子を見る。律子はなぜだかほほえんでいた。
「お姉ちゃん?」
「男の子とも、ふつうに話せてるのね」
律子は美弥の男性への態度が軟化したことによろこんでいるらしい。言外に恋話めいた冷やかしを美弥は感じた。姉が妙な期待を持たぬよう、先手を打つ。
「あの子は……私に興味がないから、あんまり男だと思わずに話せるみたい」
「そうなの? 最初はなんだか照れてるみたいだったけれど」
「あれはお姉ちゃんを意識してたのよ。学校じゃ、ああはならない」
美弥はアパートを目指しつつ、学校でのクラスメイトの話をした。その話はこれまでにも何度か告げてある。今日はとりわけ、美弥のまわりで起きる事件に首をつっこむ生徒について紹介した。
今回の帰り道は、倒れている人を発見しなかった。本日あの大男が襲撃した対象は記者二人だけ。それも憎たらしい連中を成敗してくれたのだ。美弥は胸がすく思いがした。
律子は初対面の少年に声をかける。
「おごってあげるけど……なにも頼まなくていいの?」
「おかまいなく……」
この男子は一向に律子と目線を合わせない。角度的には顔を合わせても、べつのところに視線をやっているように見えた。そんなふうに、男性が律子を直視できない理由はある。律子は子役上がりの女優である。成長してからは容貌にますます磨きが入り、その容姿を前にして照れてしまうのだ。あるいは著名な人物と出会った興奮をおさえる、ということありえそうだ。
ところが、根岸からは浮ついた感情が伝わってこなかった。美弥には彼の反応が純粋な人見知りのように感じた。あるいは女性慣れしていないウブな少年のようでもある。
(女の免疫があると思ってたけど)
根岸という男子は女子生徒との交友がある。そのやり取りの印象では、彼はどこかしら女子を異性に見ていないふしがあった。とくにヤマダとあだ名される女子との仲が顕著だ。ヤマダは樺島融子という歌手と似た容姿をしており、その歌手は人を選ぶタイプの美人だ。最大公約数的に好かれる律子とはちがった魅力の持ち主とはいえ、そういった美人に似た女子を友とする男子なのだ。彼ならば律子相手にも平然と接すると美弥は期待していた。
(仙谷のほうはぜんぜん、いつもと変わらなかったのに)
仙谷とは大型連休中、個人経営の喫茶店で鉢合わせになった。そのときの彼は店の従業員で、料理を運んだり食器を片づけたりといった雑用をしていた。その店は本来、女性従業員ばかり勤めている。仙谷は繁忙期の助っ人に入ったのだという。男性店員がいない店だと思って安心していた美弥には衝撃的な出会いだった。
そのときの美弥は律子同伴で店を訪れており、仙谷の興味は美弥にばかり注がれた。彼の関心は、美弥が知らぬ間に遭遇する不審人物にあった。その態度は学校で見かけた様子と同じであり、美貌の有名人がそばにいても仙谷は意に介さなかった。
仙谷の質問を受けるさなか、律子は正直に不審者の存在におじけづくことを話した。それを知ったときの仙谷は、カッコいいところを美女に見せようという虚栄心なく、義憤に駆られていた。その熱意を美弥はうっとうしいと感じた。その反面、この男子は打算抜きで行動する人物だと信じるようになった。
律子に群がる男にはよく、律子を利用する目的で近づく者がいる。そいつらは律子に損な役回りをさせることで、自己の満足を得ようとするのだ。今晩駅舎で遭遇した二人組がまさにそうだ。彼らは有名人の私生活を暴露しようとした記者。ああいう詮索をするやからを、美弥は嫌う。他人が知らなくてもよいことを根掘り葉掘りほじくる無粋さといい、有る事ない事を書きたてるでたらめさもヘドが出るほど汚らわしく思っている。そういった心無い記者のせいで美弥は以前いた学校から追い出され、転校する事態になった。今日会った連中が、美弥の環境を変えた記者と同一かはわからないが、美弥は自分の受けた不合理を怒りに転換せずにはいられなかった。
そういった利己的な男どもがいたせいで、美弥は男性を毛嫌いするようになった。しかしそう見下げ果てなくてもいい男性もいると、最近の美弥は考え直しつつある。
根岸はバツがわるそうに「二人は姉妹で合ってるか?」と美弥にたずねてきた。そんなことは仙谷から聞いているだろうが、これはあくまで確認だ。
「ええ、姉妹よ」
「お姉さんの名字は水卜《みうら》……だよな。芸名?」
根岸は姉妹の名乗る姓がちがうのを理由に、まことの姉妹かどうか確証を得られなかったらしい。美弥は「昔は母の名字を名乗っていたの」と事実を話す。
「水卜で名前が通ってるから、戸籍の名前が変わっても仕事ではそのままにしてる」
「お母さんが再婚して、須坂になったと?」
「そう思ってていい」
美弥は真相を明かさなかった。母が他界したあと、父が娘二人を引き取ったことは、この場ではなんの用も成さない情報だ。いま話すべきは、複雑な身の上話ではない。
歓談中とは言えない空気の中、律子の注文した料理が運ばれてきた。美弥の姉がひとり、夕食を食べる。
「なんだか悪いわね、一人だけ食べて」
「いいの、私は根岸くんと話がしたいから」
優しい声色とは裏腹に、美弥は根岸への詰問の姿勢をとる。対する根岸は冷水の入ったコップに口をつけた。
「今日は何人で捜査ごっこをやってたの?」
「全員の名前をあげろってか?」
根岸は美弥相手には遠慮のない語勢で言ってくる。若干反抗的な態度とも取れなくはないが、美弥は根岸のことを話の通じる相手だと認めているので、そこは見過ごす。
「べつに、だいたいは想像つくから言わなくてもいい」
「じゃあなんで聞いた?」
「あなたもその仲間も、こんなことしててなんになるの? それがわからない」
「三郎の気がすむようにしてるんだ。あいつが騒がなきゃ、俺だって家でおとなしくしてるよ」
仙谷がいなければ根岸は捜査ごっこをしない。その明言は、根岸が自発的に美弥たちを助けようとしていないことを指している。それが常識的な姿勢とはいえ、美弥は根岸の非協力的な発言に落胆する。
「……そう。じゃ、私がへんな男につきまとわれてると知っても、なにもしたくはないのね」
「なにもしないってことはない」
根岸は決然と言いきる。
「そういう変質者の対処が上手な知り合いがいるんだ。その人に相談はする」
「へえ、じゃあその人にはこのことを言ってあるの?」
「もう知ってるよ。須坂が駅に行った帰りに、倒れてる成石を見つけたって。それからは成石をおそった犯人を捜してくれてる」
美弥のあずかり知らぬところで協力者がいる。その事実を知った美弥は胸がかるくなった気した。この土地では、他者に救いの手をのばす者がこんなにもいるのだ。以前の美弥の環境では考えられないことだ。
「その知り合いは警官だ。もし犯人の特徴がわかるなら、その人に伝えれば早く解決できると思う。なにか教えてくれるか?」
「で、私があなたに教えたことは仙谷くんにも伝えるの?」
美弥は半分冗談で質問した。根岸は「そうなるな」とあっさり認める。
「あいつに言ったところで、どうなるもんでもなさそうだけど……言わなきゃあいつは納得しねえから」
「めんどくさい友だちなのね」
「まーな。でもイヤなとこがひとつあるからって拒んでいられないだろ? そんなんじゃ、だれとも人付き合いができなくなるし──」
ずいぶん大人びた思想だと美弥は思った。自身はのぞまぬ危険に、友人の要求で立ち向かわされるのを、たった一つの友人の短所として大目に見る。その度量の広さは感嘆に値する。
(冷めてるみたいでも、お人好しね……)
根岸は他者への関心のうすい人間に見えるが、ひとたび親しくなってしまえば情け深い性格が出てくるようだ。その情が、美弥にも発揮されるのだろうか。そんなことを美弥が思ううち、話題は警官への情報提供向けの聴取に変わる。
「今日出くわした、へんな男って二種類いたよな。カメラを持ってた男二人と、馬鹿力な大男」
「あなた、ずっと見てたの?」
「ああ、見張ってた」
根岸は臆面もなく白状した。美弥が彼を非難するつもりがないことは前もって伝えたため、発言に遠慮や虚飾はしていないようだ。
「須坂はどっちが成石に手ぇ出したやつだと思う?」
「それは大男のほうね」
「なんでそう思う?」
「カメラマンのほうは記者だもの。雑誌のネタさがしにお姉ちゃんを尾行してたわけ。妹の私のほうを追いかけないと思う。今日だってあいつらは電車に乗って、お姉ちゃんのことを調べてたし……」
「そう、か……いまのとこ、須坂が駅にいく道中に不審者が出てるもんな」
根岸は苦々しい顔で美弥の意見に同意した。その反応の意図が不明である。
「大男が犯人だと、都合がわるいの?」
「そりゃあ、あんなに強いやつは俺らにゃどうしようもないからな。普通の警官でもムリあるぞ」
大男は怪力のうえに俊敏さもあわせ持っていた。並大抵の武道修練者では対抗できなさそうだ。ならば根岸の知人だという警官も、太刀打ちできないのではないか。
「じゃあ、あなたの知り合いもお手上げ?」
美弥は率直な疑問を投げた。そこに根岸たちの実力不足をなじる意図はない。「そうだ」と根岸が答えるものと予想していたが、意外にも彼は「いや、大丈夫」と言う。
「居所さえわかれば、あの人はとっつかまえてくれる」
「そんなに強い人なの?」
「強い仲間がいっぱいいる人だよ」
警官の仲間、といえば同職の警官か。現在の美弥の被害の度合いからは、ひとりの警官さえ動員できる気がしない。夜に出歩かなければいい──そんな短絡的な自衛策を講じられて、あとは無視を決めこまれそうだ。美弥は根岸の主張が絵空事に感じる。
「まだ事件にもなってないのに、警官がたくさんうごける?」
「そのへんは企業秘密ってことで、聞かないでくれるか」
「むりなら『無理』だと言っていいのよ」
「気休めで言ってるんじゃない」
根岸はやや強い口調で否定した。彼は甘言を弄しているわけではないらしい。
「とにかく、いまはすこしでも手がかりがほしい」
きつく当たったのを反省してか、根岸の声がやさしくなる。
「あの帽子の男がお前をつけまわす理由、なんか心当たりあるか?」
「ぜんぜんない。いままで会ったことだってないもの」
「目的がさっぱりわかんねえんだな」
「私を守ってくれてるみたいだけど、どうしてなのかがわからきなゃ、不気味で……」
「良い人ぶってるすきを狙って、なにかされでもしたら──」
不穏なことを言いかける根岸に「ねえ」と律子が口をはさむ。律子はすっかり食事を食べきっていた。
「わたしたち、しばらく会わないほうがいいのかしら?」
その案は美弥も考えていたことだ。しかし実行するには姉の負担も大きい。
「今日会った男の人、美弥がわたしと会うときに現れるんでしょう。わたしたちが会うのをやめたらいなくなるんじゃない?」
美弥はしばし姉を見つめた。律子の訪問は律子自身の心の安定のためにしていることだ。彼女がもっとも信頼する者が妹であり、そう自負するがゆえに美弥も姉の来訪を止めないでいた。
「……そうね、それが無難かも。でも、いいの?」
「美弥が心配で会いにきていたけれど、そのせいで心配事が増えるんじゃ意味ないもの」
律子の言い分と美弥の考えが正反対になっている。これは根岸という第三者に向けての虚勢だと、美弥は判断した。大の女優が未成年の子どもを心の支えにしている、などという弱さをひけらかしたくないのだ。
律子の承諾を美弥が反対する理由はない。だが賛同を確信できない他人はいる。
「根岸くんもそれでいい?」
「へ? なんで俺に聞くんだ」
根岸は呆然とした。当然といえば当然だ。彼も被害者のうちである。美弥は彼を経由して仙谷に伝えてもらうつもりで、話をすすめる。
「あの男の人がいなくなったら、捜査ごっこができなくなるでしょ」
「それは俺の趣味じゃない。俺も、騒ぎの原因がなくなれば御の字だよ」
「じゃあ、決まりね」
根岸の同意を得ての決定なら、仙谷も納得がいくはず。美弥は大男とは別種の騒がしい人物が鎮静化するのを期待した。
対談のめどがつき、美弥たちは喫茶店を出る。店の外で根岸が「アパートまでおくろうか」と提案したが、その必要はないと美弥はことわる。
「あなたも早く帰ったら? 仙谷くんとつもる話があるんじゃないの」
「まあ、今日あったことは知らせるつもりだけど……あ、そうだ」
根岸は大男の身体的特徴をたずねてきた。間近で目撃した美弥でしか知り得ぬことを聞きだそうとしているのだ。だが美弥は根岸が気付いた以上のことは言えない。大男はあまりに突然な登場を果たしたため、念入りな観察ができなかった。
「ごめんなさい。あんまり、見てなかった」
「顔も見えなかったか?」
「顔? そういえば──」
目元がまったくわからなかった。あれは、黒いレンズの眼鏡をかけていたのだろうか。
「たぶん、サングラスをかけてた。そのせいで、ぜんぜん顔がわからない」
「こんな夜に、サングラスを?」
「変装かしらね、お姉ちゃんもよくかけるし」
律子がバッグから濃い色のレンズの眼鏡を出してみせる。彼女は駅で美弥と会うまで、そのサングラスをかけていた。もちろん変装目当てである。
根岸はうーんとうなる。疑問がさらに疑問をよんでいるようだ。
「そういう変装って、自分を知ってるだれかに、自分だと気付かれたくないからやることだろ?」
「お姉ちゃんの場合はそうね。だったらなに、あのサングラスの男も、有名人だっていうの?」
「いや……その、水卜さんの知り合いかもしれないと思って」
その可能性はある。顔の広い律子を慕う者が、ふびんな女性とその妹を守ろうとする、という可能性が。
「須坂たちの知ってる人のなかに、あんなゴツイ男はいるかな?」
「ううん、知らない。お姉ちゃんはどう?」
律子は首を横にふる。
「ああいう筋肉質な男の人とは仕事で何人か会ったことあるけど、ちがう人ね。まず、声がはじめて聞く感じだった──」
根岸が「あの男、しゃべってたのか?」と美弥に聞いた。遠巻きに見ていた彼には知り得ないことだ。美弥はサングラスの男の言動を根岸に説明する。
「えっと、たしか……記者のカメラを壊したときに『二度と近づくな』って、連中をおどしてた。私が食ってかかったから、あいつらが私たちの敵だと、あのサングラスの人は思ったんでしょうね」
現段階では、奇妙な男は美弥たちを助けてくれている。そのことを知った根岸は「話を聞いてるだけだといい人っぽいんだがなぁ」と割り切れない感想を述べた。
「私たちがわかるのはこのくらいね。あとはダメもとで警察官の人にも言っておいて」
「ああ、そうする」
事情聴取に満足がいった根岸は帰路についた。美弥も下宿先へ向かうつもりで姉の様子を見る。律子はなぜだかほほえんでいた。
「お姉ちゃん?」
「男の子とも、ふつうに話せてるのね」
律子は美弥の男性への態度が軟化したことによろこんでいるらしい。言外に恋話めいた冷やかしを美弥は感じた。姉が妙な期待を持たぬよう、先手を打つ。
「あの子は……私に興味がないから、あんまり男だと思わずに話せるみたい」
「そうなの? 最初はなんだか照れてるみたいだったけれど」
「あれはお姉ちゃんを意識してたのよ。学校じゃ、ああはならない」
美弥はアパートを目指しつつ、学校でのクラスメイトの話をした。その話はこれまでにも何度か告げてある。今日はとりわけ、美弥のまわりで起きる事件に首をつっこむ生徒について紹介した。
今回の帰り道は、倒れている人を発見しなかった。本日あの大男が襲撃した対象は記者二人だけ。それも憎たらしい連中を成敗してくれたのだ。美弥は胸がすく思いがした。
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