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2020年02月17日

平将門にまつわる伝説

大都会の中心に佇む異空間

日本の名立たる大企業のオフィスが集まり、高層ビルが立ち並ぶ東京・大手町。

この大都会東京の中心といってもいい大手町の一角に防護壁に囲まれた、まるで別世界のような空間があります。

それが、平将門の首塚です。
将門の首塚.jpg

初めてここを訪れた人は、違和感を禁じ得ないと思われます。

なぜなら、周囲の近代的な高層ビル街とは真逆ともいえる、古めかしい祠が祀られているからです。

前回のブログでは将門の生涯について語りました。

しかし、反乱を起こして討たれ、そこで全てが終わっていたら、将門はこれほど有名な武将として語り継がれることはなかったでしょう。

将門は討死した後にも怪異譚を残しており、さらに現代でも“東京の守り神”として多くの人々に崇められているのです。

その死後から千年以上経っているのに、なぜ現代も“将門伝説”が語り継がれているのか?

というわけで、今回は将門の伝説について語りたいと思います。

怨霊伝説の始まり

天慶三年(940年)2月14日、朝廷に反旗を翻した将門は、平貞盛と藤原秀郷の連合軍に討たれました。

将門は首を斬られた後、京都に運ばれ七条河原にその首を晒されます。

ところが、将門は自らの死を認めていなかったのです。

将門の首は三ヶ月経っても腐ることなく、目は大きく見開いた状態で見物に来た人々を睨みつけたといいます。
将門の首.jpg

そんなある日、藤六左近という歌人が将門の首の前で

「将門は米かみよりぞきられける たはら藤太(藤原秀郷のこと)がはかりことにて」

という歌を詠んで将門の霊を弔おうとしました。

つまり、(お前は秀郷に討たれ、首を斬られて死んだのだ)と、将門の首に教えようとしたのです。

しかし、将門の首は「しい」と不気味に笑っただけでした。

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胴体を求めて空を飛ぶ首

その後、しばらくの間は目を閉じて静かにしていたのですが、やがて将門の首は歯ぎしりをしてわめき出しました。

すると、地鳴りや稲光とともに将門の首は動き出し、

「我が胴体はどこにいるのだ、この首を繋いで今一度戦をするぞ!」

と叫んだのです。

その後もこれが毎夜続いたので、京の人々は恐怖におののきました。

そして、ついに将門の首は胴体を求めて関東へ向かって空を飛んで行ったのです。

しかし、将門の首は自分の胴体に辿り着く前に力尽き、落下してしまいました。

その落下した場所が現在の首塚なのですが、胴体に辿り着けなかった将門の首はその無念から毎夜怨念の叫び声を上げ、人々を恐れさせました。

そこで、地元の人々は将門の荒ぶる魂を鎮めるため、付近の社を改修して将門の霊を祀りました。

これが現在の神田明神であり、江戸の総鎮守となりました。

ちなみに、神田とは将門の首が探し求めていた「体」が訛って「神田」になったといわれています。

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首塚を巡る怪事件

将門を祀る首塚は古くから付近の人々に崇められており、今も毎日手を合わせに来る人が絶えません。

と言うのも、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという言い伝えがあるからです。

大正十二年(1923年)9月に起きた関東大震災の後、大蔵省(現・財務省)の庁舎を建てるため首塚を取り壊す計画がありました。

しかし、この計画に関わった大臣や官僚に不審死や怪我人が続出してしまったため中止になりました。


さらに、第二次大戦後、GHQが丸の内周辺の区画整理の一環として、首塚のある一帯を駐車場にしようとしました。

ところが、その工事中にブルドーザーが横転し運転手が死亡、その後も工事関係者が謎の死を遂げてしまったため、やはり計画は中止になったのです。


このように、将門の首塚には偶然という言葉だけでは片付けられない、何か神秘的な力があるといわれています。

なので、ここに手を合わせに来る人は、何も祟りを恐れる人ばかりではありません。

首塚に行くと、境内にカエルの置物が多数奉納されているのを目にします。

これは、将門の首が京都から飛んで帰って来たことから、「必ず帰る(カエル)」に掛けて旅の安全を祈願するためです。

また、左遷になった会社員が元の会社に戻ってこられるよう祈願したりもするそうです。

いかにもオフィス街らしい願掛けですね。

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まとめ

  • 平将門が有名な武将なのは反乱を起こしたからだけでなく、その死後も様々な伝説を残しているから

  • 将門の首は胴体を求めて京都から関東へ飛び、首が落ちた場所が現在の首塚で、将門を祭神として祀ったのが神田明神

  • 将門の首塚は過去に除こうとして祟りが起こったが、現在は「東京の守り神」として多くの人に崇められている


将門の首塚は“都内最強のパワースポット”とも言われていますが、訪れる際はくれぐれも失礼のないようお気を付け下さい。

2020年02月14日

朝廷に反旗を翻した坂東武者 平将門

謎多き伝説の武将

今日2月14日は平安時代の武将・平将門が亡くなった日です。(天慶三年 940年)

将門といえば、菅原道真7月24日付ブログ参照)と並び称される“祟り神”として人々の間で古くから恐れられた存在です。

しかし同時に、坂東(関東地方)武者の先駆けとして、徳川家康などにも崇められた“関東の守り神”としての一面もあるのです。

そういう点においても、「学問の神様」として崇められている菅原道真に近い存在といえるでしょう。


10世紀の初め頃、地方政治は乱れ治安の悪化が深刻化していたことから、各地の豪族は「自分の身は自分で守る」という自衛意識の高まりから武装化が進み、それがやがて武士団へと成長していきました。

各地で成長した武士団は、中央から移り住んで土着した貴族を棟梁とあおいで結びつき大武士団を形成しました。

その中でも特に有力だったのが、清和天皇の流れをくむ清和源氏と、桓武天皇の流れをくむ桓武平氏です。

これが源氏平氏という武士の二大勢力になったのです。

しかし、将門の時代はそうした武士団ができて間もない頃だったので、未だ地方においては朝廷から派遣された国司(地方長官)が圧倒的に幅を利かせていました。

そのような状況下で国司と対立し、朝廷に対して反旗を翻したのが将門だったのです。

中央の貴族政治全盛の時代に反乱を起こした将門とはどんな人物だったのでしょうか?

というわけで、今回は平将門について語りたいと思います。

桓武平氏の名門

平将門 延喜三年(903年)?〜 天慶三年(940年)
平将門.jpg

将門は、桓武天皇の祖孫・高望王桓武平氏の祖)の孫にあたる名門で、下総(茨城県南部)に生まれます。

将門は若い頃、上洛して朝廷に出仕していましたが、桓武平氏の直系という名門であるにも関わらず朝廷内での立場は低く、不遇な扱いを受けていました。

これは、たとえ名門の出であっても、所詮は“田舎者の武士”としか見られていなかったということです。

そのくらい、この時代は中央と地方の格差が激しく、武士の立場もかなり下に見られていたのです。

承平五年(935年)、将門が上洛中に伯父の国香が父・良将の遺した遺領を横領するという事件が起こりました。

将門は故郷に戻り国香に領地の返還を求めますが、争いになり国香を殺害してしまいます。

この件で将門は朝廷から詰問を受けますが上洛して弁明したので、この時は一族間の私闘とみなされました。

これ以降、将門は土地の争いを巡って他の伯父たちと度々交戦しながらも徐々にその勢力を広げていきます。

天慶二年(939年)11月、常陸(茨城県)の国司と争った藤原玄明が将門に助けを求めてきました。

将門は玄明を匿ったため常陸の国司と対立、将門はついに常陸の国府を襲撃し、一気にこれを占領してしまいました。

これで勢いづいた将門は、下野(栃木県)、上野(群馬県)の国府も占領し、将門の勢力圏はあっという間に関東一円にまで広がったのです。

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関東を制圧し“新しき王” を名乗る!

同年12月、将門はある巫女より「八幡大菩薩の使いである私が将門に帝位を授ける」との神託を受け、自らを朝廷の天皇に代わる新しい王・新皇と称しました。

新皇となった将門は、仲間の一族を関東各地の国司に任命し国府を支配、朝廷から独立した王国を築こうとしたのです。

しかし、朝廷から派遣された国司と争いその国府を奪ったことにより、将門は朝廷から「謀反人」とみなされます。

朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、いよいよ将門追討に動き出しました。

天慶三年(940年)2月、朝廷からの征討軍の前に、将門に敵が現れました。

将門が殺した国香の子・平貞盛です。

将門とはいとこ同士の関係である貞盛が、下野の豪族・藤原秀郷と連合して将門に戦いを挑んできたのです。

この時、将門軍の主力であった農民兵の多くは農村へ帰農させていたため、将門は少ない手勢での戦いを余儀なくされてしまいます。

それでも将門軍は善戦したのですが、激闘の末、ついに将門はこめかみに矢を受けて絶命しました。

将門が「新皇」を宣言してからわずか二ヶ月後のことでした。

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将門と純友は共謀していた?

将門の「新皇」宣言から一週間後、西国の瀬戸内海では藤原純友が海賊と結託して反乱を起こすという事件がありました。

関東と瀬戸内海で起こった二つの反乱の発生時期が近かったため、将門の乱と純友の乱を合わせて承平天慶の乱といいます。

東西で同時期に朝廷に対する反乱が起きたことから、

将門と純友は共謀して乱を起こしたのではないか?

と憶測されることがあります。

実は、この説を裏付ける史料があります。

平安時代の歴史書『大鏡』「将門と純友は比叡山で盟約を交わした」と記述されているのです。

これによると、反乱が成功した後には将門が天皇に、純友が関白になるという密約までされていたといいます。

しかし、『大鏡』の記述は、当時朝廷内で囁かれていた“噂”を記録したに過ぎないと考えられ、信憑性に欠ける部分があります。

それに、二つの乱の時期が近かったとはいうものの、時間的経過を厳密に言えば、純友の乱が表面化してくるのは将門の乱が鎮圧された後だったのです。

つまり、純友が瀬戸内海を手中に収めつつあった時、関東で将門が反乱を起こしていることを知り、朝廷が混乱している今がチャンスとみて純友も反乱を起こしたと考えるのが妥当でしょう。



まとめ

  • 桓武平氏の名門・平将門は一族間の土地を巡る争いをきっかけに反乱を起こした

  • 関東を制圧した将門は自らを「新皇」と称したが、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に敗れた

  • 将門と純友は共謀していたのではなく、純友が将門の乱に追随したと考えられる


次回は「将門にまつわる伝説」について語りますので、ご期待下さい!

2020年02月12日

政界のプリンスに襲い掛かった悲劇! 長屋王の変

藤原氏による他氏排斥の先駆け

昨日、元プロ野球の野村克也さんが亡くなられました。

野村さんは戦後初めて三冠王になった名選手で、監督になってからもデータ重視の“ID野球”で3度も日本一に輝いた名監督でした。

僕は野村さんの現役時代の姿は見ておらず、中学生くらいの時に野球解説者をされていたのを覚えています。

その頃は(なんか、嫌味っぽい感じの人だなぁ)とあまり良い印象はなかったのですが、ヤクルトの監督になられてからは辛口ながらも愛嬌があり、試合後のコメントも面白かったのでだんだん好きになりました。

野村さんは数々の名言を遺されていることで有名ですが、その中で僕が印象に残っているのは

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

という言葉です。

この言葉は野球だけでなく、人生における様々な勝ち負けにもあてはまる教訓のような言葉だと思います。

心よりご冥福をお祈りいたします。


さて、今日2月12日は奈良時代の政変・長屋王の変が起きた日です。(神亀六年 729年)※改元前

奈良時代は政権担当者が次々と代わる激動の時代だったのですが、その前半に起こったのがこの事件です。

この後の平安時代に藤原氏がライバルとなる政敵を謀略により次々と失脚させた「他氏排斥」は有名ですが、この長屋王の変はその先駆けと言ってもいい事件なのです。

但し、長屋王は貴族ではなく皇族なので名字がないことから厳密にいうと「他氏」には当てはまらないのですが、藤原氏による謀略の犠牲者という意味では同じと言えます。

この事件の裏にはどんな事情が隠されていたのでしょうか?

というわけで、今回は長屋王の変について語りたいと思います。

教科書にも名を残す政治家

長屋王は、壬申の乱(672年)に勝利して即位した天武天皇の孫にあたる人物です。

養老四年(720年)藤原不比等の死により政治の実権を握り、翌年には右大臣に昇進しました。

養老六年(722年)長屋王は百万町歩開墾計画を立案します。

これは、口分田(開墾された田)の不足を補うため、国司や郡司に100万町歩を開墾させようとした壮大な計画です。

しかし、この時代に100万町歩の開墾はさすがに無理がありました。

実際、約200年後の10世紀でも全国でせいぜい90万町歩くらいしか開墾されていなかったことから考えると無謀な計画と言わざるを得ず、これは計画のみに終わります。

養老七年(723年)には三世一身法を定め、条件付きで一定期間土地の私有を認める(※)という画期的な政策で開墾を奨励しました。(※この時代は公地公民制(土地も人民も国有)で、土地の私有は認められていなかった)

土地を私有できる条件として、新しく開墾した者には子・孫・祖孫の三代まで、旧耕地を再び開墾した者には本人一代限りの私有を認めたのです。

ですが、一時的な私有を認められても、いずれ公収されるとわかっていたらどうなるでしょう?

公収される時期が近づくと、田は放棄され再び荒廃してしまうという事態が各地でおきてしまいました。

こうした三世一身法の不備を是正し、完全な土地私有を認めたのが天平十五年(743年)の墾田永年私財法です。(注:墾田永年私財法は長屋王の政策ではない)

一方、長屋王は神亀元年(724年)に左大臣となり、ついに天皇に次ぐナンバー2の地位まで上り詰めました。

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長屋王の変とは?

左大臣となり、いよいよ政権を独占し始めた長屋王に対し、警戒感を強めたのが藤原四兄弟です。

藤原四兄弟とは、長屋王の前に権勢を振るっていた藤原不比等の4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)で、長屋王とはライバル関係にありました。

神亀六年(729年)2月、朝廷の下級役人二人が「長屋王は左道を学び、天皇の命を狙っている」と、天皇に密告したのです。

左道とは、邪悪とされていた呪術のような教えのことです。

すぐに藤原四兄弟の宇合が大軍勢を率いて長屋王の屋敷を取り囲みました。

朝廷から派遣された舎人親王が今回の疑惑について詰問しましたが、長屋王は弁解の余地すら与えられなかったといいます。

追い詰められた長屋王は妻子に毒を飲ませて殺し、自らも服毒自殺を遂げてしまいました。

この事件は、父の死後に政界の中心となった長屋王から政権を奪回するために四兄弟が仕組んだ謀略と言われています。

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長屋王を排除した“本当の理由”

この事件は表向きとしては藤原氏“お得意”のライバル排斥ではありますが、藤原一族にとっては政権奪回以上に重要な問題があったのです。

事件から遡ること5年前、神亀元年(724年)2月に聖武天皇が即位した際、母の宮子(不比等の娘)に「大夫人」という称号を与える詔(天皇の命令)を出しました。

しかし、長屋王は「それは律令の定めと異なる」と主張し、これを「皇大夫人」と改めさせたのです。

律令制度を重んじていた長屋王は、天皇の命令に対しても律令の定めを曲げようとはしませんでした

ところで、この一件が藤原一族にどのような影響を及ぼすのでしょうか?

長屋王が天皇の命令以上に律令制度を重んじるということは、律令の中で定められた「皇族でなければ皇后になることはできない」という決まりも厳守する、ということになるのです。

長屋王系図.jpg

この頃、聖武天皇には不比等の娘である光明子が嫁いでいました。

しかし、当時の朝廷は一夫多妻制だったので、光明子も聖武天皇の数いる妻の一人に過ぎない存在でした。

藤原一族としては、光明子の産んだ子を皇太子として次期天皇にすることを目論んでいたのですが、律令の定めに従えば光明子は皇族ではないので皇后にはなれません。

となると、聖武天皇の他の妻が皇族だった場合、そちらが皇后となり産んだ子が優先的に皇太子となってしまうのです。

そうなると藤原一族が朝廷に及ぼす影響力が弱まってしまうので、律令の定めを覆してでも光明子を皇后の座に据える必要がありました

だから、律令制度を重視し、皇族以外の女性が皇后になることを認めない長屋王は藤原一族にとって邪魔な存在であり、陰謀を企てて排除したというわけです。

実際、この事件の後に藤原四兄弟は光明子を聖武天皇の皇后とすることに成功しています。

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まとめ

  • 長屋王は天武天皇の孫として藤原不比等の死後に政権を握り、三世一身法などを定めた

  • 長屋王は天皇に対し謀反を企てたという濡れ衣を着せられて自殺に追い込まれた

  • 長屋王の変の裏には光明子の立后を図る藤原四兄弟の陰謀があった


事件から8年後の天平九年(737年)に四兄弟は相次いで天然痘にかかり4人とも亡くなりましたが、これは“長屋王の祟り”ともいわれました。

2020年02月10日

幕府衰退を加速させた !? 天保の改革

江戸三大改革の評価

まだまだ寒い日が続いていますが、今日から伊豆では早春恒例の「河津桜まつり」が始まりました。

毎年100万人前後の観光客が訪れるこの時期大人気のイベントですね。

実は先週末に伊豆へ行って来たのですが、国道沿いなどで見た河津桜は既に7〜8分位は咲いていました。

暖冬の影響もあり今年は開花が早いと思われるので、僕の予想では雨が降って気温が上がる今週末あたりには早くも満開になるのではないでしょうか?

祭り期間は毎年2月10日〜3月10日と決まっているのですが、開花の早い年は3月に入ると見頃はほぼ終わってしまいます

なので、今年予定している方には早めに行くことをオススメします!


さて、今日2月10日は江戸三大改革の一つ「天保の改革」を行なった水野忠邦が亡くなった日です。(嘉永四年 1851年)

教科書でもおなじみの天保の改革ですが、改革による弊害も少なくなく、むしろ失敗と思われる政策もいくつかあったことで知られています。

しかし、これは天保の改革に限ったことではなく、これ以前に行なわれた享保の改革、寛政の改革に対する評価も実は芳しくないのです。

そのため、最近では江戸の三大改革の成果に疑問符が持たれ始め、現在の教科書では以前より三大改革の比重が小さくなっています

歴史的事実は変わらなくても、客観的評価は時代によって変化するということですね。

というわけで、今回は天保の改革と水野忠邦について語りたいと思います。

徹底した風紀の取り締まり

水野忠邦 寛政六年(1794年)〜 嘉永四年(1851年)
水野忠邦.jpg

忠邦はもともと出世欲が強かったと言われていて、幕府官僚に昇進するために肥前(佐賀県)の唐津藩から石高を減らしてまで中央に近い遠江(静岡県)の浜松藩に転封を願い出ています。

こうして目論み通り幕府官僚になった後も忠邦は着々と出世を重ね、ついに老中首座まで昇り詰めました。

天保十二年(1841年)1月、大御所政治を行ない幕府の実権を握っていた11代将軍・徳川家斉が亡くなると、忠邦は12代将軍・家慶のもとでいよいよ天保の改革に着手します。

天保の改革の基本理念は、先に行なわれた享保・寛政の両改革を手本に幕藩体制の再建を目指すものでした。

まず忠邦は庶民に対し倹約令を出し、庶民が贅沢品や華美な衣装を身に着けることを禁じました。

さらに、江戸に蔓延していた風紀の乱れを正すため、庶民の娯楽などを厳しく取り締まり、寄席を閉鎖し歌舞伎役者の市川團十郎を追放、人情本・合巻(共に庶民向けの娯楽本)の作者を処罰して発売禁止処分としています。

また、幕府財源の大部分を占める年貢収入を安定させるため、飢饉により荒廃した農村の復興を図り、都市部に出稼ぎに来ていた農村出身者を強制的に帰農させ、農村から都市への出稼ぎを制限しました。(人返し令

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上知令の失敗が命取りとなり失脚

経済政策において、忠邦は物価高騰の原因が株仲間にあると考え、株仲間に解散を命じ、新興の商人などにも自由な取引を認めました

株仲間とは、江戸初期に成立し幕府や諸藩から営業の独占を許可された商工業者の組合です。

しかし、市場は株仲間の存在ありきで安定していたので、株仲間の解散により商品流通が混乱してしまい、かえって物価が高騰する結果となってしまいました

そして、天保の改革において最大の失敗といわれたのが上知令(じょうちれい、又はあげちれい)です。

忠邦は幕府権力の強化と共に、この頃頻繁に日本に来航してきた外国船に対する港湾の防衛強化を考えていました。

そこで忠邦は、江戸と大坂の10里(約40q)四方の大名・旗本の領地を国替えさせて幕府の直轄領にしようとしたのです。

しかし、何の問題も起こしていない大名や旗本が中央から地方へ移転させられることに納得するはずがありません。

当然、大名や旗本の猛反対に遭い、上知令は頓挫してしまいます。

これがきっかけで忠邦の政策は激しい批判に晒されることとなり、信用を失った忠邦は失脚しました。

天保の改革の失敗は、同時に幕府の権威も著しく失墜させる結果となってしまいました。

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忠邦の失政が時代劇ヒーローを生んだ !?

『遠山の金さん』という時代劇をご存知ですか?

背中に桜吹雪の刺青を施し、遊び人に扮した“遠山の金さん”こと江戸北町奉行・遠山景元が、お白洲で悪人たちを成敗する痛快な時代劇です。

実はこの遠山景元は実在した人物で、忠邦によって登用されたのです。

しかし、景元は忠邦の腹心でありながら、庶民を苦しめる忠邦の極端な倹約・統制政策に反対していました。

景元は庶民の味方となって忠邦の厳しい政策の緩和に努めたので、景元は庶民に感謝され人気を得たことから、後に“遠山の金さん”として語り継がれるようになったのです。(“金さん”は景元の通称・金四郎より)


庶民を苦しめたといわれる忠邦の倹約令の徹底ぶりを示すエピソードがあります。

十二代将軍・家慶は生姜を好んで食べていましたが、ある頃から将軍の食卓に生姜が上がらなくなりました。

家慶が「なぜ最近は生姜が出ないのだ?」と側近に尋ねると「生姜は贅沢品として禁止されたので今は農家が作っておりません」と答えたのです。

家慶は「こんなものまで禁止するのはやり過ぎではないのか?」と、忠邦の政策を咎めたといいます。


また、忠邦は娯楽や風俗も厳しく取り締まっていたため、かなり江戸庶民の恨みを買っていたと思われ、失脚後庶民たちに邸宅を襲撃されるという事件が起こりました。

その際、庶民たちは木魚を打ち鳴らし「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ!」と痛烈に皮肉ったそうです。(笑)



天保の改革まとめ

  • 忠邦は江戸の風紀の乱れを正すため、庶民の娯楽や風俗を厳しく取り締まった

  • 忠邦は幕府権力強化のために上知令を出したが大失敗に終わり、これが命取りとなって失脚した

  • 遠山景元は庶民の味方となって忠邦の政策に反対したことで人気者となり、後に『遠山の金さん』という時代劇ヒーローになった


天保の改革が失敗に終わったのに対し、薩摩藩・長州藩・肥前藩などの西南雄藩の藩政改革が成功した結果、幕府と西南雄藩の力差が縮まり、幕末の情勢に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもないでしょう。

2020年02月07日

信長も一目惚れした大器 蒲生氏郷

信長や秀吉が絶賛した男

今日2月7日は戦国武将・蒲生氏郷が亡くなった日です。(文禄四年 1595年)

蒲生氏郷は戦国ファンには人気のある武将として知られていますが、それ以外の方にはあまり馴染みがないかもしれません。

僕自身、受験で日本史を勉強していた頃には全く知らなかった人物です。

しかし、当時の偉人たちによる氏郷評がなかなかスゴイのです!

織田信長・・・「眼精常ならず(ただ者ではない目をしている)」

豊臣秀吉・・・「この男は俺に似ている。俺がやろうとしていることをそのままやってしまう。恐ろしい男だ」 

そして極めつけは、茶道の匠・千利休です。

「日本の武将の中で一、ニと言っていいほどの文武両道の名将」

激動の時代に頂点を極め、数多くの名将を見てきた名立たる偉人たちがこれほどまでに絶賛するのですから、氏郷は相当な器の人物だったと想像できます。

これらを聞くと、氏郷をあまり知らなかった方でも興味が湧いてきませんか?

というわけで、今回は蒲生氏郷の人物像について語りたいと思います。

信長の人質から驚異的な出世を果たす

蒲生氏郷(がもう うじさと) 弘治二年(1556年)〜 文禄四年(1595年)
蒲生氏郷.jpg

氏郷は、蒲生賢秀の三男として近江(滋賀県)に生まれます。幼名は鶴千代。

蒲生氏は奥州藤原氏9月3日付ブログ参照)を祖先とする名門といわれますが、戦国時代は近江の六角氏に仕えていました。

しかし、六角氏が織田信長に滅ぼされたため、父の賢秀は信長に仕えることになり、氏郷は信長の元へ人質に出されます。

初めて氏郷と対面した信長は

「蒲生が子息、眼精常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」

と、一目で氏郷を大器と感じ取り、娘の冬姫を氏郷に嫁がせたといいます。

やがて本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれた時、氏郷は安土城にいた信長の妻子を素早く自らの居城に移して保護しています。

本能寺の変後は豊臣秀吉の元で数々の武功を挙げ、伊勢(三重県)松ヶ島に12万石を与えられました。

この頃、氏郷は高山右近1月6日付ブログ参照)の勧めでキリスト教に入信、洗礼を受けキリシタン大名となっています。(洗礼名はレオン)

秀吉による天下統一の総仕上げとなった小田原征伐の後、氏郷は奥州の会津(福島県)に42万石もの大封を与えられました。

その後、陸奥(青森県 他)の九戸政実の反乱の時にも活躍した勲功によりさらに加増され、ついに氏郷は92万石の大大名にまで出世したのです。

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氏郷を恐れた秀吉に遠ざけられた !?

氏郷が奥州に転封された理由は、秀吉が氏郷の存在を恐れていたからといわれています。

小田原征伐の後、秀吉は今後の重要拠点と考えていた会津に誰を配置するか家臣と相談しました。

なぜなら、会津は仙台の伊達政宗、関東の徳川家康という、秀吉にとって油断ならぬ二人を監視するための要衝となる大事な場所だからです。

この時、家臣たちのほとんどは「細川忠興が適任だと思われます」と答えました。

これに対し、秀吉はため息をついて

「お前たちの愚かさはひどいものだ。そんなだから俺が容易に天下を取れたのだ。会津の要衝を任せられるのは蒲生氏郷の他にはいないだろう」

と、きっぱり答えたそうです。

一方、氏郷は会津への転封を命じられると居城に戻って涙を流したといいます。

この様子を見た家臣たちは、(12万石から一気に42万石へ大幅に加増されたので嬉し泣きだろう)と思い喜んでいました。

喜ぶ家臣たちを見て氏郷は

「たとえ少ない石高であっても都の近くにいれば天下を狙うこともできる。しかし、どんなに大封を受けても都から遠く離れた国へ行ってしまったら、もう天下への望みは潰えたも同然。それが残念で涙を流したのだ」

と、落胆してその理由を説明したのです。

氏郷が会津へ向かう時、秀吉が氏郷の家臣に「氏郷は会津へ行くことをどう思っているか?」と尋ねると、家臣は「とても悔しがっておりました」と答えました。

これを聞いた秀吉は

「やはりそうであったか。近くに置いておくには恐ろしい奴だからな」

と言ったといわれています。

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家臣を大切にした名将

ただならぬ切れ者として秀吉に恐れられた氏郷ですが、家臣をとても大切にすることでも有名でした。

蒲生家に新しく家臣として加わった者がいると、氏郷は

「戦場で銀の鯰尾の兜をかぶった者を見かけたら、その者に劣らぬ働きをするよう心掛けよ」

と声を掛けました。

ある時、新参者が戦場で奮闘する銀の鯰尾の兜の武者を見つけると、なんとそれは氏郷本人でした。

つまり、総大将であるにも関わらず、戦場では氏郷自らが率先して戦うことで家臣に手本を示したのです。


また、氏郷は家臣たちをよく居城に招き酒宴を催してもてなしましたが、この時に氏郷自らが風呂を沸かして家臣たちを入れてやったといいます。

一国一城の主ともなるとなかなかできない行為なので、家臣たちが感激したのは言うまでもないでしょう。


他にも氏郷がいかに家臣を大切にしていたかを窺える話として、会津に転封になった時、氏郷は自分の直轄地より家臣に与える領地を先に決めたといわれています。

しかしその結果、家臣たちに割り当てた領地が多くなり過ぎて氏郷の直轄地があまりに少なくなってしまったので、さすがに遠慮した家臣たちと相談してもう一度領地の割り当てを決め直したそうです。

いかにも家臣思いの氏郷らしいエピソードですね。

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まとめ

  • 蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉、千利休などの名立たる人物たちが絶賛するほどの大器だった

  • 氏郷はあまりの切れ者ゆえに秀吉に警戒され、会津に転封されてしまった

  • 常に自分のことよりも家臣を優先するほど氏郷は家臣を大切にしていた


ちなみに、氏郷が築城した会津若松城が別名「鶴ヶ城」と呼ばれる理由は、氏郷の幼名(鶴千代)と蒲生家の舞鶴の家紋に因んだものといわれています。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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