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2020年02月03日

武士の世を切り拓いたパイオニア 平清盛

「清盛悪人説」に偽りあり!

明日2月4日は史上初の武士政権を築いた平清盛が亡くなった日です。(治承五年 1181年)※閏2月

平清盛といえば、平成二十四年(2012年)の大河ドラマ『平清盛』(主演:松山ケンイチ)のイメージがありますね。

ですが、この大河は当時視聴率が悪かったことで話題となりました。

その理由は前回のブログでも書いたのですが、大河枠は戦国ものか幕末ものを求められている傾向にあることが一つにあります。

そしてもう一つ考えられるのは、清盛は悪役的な印象が強いため、歴史上の偉人としてはあまり人気がないことも一因と考えられます。

清盛=ヒールを印象づけたのは、『平家物語』の影響が大きかったと思われます。

この『平家物語』が書かれたのは鎌倉時代、つまり源氏の世です。

源氏の世に、そのライバルであった平氏の親玉・清盛が良く描かれるとは到底思えません

石田三成10月1日付ブログ参照)が江戸時代にボロクソ言われたように、清盛が鎌倉時代に悪人扱いされたのは、書いた作者がその時代の権力者に“忖度”した結果だと思われます。

平安時代、武士は政権を握っていた貴族たちのボディガードに過ぎず、もっと言えば「番犬」のように下に見られていました。

そんな時代にあって、その貴族たちから政権を奪い取るには余程の能力と仲間からの厚い人望がなければ不可能なことです。

それを成し遂げ、史上初めて武士政権を築き上げた清盛はやはり偉大な武士といえます。

というわけで、今回は平清盛について語りたいと思います。

清盛は白河上皇のご落胤 !? 

平清盛 永久六年(1118年)〜 治承五年(1181年)
平清盛.jpg

清盛は、伊勢平氏の棟梁・忠盛の長男として生まれました。

母について正確には不明とされているのですが、生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)とも言われており、祇園女御は白河上皇の寵愛を受けた後に忠盛に嫁いだことになっています。

このことから、実は清盛の本当の父は白河上皇だったのではないかという噂もあるのです。

つまり、祇園女御は白河上皇との間にできた子を身籠ったまま忠盛に嫁ぎ、そうして生まれたのが清盛だというのです。

白河上皇がかなりの好色漢だったことは11月25日付のブログでも語った通りなので、この説もまんざら噂だけとは思えませんね。


伊勢平氏は清盛の祖父・正盛が白河上皇の信任を得た頃から頭角を表わし始めます。

やがて武士が源氏と平氏の二大勢力となった頃、朝廷内で政争が起き、この争いに武士が加わりました。

これが保元の乱です。(保元元年 1156年)

清盛は源義朝(頼朝の父)と共に後白河天皇方につき勝利しました。

保元の乱は、貴族どうしの争いごとも武士の力なしでは解決できなくなったことを証明した武士にとって大きな意義のある戦いでした。

その証拠として、鎌倉時代の歴史書『愚管抄』にも、保元の乱後

「ムサ(武者)ノ世ニナリケルナリ」

と書かれています。

保元の乱により武士の存在感が大きくなると、今度は源氏と平氏の武家どうしによる覇権争いが勃発します。

これが平治の乱です。(平治元年 1159年)

清盛はライバルの義朝を倒し、ついに武家の頂点に立ちました。

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“平家にあらずんば人にあらず”

平治の乱に勝利した後、清盛は急速にその勢力を伸ばしていきます。

仁安二年(1167年)、清盛は武士として初めて太政大臣となり、これにより平氏政権が本格化しました

平氏は清盛の嫡男・重盛が内大臣になった他、一門の人間が続々と高位高官に就いていきます。

清盛は武力にものをいわせて貴族たちが支配していた領地を次々と奪い、西日本を中心に平家一門の所領は全国の半分に近い30ヶ国余りにも及びました。

また、清盛は日宋貿易にも力を注ぎ、大輪田泊(現在の神戸港)を修築して貿易を拡大させたことで莫大な富を得ました。

さらに清盛は、摂関政治を行なった藤原氏と同じように、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に嫁がせ、生まれた男子を安徳天皇として幼少のうちに即位させることで、自らは天皇の外戚として朝廷をも支配しようとしたのです。

こうして清盛の活躍により隆盛を極めた平氏ですが、一門の平時忠は

「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」(『平家物語』)

とまで言ったといわれています。



“奢る平家は久しからず”

武家でありながら貴族化し政界を席捲する平氏は、公家はもとより同じ武士にも次第に反感を持たれるようになっていきます。

治承元年(1177年)6月、後白河法皇の側近であった藤原成親や僧の俊寛らが京都東山の鹿ケ谷で平家討伐の密儀を行ないましたが、これは事前に発覚して事なきを得ます。(鹿ケ谷の陰謀

しかし、治承三年(1179年)11月、清盛の嫡男・重盛が亡くなった後、後白河法皇が重盛の遺領を勝手に没収したことに清盛は憤慨し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してしまいます。

これが引き金となって、世間では平氏に対する不満が一気に高まり、翌年から各地の源氏が挙兵する事態となりました。

治承四年(1180年)5月、源頼政が後白河法皇の皇子・以仁王を奉じてついに打倒平氏の旗を揚げました。

この反乱はすぐに鎮圧したものの、危機感を抱いた清盛は、6月に朝廷の猛反対を押し切って即位したばかりの安徳天皇を連れて摂津(大阪・兵庫)の福原に遷都したのです。

翌年になると清盛は原因不明の熱病に犯されてしまいます。

この熱病の原因は、清盛が東大寺の大仏を焼き払わせたための仏罰とも噂されました。

この時の清盛の高熱は凄まじく、清盛の体を冷やそうと冷水につけると、たちまちその水が沸騰してしまったといわれています。

死期を悟った清盛は臨終に臨み、

「我が死後に仏事法要は一切無用。直ちに鎌倉へ追手を差し向け頼朝を討ち、その首を我が墓前に供えよ」

と遺言して息を引き取りました。



まとめ

  • 平清盛は母が白河上皇の寵愛を受けていたことから、実父は白河上皇ではないかとも言われている

  • 清盛は武士として初の太政大臣となり、清盛の活躍により平家は栄華を極め、“平家にあらずんば人にあらず”とまで言わしめた

  • 武家でありながら貴族的性格を持つ平氏は次第に反感を買うようになり、各地の源氏が挙兵する中、清盛は熱病で亡くなった


源頼朝を生かしておいたこと(1月13日付ブログ参照)が清盛最大の失敗だったというのは、その遺言にも強く表れていますね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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