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2020年02月19日
泰平の世に衝撃走る! 大塩平八郎の乱
平和ボケしていた江戸時代に風穴を開けた大事件
今日2月19日は大塩平八郎の乱が起きた日です。(天保八年 1837年)
大坂の町で起きたこの一揆騒動は、江戸幕府を仰天させた大事件でした。
しかし、規模的には大した人数でもなく、すぐ鎮圧されたのになぜ幕府は大きな衝撃を受けたのでしょうか?
江戸時代後期ともなると開幕して200年以上経っており、長く平穏な時代が続いていたので、人々が“平和ボケ”していたことも要因の一つと言えます。
つまり、平穏な日常が当たり前のように長く続くと、ちょっとした規模の一揆でも当時の人々にとっては“前代未聞の大事件”と思えてしまうのでしょう。
現代の日本人も「平和ボケしている」と言われて久しいですが、それでもまだ戦後80年も経っていないのです。
まして、戦国の世から200年以上平穏な日々が続いていたこの時代に、人々が平和ボケしてしまうのも無理はないかもしれませんね。
この乱の背景にあるのは、江戸時代に多かった飢饉による食糧不足です。
特に享保・天明・天保の飢饉は「江戸の三大飢饉」と言われていて、全国的にかなりの餓死者が出ました。
このため、農村では一揆、都市部では米問屋などを襲う打ちこわしが頻発し社会問題になりました。
そんな状況下で庶民の窮状を訴えるべく立ち上がったのが平八郎でした。
というわけで、今回は大塩平八郎の乱について語りたいと思います。
大塩平八郎とは?
大塩平八郎 寛政五年(1793年)〜 天保八年(1837年)
平八郎は、もと大坂町奉行所の与力で陽明学者でした。
陽明学とは、明(中国)の王陽明が唱えた儒学の一派で、「知行合一」を旨とする学問です。
「知行合一」とは、道徳的に正しい行為は実践して初めて知ることができるという考え方をいいます。
なので、陽明学者である平八郎が蜂起したのは、この「知行合一」の教えに従ったからとも考えられます。
平八郎は奉行所引退後、自宅に洗心洞という私塾を開き庶民教育と著作活動などを行なっていました。
当時は天保の大飢饉の最中で、大坂でも食糧不足が深刻化し、餓死者が続出していました。
こんな状況下でも、一部の豪商たちは米を買い占めて米価を吊り上げることで暴利を貪っていました。
平八郎はもと与力として貧民救済策を奉行所に提言しますが受け入れられなかったので、自らの蔵書を売却して作った金で貧民救済に努めたといいます。
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平八郎、ついに立つ!
その後も奉行所は飢饉による米不足のため米価格が2倍以上に高騰しているにも関わらず、貧民救済に何の方策も立てませんでした。
それどころか、江戸幕府の歓心を買うため、ただでさえ少ない大坂の米を江戸に廻送することに力を注いでいたのです。
この奉行所の所業に腹を据えかねた平八郎はついに武力蜂起を決意します。
天保八年(1837年)2月19日、平八郎は近隣の農民や門弟を集め、鉄砲や大砲などの武器を調達、奉行所の非道を檄文で告発し「救民」と書かれた旗を掲げて決起しました。
平八郎の一揆軍約300人は大坂の豪商が多く集まる船場を襲撃、鉄砲や大砲を連発しました。
このため大坂の町は広範囲にわたり火災が発生し、大混乱に陥ります。
平八郎は自分たちの行動に共感した救民が加わることで、一揆がさらに拡大することを期待していました。
しかし、平八郎に呼応する者はほとんどなく、反乱はわずか半日で鎮圧されてしまいました。
平八郎は逃亡し、約40日間にわたり大坂市街に潜伏しましたが、ついに潜伏先が発見され自害して果てました。
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実は救民が目的ではなかった !?
救民を助けるために蜂起した“民衆のヒーロー”として英雄視されている平八郎ですが、上記したように平八郎に共感して一揆に賛同する市民は意外に少なかったのです。
このことから、
平八郎が蜂起した理由は実は救民のためではなかったのではないか?
とする説が浮上したのです。
平八郎は奉行所時代にそれなりの業績を残していたため、私塾・洗心洞にはかなり多くの門弟が集まっていました。
奉行所時代から続く自らの実績に自信を持っていた平八郎はプライドが高く、自意識過剰になっていたと思われます。
そのため、引退後もたびたび意見書や建白書を奉行所に提出していたので、平八郎は奉行所からは煙たがられる存在でした。
やがて奉行所が平八郎の申し立てを無視するようになったので、これに腹を立てた平八郎が自らの力を誇示するために反乱を起こしたのではないかとも考えられるのです。
まとめ
- 大塩平八郎の乱は泰平の世が長く続いていた時代に起きたので、幕府を揺るがす大事件となった
- 平八郎は飢饉により困窮する庶民を救うため蜂起したが、半日で鎮圧された
- 平八郎が反乱を起こした理由は救民のためではなく、自らの不満が爆発したためとする説もある
平八郎の乱に衝撃を受けた幕府は危機感を抱き、これが天保の改革(2月10日付ブログ参照)を行なうきっかけになったといえます。