2020年02月10日
幕府衰退を加速させた !? 天保の改革
江戸三大改革の評価
まだまだ寒い日が続いていますが、今日から伊豆では早春恒例の「河津桜まつり」が始まりました。
毎年100万人前後の観光客が訪れるこの時期大人気のイベントですね。
実は先週末に伊豆へ行って来たのですが、国道沿いなどで見た河津桜は既に7〜8分位は咲いていました。
暖冬の影響もあり今年は開花が早いと思われるので、僕の予想では雨が降って気温が上がる今週末あたりには早くも満開になるのではないでしょうか?
祭り期間は毎年2月10日〜3月10日と決まっているのですが、開花の早い年は3月に入ると見頃はほぼ終わってしまいます。
なので、今年予定している方には早めに行くことをオススメします!
さて、今日2月10日は江戸三大改革の一つ「天保の改革」を行なった水野忠邦が亡くなった日です。(嘉永四年 1851年)
教科書でもおなじみの天保の改革ですが、改革による弊害も少なくなく、むしろ失敗と思われる政策もいくつかあったことで知られています。
しかし、これは天保の改革に限ったことではなく、これ以前に行なわれた享保の改革、寛政の改革に対する評価も実は芳しくないのです。
そのため、最近では江戸の三大改革の成果に疑問符が持たれ始め、現在の教科書では以前より三大改革の比重が小さくなっています。
歴史的事実は変わらなくても、客観的評価は時代によって変化するということですね。
というわけで、今回は天保の改革と水野忠邦について語りたいと思います。
徹底した風紀の取り締まり
水野忠邦 寛政六年(1794年)〜 嘉永四年(1851年)
忠邦はもともと出世欲が強かったと言われていて、幕府官僚に昇進するために肥前(佐賀県)の唐津藩から石高を減らしてまで中央に近い遠江(静岡県)の浜松藩に転封を願い出ています。
こうして目論み通り幕府官僚になった後も忠邦は着々と出世を重ね、ついに老中首座まで昇り詰めました。
天保十二年(1841年)1月、大御所政治を行ない幕府の実権を握っていた11代将軍・徳川家斉が亡くなると、忠邦は12代将軍・家慶のもとでいよいよ天保の改革に着手します。
天保の改革の基本理念は、先に行なわれた享保・寛政の両改革を手本に幕藩体制の再建を目指すものでした。
まず忠邦は庶民に対し倹約令を出し、庶民が贅沢品や華美な衣装を身に着けることを禁じました。
さらに、江戸に蔓延していた風紀の乱れを正すため、庶民の娯楽などを厳しく取り締まり、寄席を閉鎖し歌舞伎役者の市川團十郎を追放、人情本・合巻(共に庶民向けの娯楽本)の作者を処罰して発売禁止処分としています。
また、幕府財源の大部分を占める年貢収入を安定させるため、飢饉により荒廃した農村の復興を図り、都市部に出稼ぎに来ていた農村出身者を強制的に帰農させ、農村から都市への出稼ぎを制限しました。(人返し令)
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上知令の失敗が命取りとなり失脚
経済政策において、忠邦は物価高騰の原因が株仲間にあると考え、株仲間に解散を命じ、新興の商人などにも自由な取引を認めました。
株仲間とは、江戸初期に成立し幕府や諸藩から営業の独占を許可された商工業者の組合です。
しかし、市場は株仲間の存在ありきで安定していたので、株仲間の解散により商品流通が混乱してしまい、かえって物価が高騰する結果となってしまいました。
そして、天保の改革において最大の失敗といわれたのが上知令(じょうちれい、又はあげちれい)です。
忠邦は幕府権力の強化と共に、この頃頻繁に日本に来航してきた外国船に対する港湾の防衛強化を考えていました。
そこで忠邦は、江戸と大坂の10里(約40q)四方の大名・旗本の領地を国替えさせて幕府の直轄領にしようとしたのです。
しかし、何の問題も起こしていない大名や旗本が中央から地方へ移転させられることに納得するはずがありません。
当然、大名や旗本の猛反対に遭い、上知令は頓挫してしまいます。
これがきっかけで忠邦の政策は激しい批判に晒されることとなり、信用を失った忠邦は失脚しました。
天保の改革の失敗は、同時に幕府の権威も著しく失墜させる結果となってしまいました。
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忠邦の失政が時代劇ヒーローを生んだ !?
『遠山の金さん』という時代劇をご存知ですか?
背中に桜吹雪の刺青を施し、遊び人に扮した“遠山の金さん”こと江戸北町奉行・遠山景元が、お白洲で悪人たちを成敗する痛快な時代劇です。
実はこの遠山景元は実在した人物で、忠邦によって登用されたのです。
しかし、景元は忠邦の腹心でありながら、庶民を苦しめる忠邦の極端な倹約・統制政策に反対していました。
景元は庶民の味方となって忠邦の厳しい政策の緩和に努めたので、景元は庶民に感謝され人気を得たことから、後に“遠山の金さん”として語り継がれるようになったのです。(“金さん”は景元の通称・金四郎より)
庶民を苦しめたといわれる忠邦の倹約令の徹底ぶりを示すエピソードがあります。
十二代将軍・家慶は生姜を好んで食べていましたが、ある頃から将軍の食卓に生姜が上がらなくなりました。
家慶が「なぜ最近は生姜が出ないのだ?」と側近に尋ねると「生姜は贅沢品として禁止されたので今は農家が作っておりません」と答えたのです。
家慶は「こんなものまで禁止するのはやり過ぎではないのか?」と、忠邦の政策を咎めたといいます。
また、忠邦は娯楽や風俗も厳しく取り締まっていたため、かなり江戸庶民の恨みを買っていたと思われ、失脚後庶民たちに邸宅を襲撃されるという事件が起こりました。
その際、庶民たちは木魚を打ち鳴らし「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ!」と痛烈に皮肉ったそうです。(笑)
天保の改革まとめ
- 忠邦は江戸の風紀の乱れを正すため、庶民の娯楽や風俗を厳しく取り締まった
- 忠邦は幕府権力強化のために上知令を出したが大失敗に終わり、これが命取りとなって失脚した
- 遠山景元は庶民の味方となって忠邦の政策に反対したことで人気者となり、後に『遠山の金さん』という時代劇ヒーローになった
天保の改革が失敗に終わったのに対し、薩摩藩・長州藩・肥前藩などの西南雄藩の藩政改革が成功した結果、幕府と西南雄藩の力差が縮まり、幕末の情勢に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもないでしょう。
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