2020年02月12日
政界のプリンスに襲い掛かった悲劇! 長屋王の変
藤原氏による他氏排斥の先駆け
昨日、元プロ野球の野村克也さんが亡くなられました。
野村さんは戦後初めて三冠王になった名選手で、監督になってからもデータ重視の“ID野球”で3度も日本一に輝いた名監督でした。
僕は野村さんの現役時代の姿は見ておらず、中学生くらいの時に野球解説者をされていたのを覚えています。
その頃は(なんか、嫌味っぽい感じの人だなぁ)とあまり良い印象はなかったのですが、ヤクルトの監督になられてからは辛口ながらも愛嬌があり、試合後のコメントも面白かったのでだんだん好きになりました。
野村さんは数々の名言を遺されていることで有名ですが、その中で僕が印象に残っているのは
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
という言葉です。
この言葉は野球だけでなく、人生における様々な勝ち負けにもあてはまる教訓のような言葉だと思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
さて、今日2月12日は奈良時代の政変・長屋王の変が起きた日です。(神亀六年 729年)※改元前
奈良時代は政権担当者が次々と代わる激動の時代だったのですが、その前半に起こったのがこの事件です。
この後の平安時代に藤原氏がライバルとなる政敵を謀略により次々と失脚させた「他氏排斥」は有名ですが、この長屋王の変はその先駆けと言ってもいい事件なのです。
但し、長屋王は貴族ではなく皇族なので名字がないことから厳密にいうと「他氏」には当てはまらないのですが、藤原氏による謀略の犠牲者という意味では同じと言えます。
この事件の裏にはどんな事情が隠されていたのでしょうか?
というわけで、今回は長屋王の変について語りたいと思います。
教科書にも名を残す政治家
長屋王は、壬申の乱(672年)に勝利して即位した天武天皇の孫にあたる人物です。
養老四年(720年)藤原不比等の死により政治の実権を握り、翌年には右大臣に昇進しました。
養老六年(722年)長屋王は百万町歩開墾計画を立案します。
これは、口分田(開墾された田)の不足を補うため、国司や郡司に100万町歩を開墾させようとした壮大な計画です。
しかし、この時代に100万町歩の開墾はさすがに無理がありました。
実際、約200年後の10世紀でも全国でせいぜい90万町歩くらいしか開墾されていなかったことから考えると無謀な計画と言わざるを得ず、これは計画のみに終わります。
養老七年(723年)には三世一身法を定め、条件付きで一定期間土地の私有を認める(※)という画期的な政策で開墾を奨励しました。(※この時代は公地公民制(土地も人民も国有)で、土地の私有は認められていなかった)
土地を私有できる条件として、新しく開墾した者には子・孫・祖孫の三代まで、旧耕地を再び開墾した者には本人一代限りの私有を認めたのです。
ですが、一時的な私有を認められても、いずれ公収されるとわかっていたらどうなるでしょう?
公収される時期が近づくと、田は放棄され再び荒廃してしまうという事態が各地でおきてしまいました。
こうした三世一身法の不備を是正し、完全な土地私有を認めたのが天平十五年(743年)の墾田永年私財法です。(注:墾田永年私財法は長屋王の政策ではない)
一方、長屋王は神亀元年(724年)に左大臣となり、ついに天皇に次ぐナンバー2の地位まで上り詰めました。
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長屋王の変とは?
左大臣となり、いよいよ政権を独占し始めた長屋王に対し、警戒感を強めたのが藤原四兄弟です。
藤原四兄弟とは、長屋王の前に権勢を振るっていた藤原不比等の4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)で、長屋王とはライバル関係にありました。
神亀六年(729年)2月、朝廷の下級役人二人が「長屋王は左道を学び、天皇の命を狙っている」と、天皇に密告したのです。
左道とは、邪悪とされていた呪術のような教えのことです。
すぐに藤原四兄弟の宇合が大軍勢を率いて長屋王の屋敷を取り囲みました。
朝廷から派遣された舎人親王が今回の疑惑について詰問しましたが、長屋王は弁解の余地すら与えられなかったといいます。
追い詰められた長屋王は妻子に毒を飲ませて殺し、自らも服毒自殺を遂げてしまいました。
この事件は、父の死後に政界の中心となった長屋王から政権を奪回するために四兄弟が仕組んだ謀略と言われています。
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長屋王を排除した“本当の理由”
この事件は表向きとしては藤原氏“お得意”のライバル排斥ではありますが、藤原一族にとっては政権奪回以上に重要な問題があったのです。
事件から遡ること5年前、神亀元年(724年)2月に聖武天皇が即位した際、母の宮子(不比等の娘)に「大夫人」という称号を与える詔(天皇の命令)を出しました。
しかし、長屋王は「それは律令の定めと異なる」と主張し、これを「皇大夫人」と改めさせたのです。
律令制度を重んじていた長屋王は、天皇の命令に対しても律令の定めを曲げようとはしませんでした。
ところで、この一件が藤原一族にどのような影響を及ぼすのでしょうか?
長屋王が天皇の命令以上に律令制度を重んじるということは、律令の中で定められた「皇族でなければ皇后になることはできない」という決まりも厳守する、ということになるのです。
この頃、聖武天皇には不比等の娘である光明子が嫁いでいました。
しかし、当時の朝廷は一夫多妻制だったので、光明子も聖武天皇の数いる妻の一人に過ぎない存在でした。
藤原一族としては、光明子の産んだ子を皇太子として次期天皇にすることを目論んでいたのですが、律令の定めに従えば光明子は皇族ではないので皇后にはなれません。
となると、聖武天皇の他の妻が皇族だった場合、そちらが皇后となり産んだ子が優先的に皇太子となってしまうのです。
そうなると藤原一族が朝廷に及ぼす影響力が弱まってしまうので、律令の定めを覆してでも光明子を皇后の座に据える必要がありました。
だから、律令制度を重視し、皇族以外の女性が皇后になることを認めない長屋王は藤原一族にとって邪魔な存在であり、陰謀を企てて排除したというわけです。
実際、この事件の後に藤原四兄弟は光明子を聖武天皇の皇后とすることに成功しています。
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まとめ
- 長屋王は天武天皇の孫として藤原不比等の死後に政権を握り、三世一身法などを定めた
- 長屋王は天皇に対し謀反を企てたという濡れ衣を着せられて自殺に追い込まれた
- 長屋王の変の裏には光明子の立后を図る藤原四兄弟の陰謀があった
事件から8年後の天平九年(737年)に四兄弟は相次いで天然痘にかかり4人とも亡くなりましたが、これは“長屋王の祟り”ともいわれました。
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