2020年02月14日
朝廷に反旗を翻した坂東武者 平将門
謎多き伝説の武将
今日2月14日は平安時代の武将・平将門が亡くなった日です。(天慶三年 940年)
将門といえば、菅原道真(7月24日付ブログ参照)と並び称される“祟り神”として人々の間で古くから恐れられた存在です。
しかし同時に、坂東(関東地方)武者の先駆けとして、徳川家康などにも崇められた“関東の守り神”としての一面もあるのです。
そういう点においても、「学問の神様」として崇められている菅原道真に近い存在といえるでしょう。
10世紀の初め頃、地方政治は乱れ治安の悪化が深刻化していたことから、各地の豪族は「自分の身は自分で守る」という自衛意識の高まりから武装化が進み、それがやがて武士団へと成長していきました。
各地で成長した武士団は、中央から移り住んで土着した貴族を棟梁とあおいで結びつき大武士団を形成しました。
その中でも特に有力だったのが、清和天皇の流れをくむ清和源氏と、桓武天皇の流れをくむ桓武平氏です。
これが源氏と平氏という武士の二大勢力になったのです。
しかし、将門の時代はそうした武士団ができて間もない頃だったので、未だ地方においては朝廷から派遣された国司(地方長官)が圧倒的に幅を利かせていました。
そのような状況下で国司と対立し、朝廷に対して反旗を翻したのが将門だったのです。
中央の貴族政治全盛の時代に反乱を起こした将門とはどんな人物だったのでしょうか?
というわけで、今回は平将門について語りたいと思います。
桓武平氏の名門
平将門 延喜三年(903年)?〜 天慶三年(940年)
将門は、桓武天皇の祖孫・高望王(桓武平氏の祖)の孫にあたる名門で、下総(茨城県南部)に生まれます。
将門は若い頃、上洛して朝廷に出仕していましたが、桓武平氏の直系という名門であるにも関わらず朝廷内での立場は低く、不遇な扱いを受けていました。
これは、たとえ名門の出であっても、所詮は“田舎者の武士”としか見られていなかったということです。
そのくらい、この時代は中央と地方の格差が激しく、武士の立場もかなり下に見られていたのです。
承平五年(935年)、将門が上洛中に伯父の国香が父・良将の遺した遺領を横領するという事件が起こりました。
将門は故郷に戻り国香に領地の返還を求めますが、争いになり国香を殺害してしまいます。
この件で将門は朝廷から詰問を受けますが上洛して弁明したので、この時は一族間の私闘とみなされました。
これ以降、将門は土地の争いを巡って他の伯父たちと度々交戦しながらも徐々にその勢力を広げていきます。
天慶二年(939年)11月、常陸(茨城県)の国司と争った藤原玄明が将門に助けを求めてきました。
将門は玄明を匿ったため常陸の国司と対立、将門はついに常陸の国府を襲撃し、一気にこれを占領してしまいました。
これで勢いづいた将門は、下野(栃木県)、上野(群馬県)の国府も占領し、将門の勢力圏はあっという間に関東一円にまで広がったのです。
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関東を制圧し“新しき王” を名乗る!
同年12月、将門はある巫女より「八幡大菩薩の使いである私が将門に帝位を授ける」との神託を受け、自らを朝廷の天皇に代わる新しい王・新皇と称しました。
新皇となった将門は、仲間の一族を関東各地の国司に任命し国府を支配、朝廷から独立した王国を築こうとしたのです。
しかし、朝廷から派遣された国司と争いその国府を奪ったことにより、将門は朝廷から「謀反人」とみなされます。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、いよいよ将門追討に動き出しました。
天慶三年(940年)2月、朝廷からの征討軍の前に、将門に敵が現れました。
将門が殺した国香の子・平貞盛です。
将門とはいとこ同士の関係である貞盛が、下野の豪族・藤原秀郷と連合して将門に戦いを挑んできたのです。
この時、将門軍の主力であった農民兵の多くは農村へ帰農させていたため、将門は少ない手勢での戦いを余儀なくされてしまいます。
それでも将門軍は善戦したのですが、激闘の末、ついに将門はこめかみに矢を受けて絶命しました。
将門が「新皇」を宣言してからわずか二ヶ月後のことでした。
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将門と純友は共謀していた?
将門の「新皇」宣言から一週間後、西国の瀬戸内海では藤原純友が海賊と結託して反乱を起こすという事件がありました。
関東と瀬戸内海で起こった二つの反乱の発生時期が近かったため、将門の乱と純友の乱を合わせて承平天慶の乱といいます。
東西で同時期に朝廷に対する反乱が起きたことから、
将門と純友は共謀して乱を起こしたのではないか?
と憶測されることがあります。
実は、この説を裏付ける史料があります。
平安時代の歴史書『大鏡』に「将門と純友は比叡山で盟約を交わした」と記述されているのです。
これによると、反乱が成功した後には将門が天皇に、純友が関白になるという密約までされていたといいます。
しかし、『大鏡』の記述は、当時朝廷内で囁かれていた“噂”を記録したに過ぎないと考えられ、信憑性に欠ける部分があります。
それに、二つの乱の時期が近かったとはいうものの、時間的経過を厳密に言えば、純友の乱が表面化してくるのは将門の乱が鎮圧された後だったのです。
つまり、純友が瀬戸内海を手中に収めつつあった時、関東で将門が反乱を起こしていることを知り、朝廷が混乱している今がチャンスとみて純友も反乱を起こしたと考えるのが妥当でしょう。
まとめ
- 桓武平氏の名門・平将門は一族間の土地を巡る争いをきっかけに反乱を起こした
- 関東を制圧した将門は自らを「新皇」と称したが、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に敗れた
- 将門と純友は共謀していたのではなく、純友が将門の乱に追随したと考えられる
次回は「将門にまつわる伝説」について語りますので、ご期待下さい!
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