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2020年02月05日

スキャンダル多き姫君 !? 千姫の真実

様々な噂が囁かれる家康の孫娘

明日2月6日は悲劇の徳川家姫君・千姫が亡くなった日です。(寛文六年 1666年)

千姫といえば、徳川家と豊臣家の橋渡し役としての政略結婚に利用され、実家と嫁ぎ先が戦争になった末に夫を失った悲劇の女性として有名です。

ところが、その後の千姫にはいろいろな噂話が付きまとっているのです。

婚約した男を振って騒動を巻き起こしたとか、未亡人になってから多くの男を弄んだ淫乱だとか・・・

将軍の娘であり、あの徳川家康の孫という肩書きを持つほどの高貴な女性にも関わらず、このような不名誉なエピソードを語られるのも珍しいことです。

逆に考えれば、千姫は当時の武家社会だけでなく世間一般からも注目される存在だったからこそ、ある事ない事噂されてしまったのかもしれません。

そういう意味では、現在の人気芸能人と同じかもしれませんね。

それにしても、本当に千姫は様々語られているようなスキャンダラスな女性だったのでしょうか?

というわけで、今回は千姫の真実について語りたいと思います。

二人の夫に先立たれた悲運の女性

千姫 慶長二年(1597年)〜 寛文六年(1666年)
千姫.jpg

千姫は二代将軍・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)の長女として生まれます。母は織田信長の姪・

慶長八年(1603年)千姫はわずか7歳で豊臣秀吉の嫡男・秀頼(当時11歳)の元に嫁ぎました。

これは、家康が生前の秀吉と交わしていた約束を実行したもので、徳川家と豊臣家の政略結婚です。

秀頼は江の姉・淀殿(茶々)の子なので、秀頼と千姫はいとこ同士の関係ということになります。

淀殿は自分の姪にあたる千姫の豊臣家輿入れを大いに喜び、千姫も夫の秀頼と仲睦まじく良い夫婦だったと言われています。

しかし、徳川家と豊臣家の関係は次第に悪化し、両家の争いは避けられない状況になりました。

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)で豊臣家が徳川家に滅ぼされた時、千姫は大坂城から救出されましたが、淀殿と秀頼は自害してしまいました。

千姫は江戸の両親の元へ戻った後、桑名藩の本多忠刻と再婚し、忠刻との間に一男一女を儲けますが、長男の幸千代はわずか4歳で亡くなってしまいます。

その後、夫の忠刻も31歳の若さで病死してしまい、同じ年に母の江も亡くなり不幸が続きました。

落胆した千姫は娘の勝姫と共に江戸に帰り、後に三代将軍となった弟の家光に庇護されて竹橋御殿に住むことになりました。

江戸に戻ってからの千姫は出家して天樹院と称し、二人の亡き夫の菩提を弔いつつ、静かに余生を過ごし天寿をまっとうしました。

「他所では困難な悪質ヤミ金にも対応!!」
「千姫事件」とは?

以上が千姫の生涯ですが、ここからは“千姫にまつわる噂”について検証していきたいと思います。


「千姫事件」
大坂夏の陣の時、落城寸前の大坂城内にいる孫娘の千姫の身を案じた家康は「千姫を救出した者に娶らせる」との触れを出した。
これを聞いた坂崎(出羽守)直盛は、炎に包まれた大坂城に飛び込み顔にヤケドを負いながらも千姫救出に成功する。
ところが、ヤケドにより醜い顔になった直盛を嫌った千姫は、美男子の本多忠刻に嫁ぐことになった。
千姫を救出するために負傷したにも関わらず、約束を破られたことに直盛は納得がいかず憤慨した。
そこで直盛は、輿入れ当日にその行列を襲って千姫を強奪しようと画策するが、計画は未然に発覚し直盛は殺されてしまった。


これについては、直盛が輿入れ行列を襲って千姫を強奪しようと計画したのは事実らしいのですが、直盛が大坂城に飛び込んでヤケドを負いながら千姫を救出したというのは作り話です。

実際に千姫を助けたのは秀頼側近の大野治長であり、治長は秀頼と淀殿の助命嘆願のために千姫を家康の元に送り届けたのです。

では、なぜ直盛は千姫を強奪しようとしたのでしょうか?

直盛は、秀頼と死別した千姫の新しい婿探しを依頼されていたので、京都の公家に千姫との婚姻話をつけていました。

しかし、千姫は本多忠刻に嫁ぐことが既に決まっていたのです。

面目を潰された直盛は、何とか千姫の婚礼を阻止しようと画策しますが事前に発覚し、責任を問われて自害に追い込まれたというのが真相のようです。

家庭教師のがんば
千姫淫行説は本当か?

♪「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」

という俗謡(民間でよく唄われた歌)が江戸時代に流行りました。

これは千姫のことを唄ったものとされ、この俗謡に基づく逸話があるのです。


「吉田御殿での淫行」
二人の夫を亡くし、女盛りを持て余して未亡人となった千姫は旗本の吉田屋敷に住み、吉田御殿の二階から夜ごと下の道を往来する男を物色するようになった。
その中から気に入った男を部屋に呼び込んで淫行の限りを尽くした挙句、証拠隠滅のため男を殺し、その遺体を井戸に投げ込んだ
このような行為を繰り返していたため、付近では次第に噂が広がり、吉田御殿の前は猫の子一匹通らなくなる。
やがて千姫の乱行は幕府の知るところとなり、追い詰められた千姫は自害した。


このように、どういうわけか千姫は淫乱で恐ろしい女性に仕立てられてしまいました。

実はこの話の元になった俗謡は、千姫ではなく東海道吉田宿(現在の愛知県豊橋市)の遊女の様子を唄ったものなのです。

本多家を去った後の千姫は吉田御殿ではなく江戸の竹橋御殿に住んでおり、しかも将軍家の姫君が住む竹橋御殿は一般庶民が近づけるような場所ではありません。

それに、この話が事実なら千姫は30そこそこで自害したことになりますが、実際の千姫は70歳の長寿をまっとうしてますので、この話は全くのデタラメです。

おそらく、二人の夫を早々に死なせてしまった千姫を悪女に見立て、暇を持て余した江戸庶民の下品な妄想が作り上げた産物なのでしょう。

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まとめ

  • 徳川家康の孫娘である千姫は二人の夫に先立たれた不幸な女性であるにも関わらず、様々な噂が囁かれている

  • 「千姫事件」とは、約束を反故された坂崎直盛の千姫強奪未遂事件

  • 千姫が吉田御殿の二階から男を招き入れて弄んだという逸話は全くのデタラメ


身分制度が厳格に分けられていた江戸時代では、高貴な女性を好き勝手に妄想して楽しむことで庶民は鬱憤を晴らしていたんでしょうね。

2020年02月03日

武士の世を切り拓いたパイオニア 平清盛

「清盛悪人説」に偽りあり!

明日2月4日は史上初の武士政権を築いた平清盛が亡くなった日です。(治承五年 1181年)※閏2月

平清盛といえば、平成二十四年(2012年)の大河ドラマ『平清盛』(主演:松山ケンイチ)のイメージがありますね。

ですが、この大河は当時視聴率が悪かったことで話題となりました。

その理由は前回のブログでも書いたのですが、大河枠は戦国ものか幕末ものを求められている傾向にあることが一つにあります。

そしてもう一つ考えられるのは、清盛は悪役的な印象が強いため、歴史上の偉人としてはあまり人気がないことも一因と考えられます。

清盛=ヒールを印象づけたのは、『平家物語』の影響が大きかったと思われます。

この『平家物語』が書かれたのは鎌倉時代、つまり源氏の世です。

源氏の世に、そのライバルであった平氏の親玉・清盛が良く描かれるとは到底思えません

石田三成10月1日付ブログ参照)が江戸時代にボロクソ言われたように、清盛が鎌倉時代に悪人扱いされたのは、書いた作者がその時代の権力者に“忖度”した結果だと思われます。

平安時代、武士は政権を握っていた貴族たちのボディガードに過ぎず、もっと言えば「番犬」のように下に見られていました。

そんな時代にあって、その貴族たちから政権を奪い取るには余程の能力と仲間からの厚い人望がなければ不可能なことです。

それを成し遂げ、史上初めて武士政権を築き上げた清盛はやはり偉大な武士といえます。

というわけで、今回は平清盛について語りたいと思います。

清盛は白河上皇のご落胤 !? 

平清盛 永久六年(1118年)〜 治承五年(1181年)
平清盛.jpg

清盛は、伊勢平氏の棟梁・忠盛の長男として生まれました。

母について正確には不明とされているのですが、生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)とも言われており、祇園女御は白河上皇の寵愛を受けた後に忠盛に嫁いだことになっています。

このことから、実は清盛の本当の父は白河上皇だったのではないかという噂もあるのです。

つまり、祇園女御は白河上皇との間にできた子を身籠ったまま忠盛に嫁ぎ、そうして生まれたのが清盛だというのです。

白河上皇がかなりの好色漢だったことは11月25日付のブログでも語った通りなので、この説もまんざら噂だけとは思えませんね。


伊勢平氏は清盛の祖父・正盛が白河上皇の信任を得た頃から頭角を表わし始めます。

やがて武士が源氏と平氏の二大勢力となった頃、朝廷内で政争が起き、この争いに武士が加わりました。

これが保元の乱です。(保元元年 1156年)

清盛は源義朝(頼朝の父)と共に後白河天皇方につき勝利しました。

保元の乱は、貴族どうしの争いごとも武士の力なしでは解決できなくなったことを証明した武士にとって大きな意義のある戦いでした。

その証拠として、鎌倉時代の歴史書『愚管抄』にも、保元の乱後

「ムサ(武者)ノ世ニナリケルナリ」

と書かれています。

保元の乱により武士の存在感が大きくなると、今度は源氏と平氏の武家どうしによる覇権争いが勃発します。

これが平治の乱です。(平治元年 1159年)

清盛はライバルの義朝を倒し、ついに武家の頂点に立ちました。

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“平家にあらずんば人にあらず”

平治の乱に勝利した後、清盛は急速にその勢力を伸ばしていきます。

仁安二年(1167年)、清盛は武士として初めて太政大臣となり、これにより平氏政権が本格化しました

平氏は清盛の嫡男・重盛が内大臣になった他、一門の人間が続々と高位高官に就いていきます。

清盛は武力にものをいわせて貴族たちが支配していた領地を次々と奪い、西日本を中心に平家一門の所領は全国の半分に近い30ヶ国余りにも及びました。

また、清盛は日宋貿易にも力を注ぎ、大輪田泊(現在の神戸港)を修築して貿易を拡大させたことで莫大な富を得ました。

さらに清盛は、摂関政治を行なった藤原氏と同じように、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に嫁がせ、生まれた男子を安徳天皇として幼少のうちに即位させることで、自らは天皇の外戚として朝廷をも支配しようとしたのです。

こうして清盛の活躍により隆盛を極めた平氏ですが、一門の平時忠は

「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」(『平家物語』)

とまで言ったといわれています。



“奢る平家は久しからず”

武家でありながら貴族化し政界を席捲する平氏は、公家はもとより同じ武士にも次第に反感を持たれるようになっていきます。

治承元年(1177年)6月、後白河法皇の側近であった藤原成親や僧の俊寛らが京都東山の鹿ケ谷で平家討伐の密儀を行ないましたが、これは事前に発覚して事なきを得ます。(鹿ケ谷の陰謀

しかし、治承三年(1179年)11月、清盛の嫡男・重盛が亡くなった後、後白河法皇が重盛の遺領を勝手に没収したことに清盛は憤慨し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してしまいます。

これが引き金となって、世間では平氏に対する不満が一気に高まり、翌年から各地の源氏が挙兵する事態となりました。

治承四年(1180年)5月、源頼政が後白河法皇の皇子・以仁王を奉じてついに打倒平氏の旗を揚げました。

この反乱はすぐに鎮圧したものの、危機感を抱いた清盛は、6月に朝廷の猛反対を押し切って即位したばかりの安徳天皇を連れて摂津(大阪・兵庫)の福原に遷都したのです。

翌年になると清盛は原因不明の熱病に犯されてしまいます。

この熱病の原因は、清盛が東大寺の大仏を焼き払わせたための仏罰とも噂されました。

この時の清盛の高熱は凄まじく、清盛の体を冷やそうと冷水につけると、たちまちその水が沸騰してしまったといわれています。

死期を悟った清盛は臨終に臨み、

「我が死後に仏事法要は一切無用。直ちに鎌倉へ追手を差し向け頼朝を討ち、その首を我が墓前に供えよ」

と遺言して息を引き取りました。



まとめ

  • 平清盛は母が白河上皇の寵愛を受けていたことから、実父は白河上皇ではないかとも言われている

  • 清盛は武士として初の太政大臣となり、清盛の活躍により平家は栄華を極め、“平家にあらずんば人にあらず”とまで言わしめた

  • 武家でありながら貴族的性格を持つ平氏は次第に反感を買うようになり、各地の源氏が挙兵する中、清盛は熱病で亡くなった


源頼朝を生かしておいたこと(1月13日付ブログ参照)が清盛最大の失敗だったというのは、その遺言にも強く表れていますね。
プロフィール
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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