2019年10月25日
キリシタン最後の反乱・島原の乱
世相が不安な時、人は宗教にすがる
今日10月25日は島原の乱が起きた日です。(寛永十四年 1637年)
島原の乱は九州で起こった日本史上最大のキリスト教徒による反乱ですが、これは戦乱の世が終わりを告げ、ようやく安定し始めた幕藩体制を揺るがす大事件でした。
日本に限らず世界の歴史を振り返っても言えることですが、世の中が不安定になり社会に動揺や不安が高まると、人間は宗教にすがってゆく傾向があります。
例えば、平安時代に末法思想(仏教における終末的世界観)が世に広まり社会不安が高まると、当時摂関政治の全盛期に栄華を極めた藤原道長(12月4日付ブログ参照)でさえ、亡くなる時に自分の指に結んだ糸を阿弥陀如来の仏像の指に結んで極楽浄土へ往生することを願ったといいます。
そして、現世に同じ不安を抱えた者どうしが集まり団結すると強い力を生み出すことがあります。
その代表的な例が戦国時代の一向一揆(12月2日付ブログ参照)です。
彼らは世の中が戦乱に明け暮れ、自分もいつ死ぬかわからない不安を常に抱える中で、せめて死後は極楽浄土に往きたいという願望から一向宗(浄土真宗の一派)を信仰し次第に団結していったのです。
一向一揆の力は、あの織田信長をも10年以上苦しめました。(石山戦争・1570〜1580年)
宗教による結束力が強いのは、現世の損得勘定に縛られた結束と違い、全員が純粋な気持ちで同じ方向を向いているからでしょう。
時の権力者はそのような宗教の力を恐れ、次第に弾圧するようになります。
というわけで、今回は徳川幕府にキリスト教徒の団結力を誇示した島原の乱について語りたいと思います。
島原の乱が起きた背景
徳川幕府が初期の政策として実行していたのが、キリスト教の禁教と鎖国による支配体制の強化です。
キリスト教の禁教はキリスト教を一向一揆に代わる強い宗教勢力にさせないためであり、鎖国政策は諸大名が海外との交易によって利益を得る(=国力が増強する)ことを防ぐためです。
海外との交易を制限された大名は、減った分の利益を年貢の増収によって賄おうとしました。
この二つの政策によって最もその煽りを受けたのが、肥前(佐賀・長崎県)の島原と肥後(熊本県)の天草です。
島原と天草はキリシタン大名として有名な有馬晴信(島原)と小西行長(天草)のかつての領地だったので、他の地域と比べて領内にキリスト教信者が圧倒的に多かったのです。
その後領主となった松倉氏(島原)と寺沢氏(天草)は、領民に過酷な年貢徴収を課し、徹底的にキリシタン弾圧を行ないました。
その結果、ほとんど生き地獄の状態にまで追い込まれた両地方のキリスト教信者は、ついに信教の自由を求めて立ち上がります。
動画でレビューを見たいならViiBee(ビービー)
カリスマ少年の元に集うキリシタン
寛永十四年(1637年)10月、島原と天草でそれぞれ一揆を起こした領民は島原半島で合流、既に廃城となっていた原城に入り、幕府が差し向けた一揆討伐軍に対し籠城戦を展開します。
この籠城戦で約3万7千にまで膨れ上がった一揆軍の総大将となり指揮を執ったのが天草四郎です。
元和九年(1623年)?〜 寛永十五年(1638年)
この少年は本名を益田時貞といい、父は小西行長の遺臣でした。
時貞はキリスト教信者の中でも奇跡を起こす救世主として、キリシタンたちの精神的支柱となっている存在でした。
対する幕府軍の指揮を執った板倉重昌は九州各地の大名を中心に約10万の軍勢で原城を包囲しますが、一揆軍の抵抗は激しく、なかなか城を落とすことができません。
焦った重昌は総攻撃で強引な力攻めに出ますが、逆に一揆軍の反撃に遭い重昌は討死してしまいました。
すると、幕府は次の総大将として老中・松平信綱を派遣します。
この信綱は官職の伊豆守から「知恵伊豆」と称されるほど切れ者として有名な人物でした。
強引な力攻めで城を落とすのは難しいと考えた信綱は、オランダ船の協力を得て船から城を砲撃させると同時に、一揆軍の水と食糧を断つ兵糧攻めで徐々に相手の気力を奪います。
この作戦が功を奏し、信綱は一揆軍が完全に沈黙したのを見計らって総攻撃を仕掛けます。
そして、寛永十五年(1638年)2月28日、ついに一揆軍は鎮圧され、時貞もこの時に討死しました。
その後、一揆に加わった者は女子供も含め全て処刑されました。
食事宅配サービス【食のそよ風】
天草四郎の出現は予言されていた !?
天草四郎は洗礼名をジェロニモといい、海の上を歩いて渡ったり、病気の子供を手で触れるだけで治したり、神の言葉を民衆に告げたりしたという伝説の持ち主です。
そのような伝説に彩られたカリスマ性によりキリシタンに崇められていたため、まだ少年であったにも関わらず一揆軍の総大将に祭り上げられたものと考えられています。
そして驚くべきことに、天草四郎の出現と島原の乱が起きるのを予言していた人物がいるのです。
慶長十七年(1612年)、幕府の禁教令により国外へ追放処分となった宣教師・ママコスは、
「今から25年後に16歳の天童が出現する。彼は様々な奇跡を呼び起こし、そのとき空は焼けたように赤くなり、大地は鳴動する。そして人々はクルス(十字架)を抱き、白旗が山野を埋め尽くすであろう」
という予言を残して去って行ったのです。
この予言通り、25年後の寛永十四年(1637年)に推定16歳の天草四郎が出現し島原の乱が起こっているのです!(※天草四郎の生年は諸説あるが、乱が起きた時はおよそ16歳くらいであったと思われる)
まとめ
- 島原の乱が起きた原因は過酷な年貢の取り立てとキリスト教徒の弾圧
- 天草四郎を総大将とした一揆軍はよく戦ったが最後は松平信綱により鎮圧された
- 宣教師・ママコスは天草四郎の出現と島原の乱勃発を25年前に予言していた
ママコスの予言を信じるか信じないかはアナタ次第 !!(笑)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9344705
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック