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2019年10月21日

千年の都・平安京の誕生

大健闘したラグビー日本代表

ラグビーW杯で史上初の決勝トーナメントに進出した日本代表が、昨夜行われた試合で南アフリカに3-26のスコアで敗れ、W杯の敗退が決まりました。

自国開催に加え日本代表の快進撃で、この一ヶ月間はラグビーの話題で持ちきりでしたが、日本代表が敗退したことで一気に熱が冷めていくのでしょうか。

それにしても、自国開催のアドバンテージがあったとはいえ、日本代表の活躍は予想を上回るものでしたね。

僕のようなルールすらあまり理解していない素人がみても、他国の選手たちの体格やパワーが日本代表の選手たちを明らかに上回っているのがわかるのに、日本代表の選手たちは互角以上に戦い抜き、決勝トーナメント進出という結果まで出したのは凄いことだと思います。

思い起こせば、4年前のW杯は日本代表が南アフリカに勝って国内外ともに驚天動地の騒ぎになりましたが、リーグ戦でスコットランドに敗れたことで決勝トーナメント進出はなりませんでした。

今年はスコットランドに勝って決勝トーナメント進出を決めましたが、今度は南アフリカに敗れて敗退が決まったのです。

つまり、4年前とは逆の勝敗になったのですが、南アフリカ・スコットランドと日本代表、何か因縁めいたものを感じざるを得ないですね。


さて、明日10月22日は平安京遷都が行われた日です。(延暦十三年 794年)

平安京は794年に始まり、平清盛2月3日付ブログ参照)による一時的な福原遷都(治承四年 1180年)を除けば、明治二年(1869年)の東京遷都まで実に千年以上もの間、日本の首都が置かれていました。

しかし、平安京以前の日本の遷都歴を考えると、これだけ長期間に渡り一つの都が続いたことは驚異的ともいえるのです。

というわけで、今日は平安京遷都について語りたいと思います。

遷都マニア!? 聖武天皇

8世紀半ばの平城京(奈良県)周辺では飢饉や疫病などが流行し、社会的な動揺がありました。

そんな中、藤原広嗣が九州の大宰府で朝廷に対し反乱を起こした(天平十二年 740年)ことで動揺は政界にも広がります。

時の天皇・聖武天皇は、広嗣の乱をきっかけに都を平城京から恭仁(くに)難波(なにわ)紫香楽(しがらき)と立て続けに遷した後、天平十七年(745年)には結局もとの平城京に戻っています。

つまり、わずか5年で4回も遷都しているのです。

聖武天皇が短期間に何度も遷都を繰り返した理由について、はっきりしたことはわかっていません。

ただ、聖武天皇は仏教に深く帰依していたので、仏教の力によって社会の不安を鎮めようと考える鎮護国家(ちんごこっか)の思想が強く、鎮護国家の象徴と考えていた大仏造立に最適な地を探し求めて遷都を繰り返していたのではないかと考えられています。

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百年ぶりに復活した天智系天皇

宝亀元年(770年)聖武天皇の跡を継いだ娘の称徳天皇が崩御し、後継ぎの子もなかったため、672年(元号なし)の壬申の乱から約百年ぶりに天智天皇直系の天皇・光仁天皇(天智天皇の孫)が誕生します。(→壬申の乱以降は称徳天皇まで天智天皇の弟・天武天皇の系統が天皇となっていた)

そして、光仁天皇の跡を継いだのが桓武天皇です。
桓武天皇.jpg
天平九年(737年)〜 大同元年(806年)

桓武天皇は政治にも介入してくるほど強い力を持つ奈良の寺院勢力から離れ、律令政治の再建を図ることを目的に、延暦三年(784年)山背国(京都府)の長岡京に遷都します。

しかし、この遷都には平城京で地盤を築いていた大伴氏などを中心に反対する者も多く、翌年には長岡京造営の中心人物であった藤原種継が何者かに暗殺されてしまいます。

桓武天皇はこの暗殺事件に当時皇太子であった弟・早良(さわら)親王が関与していると考え、早良親王を流罪にしますが、早良親王は無罪を訴えたまま非業の死を遂げてしまいます。

これ以後、天皇の身内に不可解な死が相次ぎ、長岡京周辺でも飢饉や疫病、さらには洪水などが立て続けに起きてしまい、これは早良親王の怨霊の仕業ではないかと噂されました。

そのため、桓武天皇は早良親王に「崇道(すどう)天皇」の諡号(しごう=死後に与える贈り名)を送って鎮魂に努めますが、祟りを恐れてわずか10年で長岡京を去ることになります。

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これでアナタも京都ツウ!? 平安京の特徴

延暦十三年(794年)、道鏡事件で活躍した和気清麻呂の建議により、桓武天皇は長岡京の北東に位置する平安京に遷都します。
平安京.gif

平安京の名称には、(平らかで安らかな都になって欲しい)という願いが込められています。

桓武天皇が遷都した新しい都・平安京の特徴をいくつか紹介します。

  • 四神相応の都
    平安京の場所の選定には、東に川(鴨川)・西に道(山陰道)・南に池(巨椋池)・北に山(船岡山)という古来からの風水における四神相応(しじんそうおう)という考えに基づいて決定されました。


  • 条坊制の街作り
    東西約4.5`の(道)と南北約5`の(道)からなり、北部中央に大内裏(平安京の宮城)があり、大内裏の南には朱雀大路(すざくおおじ)という平安京のメインストリートが走っています。
    この朱雀大路を挟んで東側の左京と西側の右京に分けられ、碁盤の目のように規則正しく整備された町割りとなっています。


  • 左京と右京
    大内裏に近い北部に藤原氏など有力貴族の邸宅が密集し、京都の中心として栄えた左京に対し、右京は桂川に近く湿地帯が多かったため住みづらく、比較的早い時期から衰退しました。



ちなみに、山背国→山城国と漢字を改めたのは、この平安京遷都がきっかけです。



まとめ

  • 奈良時代の聖武天皇は5年間に4度もの遷都を繰り返した

  • 桓武天皇は自ら死に追いやった早良親王の祟りを恐れ、わずか10年で長岡京を去った

  • 平安京の場所選定には「四神相応」という風水の考え方が採用された


明日は即位の礼(パレードは延期)で今年限りの祝日ですね。
でも、(なぜ10月22日なのか?)という疑問に対し、宮内庁のHPにもはっきりした理由は述べられていないのですが、僕はこの平安京遷都の日と多少なりとも関係しているのではないかと考えてしまいます。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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