2019年10月18日
生類憐みの令は “天下の悪法” だったのか?
ペットを飼う時に必要な心構え
皆さんの家ではペットを飼っていますか?
僕は学生の頃、家に犬と猫がいました。
犬はなかなか懐いてくれなくて困りましたが、猫は人を選ばないようで(!?)遊んだり悪戯したりしながらもかわいがってました。
そんな経験からか、20代の頃までは所謂“ネコ派”でしたが、30を過ぎた頃から犬もかわいいと思うようになり、今でも街で散歩してる犬を見かけるとつい目で追ってしまいます。
ペットを飼うことは人が癒されるだけでなく、子供などは生き物を育てることの大切さや命の尊さを学べると思いますが、一時的な感情でペットを飼って、都合が悪くなったら捨てたり世話を放棄したりするのだけは絶対にやめて欲しいです。
人間の身勝手な都合で、毎年何万というペットが殺処分されている現状には本当に心が痛みます。
ペットを飼うのなら、その仔の寿命と自分たち家族の将来も考慮した上で、その仔が天寿を全うするまで大切に育てられると確信してからにして頂きたいものです。
さて、この動物愛護という観点で歴史を振り返ると、真っ先に思いつくのが江戸時代の「生類憐みの令」ですね。
これは、あまりにも度を越えた動物愛護令として有名で、“日本史上最大の悪法”と非難する学者もいたほどです。
というわけで、今回は“天下の悪法”と言われた生類憐みの令について語りたいと思います。
生類憐みの令が制定された背景
徳川幕府三代将軍・家光の死後、幕府の強圧的な政治体制に反発する牢人たちが幕府転覆を図った由井正雪の乱(慶安の変)が起こります。(慶安四年 1651年)
この事件は未遂に終わりますが、これを契機に幕府はそれまでの厳しい武断政治から、人道的儒教思想に基づく文治政治へと政策を転換しました。
家光の跡を継いだ四代将軍・家綱に子がなかったことから、弟の綱吉が五代将軍となり、綱吉も儒教の教え守り文治政治を推進しました。
しかし、綱吉にも子ができず悩んでいたところ、綱吉側近の僧・隆光に
「あなたに子ができないのは前世に殺生をした報いです。生き物を大切にすれば前世の因縁から解放されます。」
「特にあなたの干支である戌(犬)を大事にすると良いでしょう」
と進言されたことから、綱吉は「生き物を大切にし、みだりに殺生してはならぬ」という類の法令を出し始めます。(貞享二年 1685年〜)
ここで一つ断わっておきたいのは、綱吉は「犬猫の殺生禁止」や「牛馬遺棄の禁止」など生き物に関する法令をたくさん出しましたが、「生類憐みの令」という名称の法令は正式には存在しません。
「生類憐みの令」は、綱吉が制定した生き物に関する様々な法令を総称して後世の人が名付けた名称です。
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生き物を殺すとどんな処罰があったのか?
生き物を大切にするという視点から出された法令ですが、その後も子ができなかった綱吉は(法令の内容が甘く徹底していなかったからだろうか?)と考えたのか、次第にその内容がエスカレートしていき、ついには人とその他の生き物の立場が逆転してしまっているような異常事態になっていきました。(貞享四年 1687年〜)
法令を破った際の処罰例をいくつか挙げると、
・犬を殺した者は問答無用で死罪あるいは流罪
・雀を吹き矢で殺した親子が打ち首
などがあり、中には
・頬に止まった蚊を叩き殺しただけで死罪
という、常識では考えられないような酷い処罰がまかり通っていました。
綱吉は特に犬を大事にしていたため、犬の扱いに困った庶民は様々な処罰を恐れて飼っていた犬を手放し、江戸中に捨て犬が蔓延するという皮肉な結果をもたらしました。
そこで綱吉は、四谷や中野に大規模な野犬収容施設を建設し、ここで何万頭もの野良犬を保護しました。
この施設では犬一頭につき、奉公人一人の人件費に匹敵するほどの高い養育費がかけられており、しかもその莫大な費用は江戸市民から徴収したというのですからたまったものではありません。
こうした不満から、人々は綱吉のことを犬公方と揶揄しました。(公方=将軍のこと)
そんな綱吉ですが、この法令に関係する面白いエピソードがあります。
ある時、綱吉が外出して歩いていると、上空を飛んでいたカラスが綱吉の頭にフンを落としました。
激怒した綱吉はこのカラスを捕まえさせます。
ようやく捕まえたカラスに綱吉はなんと「島流しの刑」を命じました。
生き物の殺生を禁じている手前、たとえ憎らしいカラスでも殺すことはできなかったのです。
こうしてカラスは籠に入れられて船で新島に護送され、島に着くと籠から出されました。
すると、カラスは江戸の方向に向かって飛んで行ったそうです。(笑)
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見直されるべき点
上記のような内容から極めて評判の悪い綱吉ですが、そもそも彼は儒教の教えに深く傾倒していた慈悲深い人物で、悪法といわれた生類憐みの令も元々は生き物に対する慈愛の精神から生まれたものであり、必ずしも全てが悪い方向に向いていたわけではありません。
生類憐みの令が評価される点
1.江戸の保健衛生が改善された
この法令ができる以前から江戸の町には野良犬が多く、現代のような狂犬病予防接種などされていない犬に子供が噛まれて亡くなるという事故が多かった(狂犬病の致死率はほぼ100%)のですが、綱吉が野犬収容施設を建設し多くの野良犬を収容したおかげで、狂犬病により亡くなる人は激減しました。
2.江戸の治安が向上した
綱吉の時代は戦乱の世が終わってから百年も経っておらず、戦国の殺伐とした気風がまだ人々の胸の内に渦巻いていました。
そのため、幕府に不満を抱えたならず者が多く、彼らは街のあちこちで乱暴を働き、その中には犬を捕まえて殺し、皮を剥いで食べてしまう輩も多かったのですが、生類憐みの令を盾にこのような狼藉者を徹底的に取り締まったことで、結果的に江戸の治安が向上したといわれています。
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まとめ
- 生類憐みの令は綱吉の世継ぎ問題がきっかけだった
- 犬は勿論、雀や蚊を殺しただけで死罪になった者もいた
- 生類憐みの令は江戸の保健衛生や治安の向上に貢献する良い点もあった
綱吉は亡くなる間際、「生類憐みの令は自分の死後も百年は続けるように」と遺言しましたが、次に将軍となった家宣は綱吉が死んだ直後(宝永六年 1709年)に生類憐みの令を廃止しました。(笑)
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