2019年10月14日
徳川幕府の終焉・大政奉還
700年に及んだ武士政権にも終止符
12日夜に関東地方を襲った台風19号は、東海・関東甲信越・東北各地に大きな爪跡を残しました。
事前に気象庁が厳重な警戒を呼び掛けていましたが、今回はその予想を上回る雨が降りましたね。
強力な台風と聞くと、強風や高波による被害を想定しがちですが、台風19号はいわゆる“雨台風”でした。
そういう意味では、昭和三十三年(1958年)の狩野川台風によく似ているという気象庁の予想は当たっていたと思います。
狩野川台風と似たようなコースを辿った台風19号は、今回もやはり伊豆半島に記録的な豪雨をもたらしましたが、狩野川流域だけで800人以上の死者を出した当時と比べ、被害を最小限にとどめることができたのは、地域住民の方々が61年前の教訓を活かしたことも一因にあります。(9月26日付ブログ参照)
しかし、大雨により地盤が緩んだ地域では、台風が去った後も1〜2日は土砂災害の危険性が高いので、十分に注意して下さい。
さて、今日10月14日は徳川幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還が行われた日です。(慶応三年 1867年)
これは徳川幕府が終わっただけでなく、平安末期に平清盛が太政大臣に就任(仁安二年 1167年)して以来続いていた武士政権が終わるという、日本政治史において最も大きなターニングポイントといえる出来事です。
僕は、高校生の時に日本史に興味を持ち始め好きになったのですが、江戸時代までの日本史と比べ、あまりに多くの出来事が短期間に詰め込まれている幕末から明治に頭を抱えてしまい、一時的に嫌いになった覚えがあります。(笑)
なので、今回はなるべくわかり易く大政奉還に至るまでの流れを語っていきたいと思います。
徳川幕府の弱体化
安定した政権を維持していた徳川幕府が揺らぎ始めたのは、嘉永六年(1853年)のペリー来航がきっかけです。
長らく鎖国状態だった日本に対し、ペリーは強硬に開国を求めてきました。
返答に迷った幕府は朝廷や諸大名に意見を求めますが、この行為がそれまでないがしろにされていた朝廷の権威を復活させ、諸大名に幕府に対する発言の機会を与えることになります。
ここで朝廷側は開国は黙認したものの、修好条約の勅許(天皇が許可を与えること)を認めず、幕府に対し威厳を見せます。
困った幕府は強硬派の井伊直弼を大老に据え、直弼は朝廷から勅許を得ないまま修好条約に調印してしまいました。
この行動に反対派は猛反発しますが、直弼はここでも強権を発動し、反対派の公家や大名・志士などを処罰します。(安政の大獄)
このような直弼の強引なやり方に激怒した反対派の水戸浪士などは直弼を暗殺してしまいます。(桜田門外の変)
桜田門外の変を受け、それまでの独裁が通用しないと悟った幕府は、反幕府勢力を抑えるため、孝明天皇の妹・和宮を14代将軍・徳川家茂に嫁がせるという公武合体(公=朝廷と武=幕府の融合)政策を推進しました。
しかし、これを推進した老中・安藤信正がやはり反対派に襲われて失脚(坂下門外の変)し、ますます幕府の権威は失墜してしまいます。
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尊王攘夷派の台頭
ここでは尊王攘夷(天皇を崇拝し外国勢力を排除する思想)の筆頭・長州藩の動きを中心に見ていきます。
吉田松陰の教えを受けた尊王攘夷派の志士たちが台頭し始めた長州藩では朝廷を味方に引き入れ、下関海峡を通過する外国船を砲撃するという攘夷を決行します。(下関事件)
こうした長州藩の行動を快く思わない薩摩・会津の両藩は、朝廷と密接な関係にあった長州藩を京都から追放するというクーデターを起こしました。(八月十八日の政変)
都落ちした長州藩は勢力挽回を図り京都に攻め上りますが、再び薩摩・会津の両藩の前に敗北します。(禁門(蛤御門)の変)
そこに、下関事件で長州藩から砲撃を受けたイギリス・フランス・アメリカ・オランダが連合艦隊を編成し、報復として長州藩の下関を砲撃しました。(四国艦隊下関砲撃事件)
さらには、禁門の変を起こした罪を理由に幕府が長州藩に対し征討軍を派遣しますが、既に満身創痍の長州藩は戦わずして降伏します。(第一次長州征討)
その後、四国艦隊下関砲撃事件を経験して攘夷の不可能を悟った長州藩の高杉晋作ら革新派が藩の実権を握り、藩の方針を討幕へ転換させます。
方針を転換させた長州藩に対し、幕府は再び征討軍を派遣しましたが、既に薩摩藩と手を結んでいた長州藩(薩長同盟)は幕府軍との戦いを有利に進め、幕府軍は苦戦の末、将軍家茂の病死をきっかけに撤退しました。(第二次長州征討)
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討幕派の機先を制した慶喜
家茂の死後、15代将軍となったのは徳川慶喜ですが、この頃には武力討幕を目指す薩摩・長州の勢力は増すばかりでした。
そんな中、土佐藩の坂本龍馬(11月15日付ブログ参照)は、幕府に政権を返上させ、朝廷を中心に諸大名(徳川家も含む)による合議で国政を運営する構想(船中八策)を起草します。
土佐藩士・後藤象二郎は龍馬の船中八策に基づく公議政体論(合議制による政治)を藩主の山内豊信に進言、豊信はこれを慶喜に建白します。
慶喜は合議制の政治形態になったとしても、最も強い発言力を持つ徳川家の権力は維持できると考え、討幕派が行動を起こす前の慶応三年(1867年)10月14日、政権を朝廷に返上する大政奉還を実行しました。
大政奉還が行われた二条城(京都)
実はこの裏で、薩摩と長州は朝廷より討幕の密勅(幕府を討てという天皇の密命)を受けていましたが(10月13日に薩摩、翌14日に長州)、行動を起こす前に大政奉還によって幕府は(名目的には)消滅したので、薩長による武力討幕は幻と消えます。
慶喜にまんまと先を越された薩長が巻き返しを図り、政変を起こすのはそれから二ヶ月後のことでした。
まとめ
- 徳川幕府はペリー来航時に意見を求めたことで朝廷や諸大名に発言権を与えるきっかけを作ってしまった
- 尊王攘夷派の長州藩は攘夷の不可能を悟った後、討幕へと傾いていった
- 徳川慶喜は討幕派が行動を起こす前に大政奉還を実行して徳川家の権力を維持しようと考えた
それにしても、平清盛の太政大臣就任からちょうど700年目(1167年→1867年)とは、歴史の不思議な因縁を感じますね。
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