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2019年10月11日

俳句を極めた永遠の旅人・松尾芭蕉

今年最強クラスの台風が本州に襲来!

先月、千葉県を中心に大きな被害をもたらした台風15号の傷跡も癒えぬうちに、さらに強力な台風19号が週末に襲ってくるようです。

この台風19号は近年稀に見るほどの強い勢力を保ったまま本州に上陸する恐れがあります。

11日午前の段階で、台風19号の中心気圧は925ヘクトパスカル、瞬間最大風速は70bとなっています。

9月26日付のブログで伊勢湾台風について語った際、過去に甚大な被害をもたらした代表的な台風がどの程度の勢力だったのか詳しく書きましたので、今回の台風19号と比較してみて下さい。

台風への備えとしては、

@鉢植えや物干し竿、自転車など外にあり強風で飛ばされる可能性のあるものは家の中に入れておく

A物が飛んできて窓ガラスが破損する恐れがあるので、普段は閉めない戸も含め家中全ての雨戸をしっかり閉める

B断水や停電に備えて、飲料水や懐中電灯(電池も)の確保、携帯電話のフル充電

などを今夜までにやっておく必要があります。

(今まで住んでて台風の被害なんてなかったんだからウチは大丈夫だよ)

と、タカを括っている人もいるかもしれませんが、先月被害に遭われた千葉県の方々も、(まさか、これほどのことになるとは・・・)と思われたと思います。

その台風15号より強い勢力で上陸する可能性があるのですから、十分な備えをするに越したことはないでしょう。


さて、明日10月12日は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が亡くなった日です。(元禄七年 1694年)

「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」

など、有名な句をたくさん詠んだ日本の俳諧文化を大成させた人物です。

今回は松尾芭蕉について語りたいと思います。

旅に明け暮れた生涯

松尾芭蕉 正保元年(1644年)〜 元禄七年(1694年)
松尾芭蕉.jpg

芭蕉(本名・宗房)は伊賀(三重県)上野の武士の家に生まれ、少年時代は藤堂藩の藤堂良忠に仕えました。

良忠の死後、京都に出て貞門派(松永貞徳を祖とする俳諧の一派)の北村季吟に俳諧を学んだ芭蕉は、その後江戸に出て西山宗因が創始した談林派において自由な作風の俳諧を学びます。

江戸に出てからの芭蕉は隅田川のほとりの深川に住み、庭に芭蕉の草を植えたので俳号を「芭蕉」としました。

談林風の俳諧が自由で奇抜な趣向であるのに対し、芭蕉は幽玄閑寂な「さび」「しをり」を旨とした作風で俳諧の芸術性を高め、芭蕉独自の俳風・蕉風(正風)を確立します。

俳諧の中に自然と人の融合を試みた芭蕉は40歳を過ぎてから幾多の旅に出て、『野ざらし紀行』『笈の小文』などの紀行文を執筆し、その中でも芭蕉の集大成といえる作品が『奥の細道』でした。



『奥の細道』で詠まれた名句

「月日は白代(はくたい)の過客にして、行きかふ年も又旅人也」

で始まる紀行文『奥の細道』の旅は、元禄二年(1689年)3月27日、弟子の曾良とともに江戸を出発、奥州街道を仙台へと進み、平泉から日本海側の酒田に出て象潟に立ち寄り、その後は日本海沿岸を南下して越前(福井県)の敦賀から旅の終着点・美濃(岐阜県)の大垣に着いたのは出発から五ヶ月後の8月下旬(諸説あり)でした。
奥の細道紀行.jpg

『奥の細道』で詠まれた有名な俳句を紹介します。

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」(平泉にて)

奥州藤原氏(9月3日付ブログ参照)全盛の時代には栄華と繁栄を誇ったこの地が、今や夏草が生えるだけの寂しい野原に成り果ててしまった景色を見て、栄枯盛衰の儚さを詠んだ句です。


「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」(山形・立石寺にて)

暑く静かな山寺で聞く蝉の声は、まるで岩肌に浸透していくかのように響くので、周囲の静寂をいっそう引き立たせ、自らの心も洗われていく様を表現しています。


「五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川」(山形・新庄にて)

五月雨とは梅雨の長雨のことで、ただでさえ流れが速いことで有名な最上川(日本三大急流の一つ)が、長雨で水かさが増しさらに速くなった驚きを表現している句です。


芭蕉の句の凄いところは、僕のような素人でもその句が詠まれた場所の情景が頭に浮かんでくることです。

スイス発【AHCセンシティブ】なら暑い夏でもサラサラがずっと続く
芭蕉は隠密活動を託された忍者だった !?

芭蕉の奥の細道紀行には

徳川幕府の密命を受けたスパイ活動だったのではないか?

という疑惑があります。

その理由として、以下のことが上げられています。

1.旅の行先と行程の不自然さ
  まず、芭蕉が訪れた仙台や金沢は、徳川幕府にとって警戒すべき有力な外様大名の拠点(仙台=伊達、金沢=前田)があることです。
また、伊達藩の仙台では四日間も滞在したにも関わらず、芭蕉が旅に出る前に最も楽しみにしていると語っていた松島はわずか一泊で切り上げて先に進み、松島では一句も詠んでいないのです。(有名な「松島や ああ松島や 松島や」は芭蕉の句ではないとの説が有力)
まるで、伊達藩の内偵という目的が済んだので、そそくさと先を急いでいるようです。


2.長旅の旅費
  延べ150日間にも及んだ長旅の費用はどうやって捻出したのでしょうか?
旅費とは宿泊費だけでなく、食費・参拝料・船賃・案内料など多岐にわたり、これだけの長旅となれば多額の費用が必要だったはずです。
勿論、芭蕉ほど名の通った俳句の名人であれば、旅の途中で句会を開き、参加者から多少の謝礼は貰えたでしょうが、それだけではとても旅費の全てを賄えたとは思えません。
つまり、幕府の密命を受けての旅だったので、その費用も全て幕府が負担したと考えれば合点がいくということです。


3.芭蕉=忍者説
  奥の細道の全行程はおよそ六百里(2,400`)にも及び、かなりの健脚でないと150日間で走破するのは難しいと考えられます。
というのも、当時の奥州街道は険しい道が多く、普通の旅人なら一日にせいぜい20〜25`歩くのがやっとでした。
ところが、同行した曾良の記録によると、芭蕉は一日になんと50`近く歩いたこともあるのです。
芭蕉の並外れた健脚ぶりから忍者説が浮上したのですが、実際、芭蕉は伊賀忍者の里として有名な伊賀上野の出身であり、さらに母親が伊賀忍の頭領・百地三太夫(ももち さんだゆう)の流れを汲む百地家の家柄であることも忍者説を裏付けています。



まとめ

  • 芭蕉は幽玄閑寂を旨とする独自の俳風「蕉風」を確立し、俳句の芸術性を高めた

  • 芭蕉の代表作「奥の細道」では数々の名句が生まれた

  • 奥の細道紀行は徳川幕府の密命を受けた芭蕉のスパイ活動だったのではないかとの説もある


芭蕉が最期に詠んだ辞世の句「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」(旅先で病床に伏しても、私は夢の中で枯野を駆け回っている)を読むと、いかに芭蕉が旅を愛していたかを実感できますね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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