2019年10月09日
稀代の大悪党・松永久秀の生き様
戦国一の “札付きワル”
明日10月10日は戦国の梟雄・松永久秀が亡くなった日です。(天正五年 1577年)
永正七年(1510年)〜 天正五年(1577年)
梟雄(きょうゆう)とは、残忍で強く荒々しい人物のことで、悪者を例える時によく使われる表現です。
戦国時代は文字通り弱肉強食の時代であり、他者を蹴落とすため常に様々な陰謀に溢れ、武将どうしの騙し合いなど日常茶飯事でした。
戦国の英雄として人気の高い武田信玄(4月10日付ブログ参照)や上杉謙信(3月13日付ブログ参照)でさえも残忍性や陰湿な一面を持ち合わせていました。
誰もが悪党と呼ばれかねない時代にありながら、断トツのワルといわれたのが松永久秀です。
戦国の梟雄としてよく久秀と並び称されるのが美濃の蝮(まむし)・斎藤道三(4月20日付ブログ参照)ですが、道三は織田信長の舅(しゅうと)として、“大うつけ”(大バカ者)と言われていた若き日の信長の良き理解者であり、最期も謀反を起こした実の息子に殺される悲劇に遭うなど、悪党ではありますがそれなりに同情の余地はありました。
しかし、久秀には同情のカケラもないとまでいわれています。
久秀はなぜこれほどまでにワルといわれたのでしょうか?
というわけで、今回は戦国の大ヒール・松永久秀について語りたいと思います。
信長は久秀をどう見ていたのか?
久秀が織田信長に臣従した後の元亀元年(1570年)頃、信長は徳川家康の前で久秀のことを次のように紹介しています。
「この老翁は世の人の成し難き事を三つ成したる者なり。将軍を弑し(殺し)奉り、己が主君の三好を弑し、南都(奈良)の大仏殿を焚き(焼き)たる松永と申す者なり。」
これは、信長が久秀のこれまでにしてきた悪事を並べ立て、皮肉っている場面として有名なのですが、信長としては久秀を侮辱するつもりで言ったのではないと思われます。
なぜなら、信長自身もこの時点で主家を滅ぼして尾張(愛知県)を乗っ取った経歴があり、この後に日本仏教の聖地・比叡山延暦寺を焼き討ちし、将軍足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしているからです。
つまり、久秀がしてきた事と同じようなことをした信長が、久秀の悪事を感心こそすれ侮辱するはずがないのです。
他にも、久秀は茶道の宗匠・武野紹鴎に師事し茶人としても有名な文化人であったので、信長は久秀の所有する茶器を欲しがったり、久秀が築城した多聞山城を模して安土城を作ったりしていることから、信長は久秀のことを武将としてある意味で尊敬の念すら抱いていたのではないかと思われます。
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世の人の成し難き “三大悪事”
久秀が三好氏に仕えるまでの経歴は不明ですが、主君・三好長慶の下で頭角を現した久秀は、長慶が畿内を掌握すると京都所司代に任命されます。
その後、長慶の嫡男・義興が22歳の若さで急死すると、その悲しみに打ちひしがれた長慶も翌年に死去してしまい、主家の不可解な死が続いたことからこの二人は久秀に毒殺されたのではないかと噂されました。
ともあれ、こうして三好家の実権を握った久秀ですが、まだ邪魔な存在がいました。
長慶の死をきっかけに、将軍権威の回復を目指した室町幕府13代将軍・足利義輝です。
久秀は次に目障りだった義輝を亡き者にしようと企み、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と組んで義輝の居城・二条御所を襲撃し、義輝を殺害してしまいます。
さらにこの後、三好三人衆とも対立した久秀は、東大寺で三人衆と戦闘になった際、大仏殿に火が移り大仏は焼けて首が落ちるという惨事を引き起こしています。
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三好三人衆と激しい死闘を繰り広げた久秀ですが、信長が義輝の弟・義昭を奉じて上洛してくると、信長の実力を認めたのかあっさりと降伏、名茶器・九十九髪(つくもがみ)を差し出して信長に服従しました。
しかし、このまま信長の下で大人しくしている久秀ではありません。
信長と敵対する武田信玄が上洛の兵をおこすと、久秀は信玄に呼応して信長に反旗を翻しますが、信玄が上洛途上に病死してしまうと久秀は一変して信長に許しを乞い、この時は居城の多聞山城を取り上げられただけで許されます。
さらに、今度は上杉謙信が上洛することを耳にすると、久秀は性懲りもなく再び信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠ります。
しかし、謙信の上洛もアテが外れ、信貴山城は信長の軍勢に包囲されてしまいます。
この時、信長は久秀秘蔵の茶器・平蜘蛛(ひらぐも)の釜を差し出し降伏すれば命は助けると寛大な条件を言い渡しますが、久秀はこれを拒否します。
久秀はなんと平蜘蛛の釜を自らの手でたたき割り、その後に切腹し、家臣にありったけの火薬で自分の体を吹っ飛ばさせたのです。
大悪党に相応しい、何とも豪快な死にざまでした。
久秀はこの死の際にエピソードを残しています。
切腹する前にお灸の用意をさせたのを見た家臣が
「これから腹を召されるのにお灸ですか?」と尋ねると、
「お灸をせず中風にでもなったらどうする?体が動かなくなって自害もできなかったら末代までの恥だ」
と答えました。
さらに、偶然にもこの日は10年前に大仏殿を焼き払った時と同じ日だったので、家臣が
「やはり、これは仏罰でしょうか?」と問うと、
「大仏殿といっても木製の建物で、大仏もしょせん銅で作った人形ではないか。木や銅を焼いてなぜ仏罰が当たるのだ?」
と言い放ったそうです。
現代とは比べものにならないほど神や仏が崇められていた時代に、こういうことを平然と言ってのけた久秀は徹底したリアリスト(現実主義者)だったのでしょうね。
まとめ
- 三大悪事を働いた久秀だが、信長は武将として尊敬の念を抱いていた
- 久秀は自らの野望を実現するために主君や将軍を殺すことも厭わなかった
- 信長を二度も裏切った久秀は最期に信長が欲しがった名物茶器を破壊し爆死した
死に際にお灸をすえて体を気遣うところは石田三成にちょっと似てますね。(10月1日付ブログ参照)
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