2019年09月15日
”天下分け目” の関ヶ原
待ちに待った家康
えー、このブログにおいて紹介したポーツマス条約(9月5日付ブログ参照)とサンフランシスコ平和条約(9月8日付ブログ参照)の二つの講和条約が同じような時期にあったように、後世に語り継がれる有名な合戦、川中島の戦い(9月10日付ブログ参照)と同じような時期にあったのが”天下分け目”といわれた戦いです。
これらは、歴史の偶然か、それとも・・・・。
というわけで、今日9月15日は関ヶ原の戦いがあった日です。(慶長五年 1600年)
この日本史上最も有名な合戦は、多くの歴史ファンが様々な観点から考察していますが、僕はこの合戦、徳川家康の野望の集大成だと考えています。
家康は幼少期に今川家の人質として12年間も過ごし、ようやく人質から解放されて独立するも、織田信長と同盟を組むと信長のいいように使われた上にさんざん虐げられ、その信長が本能寺で死ぬと今度は百姓からの成り上がり・豊臣秀吉の傘下に甘んじなければならない・・・。
子供の頃から苦労に苦労を重ね、様々な屈辱に耐え忍んできた家康が、それまで溜め込んできたすべてのエネルギーを一気に解放させたのが関ヶ原の戦いだったと思うのです。
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』は、家康の生き方を表す句として有名ですが、家康が ”鳴くまで待っていた” のがまさに関ヶ原の戦いといえるでしょう。
というわけで、今回は関ヶ原の戦いについて語りたいと思います。
日本&世界の名産品をお取り寄せ&お土産に【JTBショッピング】
三成の挙兵を促すための上杉討伐
豊臣秀吉が慶長三年(1598年)に亡くなると(8月18日付ブログ参照)、実力ナンバーワンである徳川家康(4月17日付ブログ参照)がいよいよ天下取りに動き出します。
しかし、当時の家康は五大老の一人、つまり名目的にはまだ豊臣傘下にいたので、名実ともに天下を獲るためには目の上のタンコブである豊臣家の勢力を一掃しなければならない、と家康は考えます。
ただ、いきなり自分から豊臣家に戦を仕掛けるのでは、いわゆる”大義名分”が立たず、他の大名からの支持も得られないので、たとえ戦に勝ったとしても本能寺の変後の明智光秀の二の舞になりかねません。
そこで家康は、相手から戦を仕掛けてきたのでやむなくこれを討った、という形にすれば戦をする大義名分が立つと考え、自分に戦を仕掛けてくる相手として選んだのが石田三成(10月1日付ブログ参照)でした。
三成は五奉行の一人であり豊臣家の筆頭家老として秀吉亡き後の豊臣家を支える存在でしたが、愚直なまでに主人である秀吉に尽くした一本気な性格から敵も多く、家康の敵役(かたきやく)としてはうってつけの人物だったのです。
家康は秀吉が禁じていた他の大名家との婚姻を次々行なったり、大坂城に居座って我が物顔で政務を取り仕切るなど、主人であるはずの豊臣家をないがしろにする行動を連発して、あからさまに三成を挑発します。
三成が家康の数々の暴挙に腹を据えかねたところで敢えて隙をみせれば三成は一気に挙兵する、という家康のシナリオは完成しつつありました。
その仕上げとして家康が考えたのが上杉討伐でした。
五大老の一人、会津の上杉景勝は、家康の再三にわたる上洛要請に応じなかったので、家康は(景勝は豊臣家に対して叛意あり)と決めつけ、自ら軍勢を率いて上杉討伐に向かいます。
家康が上杉討伐に向かい畿内を留守にしたことは、三成にとって千載一遇のチャンスと思えたに違いありません。
しかし、三成にそう思わせることが家康の作戦でした。
ここで僕は、三成の心の内にあったものを二つの選択肢で考えます。
A.これが家康の作戦であることに三成は本当に気付かなかった
B.三成は気付いていたが、家康を倒すために敢えてこの作戦に乗った
一般的にはAのように、狡猾な家康が仕掛けた罠に三成がまんまと嵌められた、と解釈されるのですが、この後の関ヶ原での状況を考えると必ずしも三成が一方的に罠に嵌められたとは思えないのです。
つまり、三成は家康の思惑通り戦になったとしても、そこで家康を倒すことができると考えていたから家康の挑発に敢えて乗ったとも考えられるのです。
どちらの立場であったのかはわかりませんが、結果として三成は家康の思惑通り挙兵することになります。
人気コミック絶賛発売中!【DMM.com 電子書籍】
なぜ関ヶ原が決戦場になったのか?
上杉討伐に向かっていた家康は下野(栃木県)の小山で三成挙兵の報告を受けたので、7月25日ここで進軍を止め軍評定(会議)を開きます。
その場で家康は居並ぶ武将たちに対し、三成が挙兵し自分を討とうとしていることを明かした上で「自分に味方するか、三成に味方するかは各人の意思に任せるし、たとえ三成に味方しても恨みはせぬ」と話しました。
これも家康の周到な心理作戦と思われます。
普通は「三成を倒すために自分に味方してくれ!」と訴えますよね?
そこを敢えて「どちらに味方しても構わない」ということは、暗に(誰がどちらに味方しようと、勝つのは自分だ)という自信と余裕を窺わせるのです。
それを感じ取った武将たちは(三成憎し)の感情も手伝い、東西両軍に分かれた真田父子を除きすべて家康につくこととなりました。
一方、三成は反家康派の五奉行・五大老の名で家康を糾弾する書状を作り各地の大名に送付、家康に対抗しうる人物として五大老の毛利輝元を総大将に立てることにしました。
挙兵した三成がまず攻めたのは、家康の畿内における拠点・伏見城(京都)でした。
ここは家康の重臣・鳥居元忠が守っており、簡単には落とせませんでしたが、8月1日ようやく陥落させます。
伏見城を落とした三成は、畿内に向かっている家康を迎撃するために東海道を東に進軍し、8月11日美濃(岐阜県)の大垣城に入ります。
その頃東軍では、先鋒を任せられた福島正則らが東海道を西に進み、西軍の岐阜城を攻めて8月23日陥落させます。
ここからしばらくは膠着状態になるのですが、両軍が動いたのは家康が関ヶ原に近い赤坂に到着した9月14日の夜でした。
この日軍議を開いた家康は、東軍の方針を「西軍の主力が集まっている大垣城は落とすのが難しいので、佐和山城(三成の城)を落とし、その後に大坂城を攻める」とします。
そして家康は、この軍議の結果が三成の耳に入るように、わざとこの情報を西軍に流すのです。
西軍の方では、到着した家康の陣所に夜襲を掛けることなどを考えていたようですが、この情報を聞いて「東軍を関ヶ原で食い止めなければならない」となり、急遽全軍で関ヶ原に出陣することを決定しました。
ここでも三成は家康の思惑通りに動いてしまったのです。
つまり、家康ははじめから佐和山城や大坂城を攻めるつもりなどなく、本当の目的は西軍の主力を大垣城からおびき出し野戦に誘い込むことだったのです。
この場面においての三成も、家康の謀略に嵌められただけなのか、あるいは家康の思惑通りに野戦に持ち込んだとしても勝てると踏んで出陣したのかは謎ですが、こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることとなったのです。
ここまで随分と長くなってしまったので、この続きは次回、ということで。(汗)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9199565
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック