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2019年09月12日

川中島合戦の謎をリアルに検証する

川中島の戦いはどこまでが史実?

前回、川中島の戦いに至る流れから最大の激戦となった八幡原の戦いについて語りました。

この第四回目の川中島合戦、何度も映画やドラマになるほど有名なのですが、それゆえに(物語としてうまく出来過ぎてるんじゃないの?)と、歴史学者でなくとも疑問に思うところがありますよね?

勿論、川中島の戦いに限らず、映画やドラマで合戦シーンを再現するとなれば演出上、多少は史実と違う場面は出てくるでしょう。

しかし、この川中島の戦いは有名過ぎるゆえに、よくよく考えてみるとホントかなぁ? と思わせる場面が多いような気がしませんか?

そこで今回は、川中島の戦いにおけるいくつかの疑問点を検証していきたいと思います。

1.キツツキの戦法はなぜ見破られたのか?

妻女山から海津城を見下ろしていた謙信は、城から煙が立ち上るようすを見て武田軍が動くことを察知しました。

煙が上がる=米を炊いている、つまり兵糧(戦用の食糧)を用意しているのだから、近々武田軍が動くサインだろうということになるのですが・・・信玄ほどの智将が、こんなバレバレな形で兵糧の用意をするでしょうか?

あくまで僕の推測ですが、これは信玄の陽動作戦だった、と考えております。

妻女山に布陣してから三週間以上も動かない上杉軍にしびれを切らした信玄が、この膠着状態を打開するために、敢えて”こちらから動くというサイン”を謙信に送ったのではないでしょうか?

信玄はとにかく上杉軍に妻女山から動いて欲しかった。

だから、わざと煙を立ち上らせているところを見せ、(さあ、これから我々は攻めるぞ!)とサインを送り、実際に別働隊を妻女山へ向かわせたのです。

こうすれば、謙信は挟み撃ちにされることを避けるため、武田の別働隊が来る前に下山して越後へ撤退する、と信玄は考えたのでしょう。

なぜなら、過去3回の川中島の戦いが睨み合いだけだったり、せいぜい小競り合い程度で終わっている経験から、信玄は(上杉軍に退路を作ってやれば謙信はすんなりと退却するはずで、今回もまともな戦闘になることはないだろう)と踏んでいたのです。

その一方で信玄は念のため本隊を八幡原に布陣し、万が一、上杉軍と戦闘になったとしても別働隊との挟み撃ちで勝てる、と考えていました。

しかし、信玄に”想定外”の出来事が二つ起こったのです。

一つは上杉軍の動きが予想以上に早く、挟み撃ちにする形がすぐに取れなかったこと、もう一つは謙信には戦闘意欲があり、実際に戦いを挑んできたということです。

これに関しては、謙信も本当は退却するつもりでいたが、退却中に濃霧が晴れると偶然にも目の前に武田の本隊がいたので戦闘せざるを得なくなった、とも考えられます。

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2.信玄と謙信の一騎打ちは本当にあったのか?

八幡原の戦いで上杉軍の思わぬ奇襲を受けることになった武田の本隊は苦戦し、信玄の本陣近くまで攻め込まれます。

この時、馬に乗った謙信が単身で武田の本陣に切り込み、床几(イス)にすわっていた信玄に馬上から太刀で斬りつけると信玄は軍配でこれを受けとめ応戦しました。
信玄・謙信一騎打ち.jpg
これが、川中島合戦最大の見せ場「三太刀七太刀」といわれるシーンです。

上の写真のような銅像になったり、数々の絵巻物などにも描かれていますが、果たしてこんなドラマチックな場面が本当にあったのでしょうか?

結論から言うと、これはフィクションと言わざるを得ません

そもそも合戦において総大将は本陣から動かず全軍の指揮を執るもので、うかつに総大将が前に出て、もし敵に討ち取られてしまったら、その時点で味方は総崩れとなり敗北が決定してしまうからです。

確かに謙信は戦の天才といわれ血気盛んな武将だったと思われますが、戦の天才だからこそ総大将としてそんな無謀な行動をするわけがないと思われるのです。

とは言うものの、当時の状況から武田軍が一時本陣近くまで攻め込まれていたのは事実のようなので、もし信玄に襲いかかった人物がいたとすれば、それは謙信ではなく上杉方の武将・荒川伊豆守であるとする説があります。

また、襲われたのも信玄ではなく信玄の影武者だったといわれています。

いずれにせよ、大軍が相まみえる戦国時代の合戦において、総大将どうしの一騎打ちなどまずあり得ないことなのです。

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3.結局、どちらが勝ったのか?

これは、上杉武田双方ともに自分たちの大勝利!と主張して譲らないので(笑)、それぞれの主張の論拠をみてみましょう。

@上杉軍の勝利
 この戦いにおける死傷者は上杉軍9千4百に対し、武田軍は1万7千6百と、武田軍の方が倍近い損害を被っており、この中には信玄の実弟・武田信繁や軍師・山本勘助、重臣の諸角豊後守などが含まれ、武田の名だたる武将が討ち取られていること、そして上杉軍は武田軍の本陣近くまで攻め込み、総大将の信玄をあと一歩のところまで追い詰めたこと。

A武田軍の勝利
 戦いの前半に苦戦したのは単に上杉軍の数が多かったからで、別働隊が追いついてからはこれらを蹴散らして上杉軍を退却させ、最終的に川中島に残り勝ち鬨を上げたのは武田軍であること、そして戦いの後にこの地域を支配したのは武田方であり、上杉方に領地を奪われていないこと。


それぞれの主張に一理あると思われますが、これらの主張を踏まえて(双方痛み分け)と評したのが豊臣秀吉でした。

秀吉は、川中島の戦いを時間的な流れから見て「午前6時から10時までは上杉の勝ち、(武田の別働隊が加わった)10時から12時までは武田の勝ち」と判断したようです。



まとめ

  • キツツキの戦法は上杉軍を討つというより、上杉軍を妻女山から追い出し退却させるための作戦だった

  • 信玄と謙信の一騎打ちは実際にはなかったが、それぞれの代理と思われる人物の一騎打ちはあったかもしれない

  • 川中島の勝敗は双方の主張に一理あり、結局は痛み分けとする判断が妥当


皆さんは武田と上杉、どちらが勝ったと考えますか?
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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