2019年09月08日
日本の独立と国際社会への復帰が叶った日
終戦記念日は本当の意味での ”終戦” ではない
本日9月8日はサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が締結された日です。(昭和二十六年 1951年)
前回のブログはポーツマス条約の締結についてだったので、偶然にも講和条約の話題が続いてしまい恐縮ですが、今回の内容は8月30日付ブログの続きと考えて頂けたらよいかと思います。
ご存じの通り、昭和二十年(1945年)8月15日に日本の太平洋戦争は終わりました。
しかし、日本はポツダム宣言の無条件降伏を受け入れたので、GHQの統治下で国としての主権もなく、戦争した国々との交渉もないままの状態が続いていました。
つまり、昭和二十年の8月15日は単に交戦状態が終わっただけに過ぎず、以降も対外的には正式に戦争が終結したとは認められない状況だったのです。
今回は日本が正式に戦争終結を宣言したサンフランシスコ平和条約について語りたいと思います。
ようやく平和条約の締結! しかし米軍は駐留したまま・・・
ここで、日本が平和条約を締結する前の世界情勢について少し説明します。
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連と中心とする社会主義陣営に二分され、いわゆる「冷たい戦争(冷戦)」が展開されていました。
そのような情勢の中、日本が講和条約を結ぶにあたって問題となったのは、ソ連・中国を含む日本の全交戦国と講和する全面講和か、アメリカを中心とした資本主義陣営との講和を優先する単独講和のどちらを選択するかでした。
普通に考えれば、日本は全面講和するのが当たり前のように思えますが、当時の日本はGHQを中心とするアメリカの支配下にあり、そのアメリカの意向に反してまで社会主義陣営と講和することはできず、吉田茂内閣は単独講和を選択します。
昭和二十六年(1951年)9月8日 サンフランシスコ平和条約の締結
左が条約に署名する吉田茂首相
この講和会議には52か国が参加しましたが、中国と中華民国(台湾)は会議に招かれず、インドとビルマ(現ミャンマー)は参加しませんでした。
平和条約には日本を含む49か国が調印しましたが、日本の単独講和もあり、ソ連・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)は調印を拒否しました。
この条約の調印により、
@日本と連合国との戦争状態は正式に終了
AGHQの日本統治が終了し、日本は国家としての主権を回復
この二つが叶うことになりました。
そして、この平和条約締結と同時に日米安全保障条約も締結されました。
これは、新しい憲法で戦争放棄を掲げた日本を防衛するための条約で、これにより米軍は引き続き日本に駐留することになりました。
要するに、戦争が終結し日本も主権を回復したとなれば、当然米軍も即時撤退しなければならないので、平和条約締結と同時に安保条約も結んだのです。
国家が再び労働者を弾圧
ポーツマス条約の内容に不満が爆発した市民が日比谷焼き打ち事件(9月5日付ブログ参照)をおこしたように、今回の条約も単独講和であったり米軍の駐留を認めたりで、国民が全面的に納得できる内容ではありませんでした。
平和条約が発効(翌年4月28日)した直後のメーデー(5月1日)では、条約内容に不満を持つ労働者のデモ隊と警官隊が皇居前広場で激しく衝突、大乱闘となり、死者2名、デモ隊警官隊ともに数百名の負傷者を出す惨事となりました。
これが血のメーデー事件です。
この事件を受け、政府は共産主義的な労働運動の抑制を目的に破壊活動防止法(破防法)を制定しました。(昭和二十七年 1952年7月)
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戦前の状態に戻ろうとしている?
戦争が終わって、日本の目指すべき道は非軍事化と民主化でした。(8月30日付ブログ参照)
しかし、メーデー事件があり破防法を制定して労働運動を抑圧したり、昭和二十九年(1954年)には自衛隊を発足させ再軍備をしたりと、まるで戦前の日本がやっていた方向へ戻ろうとしてるようですよね?
このような日本の非軍事化・民主化の流れに逆行する政府や社会の動きを逆コースと言います。
まとめ
- サンフランシスコ平和条約の締結により日本は正式に戦争を終結し主権を回復した
- 血のメーデー事件をきっかけに政府は破壊活動防止法を制定した
- 労働運動の抑圧や自衛隊の発足は逆コースの流れとなった
こうして戦後の歴史の振り返ると、今日の日本がいかにアメリカの影響を強く受けているか、改めて思い知らされますね。
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