2019年08月09日
今日は ” ナガサキ ” の日
74年前の記憶
本日8月9日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。(昭和二十年・1945年)
戦後70年以上が経ち、被爆を体験された方々の平均年齢も80歳を超えると、この忌わしい記憶を後世に語り継いでゆくのもだんだん困難になってきています。
しかし、日本が同じ過ちを二度と繰り返さないために、この事実を絶対に風化させてはならない。
これは、世界唯一の被爆国に生きる日本人の義務だと考えています。
今回は広島も含め、アメリカが原爆投下に至った過程について語りたいと思います。
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原爆投下の候補地
昭和十九年(1944年)から日本への本土空襲を続けていたアメリカは、この戦争を終結させる決定打として原子爆弾の投下を画策していました。
原爆を投下する場所の条件として考えたのは
- 日本の軍事施設があること
- 原爆の威力を最大限に発揮できる地形であること(日本に新型爆弾の破壊力を誇示するため)
- 人口が多く、市街地が広がっている都市であること
- まだ空襲を受けず、破壊されていない都市であること
などでした。
東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・仙台などの大都市は、7月までにB29の爆撃により街の大半が焼野原になっていたので候補地から除外されます。
最初の候補地にあげられたのは、なんと京都でした。
しかし、京都には軍事施設や軍の司令部もないので原爆を投下しても、ただ一般市民だけに多数の犠牲者を出してしまうことから、京都案も却下されます。
そうして最初の投下地に決定したのが広島でした。
広島が選ばれた理由は、地形的に周囲を山で囲まれた広い市街地があること、大きな港が軍事物資の輸送基地になっていたことが投下条件に合致していたからです。
昭和二十年(1945年)8月6日午前8時15分、世界で最初に原子爆弾が広島上空で炸裂し、強烈な熱線と爆風は一瞬にして10万人以上の命を奪いました。
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長崎ではなく小倉に原爆が投下される予定だった!
アメリカが広島の次に原爆投下の候補地として考えていたのは小倉と長崎です。
そして、広島の原爆投下から三日後、原子爆弾を積んだアメリカの戦闘機が向かった先は長崎ではなく北九州の小倉でした。
しかし、小倉に原爆を投下する直前、この地域で前日に行なった空襲による残煙で上空が視界不良になり、小倉での原爆投下を断念しました。
アメリカ軍の記録には上記の理由が記されているのですが、実はこの視界不良、空襲による残煙ではなかったのです。
広島に原爆が投下された後、小倉上空を飛行するアメリカ機を見た八幡製鉄所の従業員が爆弾投下を警戒し、コールタールを燃やして上空に煙幕を張った、ということが真相らしいです。
小倉を断念したアメリカ機が向かったのは、次の候補地であった長崎です。
そして、昭和二十年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。
長崎に投下された原爆は広島型の1.5倍もの破壊力があるものでしたが、長崎市は山が近いので熱線や爆風が山間部に遮断され、広島ほどの被害は出ませんでしたが、それでも7万人以上が犠牲になりました。
被爆直後の浦上天主堂
まとめ
- アメリカは日本との戦争に決着をつけるべく原爆投下を決意した
- 原爆投下の最初の候補地は京都だったが、最終的には広島・小倉・長崎の三か所に絞られた
- 長崎に原爆が投下されたのは小倉に投下できなかったため
漢字ではない” ヒロシマ ” ” ナガサキ ” が、世界共通の言葉となって未来に語り継がれてゆくことを願っています。
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