2016年06月24日
映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」をついに観た感想…「生と死」、そして在り続けるという抵抗。
やっとですが、映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観ました。
以前、「映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」のDVDが出る!?」という記事を書きました。
あの記事が2015年4月28日。
当時はホキ美術館のみの先行発売でしたが、やっと今月一般発売になりました。
待つこと1年以上…長かったです。
今ではAmazonで販売もされていて自分もAmazonで購入。
映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」は、
画家の野田弘志の作品「聖なるもの THE W 鳥の巣」の製作過程と平行しながら、
公演や塾での指導、普段の生活の姿を交え、
野田弘志はどんな考え、視点を持っているのか、
そして画を描くこととはどんなことなのか、など野田弘志という人間に迫るドキュメンタリー作品。
監督は映画「火垂るの墓」や映画「爆心 長崎の空」の日向寺太郎作品。
日向寺太郎監督作品を全て観ているわけではないですが、
この2つの映画が戦争…というか命の話なので、
画家のドキュメンタリー映画で日向寺太郎監督とは、一体どんな映画なのかなと。
で、実際に映画を観てみたら、確かに戦争とは違うのだけど、
「命」というか「生と死」というメッセージのある作品だった。
そんなテーマも深い訳ですが、ドキュメンタリー映画として、言い換えると「事実」として、
画を描く作業がこんなに大変なんだ単純に思った。
「物を作るのは大変」とはもちろん思っていたのですが、
その精神的な大変というのもそうですが、肉体的にも相当なものだなと。
芸大で授業を受けていたけども画は描いてなかったので、
どんな作業で、そしてどんなけ時間がかかっているのか全く知らなかったのですが、
これは「凄い」というか、誤解を恐れず書くなら「呆れる」作業だと思った。
これは自分には出来ない。
そんな表面上でも凄まじいドキュメンタリー映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」だったと思うけど、
やはりもっと大事なのは「画家 野田弘志」という人間が、
画を描くことで何をしようとしているのか、という事。
始まってそうそう、強いメッセージがある。
人間は、生命は、いつか無くなる。
その中で今存在していることがその事が美しい、と。
そして何点か「画家 野田弘志」の作品が紹介されるのですが、
鳥や人、植物、そして骨…人工的なものではなく、
どれも「命」とか「生と死」みたいなものを感じる。
…しかし、こうやって映画にしてもらってるからそう見えるのであって、
いざ、何も知らない状態でこの作品たちを観ていたら、
そこまで感じることが出来ただろうか、と思うと、
まだまだ自分は「読み取る力」がないなあと思う。
野田弘志が今度出す画集についての打ち合わせをしているシーン。
そこで野田弘志自身が「どこへ持っていってもこれは野田だと言える作品だけにしたい」、
その結果半分はダメなんだ、と。
画家として野田弘志が何点も残してきた作品、
その中でも「これが野田」と言えるものが半分しかないと自己判断。
恥ずかしい作品もいっぱい作ってきたと言っていましたが、
どの画が「恥ずかしい」と言っていたのかは分からない。
しかし、多分その画を自分がみても「凄い」とか「良い画だな」、って思うんだろうと思った。
そして、その次シーンでこの映画のメインの軸である「聖なるもの THE W 鳥の巣」の制作前の話になる。
鳥の巣の話をしていて、最初は1つだった卵が2つになり5つになり、やがて雛鳥が生まれていた。
しかし、ある時巣ごとなくなった…イタチかたぬきか蛇とかにやられたんだと思う、と。
そんな出来事、身近にある「生と死」を観て作品にしたいと思ったが作品制作のきっかけだと。
「どこまで深く見つめて描けるか、そういったことが美」
しかし、なかなか描けないと言います。
描く対象が決まり、その写真があれば画が描けると思ったら、そういう訳じゃない。
画家はただ絵の具を重ねているだけはないと知らされます。
そして実際の制作シーンに入るのですが、
先にも書きましたがこれが圧巻。
こんな細かいことをどれだけの作業、どれだけの時間がかかるんだと。
これを観てしまったら、1枚の画に対して感じることも多くなったと思います。
今まで気安く見ていた画がどれだけの「重さ」なのかと。
塾での指導の言葉も奥が深いなと思います。
細かいものがやがて大きな1つのものになる。
そんな指導をしたあとでの自分の画を描く作業の細かさ。
これがやがて大きな1つの作品になるのか。
途方も無いぐらいの作業量です…。
画商の人との話の中で、
「消えてしまったけどこれを画にすることによって永遠に残る」と。
何かを作るってのは、何かを残すことなんだと。
言葉だけを捕らえると、まあそうなんだけど、これは大変な仕事ですよね。
その後、塾生の若い女の子に製作途中の画を見せて話をしているのですが、
その女の子に「画が好きだよね、上手だし」と言ったあとに、
「でも、真剣に深く考えたことないでしょ?」という鋭い言葉。
こんな事を巨匠に言われたら何も言えないっす…。
なんか自分がグサッってきました。
「画なんてのは楽しいもんじゃない、逆に苦しいぐらい」
これは本当にそうなんだと思った。
そんな画に対して命をかけることは出来るのか、
画に対しての「画家 野田弘志」の考え、若い子は怯みますよね。
自分は若くもないけど怯みました。
そして終盤、写実の画は完成がない、と。
実在するものにどれだけ近づけるかが写実なんだけど、
追求していけば終わりがない。
あとは「どこで諦めるか」なんだと。
そして遂に画の完成。
完成とは言わず「ひとまずですね」と一言。
もう観てる方はため息ですよね。
本当にこの映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観て、
画と画を描くという事に対して考え方が変わりました。
ドキュメンタリー映画において、観る人の価値観や視点が変わるって大事だと思うんですよ。
観ても「いや、知ってたし」とか「そりゃそうだ」みたいなドキュメンタリーだったら、
観た後に残念な気持ちになってしまいますが、
この映画はそういう意味で自分にとって良いドキュメンタリー映画でした。
ドキュメンタリー映画という性質だと思うのですが、極力テロップは入れていない。
それが四季の映像で時間の流れを感じたり良い点でもあるのですが、
話している言葉が音量が違ったり収録方法が異なったりで聞き取れないところがあったり、
そこら辺はちょっと気になりました。
まあ話している言葉をそのままテロップにしちゃうと急にテレビ番組感になっちゃうし…。
できるなら収録時になんとか出来たらもっと良かったのかなあ…とも思いました。
で、以前の記事にも書きましたが、「絵を描くことは残酷だ。」のキャッチコピー。
パッケージ裏をみたら「残酷」ではなくて「過酷」でした。
残酷と過酷ではちょっとニュアンス違いましたね。
ただ自分はこの言葉に惹かれて、この映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」が気になっていたのですが、
一見、映画を通してもこの「絵を描くことは過酷だ。」というところが大々的にフォーカスされている感じではありません。
もちろん「絵を描くこと」、そしてそれで生きていくことは「絵を描くことは辛い」と言っていたので、
その辛い日々を送ることなんだ。
絵のために、他の全てを捨てる覚悟がなくては到達できない。
それぐらい過酷なことなんだ…ただ、そういう事だけではなくて、
先にも書きましたが、絵を描くことは単に絵を描くだけではないんだ、と。
下書きして、絵の具を塗って…そういう行為だけが絵を描くのではない。
どこまで深く見つめて描けるか、そういうことも含め過酷なんだ。
…という。
で、ここからは自分の勝手な解釈なのですが、
「絵を描くことによって永遠化」する、という話を聞いて、
ふと頭に過ぎったのが「幽霊」の話でした。
この映画では、その何者かに食べられてしまったであろう雛たち、
その存在を残すための絵…なのですが、
昔、「幽霊は死んだ時で時間が止まっている」という話を聞きました。
例えば中学生の時に無くなった幽霊はずっと中学生のまま…時が止まっているんだと。
その存在を残すための絵、永遠化するための絵。
なんで幽霊がいるのか、いや自分は見えないのでいるのかどうか分からないですが、
幽霊ってものはいわゆる「成仏できない存在」、つまりは無になりたくない存在だと。
絵を残すってのはつまりは、いつかは無になってしまう存在を、
無くさせないための行為…なんて事を言ったら画家の方たちに怒られてしまいますが、
なんとなく、「生と死」という中での、在り続けたい、または在り続けさせたいと願う思いなのかと。
…話が大きく脱線してきたしかなりの長文になってしまったので、この辺にしますが、
まさか画家のドキュメンタリーの映画を観て、そんな「生と死」について考えるとは思わなかったなあ。
以前、「映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」のDVDが出る!?」という記事を書きました。
あの記事が2015年4月28日。
当時はホキ美術館のみの先行発売でしたが、やっと今月一般発売になりました。
待つこと1年以上…長かったです。
今ではAmazonで販売もされていて自分もAmazonで購入。
映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」は、
画家の野田弘志の作品「聖なるもの THE W 鳥の巣」の製作過程と平行しながら、
公演や塾での指導、普段の生活の姿を交え、
野田弘志はどんな考え、視点を持っているのか、
そして画を描くこととはどんなことなのか、など野田弘志という人間に迫るドキュメンタリー作品。
監督は映画「火垂るの墓」や映画「爆心 長崎の空」の日向寺太郎作品。
日向寺太郎監督作品を全て観ているわけではないですが、
この2つの映画が戦争…というか命の話なので、
画家のドキュメンタリー映画で日向寺太郎監督とは、一体どんな映画なのかなと。
で、実際に映画を観てみたら、確かに戦争とは違うのだけど、
「命」というか「生と死」というメッセージのある作品だった。
そんなテーマも深い訳ですが、ドキュメンタリー映画として、言い換えると「事実」として、
画を描く作業がこんなに大変なんだ単純に思った。
「物を作るのは大変」とはもちろん思っていたのですが、
その精神的な大変というのもそうですが、肉体的にも相当なものだなと。
芸大で授業を受けていたけども画は描いてなかったので、
どんな作業で、そしてどんなけ時間がかかっているのか全く知らなかったのですが、
これは「凄い」というか、誤解を恐れず書くなら「呆れる」作業だと思った。
これは自分には出来ない。
そんな表面上でも凄まじいドキュメンタリー映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」だったと思うけど、
やはりもっと大事なのは「画家 野田弘志」という人間が、
画を描くことで何をしようとしているのか、という事。
始まってそうそう、強いメッセージがある。
人間は、生命は、いつか無くなる。
その中で今存在していることがその事が美しい、と。
そして何点か「画家 野田弘志」の作品が紹介されるのですが、
鳥や人、植物、そして骨…人工的なものではなく、
どれも「命」とか「生と死」みたいなものを感じる。
…しかし、こうやって映画にしてもらってるからそう見えるのであって、
いざ、何も知らない状態でこの作品たちを観ていたら、
そこまで感じることが出来ただろうか、と思うと、
まだまだ自分は「読み取る力」がないなあと思う。
野田弘志が今度出す画集についての打ち合わせをしているシーン。
そこで野田弘志自身が「どこへ持っていってもこれは野田だと言える作品だけにしたい」、
その結果半分はダメなんだ、と。
画家として野田弘志が何点も残してきた作品、
その中でも「これが野田」と言えるものが半分しかないと自己判断。
恥ずかしい作品もいっぱい作ってきたと言っていましたが、
どの画が「恥ずかしい」と言っていたのかは分からない。
しかし、多分その画を自分がみても「凄い」とか「良い画だな」、って思うんだろうと思った。
そして、その次シーンでこの映画のメインの軸である「聖なるもの THE W 鳥の巣」の制作前の話になる。
鳥の巣の話をしていて、最初は1つだった卵が2つになり5つになり、やがて雛鳥が生まれていた。
しかし、ある時巣ごとなくなった…イタチかたぬきか蛇とかにやられたんだと思う、と。
そんな出来事、身近にある「生と死」を観て作品にしたいと思ったが作品制作のきっかけだと。
「どこまで深く見つめて描けるか、そういったことが美」
しかし、なかなか描けないと言います。
描く対象が決まり、その写真があれば画が描けると思ったら、そういう訳じゃない。
画家はただ絵の具を重ねているだけはないと知らされます。
そして実際の制作シーンに入るのですが、
先にも書きましたがこれが圧巻。
こんな細かいことをどれだけの作業、どれだけの時間がかかるんだと。
これを観てしまったら、1枚の画に対して感じることも多くなったと思います。
今まで気安く見ていた画がどれだけの「重さ」なのかと。
塾での指導の言葉も奥が深いなと思います。
細かいものがやがて大きな1つのものになる。
そんな指導をしたあとでの自分の画を描く作業の細かさ。
これがやがて大きな1つの作品になるのか。
途方も無いぐらいの作業量です…。
画商の人との話の中で、
「消えてしまったけどこれを画にすることによって永遠に残る」と。
何かを作るってのは、何かを残すことなんだと。
言葉だけを捕らえると、まあそうなんだけど、これは大変な仕事ですよね。
その後、塾生の若い女の子に製作途中の画を見せて話をしているのですが、
その女の子に「画が好きだよね、上手だし」と言ったあとに、
「でも、真剣に深く考えたことないでしょ?」という鋭い言葉。
こんな事を巨匠に言われたら何も言えないっす…。
なんか自分がグサッってきました。
「画なんてのは楽しいもんじゃない、逆に苦しいぐらい」
これは本当にそうなんだと思った。
そんな画に対して命をかけることは出来るのか、
画に対しての「画家 野田弘志」の考え、若い子は怯みますよね。
自分は若くもないけど怯みました。
そして終盤、写実の画は完成がない、と。
実在するものにどれだけ近づけるかが写実なんだけど、
追求していけば終わりがない。
あとは「どこで諦めるか」なんだと。
そして遂に画の完成。
完成とは言わず「ひとまずですね」と一言。
もう観てる方はため息ですよね。
本当にこの映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観て、
画と画を描くという事に対して考え方が変わりました。
ドキュメンタリー映画において、観る人の価値観や視点が変わるって大事だと思うんですよ。
観ても「いや、知ってたし」とか「そりゃそうだ」みたいなドキュメンタリーだったら、
観た後に残念な気持ちになってしまいますが、
この映画はそういう意味で自分にとって良いドキュメンタリー映画でした。
ドキュメンタリー映画という性質だと思うのですが、極力テロップは入れていない。
それが四季の映像で時間の流れを感じたり良い点でもあるのですが、
話している言葉が音量が違ったり収録方法が異なったりで聞き取れないところがあったり、
そこら辺はちょっと気になりました。
まあ話している言葉をそのままテロップにしちゃうと急にテレビ番組感になっちゃうし…。
できるなら収録時になんとか出来たらもっと良かったのかなあ…とも思いました。
で、以前の記事にも書きましたが、「絵を描くことは残酷だ。」のキャッチコピー。
パッケージ裏をみたら「残酷」ではなくて「過酷」でした。
残酷と過酷ではちょっとニュアンス違いましたね。
ただ自分はこの言葉に惹かれて、この映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」が気になっていたのですが、
一見、映画を通してもこの「絵を描くことは過酷だ。」というところが大々的にフォーカスされている感じではありません。
もちろん「絵を描くこと」、そしてそれで生きていくことは「絵を描くことは辛い」と言っていたので、
その辛い日々を送ることなんだ。
絵のために、他の全てを捨てる覚悟がなくては到達できない。
それぐらい過酷なことなんだ…ただ、そういう事だけではなくて、
先にも書きましたが、絵を描くことは単に絵を描くだけではないんだ、と。
下書きして、絵の具を塗って…そういう行為だけが絵を描くのではない。
どこまで深く見つめて描けるか、そういうことも含め過酷なんだ。
…という。
で、ここからは自分の勝手な解釈なのですが、
「絵を描くことによって永遠化」する、という話を聞いて、
ふと頭に過ぎったのが「幽霊」の話でした。
この映画では、その何者かに食べられてしまったであろう雛たち、
その存在を残すための絵…なのですが、
昔、「幽霊は死んだ時で時間が止まっている」という話を聞きました。
例えば中学生の時に無くなった幽霊はずっと中学生のまま…時が止まっているんだと。
その存在を残すための絵、永遠化するための絵。
なんで幽霊がいるのか、いや自分は見えないのでいるのかどうか分からないですが、
幽霊ってものはいわゆる「成仏できない存在」、つまりは無になりたくない存在だと。
絵を残すってのはつまりは、いつかは無になってしまう存在を、
無くさせないための行為…なんて事を言ったら画家の方たちに怒られてしまいますが、
なんとなく、「生と死」という中での、在り続けたい、または在り続けさせたいと願う思いなのかと。
…話が大きく脱線してきたしかなりの長文になってしまったので、この辺にしますが、
まさか画家のドキュメンタリーの映画を観て、そんな「生と死」について考えるとは思わなかったなあ。
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