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2022年06月17日

氷見の干イワシ

今日のタイトルは、「ひみのほしいわし」、ではない。「氷見のひいわし」である。
我々は、ひいわし、そう聞いて育った。イワシの干物であるが、ワタも入った干物だ。

私は、氷見市の隣町に育ったが、氷見産の魚のおいしさは、今ほど冷凍技術や流通が発達していなかった昭和の中ごろからずっと別格だった。中でも、氷見のフクラギやブリはもちろんだが、「ひいわし」もまた別格だった。魚屋に刺身と一緒に入ったり、知り合いから頂いたりすると、父は嬉しそうにしていた。

お手元にもし広辞苑があったら、「氷見イワシ」と検索、いやひいてみて頂きたい。
ちゃんと独立した項目があるはずだ。江戸時代から、氷見のいわしは、一目おかれていたのである。おそらくその当時であれば、当然生魚でなく干物であろう。

今日は、スーパーで、私の大好きな半額シール付きの氷見産干いわしを発見!
しかも、6尾くらいのパックで、私一人でもなんとか食べられる量であった。
早速買い求めた。干物は、好物なのだが、塩がきついので、血圧の高い私としては、近年ちょっと手控えるようになっていた。しかし今日は、半額シールと、つやつやとしたおいしそうな皮の光が私を誘っていた。
というわけで、誘惑に負けて、久しぶりに干イワシを買ってしまった。
220617いわしIMG_2022-06-17-18-35-45-768.jpg

いそいそと帰宅し、夕餉の支度はじめる。
オーブンでは好物のキッシュも焼いていたのだが、イワシもある。
結局、第一部は、キッシュを食べてワインを少し飲み、第二部は、湯豆腐と干イワシに日本酒という二部構成にすることに決めた。
220617いわしIMG_2022-06-17-18-51-28-753.jpg

いやあ、幸せな時間でした。キッシュ作りもすっかり慣れたもので、もはや安定の味。これをつまみながらワインを少し飲んで小休止。今度は、昆布を煮出しながら豆腐をゆで、干イワシを焼いて、日本酒をグラスに注ぐ。ああ、なんと幸せなことか!

東京で食べるイワシの干物と、氷見の「ひいわし」は、別物です。
その違いをどうしても確かめたい方は、ぜひ富山にお越しください。お待ちしております。
#氷見イワシ #干いわし

2022年06月14日

妻の置き土産

ブログの前回投稿の日付を見たら、なんと1週間も空いてしまった。これまでではじめてかもしれない。

その言い訳ではないが、12日の日曜までの3日間、久しぶりに妻が来てくれた。
こっちで仕事の用事もあったし、いろいろ相談もあった。最終日の日曜は予定がないということで、朝食後、以前私が言っていた中庭のもみじの剪定をしようと言い出した。
「パパが一人ではしごにのぼって剪定しているのは、LINEで報告してくれていてもやっぱり心配だから。今日は二人いるから安心して作業できるでしょ」というのが彼女の言い分である。確かにそうではある。

私は、日曜は、たいていパソコンで遊びながらだらだらと過ごすのだが、まあ泣く子と家内には勝てない。
重い腰を上げて、チェーンソーと電動ノコやヘルメット、防塵メガネなどを用意し、梯子を中庭に持ち込んで準備を整える間、妻は、裏庭の草取りをやってくれていた。

動物が大好きな妻だが、実は植物も大好きで、進路を考える時に植物学者になることも考えたというだけあって、庭仕事は好きである。あっという間に裏庭をきれいにしてくれた。
そして、二人でもみじの枝で屋根にかかって伸び放題になっていた枝を数本、剪定した。
小さく見える枝でも、切り落として身近で見ると結構な大きさだということに驚かされる。すでに何本かの木を伐採してきた私でも、切った枝を見ると、その大きさに驚くことは多い。

昼前までに枝を落とし、ランチを食べたあとで、切った枝をさらに細かくする作業に取り掛かった。
妻が、枝葉をむしり、私がチェーンソーや剪定ばさみで太い枝をカットして、ゴミで出せるサイズになるように小さな言い争いをしながら作業をした。
次々と、枝を細かくしながら、妻は、中庭の木の芽などを見つけては声を上げる。
「あ、パパの好きな山椒があった!」「もみじの芽を見つけたよ」とまるで子供のようにはしゃいでいる。
この人は、本当に生物学者に向いていたのではないか、などと思いながら作業を終えた。

実は私は、山椒が大好きで、タケノコを煮る時などは、お隣の家に生えている山椒の葉を、お断りをした上で少しだけ頂いていた。
妻が教えてくれた通り、いつの間にか中庭の数か所に山椒の木が生え始めていた。
私は全く気付いていなかった。
「山椒は、パパの嫌いな芋虫がつくけどね」と笑いながら、最初に見つけた山椒の芽を、鉢植えに植え替えし始めた。「この鉢は、室内で育てて虫をつけないように頑張って」と鉢植えにしてくれた。小さなもみじの芽も、「もう少し大きくなったら、庭のどこかに植えましょう。それまでちゃんと水をやってね」
220614ママの鉢植えIMG_2022-06-14-14-12-57-142.jpg

ということで、日曜の夕方に妻は帰京した。あとには、この2つの鉢植えが残った。
小さな鉢がもみじの子供で、大きな鉢は山椒である。
見たものを石に変えてしまうメデューサが如く、ポトスのように丈夫な鉢植えでさえも枯らしてしまうという私に、この2つの鉢が預けられたわけである。さて、頑張らないと・・・・
#山椒 #剪定

2022年06月06日

雨の季節

雨の季節になってきたなあ、と思ったら、関東地方が梅雨入りしたという。
今日は、北陸も夕方から雨模様になった。
220606関東梅雨.jpg

ついこの間まで雪かきをしていたと思ったら、ようやく春になりほっとしたのも束の間、5月の終わりには、早々と25度を超える夏日が何日かあった。
ここ数年の雨の降り方といい、異常な暑さといい、もはや、季節の移ろい、などという優雅な言葉が似合わないような気象状態が常態化している。
関東や中部などでは、大雨注意報なども出ているようだ。

先日、私が生まれた頃にはすでにあった中庭の大きなヒバの古木を切り倒したのは、毎年梅雨の頃になって、膨大な落ち葉が雨樋を詰まらせて、大雨の時には、樋としての能力がほとんど機能しないほど水があふれて落ちていたことが、伐採を決断したいくつかの理由のひとつであった。

木を切った翌日に、すぐに自分でやれる範囲の雨樋の落ち葉をはしごにのぼり手でかきだして掃除をした。中庭を取り巻く1階の屋根の雨樋だけだったが、それでも中型のゴミ袋で2袋分のゴミになった。2階の屋根の雨樋も本格的な梅雨の前に、屋根工事の業者に掃除をお願いしようと思っているのだが、梅雨入りのほうが先になってしまうかもしれない。

雨の季節、夏の暑さ、雪の季節、古民家暮らしでは、各々の季節にあわせて、本当はもっと色々ちゃんと手を入れてやらなければならないのだが、介護もあって、なかなか片づけられない。

古民家も私も、毎年確実に年を取っていく。その中でどちらもその先のことをどうするのかを、まだ使えるうちに手を打っておかないといけない。ヒバを切ったのも、そんな思いのひとつでもあった。

ヒバがなくなり広くなった中庭の空を見上げながら、そんなことを考えていた。
#梅雨

2022年06月02日

プラチナの祝い

今日は、イギリスで、エリザベス女王の在位70周年記念のセレモニーが華々しく開催された。「プラチナ・ジュビリー」=プラチナ祝賀日、というわけだ。
70年も在位する国王というのは、おそらく世界のどの国でも、今後もあり得ないのではないかと思う。(ちなみに、これを書いてからネットで調べてみたら、すでに何人かいらっしゃったので驚いたが・・)

エリザベス女王は、御年96歳、たぶん私の父と同級生、すなわち日本的に言えば、大正15年生まれである。
同級生と思われるわが父は、食事を食べたこともすぐに忘れてしまうような要介護5の寝たきり老人だが、かの国の女王は、美しい水色のスーツに身をつつみ、息子のチャールズよりもむしろかくしゃくとして、バッキンガム宮殿のバルコニーに立ち、堂々と閲兵されていた。
220602エリザベスQIMG_2022-06-02-23-11-12-732.jpg
(NHKの放送より)

もちろん、私と同世代の60代のチャールズ皇太子も、約1時間、英国軍を率いるリーダーとして、隊列の最前列で背筋をまっすぐ伸ばしたまま乱れることなく馬に乗り続けたのちに、女王の隣でバルコニーに立っていたのだからたいしたものだが。

私も、ウェスタンライディングではあるけれど、20代の頃に、長野のラングラー牧場で10鞍くらい馬に乗ったことがある。乗馬の練習は、「何鞍」というふうに数える。だいたいひと鞍50分くらい馬に乗るので、10鞍というと500分くらいになる。 ご存じない方は、たった500分=9時間弱くらい?と軽く思われるかもしれないけれど、初めて1泊2日で4鞍くらい乗ると、たいていの人はお尻の皮がむける。
お尻の両側のところが、10円玉くらいの大きさで皮がむけるのだ。その状態でまた馬に乗るとものすごく痛い。皮の向けたところに、馬とお尻があたるリズムがジンジンと体に響く。
それが過ぎた頃に、馬のゆれ方と腰を上下するリズムがうまく重なるようになって、突然馬との一体感が生まれる。そうすると急に馬を操れるようになるのだ。

ちょっと話がそれてしまったけれど、チャールズ皇太子も、アン王女も(まあ、アン王女は乗馬のプロだけど)、見事な騎乗姿でセレモニーをこなしていた。そんなところにも大英帝国の威信を感じた。

私がエリザベス女王を知ったのは、高校1年生くらいの時に、英語の学習雑誌に付録で付いていた赤いソノシート(若い人はわからないだろうなあ)で、ケネディのスピーチと同時期に、女王の美しいブリティッシュイングリッシュを聞いた時からである。その見事なスピーチを何度も聞いて以来、この二人は、私を英語好きにしてくれて、現在に至るまで私の大好きな偉人となっている。

ともあれ、今日のセレモニーは、やはりめったに見ることのできない歴史的セレモニーで、それを目撃することができたのは素晴らしい経験であった。

#プラチナジュビリー #エリザベス女王




2022年05月26日

庭木の伐採

中庭で縦横無尽に枝を伸ばし、落ち葉で雨といを詰まらせる原因になっていたヒバの木を、昨日、ついに伐採した。
子供の頃から、庭のヒバと松を眺めて育ってきた私にとって、一緒に大きくなってきた木を切ることには、正直抵抗があった。

しかし、いくつかのことが、伐採を決断させた。
ひとつは、2年前に台所の上の屋根からの雨漏りである。その時に屋根屋さんが行った原因のひとつがヒバの落ち葉だった。
長年父が剪定をほとんどしなかったこともあって、伸び放題に広がった枝は、大量の落ち葉を廊下の屋根と雨樋に積もらせた。
屋根瓦と雨といにたまるヒバの落ち葉を掃除せずにいると、雨樋の水がオーバーフローし、さらに屋根瓦の隙間をヒバの葉が徐々に広げて水をしみこませることにもなるのだという。その二つが組み合わさって屋根の隙間を生み出し、そこから雨漏りになったらしい。

また、大雨のたびに、雨樋から水が激しくオーバーフローして、ほとんど排水が機能しないようなことも何度もあった。私が実家に戻ってから何度か掃除もしたが、仕事をしていた頃は、とうてい追いつかないくらい落ち葉が詰まった。

そして近年最も悩まされたのが、ヒバの上に住みついたアオサギであった。ギャーギャーと大きな鳴き声を昼も夜も発するばかりか、大量のフンで、庭や灯篭が真っ白になった。
木の下に行くと、かけられることもあるので、庭に出にくくなった。松の木の上と両方に難波も住んでいるので、フンの量はものすごかった。

さらに、成長した幹が、太くなってきて、あと数年で廊下の屋根にあたるくらいになっていた。木を切ることは、2年前くらいから考えていたが、やはり愛着もあり、家の歴史のひとつでもあるので、なかなか踏み切れなかったのだが、これだけの理由が集まったので、ついに決断したというわけである。

昨日の朝、木の根元にお酒をかけて、長い間ありがとう、と手をあわせて感謝の言葉を念じた。植木屋さんが入り、上の枝に上っていよいよ切り始めようとする時に、「お酒か塩はありますか?」と私に聞いた。「お清めですか?それなら、今朝、私がお酒をかけておまいりもしました」というと。「ああ、それなら大丈夫です」と安心したように職人が答えた。
古木には、古来から木の精霊のようなものを日本人は感じてきた。木を切る時には、お清めをしてお祈りをするのだということは、私もなんとなく知っていて、きちんとお別れもしたかった。
220525ヒバIMG_2022-05-25-14-19-27-551.jpg

体をロープで固定して、のこぎりとチェーンソーを巧みに使いながら、上から少しずつ職人が木を切っていく。見事なものだ。3時間ほどで、半分の高さまで切り終わった。このサイズまでくれば、狭い中庭のスペースでも、一気に幹を倒すことができる。
最後に木の幹の下部にチェーンソーを入れて、別のスタッフ2人がロープで庭の隙間に上手く倒れるように引っ張っていた。そしてついに何十年も庭の主のように枝を広げていたヒバの木は、姿を消した。
220525ヒバIMG_2022-05-25-15-40-44-541.jpg

切り倒した最後の部分を裁断して、次々と搬出していく。作業が終わった庭には、今まで見たことのない明るく広い空が広がっていたが、どこか寂しい広さにも感じた。
ヒバ君、長い間庭を守ってくれてありがとう。





2022年05月25日

バイデン大統領来日

ようやく、という感が強いが、就任後初めて、バイデン大統領が来日した。
昨日24日は、当然このニュースが中心となっていた。
コロナの流行ということもあったこの2年余りの中での就任ということで、コロナ対策を中心とした国内政策に対応することが最重要課題だっただけに、今回の訪日は、アジア全体にとっての意味も大きかったと思う。
220524バイデン大統領来日.jpg

国際関係を一変させたロシアのウクライナ侵攻という大事件によって、今回の日米首脳会談では、これまでにない具体的な発言が多かったように思う。さらに、クアッドも開催されたことも大きな意味がある。
一昔前なら、岸田総理からの防衛費に関する発言をはじめ、普通なら野党やマスコミが大騒ぎするようなコメントが日米両首脳から数多く出てきた。またIPEFなど、これほど新しい計画を具体化するような議題が盛り込まれた会談はこれまであまりなかったのではないか?(トランプ大統領によってTPPから抜けたアメリカの苦肉の策という感は否めないが)
たいていは、「両国のきずなをより強化することを確認し合意した」というていどの形式的なまとめで終わるような会談がほとんどだったように思うので、その点でも異例の会談といえる。

それもまたウクライナ侵攻による国際関係の緊張の高さと複雑化を表しているといえる。
台湾有事の際には、軍事的に関与すると明言して、失言と言われてホワイトハウスもすぐにそれをフォローするステートメントを出していたが、大統領発言を撤回することはなかった。
案の定中国は、報道官が怒り心頭のコメントを出したが、これだけ国際関係の緊張度が高まっている中では、バイデン発言を歓迎する声も多かったようだ。これもまた国際関係の変化を象徴している。

私的な会食という名目で行われた目黒八芳園の周辺には、数多くの人がスマフォを構えてアメリカ大統領を撮影しようとしていた。トランプ氏とはまた別の意味で、注目を集めているのは意外だった。

とにかく、「異例がてんこもり」の訪日というのが、私の印象である。
どこかのニュースで、記者がコメントしていたが、「日本は、ロシア、中国、北朝鮮、すべての国と国境を接し、どの国よりも現実的な緊張関係にさらされている。何が起きてもおかしくない」という言葉が、以前とはくらべものにならないくらいに実感のある言葉として心に残った。

しかし、日本が巻き込まれる「有事」など決してあってはならない。「いかなる国との戦争にも関わらない国」それこそが平和を希求し続けている日本たる立場であり続けてほしい。

と、実は昨日、ここまで下書きをしていたのだが、日本での仕事を終えて帰路についた大統領に、ショッキングなニュースが届いた。
銃による学校での乱射事件である。銃規制が思うように進まないアメリカにおいて、またしても悲しい乱射事件で多くの命が失われた。バイデン大統領も、銃規制強化を検討すべきという主旨のコメントをすぐに発表している。

このニュースを見て、民間人における銃の所有率を調べてみたら、一位は当然というかアメリカなのだが、実に驚くべきはその数字。民間人100人あたりで、実に120個だという。(2018年のデータ)
これだけの銃の普及率の国で、いかに銃を規制するのかは、本当にハードルが高いと痛感する。

ウクライナでも、アメリカでも、銃が大きな課題になっている。
それは、不安定な国際情勢の象徴かもしれない。
#バイデン大統領





2022年05月24日

「同期」の訃報

24日の午前中は、葬儀に出席してきた。
出席といってもコロナ禍で主流となっている焼香だけを行い、着席しない形式である。
亡くなられたのは、任期付職員として私も勤務した市役所に同時期に採用された平田さんであった。
短期間であったが、いわば「同期」である。個性的な前市長の元で、共に難題が山積していたプロジェクトを担当した。二人共、心労の連続するなかなかタフな仕事であった。

享年60歳。若い、若すぎる!
病気がわかってからわずか数ヶ月だったようだ。さぞや無念であろうと思う。
奥様のFB投稿で亡くなられたことを知り驚愕した。
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藝大を出たアーチストでもあったので、彼が長年製作してきたオブジェが、遺影の周りを飾っていた。私も何度か拝見したことがある。

帰り道、まもなく完成予定の公共施設の横を通り過ぎた。初めて見たけれど、想像以上に大きな施設であった。亡くなった彼が取り組んでいたプロジェクトである。
私の仕事もそうだが、様々な経緯によって、自分たちが取り組んでいた時の思いとは多少方向の異なる施設に変わった。

公共プロジェクトというのは、なかなかに難しい。
行政、議会、市民、そして何よりもトップである首長、それぞれの思いや関係のちょっとしたバランスが、プロジェクトの行く先を大きく変えることがある。ほんの少しのボタンの掛け違えが、大きな変化や変更にもつながる。時には反発やあつれきを生むこともある。

ともあれ、最終的には、市民に喜んでもらえる施設になることこそが公共施設の何よりも大切なところだと思う。

私よりはるかに若い年齢で旅立った彼のご冥福を祈りながら、建設中の施設を横目で見つつその横をゆっくりと通り過ぎた。
まもなくオープンとなる新しい施設が、市民に愛されるものとなることを心から願っている。

2022年05月21日

スカイツリーの10年

NHKBS1で「スカイツリー10年」という番組が放送されていた。
懐かしい方々のインタビューや見慣れた街並み、毎日のように通ったエリアが映し出され、私にとっては、懐かしく思い出深い映像でもあった。
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2012年5月22日、冷たい雨が降る東京スカイツリー開業のその日、スカイツリープロジェクトの仕事に多少関わっていた私は、会社の仲間たちと一緒に、スカイツリーの1階にある商業ゾーンのビルの中で、オープニングの瞬間を待っていた。冷たい雨を受けながら、外には、数多くの報道陣がオープニングの瞬間を撮影すべく待機していた。

ツリーの開業から半年ほど経ったところで、郷里で一人暮らしをしていた父が、突然倒れた。悩んだ末に、私は定年を繰り上げて介護のために帰郷することを決断した。
あれから、もう10年近い年月が経ったのだと思うと、本当に感慨深い。
番組で取り上げられていた皆さんにとって、大きな変化となった10年は、私にとっても大きな人生の転機であった。

この10年弱の間に、私が世話をし始めてしばらくしてから、父が完全に元気になった期間が1年強ほどあった。しかし、それ以降は、どんどん寝たきりになり、この3年ほどは、本格的な介護生活に突入した。この10年は、仕事を捨て、お金も時間も、ほとんど父の介護を中心に費やしたような時間でもあった。
父の汚物を処理したり、シーツや衣類を洗濯したりしながら、実は、何度か涙を流したこともあった。介護をすることに対して、多少心にゆとりが持てるようになったのは、数年前くらいだろうか。しかし、認知症が急激に進んできたこの1年ほどは、私の精神的な負荷もまた増してきている。

地域を動かす大きなプロジェクトの末席に仕事で関わったことは、私にとって本当に大きなことで、父が倒れなければ、もしかするとその時に知り合った方々と今でも仕事をしていたのではないかと思う。人生、何が起きるか、どう変わるのかは、本当に先が読めないものである。

番組では、私も大好きな商店街の人たちや、なじみの町工場の社長など、それぞれの人たちの変化に満ちた10年が描かれていた。
その映像を見ながら、私も、この10年を振り返っていた。
そしてこれからの10年について、あらためて考えていこうと、思いを新たにした。

#東京スカイツリー10年

2022年05月19日

機種変更

数年使ってきたスマフォが、アプリをいくつか削除しても、写真や動画をすべてカードのほうに移しても、何をしてもデータ容量の空きがなくなり、これはもう限界かなと、携帯ショップに相談に行った。

「これは、ストレージ容量を見ても、残念ながら、もう機種変するしかないですね。このままだと、突然LINE等を含めてアプリが動かなくなるみたいなことが起きる可能性が高いと思います。」という店員の言葉。何しろ、7GBくらいしか本体のストレージがないのだから。今の機種は、ほとんどが64GB以上、そりゃあ到底無理だなとあらためて納得して機種変更をすることに決めた。
ただし、いくつかのアプリのパスワードなどがきちんと控えてあるかを再確認したうえでまた来ますということでいったん帰宅し、主要なアプリについて、控えを見て確認した。
IPHONEユーザーの方は、アプリの引継ぎができるらしいけれど、アンドロイドは、その点が不便だったが、最近はケーブル接続で一部のアプリは継承できるのだという。

先日誠実な印象だった青年を予約し、再度携帯ショップを訪ねて、無事に新機種を手にした。
帰宅して、アプリをいくつかダウンロードしたところで、ケーブルでつないて継承できる方法もマニュアルで発見したので、早速試してみたら、心配していたよく使うアプリが、ほとんど問題なくコピーできた!
とはいえ、なんのかんので、約3時間くらいの作業となった。

機種変更の説明やセットアップなどで、店頭で約1時間、電話帳などのデータは自分でバックアップしていたので、説明時間を含めて私はまだ時間的には早いほうだと店員は言ってくれていたが、中には、2時間近くかかる方もあるという。確かにそうだろう。何しろ64GBの端末なのだから、これは一昔前であればパソコンの容量である。そんなものが今はポケットに入っている。その分、パソコンとそん色のない機能が満載されている。
220519新携帯DSC_0002.JPG

一日経って、ようやく慣れてきたが、同じメーカーの後継機種でありながら、色んな操作方法がかなり異なる。デスクトップのデザインや使い勝手も違う。アプリも色々変わっている。前の機種のほうが使いやすかったなあと今のところ思うことが多いが、まあそれはきっと使い慣れていたからだろう。
私は、SNSの投稿やチェック、デジタル本を読む、ラジオや音楽を聴く、支払いに使う、もちろんメールをして写真を使うのは当たりまえと、もはや携帯がないとつらい。
ほとんどの人が今や同じ状況だろう。

携帯電話の機種変更をするということは、もはやパソコンの入れ替えくらいの大仕事になっている。それは、携帯電話という小さなツールが、実はとんでもなく進化したということの裏返しでもあるのだろう。

#機種変 #スマフォ機種変

2022年05月16日

沖縄730

沖縄が本土に返還されて50年が経った。15日の日曜は、このニュースが当然中心となっていた。先週から、様々なテーマで、沖縄のこれまでの歴史を振り返る特集番組などが数多く放送されていた。これまで知らなかったことを知る機会にもなったが、沖縄の皆さんのご苦労に、あらためて頭が下がる思いと同時に、50年経った今でも状況が変わっていないことが多いようにも感じた。この話は、とてもデリケートで複雑で難しく、私の能力では到底書ききれないので、今回はこれ以上書くのはひとまず控えておきたい。

この返還50年のニュースを見ながら思い出したのは、本土復帰から6年後、1978年に行われた右側通行から左柄通行への変更という一大事業のことであった。
実は、ちょうど1978年の7月、私は、夏休みをとって会社の友人と一緒に沖縄にいた。
変更が行われたのは、7月30日で、私が訪れた時は、その直前で、まだ右側通行であった。私が人生で初めて車での右側通行を経験したのは、沖縄であった。
220516沖縄78年730.jpg

町中に、7月30日の変更を告知するマークが掲示されていたのを覚えている。小さなステッカーなどもあった気がするが、残念ながら私の手元には何も残っていない。
こういう記念の印刷物などが好きな私にしては珍しく、何も残っていないのがちょっと残念だが、ともかく、私より運転のうまい友人が、ほとんどレンタカーを運転して、私はもっぱら助手席に座っていた。左側通行の本土では運転席である左ハンドル車の助手席に座るのも初めての経験で、そこから見る景色はいつもと違う視点で、新鮮な驚きだった。

右折と左折の車の走る位置が違うので、対向車線に突っ込んでいくような感覚はちょっと怖くもあった。当時の沖縄は、日本であったが、右側通行を含めて、圧倒的にアメリカ的な雰囲気の町だった。我々が訪れる少し前までは、本土から行くときにはパスポートが必要な時期があったと思う。
ステーキの味とわらじのように巨大な肉のサイズもアメリカ的で、デザートのアイスクリームも、味も大きさも外国に来たような別次元の味わいを強く感じたものだ。もう半世紀近く前のことなので、記憶はあいまいだが、ステーキのボリューム感とアイスクリームの味は、それまで食べたものとは全然違ったものだったことは、強烈な印象として今も心に残っている。

私が感じた驚き以上に、ドルを中心とした通貨社会から円を中心とする社会に変わり、交通システムが変わり、という生活の大きな変化は、地元住人である沖縄の人たちにとっては、我々が感じる以上に劇的な変化だったに違いない。

琉球王朝からの歴史的な社会文化と、アメリカによって持ち込まれた文化がからみあった社会は、沖縄独自の生活文化となり沖縄県民ならではの気質を生み出していると思う。それは、日本の他の県とは、やはり違うものだと思う。そうした生活文化に根ざした様々なものが、沖縄の人たちの中に、本土は、わかってくれていない、という大きく深い溝のような思いを形づくっているのではないだろうか。

730の交通システム大変革のシンボルマークを見ながら、そんなことを考えていた。

#沖縄730

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