子供の頃から、庭のヒバと松を眺めて育ってきた私にとって、一緒に大きくなってきた木を切ることには、正直抵抗があった。
しかし、いくつかのことが、伐採を決断させた。
ひとつは、2年前に台所の上の屋根からの雨漏りである。その時に屋根屋さんが行った原因のひとつがヒバの落ち葉だった。
長年父が剪定をほとんどしなかったこともあって、伸び放題に広がった枝は、大量の落ち葉を廊下の屋根と雨樋に積もらせた。
屋根瓦と雨といにたまるヒバの落ち葉を掃除せずにいると、雨樋の水がオーバーフローし、さらに屋根瓦の隙間をヒバの葉が徐々に広げて水をしみこませることにもなるのだという。その二つが組み合わさって屋根の隙間を生み出し、そこから雨漏りになったらしい。
また、大雨のたびに、雨樋から水が激しくオーバーフローして、ほとんど排水が機能しないようなことも何度もあった。私が実家に戻ってから何度か掃除もしたが、仕事をしていた頃は、とうてい追いつかないくらい落ち葉が詰まった。
そして近年最も悩まされたのが、ヒバの上に住みついたアオサギであった。ギャーギャーと大きな鳴き声を昼も夜も発するばかりか、大量のフンで、庭や灯篭が真っ白になった。
木の下に行くと、かけられることもあるので、庭に出にくくなった。松の木の上と両方に難波も住んでいるので、フンの量はものすごかった。
さらに、成長した幹が、太くなってきて、あと数年で廊下の屋根にあたるくらいになっていた。木を切ることは、2年前くらいから考えていたが、やはり愛着もあり、家の歴史のひとつでもあるので、なかなか踏み切れなかったのだが、これだけの理由が集まったので、ついに決断したというわけである。
昨日の朝、木の根元にお酒をかけて、長い間ありがとう、と手をあわせて感謝の言葉を念じた。植木屋さんが入り、上の枝に上っていよいよ切り始めようとする時に、「お酒か塩はありますか?」と私に聞いた。「お清めですか?それなら、今朝、私がお酒をかけておまいりもしました」というと。「ああ、それなら大丈夫です」と安心したように職人が答えた。
古木には、古来から木の精霊のようなものを日本人は感じてきた。木を切る時には、お清めをしてお祈りをするのだということは、私もなんとなく知っていて、きちんとお別れもしたかった。
体をロープで固定して、のこぎりとチェーンソーを巧みに使いながら、上から少しずつ職人が木を切っていく。見事なものだ。3時間ほどで、半分の高さまで切り終わった。このサイズまでくれば、狭い中庭のスペースでも、一気に幹を倒すことができる。
最後に木の幹の下部にチェーンソーを入れて、別のスタッフ2人がロープで庭の隙間に上手く倒れるように引っ張っていた。そしてついに何十年も庭の主のように枝を広げていたヒバの木は、姿を消した。
切り倒した最後の部分を裁断して、次々と搬出していく。作業が終わった庭には、今まで見たことのない明るく広い空が広がっていたが、どこか寂しい広さにも感じた。
ヒバ君、長い間庭を守ってくれてありがとう。
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