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2022年08月23日

白河越え

今年の高校野球は、仙台育英高校が、歴史的な勝利を飾った。
昨日の熱戦の興奮冷めやらぬ今日、東北6県の悲願であった深紅の優勝旗は、ついに陸路で白河の関を越えた。
220823仙台育英河北新報号外.jpg
(河北新報サイトより)

ニュースによれば、駒大苫小牧高校が2004年に優勝したので、白河の関は越えたという話もあったというが、あれは空路で行ったから、越えたとは言えないという思いが東北の人たちの気持ちだったという。仙台育英も決勝まで進んだこともあるし、金足農業の決勝戦での敗退は、記憶に新しい

それにしても、白河の関がこれほど数多くニュースで報道されたことはなかっただろう。
奥の細道の芭蕉は、もちろん旅の途中に白河の関を越えている。
しかし、調べてみると、芭蕉の頃には、白河の関は、もはやメインの通りではなかったという。源頼朝の頃までの東山道の要衝であった白河の関は、奥州と関八州を結ぶ重要な境目の場所であったが、その後は、メインルートからはずれてしまい、やがてさびれたのだという。

ちなみに、今回一部のニュースでも紹介されていたが、東北を代表する地方紙である河北新報の名前は、白河以北が、みちのくから北海道までを意味していたことから名づけられたという話を、40年ほど前に会社の地方紙担当の先輩から教えてもらったことを思い出した。

奥の細道の旅で、芭蕉も白河で句を詠んでいるけれど、白河の関については、随伴した弟子の曽良の句のほうが有名かもしれない。

「卯の花をかざしに関の晴着かな」 

曽良の詠んだ如く、激戦を戦いぬいて甲子園の土に汚れたユニフォームと選手たちの笑顔は、まさに素晴らしい「晴れ着」であった。
すべての高校生をたたえた監督の言葉にも心を動かされた人も多かったことだろう。
本当におめでとう!
#仙台育英優勝 #白河の関

2022年08月20日

秋の気配

お盆を過ぎたとたんに、暑さの質が変わったように感じる。
気温だけでなく、風や光も、どこか秋の気配を感じさせる。
昨日は、車に乗ろうとしたら、窓にバッタがとまっていた。
220820車の窓のバッタ.jpg

日本人の季節感というか暦の感覚、その設定の素晴らしさには、本当に驚かされる。
基本的には、作物を作ることとリンクして苗を植える時期だとか、刈り取りの時期だとか、という風に設定されたことや、病気の多い時期に気を付けるべきことを暦に織り込んだりということがある。もちろん、気候の変化をしっかりととらえて、適切なカレンダーに作り上げているということである。

旧暦で培われた知恵は、現代の暦にもうまく取り込まれている。
立秋の前後には、雲の形も変わり、聞こえてくる串の声にも変化が現れる。
一日中家にいる生活を続けていると、季節の移ろいや自然の変化ということに敏感になる。
さらに年齢がそうした感じ方を加速させる。

いつの間にかキッチンの温度が25度を超えることがだんだん少なくなってきた。エアコンを付けると、少し寒いという日も多くなってきた。
いつの間にか8月も、下旬になった。あっという間に9月に入ることだろう。そうなれば、今度は秋から冬に向かって、急速に季節が変わっていくだろう。

そして、9月になれば、私はまたひとつ年をとる。
“September I'll remember 〜・・・” 

さて、うかうかしていられないぞ! 一日一日を大切にしっかりと暮らしていかなければ、と激しい秋雨を眺めながら、思いを新たにしている。
#秋の気配

2022年08月10日

オリビアを聞きながら

昨日は、また寂しい訃報を聞くことになった。
オリビアニュートンジョンが亡くなったという。73歳。
乳がん治療をされていたようだが、やはり、がんによるご逝去のようである、
70年代、美しくて歌もうまく、透き通った声を持ち、時代を牽引するような魅力を放っていた女性シンガーでは、傑出した光を放っていたように思う。トラボルタと共演した映画も見た。
男性ファンにとっては、歌の魅力はもちろん、アイドルのようなその美しさにも心惹かれたのではないだろうか。
220810オリビアLP.jpg

以前、芸能人の方の訃報が相次いだ時に、昭和がだんだん遠くなる、というようなことを書いたが、オリビアの場合には、「70年代が遠くなる」というような気持ちになった。

そして、もう一人、世界的ファッションデザイナーである三宅一誠さんが亡くなられた。84歳。
彼もまた、70年代から80年代にかけて、もっとも輝きを放っておられたのではないかと思う。独特のプリーツを使ったファッションが代表的な作品だと思うが、プリーツのついた軽やかな揺らぎを持つ女性向けファッションドレスやスーツは、少々体系が変わってきた中年の有名人の方をはじめ多くの方が、その服を身に着けていた。そして、その服は、見ただけで、一生さんのものとわかる確かなアイデンティティがあった。
220810一生プリーツ.jpg
(プリーツプリーズより)

昔、一生さんのプレスの方にお会いして、素材のことなどについて色々お話をお聞きする仕事の機会があった。日本のものづくりを後押しする団体に出向していた時だと思うが、もしかするとファッション関係の団体の広告を担当していた時かもしれない。
お話を聞いて、一生さんは、生地の染め色から風合い、肌ざわりなどを含め、素材の追及をとことんされているということが、非常によくわかった。あらためてすごいなあと思ったことを覚えている。残念ながら、ご本人へのインタビューはなかったけれど、

昨日は、そんなことをいろいろ思い出す日になった。
一日中つけっぱなしで聞いていることが多いFM放送からは、朝から夜までオリビアの曲が何度も流れていた。

ラジオから流れるオリビアを聞きながら、遠くなった70年代をあらためて思い返していた。
#オリビアを聞きながら #三宅一生 #プリーツプリーズ

2022年08月06日

ワルイコあつまれ

ETVの番組というのは、もしかすると昨今の地上波では、もっとも多く良質の番組を提供しているかもしれない。少なくとも、平日の昼間など、つまらないワイドショーを見るよりも、高校講座で歴史を学んだりするほうがはるかに良い時間の過ごし方だろう。

ETVの中でも、最近注目しているのが、かつてのSMAPメンバーである稲垣吾郎・草g剛・香取慎吾による子供向け?番組「ワルイコあつまれ」である。
時流に即したテーマをすくいあげて、子供にもわかるような内容で、しかも時にちょっとシニカルな表現手法で描いている。子供向けの体裁をとりながら、実は大人向けの良質な番組であるともいえる。
220806ETVワルイコあつまれ.jpg
(NHKワルイコHPより)

今日は、8月6日、広島の原爆の日である。
ワルイコでは、被曝し兄の背に負われて逃げる小さな子どもの写真をきっかけにして、長年その子供が誰であるのかわからなかったのが、77年たった今年、自ら名乗り出た竹本さんという方をゲストに迎えて子供記者がインタビューをするという設定で番組を構成していた。

80歳になる竹本さんは、77年間自分であることを語らなかったのだが、突然その思いを翻して、「その写真は、3歳の時の私と兄の写真です」と語り始めた。
子供たちの質問に答えて、なぜ語らなかったのか、どんな思いだったのかといったことを、時に言葉を詰まらせそうになりながら語っていた。
無邪気ともいえる子供たちの質問に真摯にこたえる竹本さんの姿は、ニュースインタビューではないからこそ、むしろ真の思いがにじみ出る映像を生み出していた。
正直、今日見た原爆の関連番組の中で、もっとも心を動かされた。

式典の放送を見るよりも、むしろ、よりリアリティ−をもって、見る者の心に原爆の悲惨さを伝えている気がした。(あくまで個人的感想です)

元SMAPのワルイコたちは、元々各自が、独特の考え方や視点に裏打ちされた魅力を持っていた。だからこそ、グループを解散してもこれほど長く愛され続けているのだろう。
香取慎吾は、パロディのようなこともしょっちゅうやっていて、ワルイコでもそれは生かされている。
こんな「ワルイコ」たちなら、どんどん増えてもらいたいものだ。
#ワルイコあつまれ

2022年08月01日

危険な夏

今日から八月、そのスタートは、全国ほとんどの場所で「危険な暑さ」と表現されるような猛暑日となった。
わが県でも、朝の天気予報では36度の予報だったが、夜のニュースでは、36.5度のところもいくつかあった。
私も、車で買い物に出かけたが、車庫を出る時に表示されていた38度の気温表示は、走行後に帰宅した時もほとんど変化がなかったから、道路上の気温は、38度くらい実際にあったのだと思う。まさに危険を感じるような暑さであった。
220801危険な暑さのメーター.jpg

第7次のコロナウィルスの流行も、とどまるところを知らず、病院などの医療機関は、入院できない人があふれているという。その傾向は、東京大阪といった大都市のみならず、地方都市にも拡大している。
先ほど9時のNHKニュースでは、自宅でコロナ感染のわかった高齢者を診察した医師が、救急車を手配し、幸いにも1時間ほどで到着してくれたが、今度は搬送先の病院が見つからず、3時間かけて100件以上の病院に問い合わせをしたが病院が見つからず、搬送できないということでやむなく救急搬送を取りやめるということになったという。この男性は、かかりつけ医の献身的な自宅治療にもかかわらず、翌朝お亡くなりになった。

呼吸器系疾患を持つ前期高齢者の私にとって、このニュースは、ひと事ではない。
私も、もし感染すれば間違いなく命の危険があるとかかりつけ医に注意されている。感染しないようにほとんど人にも合わないようにしている。しかし、県内でも、介護施設での感染も広がっており、私の最大リスクは、父の通っているデイサービス施設経由で父が感染して私が濃厚接触者になることだ。
とはいえ、週二回の利用は、入浴のことだけでなく、私の心身の貴重な休み日でもあるので、通うことをやめるのは、やはり苦しいので、今のところは利用を続けている。

数日前のニュースでは、新規感染者数において、日本が世界で一位になったというニュースも流れていて驚いた。もっとも、イギリスなど感染者数を確認しなくなった国も多いため、実態とは必ずしも一致しない可能性もあるとはいうものの、やはり驚異的な状態である。

熱中症になっても病院に入ることもできない。急病になっても同様だ。もちろんコロナにかかって重症化しても入院できない可能性がある。

危険な暑さで始まった八月は、様々な危険をはらむスタートとなった。

#猛暑日 #危険な暑さ

2022年07月29日

日々是好日を祈る

このところ、コロナや、政治的なことなど日々のくらしについてあまり書いていなかったことに気づいた。今日は、私の一日のことなどを書いてみたい。

私の一日は、6時半頃に起床し、7時過ぎにキッチンへ「出勤」するところから始まる。
父のきざみ介護食と私用の2種類の食事を並行して作りつつ、まず先に私の食事をパっと済ませる。腹が減っては介護ができぬ。

220729私の朝食イメージ.jpg
(私用の朝食)

220728父朝食.jpg
(父用のきざみ介護食)

次に父を起こし朝食を食べさせる。誤嚥に気を付けながら少しずつ食べさせる。終わって食器の後片付けをしたら今度は洗濯。最近の自動式洗濯機でなく、父が使ってきた二層式なので、キッチンに居て、新聞を読みつつ、すすぎや脱水などのたびに対応しながらの作業となる。二層式は不便だと思う人も多いだろうが、使い慣れると、水の汚れ具合を確認したり、洗濯中に、別に手洗いした洗濯物を脱水できるなどけっこう便利な点も多く、いまだに二層式が売られていることも納得できる。
洗濯物を干すともう11時。お茶などを飲んで一息つきながら新聞に目を通していると、もう昼の支度の時間になる。

11時半になるとお昼の支度を始める。これもまた、私の食事と父の食事の二種類を作るが、自分用のランチは、手早く麺類を作ってすますことが圧倒的に多い。朝同様に、自分の食事を手早くすませてから父の食事の世話をする。
以前は、昼前にオムツ交換をしていたのだが、やはり自分の食事前にそういう作業をすることには、多少精神的な抵抗感もあるのと、食事をするとやはり父が催すことが多いので最近は、食事を食べさせてからオムツ交換の作業をすることにしている。
だいたい13時半前後に30分ほどかけてオムツ交換作業をすると14時頃になる。
この時間から夕方までが、比較的父も落ち着くので、買い物など近くに出かけたり、家での作業などの時間に使っている。3〜4時間だけの比較的自由な時間というわけだ。

夕方4時頃になると、夕食にパンを食べる日には、パン生地をこねて仕込んでおく。発酵時間を含めてちょうど6時過ぎには生地が出来上がり、18分ほどで焼きあがるので、夕食に焼きたてのパンを楽しむことができる。

5時過ぎからだいたい夕食の支度を始める。父は、一人暮らしの頃から5時半頃に近所のなじみの飲み屋で酒とつまみを少し楽しんでから帰宅し、家でまた自分で作ったつまみを食べながら一杯飲る習慣になっていた。そうしたこともあって、五時半過ぎから「酒をくれ、飯をくれ」と言い始める。だから、6時過ぎには夕食を出すようにしているので、私も同じような時間帯で晩酌をするようになった。

5時半過ぎに2種類の夕食を作りながら、その日最初の口明けの一杯として、マティニ・オンザロックスを作り楽しむ。これが、夜に向かう自分への大切なスイッチである。

午後のオムツワークも終わって、これからほんのひと時が、自由な時間。
日々是好日、とはいかないけれど、一日でも多く、好日を過ごしたいと思っている。
さて、今夜の夕食は、何にしようかな?

2022年07月22日

ああ、そういうことなんだ

1977年6月、会社の新人研修を終えて配属式に出た私は、次々と発表される我々同期60数人の配属先を聞きながら、緊張していた。私の配属先は、第4本部という営業本部であった。

そうか、やっぱりコピーライターじゃないんだ、とがっかりしたような気もするが、もはや半世紀近くも前のことなので、記憶は定かではない。(今にして思えば、もしコピーライターだったら、とうてい才能が追いつかなかっただろうと思う)
そして、式が終わると、配属先の上司が次々と我々を人さらいのように、配属先に連れて帰った。私は、同じ局に配属となったマーケティングのN君と一緒に、その局の責任者である本部長と一緒に車に乗せられた。

3人で車に乗り、まず何か言わなきゃ、とN君と顔を見合わせながら、ほぼ同時に、「よろしくお願いします。」と頭を下げた。それ以上は、緊張で言葉が続かなかった。
局長は、「おお」とだけ言われたような気もするが、それも定かではない。
それが、のちに、前職の会社の社長になられた東海林さんであった。

私の入った会社は、上司を「○○さん」と呼ぶことが慣習となっていた。局長は、その部門の最高責任者であるわけだが、先輩はもとより、新入社員の私も、東海林さん、と呼ぶことが当たり前であった。
東北出身の東海林さんは、クリエイティブ出身でありながら、営業責任者になったということで社内のみならず、業界でも当時ちょっとした話題になっていた。

その東海林さんが、今年の2月にお亡くなりになった。恥ずかしながら、新聞記事を見落としていたようで、亡くなられたことも少し経ってから知ったのだが、葬儀というかお別れの会などはもう終わったものだと思っていた。
それが、数日前にFBの知人の投稿で、東海林さんのお別れの会に行ってきました、というのを見て、「え、最近行われたの?」と大慌てで情報収集すると、確かに先週行われていたことを知った。なんということか!人生最大の不義理をしてしまった!無念!

年をとると、父母を失い、叔父や叔母を失うなど、色々な人たちとの別れを経験することになる。そして、子供の頃から知っていた人たちの次に、社会人になってからお世話になった方々の訃報に接することになる。これまでも何度もそうした悲しい報せを耳にしては泣いた。

入社した時に配属された部の部長が亡くなられたのはもう10年近く前ではないかと思うが、今回は、その時に続く大きなショックであった。

血縁関係にある人がいなくなることの悲しみと、社会に出て一緒に仕事をしてきた人たちが亡くなる悲しみは、また少しニュアンスが異なる。

一昨日は、FBの友人から送ってもらった東海林さんの言葉というお別れの会で配られた本の写真を見ながら、たくさん聞いてきた東海林さんの言葉を思い出していて涙が出てきた。びしょ泣きしながら、いっぱい水割りを飲んだ。

そして昨日は、前職のつてをたどって、東海林さんの言葉の小冊子を入手することができた。
ほとんどが、役員から社長時代の言葉のようだったが、そういえばこんなことを仰っていたなというものもあった。
ページをめくっていると、東海林さんの写真も掲載されているので、酒の酔いも手伝って、またびしょ泣きになってしまった。
220722東海林さんの言葉.jpg

そうか、こういうことか、年を取ることは、たくさんの別れを経験することだが、社会人になってから強烈な影響を受けた人の死は、血縁とは異なる種類の大きなショックであった。

田舎での結婚式にも来ていただいたし、富山営業時代にもお越しいただき、「そうか、蓑島も、少しえらくなったんだな」とからかわれた。

ぼくとつな雰囲気の東北弁が最後まで抜けなかった人だが、温かみがあり、時に鋭くもあるその語り口は、とても魅力的で、社内外の人の心をしっかりとつかまえていた。

「広告は、夢づくりなんじゃないか、私はそう思う。
 広告会社の夢が縮んでいては、仕事にならない。
 我々自身に夢がないのは、職務怠慢ではないか」

お別れの会の情報をキャッチし損ねた私に対して、東海林さんは、天国でこう仰ってるかもしれない。「蓑島は、粒ちがいだと思ったが、粒まちがいだったかもしれない?」などと皮肉っぽい目で、きっと笑っておられるに違いない。

享年88歳。
東海林さん、お世話になりました。最後までダメな私でしたが、本当にありがとうございました。合掌。
#東海林さん

ああ、そういうことなんだ

1977年6月、会社の新人研修を終えて配属式に出た私は、次々と発表される我々同期60数人の配属先を聞きながら、緊張していた。私の配属先は、第4本部という営業本部であった。

そうか、やっぱりコピーライターじゃないんだ、とがっかりしたような気もするが、もはや半世紀近くも前のことなので、記憶は定かではない。(今にして思えば、もしコピーライターだったら、とうてい才能が追いつかなかっただろうと思う)
そして、式が終わると、配属先の上司が次々と我々を人さらいのように、配属先に連れて帰った。私は、同じ局に配属となったマーケティングのN君と一緒に、その局の責任者である本部長と一緒に車に乗せられた。

3人で車に乗り、まず何か言わなきゃ、とN君と顔を見合わせながら、ほぼ同時に、「よろしくお願いします。」と頭を下げた。それ以上は、緊張で言葉が続かなかった。
局長は、「おお」とだけ言われたような気もするが、それも定かではない。
それが、のちに、前職の会社の社長になられた東海林さんであった。

私の入った会社は、上司を「○○さん」と呼ぶことが慣習となっていた。局長は、その部門の最高責任者であるわけだが、先輩はもとより、新入社員の私も、東海林さん、と呼ぶことが当たり前であった。
東北出身の東海林さんは、クリエイティブ出身でありながら、営業責任者になったということで社内のみならず、業界でも当時ちょっとした話題になっていた。

その東海林さんが、今年の2月にお亡くなりになった。恥ずかしながら、新聞記事を見落としていたようで、亡くなられたことも少し経ってから知ったのだが、葬儀というかお別れの会などはもう終わったものだと思っていた。
それが、数日前にFBの知人の投稿で、東海林さんのお別れの会に行ってきました、というのを見て、「え、最近行われたの?」と大慌てで情報収集すると、確かに先週行われていたことを知った。なんということか!人生最大の不義理をしてしまった!無念!

年をとると、父母を失い、叔父や叔母を失うなど、色々な人たちとの別れを経験することになる。そして、子供の頃から知っていた人たちの次に、社会人になってからお世話になった方々の訃報に接することになる。これまでも何度もそうした悲しい報せを耳にしては泣いた。

入社した時に配属された部の部長が亡くなられたのはもう10年近く前ではないかと思うが、今回は、その時に続く大きなショックであった。

血縁関係にある人がいなくなることの悲しみと、社会に出て一緒に仕事をしてきた人たちが亡くなる悲しみは、また少しニュアンスが異なる。

一昨日は、FBの友人から送ってもらった東海林さんの言葉というお別れの会で配られた本の写真を見ながら、たくさん聞いてきた東海林さんの言葉を思い出していて涙が出てきた。びしょ泣きしながら、いっぱい水割りを飲んだ。

そして昨日は、前職のつてをたどって、東海林さんの言葉の小冊子を入手することができた。
ほとんどが、役員から社長時代の言葉のようだったが、そういえばこんなことを仰っていたなというものもあった。
ページをめくっていると、東海林さんの写真も掲載されているので、酒の酔いも手伝って、またびしょ泣きになってしまった。
220722東海林さんの言葉.jpg

そうか、こういうことか、年を取ることは、たくさんの別れを経験することだが、社会人になってから強烈な影響を受けた人の死は、血縁とは異なる種類の大きなショックであった。

田舎での結婚式にも来ていただいたし、富山営業時代にもお越しいただき、「そうか、蓑島も、少しえらくなったんだな」とからかわれた。

ぼくとつな雰囲気の東北弁が最後まで抜けなかった人だが、温かみがあり、時に鋭くもあるその語り口は、とても魅力的で、社内外の人の心をしっかりとつかまえていた。

「広告は、夢づくりなんじゃないか、私はそう思う。
 広告会社の夢が縮んでいては、仕事にならない。
 我々自身に夢がないのは、職務怠慢ではないか」

お別れの会の情報をキャッチし損ねた私に対して、東海林さんは、天国でこう仰ってるかもしれない。「蓑島は、粒ちがいだと思ったが、粒まちがいだったかもしれない?」などと皮肉っぽい目で、きっと笑っておられるに違いない。

享年88歳。
東海林さん、お世話になりました。最後までダメな私でしたが、本当にありがとうございました。合掌。
#東海林さん

2022年07月17日

判官びいきと国葬論

安倍元総理の葬儀が終わったと思ったら、岸田総理が、安倍さんの国葬を行うということを発表した。国葬、つまり、国が行い、費用も全額国が持つ葬儀で、これまでは、吉田茂さんの時にしか行われていない。
その理由としては、安倍政権は、日本政治史上最長の政権であったことや国際的な活動をはじめ、様々な実績を上げた総理であったからだという。

吉田首相の葬儀については、戦後混乱期に復興の重責を果たした宰相であり「国民あげて冥福を祈る」べきであるという号令のもとで国葬となったようだ。詳しいことは、私も不勉強でまだ調べ切れていないので、この機会にもう少し個人的には勉強してみたいと思う。
しかし、いずれにせよ、安倍さんについては、功罪をあわせもつ政権でもあった。
未解決の「罪」?もいろいろある。やはり、国会なり外部を交えた専門家会議などで、きちんと議論したうえで、そうすべきかどうかを決定すべきであろうというのが、大多数の国民の思いではないか?
220717安倍元総理国葬.jpg
(ヤフーニュースより)

現在、元総理の葬儀については、内閣と与党、つまり自民党による合同葬というのが慣例となっている。それを、安倍さんについては、何の議論もなくいきなり国葬にしよう、というのは、私もそうだが、やはり違和感を感じる国民が多いのではないか?

「判官びいき」という言葉がある。日本人は、伝統的に、思いがけず不幸な運命にさらされたような非業の死を遂げた人を、身びいきしてしまうようなところがある。
選挙演説中に、銃撃によって亡くなったという衝撃的な事件は、安倍さんの功罪の「罪」の部分を薄めて、「可愛そう、考えてみたらあの人も拉致問題や国際関係などで、よく頑張ったよね」という思いが、悲劇の死によって強まってくる。
世界中の首脳からこれだけ弔いの言葉が集まったことで、実は、思いのほか世界から高い評価を受けていたと人ということにけっこう驚いた国民も多いと思う。
確かに、これほど世界中の大統領などから弔意を受けた日本の首相は、これまでも、そしておそらくこれからもないのではないか?

国葬となれば、あらためて世界の首脳が日本に集まる理由付けにもなる。エネルギー問題やロシアに対する今後の対応などを含めて、安倍さんの葬儀を使いながら、世界各国の首脳と話をする機会にもなる。まさに弔問外交である。
岸田総理の国葬の話には、そうした考えも見え隠れするように思えてならない。

さらに言えば、今回の葬儀が仮に国葬で行われれば、この先、総理経験者が亡くなった時には、そのたびにどう対応するのかという基準作りが必要になるべきである。ところが、今のところその基準化というかルール化の動きも見えていない。

いずれにせよ、まだ多少時間もあるわけで、国民が納得できるような議論を尽くしたうえで決定してもらいたいというのが、おおかたの国民の気持ちであろう。
まあ、安倍さんは、骨の髄まで政治家なので、自分の葬儀をうまく使えるならどんどん使ってくれといっているかもしれないけれど・・・

#国葬 #安倍元総理国葬

2022年07月16日

コロナ第7次感染拡大

おさまりかけたように見えたコロナウィルスの流行が、あっという間に第7次と言われる感染拡大に突入している。東京では、本日、感染者は1万1千人を超え、全国でも実に11万人を超えるというこれまでのペースを上回るスピードで感染が広がっている。
220716コロナ11万人超え!.jpg

コロナが収束の気配を見せて、「もう大丈夫かな?」というムードがようやく広がり始めた矢先である。
大きな祭りやイベントも、夏休みシーズンを前にして、復活開催のニュースが全国から伝わってきていた。
感覚的には、この半月くらいほどで爆発的に増えたように思う。

今日現在、政府としては特別な規制を行うことは発表していない。しかし、今月末には、学校が夏休みに入り、人の移動の加速が始まる。3年近く我慢していた旅行を、今年はぜひ、という人は日本中にいることだろう。しかし、ウィルスは、その機に乗じて広がるだろう。

私は、呼吸器疾患で肺を手術した人間で、しかも前期高齢者である。
私の主治医は、「絶対にコロナにかかっちゃ駄目ですよ。あなたは、間違いなく命の危険にかかわるから」といつも言ってくれる。こんなふうに本人に率直に言う主治医もなかなかだと思うが、それはその通りで、本当に心配してくれているからこそだとありがたく思っている。

私は孫がいないけれど、3年もお孫さんと会っていなかったら、テレビ電話でなくてじかに会いたいと思うだろう。それはきわめて自然なことだ。
しかし、やはり、そうした思いと移動が、結果的には、さらなる拡大をもたらすのはおそらく間違いないことだろう。

私も、8月頃に東京の家に帰ろうと思っていたが、今は躊躇している。
コロナウィルスとの「つきあい」も、もう3年ほどになる。まるで人類をあざ笑うかのように、次々と変異を繰り返し人間を困らせ続けるこのウィルスとの戦いには、まだ終わりは見えていない。
#コロナウィルス #第7次感染拡大

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