私のFB友達の間でも、「半沢は見ない」とか「ただ大きな声で怒鳴りあっているだけで、芝居とは言えない」などさすが論客ぞろいだけに、手厳しいご意見が多かった。しかし、これだけの視聴率をあげていることなどを含め、やはり時代を象徴する番組であったことは、否めないだろう。その良し悪しは別として。
と言いながら、私は、結構楽しみながら見ていたほうである。その理由はいくつかあるが、まずひとつは、「芸達者が、過剰な演出の芝居を楽しんで、突っ込んでやっている」点。普通の俳優ではない、力のある面々が、臆することなく大げさな芝居を、真剣に楽しんでやっている。それは、トーク番組で歌舞伎俳優の皆さんがコメントしていたのを見ても納得できた。歌舞伎のセリフ回しを入れてみようなどの工夫も考えて話し合っていたという。演技力のない俳優が、こんなオーバーアクションをやっても見ているものの心には響かない。「顔芸」という言葉まで出たように、その表情の見事さは、時に歌舞伎俳優ならではという感じもあった。だからこそ、オーバーな演出も楽しめたのではないか?
そして、「あり得ないシナリオ設定のときめき」だ。最終回の記者会見の席上で、担当大臣が、身内を批判し始め、言われた弁護士が、女性大臣を罵倒するなどあり得ないだろう。究極は、政界の大物がうろたえ罵倒し、謝罪するとは・・・その他、サラリーマンなら、こんなシチュエーションあり得ないよな・・・と思うような設定が毎回登場した。しかし、そこには、(でもけっこう痛快かな?)と思わせる快感が潜ませてある。
そして「土下座」である。後半から最終回は、あり得ない土下座シチュエーションの連続にあきれながらも、どこか痛快な気分を感じていたのではあるまいか?
(あの頑固な部長をやりこめたい!あの嫌な得意先に煮え湯を飲ませたい・・・)そんな危険な心は、実は殆どのサラリーマンの日常に潜んでいるのではないか。
そんなサラリーマンの心情を捉え、見るたびに溜飲が下がるような痛快さを覚えさせる点、実はそれこそがこの過激なドラマのヒットのポイントではないかと思う。
今日のネットを見ていたら、「半沢ロス」という文字をいくつか見た。〜ロスの真理には、快感や痛快さを失った思いがある。「ああ、あの馬鹿馬鹿しい痛快さをもう今週は味わえないんだ・・・」実は、私もそんな心境である。土下座は、そのエクスタシーのシンボルである。理不尽な圧力を屈服させる象徴的な演出。それによって、一週間に一度、見る側それぞれが持っている半沢的シチュエーションを心に秘めながら、土下座を見て溜飲を下げる・・・
もしかすると、我々が思っているよりもはるかに、現代のビジネス社会に内在するフラストレーションは根っこが深いのかもしれない。
#半沢直樹
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