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2020年09月28日

溜飲を下げる

昨日の投稿で、マスコミ業界OBらしく?半沢直樹がどれほどの視聴率を出すか、などと書いたが、なんと32%超え!!ここ数年、30%以上など紅白以外久しくお目にかかっていない気もするが。(注:私が番組視聴率を気にする関係の仕事をしていたのは、ずいぶん昔なので、間違っていたらご容赦を)
200927半沢ロゴ.jpg


私のFB友達の間でも、「半沢は見ない」とか「ただ大きな声で怒鳴りあっているだけで、芝居とは言えない」などさすが論客ぞろいだけに、手厳しいご意見が多かった。しかし、これだけの視聴率をあげていることなどを含め、やはり時代を象徴する番組であったことは、否めないだろう。その良し悪しは別として。

と言いながら、私は、結構楽しみながら見ていたほうである。その理由はいくつかあるが、まずひとつは、「芸達者が、過剰な演出の芝居を楽しんで、突っ込んでやっている」点。普通の俳優ではない、力のある面々が、臆することなく大げさな芝居を、真剣に楽しんでやっている。それは、トーク番組で歌舞伎俳優の皆さんがコメントしていたのを見ても納得できた。歌舞伎のセリフ回しを入れてみようなどの工夫も考えて話し合っていたという。演技力のない俳優が、こんなオーバーアクションをやっても見ているものの心には響かない。「顔芸」という言葉まで出たように、その表情の見事さは、時に歌舞伎俳優ならではという感じもあった。だからこそ、オーバーな演出も楽しめたのではないか?
そして、「あり得ないシナリオ設定のときめき」だ。最終回の記者会見の席上で、担当大臣が、身内を批判し始め、言われた弁護士が、女性大臣を罵倒するなどあり得ないだろう。究極は、政界の大物がうろたえ罵倒し、謝罪するとは・・・その他、サラリーマンなら、こんなシチュエーションあり得ないよな・・・と思うような設定が毎回登場した。しかし、そこには、(でもけっこう痛快かな?)と思わせる快感が潜ませてある。
そして「土下座」である。後半から最終回は、あり得ない土下座シチュエーションの連続にあきれながらも、どこか痛快な気分を感じていたのではあるまいか?
(あの頑固な部長をやりこめたい!あの嫌な得意先に煮え湯を飲ませたい・・・)そんな危険な心は、実は殆どのサラリーマンの日常に潜んでいるのではないか。
そんなサラリーマンの心情を捉え、見るたびに溜飲が下がるような痛快さを覚えさせる点、実はそれこそがこの過激なドラマのヒットのポイントではないかと思う。

今日のネットを見ていたら、「半沢ロス」という文字をいくつか見た。〜ロスの真理には、快感や痛快さを失った思いがある。「ああ、あの馬鹿馬鹿しい痛快さをもう今週は味わえないんだ・・・」実は、私もそんな心境である。土下座は、そのエクスタシーのシンボルである。理不尽な圧力を屈服させる象徴的な演出。それによって、一週間に一度、見る側それぞれが持っている半沢的シチュエーションを心に秘めながら、土下座を見て溜飲を下げる・・・
もしかすると、我々が思っているよりもはるかに、現代のビジネス社会に内在するフラストレーションは根っこが深いのかもしれない。

#半沢直樹

2020年09月27日

命の重さ

今日は、9月最後の日曜日で大相撲秋場所の千秋楽。正代と翔猿が、命運をかけて結びの一番を戦い、正代が賜杯をもぎとった。我が郷土のホープ、朝乃山は、昨日と今日は、残念ながら精彩を欠く相撲でチャンスを逸した。今場所最初の3連敗もあらためて悔やまれる。
200927.jpg
(写真は、YAHOOニュースより)

そして、話題のドラマ、半沢直樹が、かなり乱暴なシナリオと演出のまま、怒涛の無理やり展開で最終回を迎えた。もちろん大きなムーブメントを生み出した熱量の高さについては、一定の評価をすべきとは思うが。(さて、果たしてとんでもない視聴率を叩き出したのかどうか?その答えは明日のお楽しみだが、視聴率は決して番組評価の全てではない!)

そんな秋の一日に、将来を期待されていた女優が自らの命を絶った。40歳だという。自宅で、しかも家族と一緒の時間を過ごした日の深夜に。

つい先日も、若手中堅の男優が命を絶った。
TVで、心理学者(かな?)が、「コロナ禍の今、自宅で過ごしている時間が長くなったことなどによって、心理的な不安が増大したことも影響して、自らの命を絶つというようなことが起きたのではないか?・・・」、と知った風なコメントをしていた。なんだそれは!自殺を選ぶ人の気持ちは、千差万別、一定の傾向はあるかもしれないが、そんな無責任なコメントはするな、と思わず憤ってしまった。

自らの命を絶つことは、よほどのことだ。その理由は、当人以外には、誰にもわからないだろう。しかし、それにしても、命を絶つよりほかに、何か道はあったのではないか?個人的には、演技力など好感を持っていた女優だったこともあり、優れた女優としての才能が失われたことは、たいへんに残念である。また、自宅での出来事でもあり、ご家族の心理的な傷みは、想像するに余りある。

こうした自殺のニュースは、揺れ動く心を抱えた人への連鎖を生み出す。今日は、このニュース報道直後に、いのちの電話の番号を表示しているニュースが多かったように思う。大昔、岡田有希子さんが自殺した後で、後追いした若者が多数いたことを思い出した。

人として生を受けた以上、その命は最後まで全うすべきだと思っている。命は重い。どんなに悩みがあっても、自らそれを絶ってはいけないのだ。
父が命の危険のはざまを行き来したことを間近に見ている私としては、その重さをあらためて感じている。

2020年09月26日

丸の内明治屋のランチ

今日のランチは、昨日買ったクリームコロッケが残っていたので、それを添えたパスタを作った。調理しながら、大昔いつも食べていたパスタランチを思い出していた。
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今から40数年前、私は丸の内で社会人としてのスタートを切った。
当時、私の入社した会社は、丸の内エリアのいくつかのビルに部門別に分散して入居していて、私が配属されたのは、富士ビルであった。今もそうだが、ランチタイムの丸の内には、美味しいものがたくさんあった。よく利用していたのは、向かいの新東京ビルの地下にあった明治屋だ。オフィスから近かったことと、当時、会社が支給していた食券が使えた。そんなこともあって、週に1〜2回は、そこでランチを食べていたように思う。

今は、イタリアンレストラン全盛で、パスタなどどこでも食べられるが、当時パスタで色々メニューのある店はまだ少なかった。明治屋は、食品商社である京橋明治屋直営のレストランで、夜はビールやワインを楽しむこともできた。私がお気に入りのメニューは、コロッケのパスタとレバカツのパスタで、他にもご飯やパンを添えたミックスフライのランチ等もあったように思うが、ケチャップ味の大量のパスタが添えられたものがメインだったのではないかと思う。黒いベストに蝶ネクタイをしたチーフ格の人が格好良くて、いくつもの皿を手に乗せて店の中を素早く動いているさまは、フランスのカフェの人のようにも見えた。

時々は、会社の人たちと夜酒を飲むこともあった。当時の上司や先輩たちは、夜も食券を出し合って「おう、これでごちそうしてやるぞ」などと言って、よくごちそうしてもらった。会社の雰囲気は、今よりずっと暖かくてのんびりしたところもあって、昼も夜も本当に楽しい時間だったように思う。
時が流れ、丸の内の名店、明治屋も、山水楼も、オムライスのエーワンも、今では無くなってしまった・・・

今日の私のランチは、玉ねぎとウィンナを入れたナポリタンとクリームコロッケだ。どこか、明治屋を思い出す味になった。
あれから40数年、仕事をした記憶は少しずつ薄くなっているが、ランチの記憶は今も、舌と心に残っている。ああ、明治屋のレバカツが、食べたい!











2020年09月25日

ユーミンを聴きながら

昨日は、父の体調が良くなったので、久しぶりにデイサービスで入浴となった。父を送り出し、父のベッドシーツや防汚シートなどを取り替えて一息ついて、さて、音楽を聴きながらコーヒーでも飲もうかと思い、何にしようかなと考えて、結局、荒井由美時代のユーミンを聴くことにした。選んだのは、”MISSLIM” 
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ユーミンがデビューして、当時の音楽好きの青年たちに強烈な衝撃を与えたのは、1973年。私が大学に入った年だ。デビューアルバムの、「ひこうき雲」は、今までにない歌詞、心に沁みる不思議な歌声、アレンジやサウンドなどすべてが新鮮で、音楽クラブに入っていた私は、「なんだこいつは!?かっこよすぎ!」と、もうびっくりだった。仲間たちと練習していても、ドラムやベースの雰囲気を、林風だの細野風だのにしてみようとしたりしていた。あれから40数年、ずっとユーミンの音楽がそばにあった。こうして60代半ばになっても、何かの時に聴くのは、昔のユーミンや竹内まりやだ。

あらためてMISSLIMを聞いてみても、名曲「海を見ていた午後」はもちろんだが、「生まれた街で」「優しさに包まれたなら」そして、「私のフランソワーズ」などなどいずれも、今聞いても本当によくできた曲ばかりだ。やはり、私にとっては、ひこうき雲とMISSLIMが、お気に入りの代表アルバムだと思う。

50年近く前に聴いた時のことや、それからたくさんの恋をしたり、色んな経験をしたりしたことが、聴いていると蘇ってくる。そして、音楽づくりと詩の素晴らしさと当時のユーミンの声質のバランスが、とても素晴らしく整っていることをあらためて感じる。

同時代のアーチストとして、ユーミン、そして、竹内まりや、山下達郎、イェローマジック、といった方々の楽曲と共に人生を歩んできたことを、本当に幸せに思う。50年も時代を作り続けてきたアーチストがいるというのは、相当な偶然ではないだろうか?今いる音楽アーチストのいったい何人が、50年後も、同じように世の中に広く知られる曲を作り続けていられるだろうか?
私と同世代の彼らは、私と同じペースで年を重ねてきた。彼らと共に、同じ時代の空気を感じながら生きてこられたことに心から感謝している。














2020年09月24日

稲穂実る秋

3週間くらい前までは、厳しい残暑に喘いでいたのが、ふと気がつけば、いつの間にか本格的な秋の風情になっている。涼しくなったので、久しぶりに散歩に出かけると、夏の間、青々としていた美しい田んぼが、黄金色の稲穂に変わっている。いや、既に稲刈りの終わった田んぼのほうが多くなってきた。日本では、コロナV感染が、なぜか少し落ち着いているが、そんなことにおかまいなしで、季節は巡っていく。
200923稲穂DSC_0128.JPG

父の部下だった方が、今年もまた新米を届けて下さった。昔は筋骨隆々としたたくましい方だったが、既に70代半ば過ぎだろうか、すっかり細くなられた。それでも、10kgの米袋を軽々と持って、玄関を入ってこられた。

稲が育つ様子、水が張られ、田植えが終わり、青々とした夏の田になり、それが黄金色のうねりを見せて収穫期の田んぼに変わる。それぞれの時期の田畑の景色がとても美しく、ああ、自分は幸せな環境の中で生まれ育ったんだなあと感じる。日本の田園風景のなんと美しいことか。それは景色としての美しさだけでなく、実りの力を秘めた美しさでもある。

7年前に帰郷してから、富山県のお米は本当に美味しい、としみじみ感じるようになった。時々東京の家で食べるお米の味とはやはりどこか違う。今朝は、父がデイサービスに行く予定だったし、おかゆも残っていたのでお米を炊かなかった。久しぶりにトーストとスクランブルエッグとベーコンという朝食を食べた。こういう食事も大好きなのだが、毎日、ほぼメニューの固定したご飯中心の朝食を食べてきたせいか、今一つ物足りなく感じた。もう体はすっかり伝統的な富山県民型食生活に染まっているのだろう。

稲刈りの季節が終わり、あと1ケ月半もすれば、我が百年古民家は、また朝晩の寒さにふるえることになる。














2020年09月23日

命をつなぐ食

先日体調を崩してから、父は、食べ物を食べるのが少々大変になってきている。ここ一年ほど歯が悪くなっていて食べられないものが増えていたが、今回、さらに飲み込む力も落ちてしまったために、柔らかくて細かいものしか喉を通らない。
そんなわけで、あれこれ頭を悩ませながら、おかゆと一緒に組み合わせて栄養の取れるものを毎日考えている。
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定番メニューは、富山の郷土料理「エベス」。べっ甲とも言われるこの料理は、玉子をだしの入った寒天で固めたもので、地元のスーパーでは、どこでも売っている。喉の通りも良く玉子も入っているから栄養がある。これと、そぼろ状の肉や魚をおかゆと組み合わせて食べさせている。野菜も、煮たものなどをみじん切りにしたりつぶしたりしている。生野菜は、トマトとキャベツを細かいみじん切りにしてマヨネーズで和えたり、キュウリやニンジンをすりおろしたりもしている。
人は、赤ちゃんとして生まれて、年老いてまた赤ちゃんに戻ると言われるが、父の今の食事は、考えてみると赤ちゃんの離乳食のようだ。(そういえばオムツのお世話にもなっているし。)

この間具合が悪かった時、かかりつけ医から、高齢者は、口からものを取れなくなるとあっという間に体力が落ちてしまう、と言われた。実際あの時も、わずか数日点滴のみですごしただけで、見る見るうちに体力と気力が落ちていった。食は、本当に命を支えるものだと痛感した。

点滴をはずし、毎食口から食べられるようになってから、落ちくぼんでいた目に光が入り、ほほがふっくらとして顔に生気が戻った。今では、しっかり話をすることもできる。
以前は、食事を父のベッド脇に置いて、父をベッドに座らせれば、なんとか自ら食べることができた。しかし今は、毎食私が父に食べさせている。私が口元に運ぶひとさじひとさじが、まさに、父の元気をつないでいる。人はパンのみにて生きるにあらず、と言うけれど、やはり食は命をつなぐ源である。














2020年09月22日

エビとホワイトソース

バナメイエビが安かったので、つい買ってしまったが、一人で食べるには結構な量だった。
実は、NHK今日の料理で見た「エビときゅうりとアボカドのサンドイッチ」にハマっていて、アボカドが家に残っていたことも手伝ってエビを買った。早速ランチでサンドイッチを作った。今までは自分の作ったパンやクラッカーで作って食べていたのだが、今日は食パンも買ったのでレシピ通りに作った。
200922アボカドとキュウリサンド.jpg
(写真は、NHK今日の料理のHPのものですが、ほぼ同じ仕上がりでした(笑) )

旨い!もったいないしワインにも合うので、半分を夕食用にとっておくことにした。

夕方、残りのエビをどうしようかと思案していて、ちょうど生クリームも残っていたのを思い出し、エビのクリームシチューを作ることにした。ニョッキ用にクリームソースを作って以来、ホワイトソースは、自分で作っている。今までは、メーカーのホワイトシチューのルーなどをつかっていたが、小麦粉をバターで炒める加減さえつかめれば簡単なので、今は自分で作っている。それに、おそらく自家製のほうが塩の量は、絶対に少ないと思う。市販のルーは、塩っ辛い。
200922ホワイトソースDSC_0117.JPG

ということで、無事にシチューを仕込んだが、やや固めの仕上がりになったので、ちょっとマカロニなんぞも入れてみたくなり、マカロニも茹でる。茹で上がったマカロニを盛り付けていたら、これジェノベーゼソースで和えたらうまいなと考えて、昼に作ってあったバジルのソースを使って、少しだけそれも作り、残りのマカロニはホワイトソースの中に入れてチーズとパン粉をかけてオーブンで焼いてグラタンにした。

というわけで、夕食は、エビとアボカドのサンドイッチ、エビのクリームシチュー&マカロニグラタン、マカロニ・ジュノベーゼ、というエビ料理+恐るべきハイカロリーフードになってしまった。エビは片付いたが、脂肪も蓄えた気がする。エビが招いた高カロリーディナー。やれやれ、明日の夕食は、ローカロリーの和食にするぞ!

#ホワイトソース  #クリームシチュー














2020年09月21日

桃のゼリー

ランチ後のデザートに、桃のゼリーを食べた。
入っている桃は柔らかくて、品の良い甘さのゼリーである。とても美味しい。桃の名産地である岡山のお菓子らしい。
200920桃のゼリー.JPG

実は、このデザートは、友人にお線香を送った返礼として頂いたものだ。その友人は、この夏、ご主人を亡くされた。愛するパートナーを失うということは、いったいどれほどの悲しみだろうか。SNSで訃報を知った時には、目を疑った。仲の良いご夫婦で、ご主人と一緒に世界中を旅されたり、いつもアクティブで、人生を謳歌し、60歳手前くらいからは、新たに、音楽や日舞など様々なことにもチャレンジするバイタリティ溢れる元気な女性であった。その彼女が、こんなにも悲しい思いを味わうことになるとは・・。

今年は、別の友人もご主人を亡くされた。そのこともSNSで知った。彼女の悲しみもまたとてもとても深く、SNSでも、「彼のところに早く・・・」というようなことまで書かれていたこともあり、それを読んだ時には、本当に胸が痛み、とても心配していた。

私は、32歳の時に母と死別した。母が亡くなった時に、父が、しばらくの間、抜け殻のような状態になっていたことを今でも覚えている。そして、60代半ばの現在まで、大切な人との悲しい別れを何度も経験した。別れの数だけ、人生の深さを学ぶこともあるとは思うが、やはり別れは悲しい。とりわけ、かけがえのない家族であれば、なおさらだ。
妻や夫という大切なパートナー、「連れあい」という言い方もあるが、まさに人生を共に連れ添っていく相手だから、その人が失われるというのは本当に大きなことだ。できることなら、一緒に年をとり、あまり時差のないような頃合いで、おおむね一緒に神に召される〜そんなふうにできたらと、誰しも願うのではないか。

甘いはずの桃のゼリーを食べ終わったら、なぜか、少しほろ苦い味のようにも感じた。

2020年09月20日

健気に弱い

健気、<けなげ>と読む言葉だが、最近、この健気な様子に出会うと、めっぽう涙もろくなった。念のため言葉の意味を確認すると、いくつかある意味の中で、「殊勝なさま。心がけがよく、しっかりしているさま。特に、年少者や力の弱い者が困難なことに立ち向かっていくさま。「一家を支えた健気な少年」・・・」とある。なるほど、そうそうその通り、殊勝なさま、これに弱いんだ!

今日は、奈良団扇の伝統を支える親子の話をテレビで見て泣いた。(東京では、ずいぶん前に放送されたテレ東の番組です)
200920奈良団扇.jpg
(画像は、奈良団扇のホームページより)

何代も続く奈良団扇の伝統を受け継ぐ家に生まれた息子さんが、まだ幼い頃に、職人であった御父上が急逝される。途方にくれる奥様、しかし、彼女は、その伝統を守り受け継ごうと、小さな子供を育てながら、伝統の技を自分がつないでいき、ついには伝統工芸士にまでのぼりつめて、団扇を作り続ける。その母の姿を見ていた幼い次男は、12歳くらいで、その仕事を継ぐことを決意したという。しかも、長男は、ロボット技術に興味があり、その道を極めたいと思っていたので家を継ぐことに迷いがあり、兄弟で相談した時に、弟は、自分が団扇作りを継ぐから、と兄ちゃんに言ったという。そして、兄は、現在、ロボット工学分野で、有名な大学教授になっているという!・・・ねえ。ここまで読んでも涙が出るでしょう。これが「健気」です!だめだ、また涙が出てきた。

年をとると涙もろくなるのは、人生の楽しさや悲しさの経験がたくさん脳にストックされていて、何か心に響くことがあると、その人生のストックの中の事例と瞬時に重ね合わせて、心が強く反応して動くからだ、というような話を読んだことがある。実際そんな感じはあるかもしれない。
健気な心が残っている限り、日本人ならではの美学や優しさもきっと生き続けてくれるだろう。

#奈良団扇














2020年09月19日

富山のフクラギ

フクラギという魚の名前をご存知だろうか?実は、出世魚であるブリの幼魚で、生後1年未満で、30cm前後くらいのサイズのものを富山県ではこう呼ぶ。秋に旬を迎える美味しい魚だ。コヅクラ→フクラギ→ガンド→ブリ、という具合に名前が変わるのだが、ちょうどふくらはぎくらいだからふくらぎという説もある。福が来る魚=福来魚と書いてフクラギと呼ぶというのが、最近では主流になっているようだが、私は、この漢字表記には子供の頃からほとんど接した記憶がないので、今だにどうもこの説はあまり納得していない。(富山弁研究家だった叔父が生きていれば教えてもらえただろうが・・・)
200919フクラギ.jpg  
(画像は、PRIDE FISHより)

成魚となり、脂がのった冬の寒ブリも良いが、富山県民には、ブリは脂っこくてしつこいから、さっぱりしているフクラギが好きだという人も多い。かくいう私の父もその一人だし、私もどちらかというとそうだ。子供のころから、わが家の食卓にのぼる刺身や焼き魚は、ブリよりフクラギのほうが圧倒的に多かった気もする。(もちろんブリより安いという大きな理由もあったのだろうが)

先日、東京から家内と息子が来た時に、夕食用の刺身を買いに出かけたら、家内はフクラギの刺身用の半身を見て、その新鮮そうな見た目と価格の安さに感激し、即座にこれを求めた。大きな切り身だったので、半分を刺身にして、残りは私の希望で、味噌漬け用に残してもらった。その日の夕食、家内と息子は、大量の刺身を、パクパクと気持ちの良い食べっぷりで平らげた。

昨日、父の体調が少し悪かったことを投稿したが、数日前からおかゆなどを口にすることができるようになった。今日は、ふと思いついて、味噌漬けのフクラギを焼いて細かく身をほぐし、おかゆにまぜて食べさせた。おいしい、と言いながら、父はおかゆを完食した。フクラギを食べて父が元気になってくれるのなら、なるほど福来魚かもしれない。

#フクラギ














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