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2019年08月31日
スラビア・プラハ十二年ぶりに(八月廿九日)
スラビアがチャンピオンズリーグ本選の出場を決めた。前回出場したのは2007/08年のシーズンなので、12年前のことである。あのときは、予選二回戦から出場し、スロバキアのジリナを二試合0−0で引き分けたあとのPKで破り、三回戦ではアヤックスと対戦した。下馬評では圧倒的に不利だったのだが、キーパーのバニアクの大活躍で、オランダでは1-0、プラハでは2-1で勝利して本選出場を決めたのだった。アヤックスの選手たちがシュートを打つたびに頭を抱えていたのを今でも思い出す。
今回は、予選のプレーオフ、もしくは4回戦から優勝チーム部門に出場し、ルーマニアのクルージュを二試合とも1−0で破って本選出場を決めた。これで去年のプルゼニュに続いて二年連続チェコチームの本戦出場である。国別ランキング用のポイントも、予選の勝利で1、本戦出場で4獲得したから、万歳なのだけど、ここで負けて、ヨーロッパリーグに行ったほうが最終的なポイントは多くなるかもしれない。バルセロナ、ドルトムント、インテルという3位に入ってヨーロッパリーグ行きという目標さえ非現実的に見える組み合わせである。
予選の四回戦の組み合わせが決まったときは、まだ三回戦の結果が出ておらず、スラビアではセルティクと対戦する気満々だったのだが、ルーマニアの初戦で1−1で引き分けた後、スコットランドでは3−4でセルティックが破れ、スラビアの客を呼べる対戦相手という夢は消滅し、EUの西の果てスコットランドではなく、東の果てのルーマニアに行くことになったのである。チェコのチームはルーマニアのチームとは相性がよくない印象もあって、心配していたのだが、杞憂に終わった。非優勝チーム部門に比べると対戦相手は楽ではあるのだ。
ところで、チャンピオンズリーグの本戦出場を決めるまでのスラビアは、シーズンが始まって以来、問題が頻発していた。まず、アフリカ選手権に参加していたスラビアの守備を支える二人のアフリカ人選手が移籍してしまった。デリのほうは、チームとも移籍することで合意に達していたらしいからまだいいのだが、もう一人のヌガデウは今年は残ることで合意に達していたのに、アフリカ選手権後の休暇からプラハに戻ってくることはなく、強引に移籍してしまった。オーナーのトブルディークは、ひんぱんにツイッターでヌガデウを非難するようなコメントを出していたが、何の意味もなく、結局は選手と代理人がまとめてきた移籍を追認することになった。
ベテランのスロバキア人選手ストフもギリシャに移籍して行ったし、スラビアだけでなくチェコ代表の中心選手にまで成長したソウチェクにも、予選まではチームに残ることで合意に達しているとは言われていたけれども、移籍のうわさは堪えなかった。状態の上がらないスパルタに見切りをつけてエジプトかどこかに逃げていたルーマニア人選手のスタンツィウの売込みを受けて獲得したのもどちらかというと不安材料だった。
しかし、最大の問題は、チームや選手たちにはなく、中国資本に買収されて中国の代弁者トブルディークをオーナーに迎えて、チームの成績が向上したことで、勘違いして付け上がった一部のファンにあった。すでに昨シーズンから問題行動を繰り返して、リーグの規律委員会によって罰金やスタジアムの一部閉鎖などの処罰を受ける原因となっていたのだが、シーズン開幕直後の第三節エデンでのオロモウツとの試合で、持ち込んだ発炎筒を炊くのはいつものことだが、オロモウツのファンの陣取る場所に投げ込むという暴挙に出たのである。
その結果、発炎筒の持ちこみ事態が禁止されているわけで、それを相手チームのファンを攻撃するのに使った罪はさらに重いということで、スラビアには無観客試合が命じられた。トブルディークは罰が重過ぎるとして撤回を求めたが、却下された。これまで何度も繰り返されてきたファンの問題行動を、抑えることができていないし、対策をしているように見えなかったので、当然での罰だと受け止められていた。そして、このままでは今後も無観客試合が繰り返されることになるのではないかと予測する人もいた。同じ週に、スパルタが昨年のファンの人種差別的な言動に対する処罰でヨーロッパリーグの予選でむ観客試合を強いられていたし。
さすがにこの状態で何も手を歌ないというわけには行かなかったようで、スラビアではスタジアムを訪れる観客が守るべきルールの改定を行なって、ファンに対する締め付けをつよめる振りをした。ふりというのは、これまでもルールを守っていない連中が、厳しくなったルールを守るとも思えないからである。ただ、それに問題行動を繰り返してきた一部のファンが反発して、これまで「理想的なファン」とチームがおだててきたその一部のファンとチームの間が険悪なものになりつつあるようだ。
どのチームにも、チームの迷惑にしかならないのに、自分たちが最高のファンだと主張するアホな連中は存在する。スラビアも以前と比べるとそういう迷惑ファンが増えていて、チーム側が弱かったころも応援してくれたからと、勘違いして甘やかした結果、手がつけられなくなってしまっている。ここらで発炎筒をスタジアムに持ち込むのを当然だと考えるような連中は、入場禁止にでもしないと、本当のサッカーファンがいなくなりそうである。
迷惑ファンが買えるような発炎筒の販売の仕方も問題でこれは政治の怠慢だけど、チャンピオンズリーグや、ヨーロッパリーグの試合では、持ち込ませないことに成功しているのである。どうして同じような対策をとらないのか不思議でならない。トブルディークには、名前の通りトブルディー(硬い、頑固な)な対策、例えば入場ゲートのところに警察を呼んでおいて、発炎筒持ってスタジアムに来た連中は、片っ端から逮捕して発炎筒を没収するぐらいのことはしてほしいものである。
こんなことを書いたら、昨シーズン急成長を遂げてスラビアにの中盤に欠かせない選手になったクラールがロシアに買われていくというニュースが出てきた。うーん、組み合わせを見て勝てそうにないから、選手の希望にこたえたということなのかなあ。グループステージで全敗で敗退だと、チェコがチャンピオンズリーグの予選に1チームしか出場できないランキング16位以下に落ちかねないから、1勝、もしくは2分ぐらいは期待したいのだけど……。
2019年8月29日24時45分。
2019年08月30日
チェコの君主たち6(八月廿八日)
12世紀も半ばになると、チェコの国家に対する神聖ローマ帝国、つまりドイツからの影響、もしくは干渉は、ますます大きくなっていく。ソビェスラフ1世没後、跡を継いだのは甥のブラディスラフ2世だが、皇帝フリードリヒ1世との関係に苦労することになる。バルバロッサとか赤髭王などと呼ばれることもあるこの皇帝は十字軍の遠征を主導し、遠征中に命を落とすのだが、各地で積極的な軍事行動を起こす。そのうちの一つの北部イタリアの遠征に従軍し、功績を挙げたことで、ブラディスラフ2世は、ブラティスラフ2世に次いで、二人目のチェコ王、もしくはボヘミア王となる。
チェコの軍勢も参加した北イタリア遠征は、1158年に行われ、ブラディスラフの戴冠式は、ミラノの街を包囲している中で行われたらしい。ただし、この王位、王冠も、ブラディスラフ2世(王としては1世)個人に与えられたもので、チェコの君主が王位を代々受け継ぐという権利は与えられなかったようである。
神聖ローマ帝国との関係を安定させたブラディスラフ2世の治世下、チェコは大きな発展を遂げる。プラハ城は大きく改築され、ブルタバ川には石の橋がかけられ、プラハのストラホフなどには修道院が設立された。そして晩年のブラディスラフは、息子のベドジフに位を譲り、自らは出家してストラホフの修道院に入ってしまうのである。これが1172年のことで、ブラディスラフが没するのは1174年である。
安定した政権を築いたブラディスラフの引退は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にとっては、チェコの君主の継承に直接干渉して、政治的な立場を弱めるための機会だった。フリードリヒはベドジフによる継承を認めず、ソビェスラフ1世の息子のオルドジフを君主の座につけようとする。オルドジフは継承を辞退し、兄のソビェスラフに権利を譲ってしまう。ソビェスラフは、ブラディスラフ2世が、第二回十字軍に参加して国を空けていた1148年に反乱を起こそうとして失敗し、プシムダの城に幽閉されていたのを、皇帝の命令で解放されたばかりだったという。
君主となったソビェスラフ2世は、評判が悪く、皇帝フリードリヒ1世も持てあますところがあったようである。貴族たちを信じることができず、周りに身分の低い者たちばかりを集めていたため「農民侯爵」などとあだ名され、モラビアに置かれたプシェミスル家の一族やローマ教皇までもが、ソビェスラフの反対派に回った。教会に入ったプシェミスル家の中には、ローマに出て教皇に仕えた者もいるのである。
フリードリヒは、1178年に、一度は君主の座から追い落したベドジフに、チェコを領邦として与えることを決める。しかしベドジフは自ら軍を起こし権力を握るために戦わなければならなかった。チェコの諸侯を味方につけてソビェスラフ2世をプラハから追い落とした後も、ソビェスラフ2世が権力奪回を狙って、モラビアのプシェミスル家の支援を得て戦いを続けたため、最終的に国外に追放できたのは、1179年になってからのことである。
ベドジフはその後も、モラビアのプシェミスル家のコンラート・オタとの権力争いを強いられることになる。1182年に一度はチェコの諸侯がコンラートを君主の座につけたとも言われるのだが、最終的には、皇帝フリードリヒ1世が仲介することで、争いは決着する。その方法は、ボヘミアの侯爵位はベドジフに与え、モラビアは独立した辺境伯領として、コンラート・オタを辺境伯に任じるというものだった。このとき、ボヘミアの侯爵とは別にモラビアの辺境伯が神聖ローマ皇帝に仕えるという形式が成立した。両者を兼任する君主が多かったのは確かだけれども、いろいろな事情でボヘミア王とモラビア辺境伯が対立することもあったのである。
ベドジフが1189年に亡くなった跡を襲ったのは、モラビア辺境伯のコンラート2世(オタをどこにつければいいのかわからない)だった。コンラート2世はブジェティスラフ1世の子のコンラート1世の曾孫にあたるからかなり遠い親戚である。とまれ、これによって、ボヘミア侯爵領とモラビア辺境伯領は同じ君主を戴く形に戻ったのだが、コンラート2世の治世は長く続かなかった。
1190年にチェコに強い影響力を持っていた皇帝フリードリヒ1世が、第三次十字軍で出征中に小アジアで亡くなったのだが、コンラート2世はその跡を継いだハインリヒ6世の戴冠式のためのイタリア遠征に従軍し、その際、1191年にナポリを包囲中に伝染病に罹患して陣中で亡くなってしまうのである。
コンラート2世の訃報が、1191年の終わりにプラハ城に届いたとき、手際よく後継者の座を手にしたのは、ソビェスラフ1世の末子のバーツラフだった。このバーツラフの統治期間が、3か月と短く、翌年早々にはブラディスラフ2世の子のプシェミスル・オタカル1世によって侯爵位を奪われてしまうのである。この短さのせいか、ウィキペディアには、バーツラフ2世で立項されているが、子供向けの絵入りの本には単にバーツラフとしか書かれていない。
バーツラフはその後もあきらめることなく、プシェミスル・オタカル1世との戦いを継続するのだが、その争いは、プラハ司教のインドジフ・ブジェティスラフの要請で皇帝ハインリヒ6世が介入することで決着がつく。皇帝はプシェミスル・オタカルにチェコの君主の地位を認めたのである。バーツラフはドイツに逃亡し、最後はマイセン辺境伯領で捕らえられ獄死したと伝えられている。
長くなったので、プシェミスル・オタカル1世の話から次回ということにしよう。
プシェミスル家の君主E
19代 ブラディスラフ(Vladislav)2世 1140〜1172年
20代 ベドジフ(Bedřich) 1172〜1173年
21代 ソビェスラフ(Soběslav)2世 1173〜1178年
−− ベドジフ(Bedřich) 1178〜1189年
22代 コンラート(Konrád)2世 1189〜1191年
23代 バーツラフ(Václav) 1191〜1192年
コンラート2世が1182年に一度君主の在についたとも言われるが、煩雑さを避けて省略した。
神聖ローマ帝国だけでなく、西ローマのキリスト教の狂信の発露である十字軍までがチェコの君主たちの動向に影響を与え始めている。かくて教会の腐敗は進み、宗教改革でフスが登場する土壌ができつつあったというと先走りにすぎるだろうか。
日本では平安時代の終わり、院政期後半の末法の世である。鎌倉幕府が成立したころに、チェコが王位の継承権を得ることになるのかと考えると覚えやすい。とはいえそれはまた次回のお話である。
2019年8月28日24時30分。
2019年08月29日
切符を知らない子供たち(八月廿七日)
こんな、ショックなニュースを発見してしまった。切符の使い方を知らない若い人が増えているというのである。これで思い出したのが。10年前に日本に行ったときに、成田空港から電車に乗ろうとして、券売機を見つけるのが大変だったことだ。昔は、駅に入ればすぐにわかる位置に券売機があって、というか、あっちにもこっちにも券売機が置かれていたから、特に探す必要はなかったと思うのだが、散々歩き回らされた記憶がある。
それで、こっちが券売機を探してうろうろしているのをしり目に、自動改札にピッピッと何かを当ててホームに入っていく人の群れに、いわれのない怒りを感じたのだが、これはさらに状況が変わっていて混乱した渋谷の駅でのことだっただろうか。土地勘があったはずの渋谷駅で迷子になりかけたのも大ショックだったし。
日本に行く前に、日本で会いに行くことになっていた知人から、東京の地下鉄、私鉄の路線が増えてあれこれ変わっているよという話は聞いていて、親切に細かく説明しようかと言ってくれたのを、迷ったりしないよと断ったのを後悔してしまった。本格的に日本で電車に乗るのは10年ぶりぐらいだったから、とにかく戸惑うことが多かった。
だから、首都圏の電車地下鉄に乗るのに切符を買う必要のない人が増えているのは知っていたのだ。だけど、すでに切符の存在を知らない、知っていても使い方を知らない世代が登場しているとは予想だにしなかった。こちとら、そんな若い人たちが使っているICカードというものを知らないぞ。携帯電話に財布とか電車の定期券を入れられるとか言っていたのとは違うのか? それ聞いて、何でも一つにまとめられているのはいいけど、一つなくしたら大変なことになりそうだと、実際の使い方もイメージできないままに思ったんだけど、現在はさらに状況が進化しているのだろうか。
うーん。今度日本に行くときには、前回以上に浦島太郎状態になりそうだなあ。切符が完全に姿を消す前に日本に行かないと、電車の乗り方が書かれた日本旅行のガイドブックとか必要になるかもしれない。
思い返せば、子供のころ、鉄道の切符と言えば、出発駅と行先の駅名の書かれた硬券だった。改札でハサミを入れてもらうときの音の響きも耳に心地よかったし、遠くまで旅行したときには、駅員さんにお願いして記念にもらうなんてこともできていた。何か特別な判子をもらうんだったかな。その後、高校を卒業した80年代の終わりまでには、我がど田舎でも自動券売機が設置されて、切符も柔らかいものになったんだったか。
それでも、受験で東京に出たときか、旅行で福岡に行ったときかに初めて見た自動改札には、驚かされた。時間帯もあってがらがらだった福岡の地下鉄では、こんなもの必要なかろうと思ったのだが、東京の駅の混雑ぶりには、これは自動改札がないと駅員さん大変だわと感心したのを覚えている。それ以上に初めて通勤ラッシュ時に電車に乗ってその殺人的な込み具合に、大学に通学するのが嫌になりそうだった。遅めの授業を狙って朝の通勤ラッシュを避けることで何とかしたけど、夜は夜で飲んだ後の終電近くのラッシュもつらかったなあ。
生まれて初めて定期券なるものを手にして、バイトの関係もあって定期を2枚使用していた時期も長く、財布とは別に定期入れなんてものも持っていた。定期例にもちょっとお金が入れてあったから、財布を落としてもどうしようもないという状態にはならなかったのだけど、落としたことがあるのは定期入れだけで財布は一度も落とさなかったのかな。鉄道会社をまたぐ乗り換えのときとか2枚自動改札に入れるのが大変だったような記憶もあるんだけど、どうだったかなあ。乗り換えがあっても一枚にまとめてくれる場合もあったから、記憶があいまいになってしまっている。
オレンジカードというのは、JRの自動券売機で使えるプリペイドカードだっただろうか。それとも自動改札を通すと勝手に乗った分だけ残高が減っていくタイプのカードだったかな。古本屋巡りをしていて定期が使えないところに行くときには、私鉄のものも含めて、この手のカードを使うことも多かったから、自分でも常に切符を使っていたわけではないんだということに気づいてしまった。切符をいちいち買う必要がないというのは便利ではあるのだ。
チェコの鉄道も、90年代の初めまでは使われていた硬券を使わなくなって久しいのだが、最近印刷された切符も持たない人が増えている。車掌が切符の確認に来たときに、ネットで購入した切符をスマートフォンか何かで見せてお仕舞である。車掌は手に持っている端末で何とかコードをピッとかやるだけ。切符の種類によっては身分証明書の確認が入るけど。
これも日本で切符を使わずに自動改札を通って行った人たちを見たときと同じで、時代遅れを馬鹿にされているような気がしてムカつく。それでいてスマートフォンなんか絶対に使うもんかと、頑なになっているのだから、我ながら度し難い。この記事を読んで、自分が年を食ったことを久しぶりに思い知らされてしまった。事実だし仕方がないか。
2019年8月27日24時。
2019年08月28日
チェコの君主たち5(八月廿六日)
チェコの国家の勢力を拡大することに成功した名君とも言うべき人物が登場すると、その跡継ぎを巡って必ずのように一族内の権力争いが発生して国力を落としてしまうと言うのが、プシェミスル家の宿あのようなものである。初めて王冠を手にしたブラティスラフ2世の後も同様で、その没後ブルノのコンラート1世が跡を継いだものの、すぐに亡くなり、ブラティスラフ2世の長子で、父と対立して国外逃亡していたブジェティスラフ2世が1092年に君主の座についた。
ブジェティスラフ2世は宗教の面では、西ローマのキリスト教を重んじ、国内に異教を禁じる法令を出し、魔女や預言者とされていた人たちを国外に追放し、古代スラブ系の信仰に特有の聖木として崇められていた木を各地で伐採させた。そして、大モラバに東ローマのキリスト教を伝えたツィリルとメトデイの法統をつないでいたサーザバにあった修道院を破壊したのである。これによってチェコ国内のキリスト教は西ローマのキリスト教に統一されることになる。
この急進的な宗教政策は、強い反発を呼び、ブジェティスラフ2世が暗殺者の訪れを予期できるほどだったという。実際に暗殺されたのは、治世9年目の1100年の年末のことで、狩猟からズベチノの城に戻ってきたところを、ロルクとよばれる人物によって殺されたと言う。ただ、犯人のロルクはその場にいた侯爵の部下たちによって捕らえられ惨殺されたため、暗殺の目的も、暗殺者の正体もわからないものになってしまった。背後に国内諸侯や一族の誰かがいたとしてもおかしくはなさそうである。
翌1101年にブジェティスラフ2世の跡を継いだのは、弟のボジボイ2世だった。ただ、祖父のブジェティスラフ1世が定めた最年長のプシェミスル家の男子に当たらなかったため、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世の援助を必要とした。一説には、すでに兄ブジェティスラフ2世の生前に皇帝からボヘミアの侯爵に任じられていたとも言う。それをチェコの諸侯も追認したということなのだが、以後チェコの君主の選定に際して、神聖ローマ帝国皇帝がくちばしを挟む前例となる。
即位直後に、ブルノに封じられていたコンラート1世の息子、つまりボジボイ2世から見れば従兄弟のオルドジフが、プシェミスル家で最年長の男子であることを理由に、君主の座を求めて兵を上げボヘミアに侵攻する。このオルドジフ、人望がなかったのか戦闘が始まる前に軍が崩壊してしまい、継承権を手放すことで許される。
オルドジフの反乱は平定できたボジボイ2世だが、今度はオロモウツで従兄弟が反乱を起こす。ブジェティスラフ1世の息子でオロモウツに封じられていたのがオタ1世だが、その息子のスバトプルクが兵を挙げたのである。そのきっかけとなったのは、ボジボイ2世がポーランドの王位を巡る争いの中兵を出して、賠償金を得ることに成功したのに、協力したスバトプルクには分け前を与えなかったことらしい。
兵を起こしたスバトプルクはまず1105年にプラハを攻めるが落とせず、ボジボイ2世をドイツに追い落として権力を握ることに成功したのは二年後の1107年だった。そのすぐあとに、神聖ローマ帝国のハインリヒ5世によって捕らえられ、身代金を捻出するためにプラハを初めとするチェコ各地の教会、修道院を襲って財産を奪ったと言われている。
もっとも重要な(気がする)スバトプルクの政策は、二度の虐殺を経てなお、有力な貴族として勢力を復活したブルシュ家を子供も含めて完全に族滅する命令を出したことである。これまで二度の虐殺でも生き延びた男子がいたように、今回も生き残りがいて、これがスバトプルクに死をもたらすことになる。
外国に対しては、モラビアをポーランド、ハンガリーによって狙われていたため、ハインリヒ5世とともに、外征しているのだが、ハンガリーに遠征した際には、不運にも突き出した木の枝が目に刺さり片目を失ってしまう。1109年のポーランド遠征で、軍隊の中に紛れ込んでいた無名の暗殺者によって暗殺されてしまう。犯人は捕らえられなかったが、ブルシュ家の生き残りが雇ったのだろうと考えられている。
いわばオロモウツの分家出身のスバトプルクの後に、兄のボジボイ2世を退けて、君主の地位に付いたのはブラディスラフ1世だった。ただ弟のソビェスラフがチェコの諸侯の一部を率いてポーランドに逃亡し、ポーランドからチェコに攻め込もうとするなど、ブラティスラフ2世の息子たちの、従兄弟たちをも巻き込んだ権力争いが続く。
ブラディスラフ1世は、1117年になぜか、ドイツから帰国したボジボイ2世に権力を譲り渡す。3年後の1120年には、ボジボイ2世をハンガリーに追い落として、再び権力の座についているから、何が目的だったのか。死を前にして、従兄弟のスバトプルクの弟オロモウツのオタ2世を後継者に指名したらしいが、母親など周囲の圧力を受けて、対立していた弟のソビェスラフに変更せざるを得なかったのだとか。
ブラティスラフ2世の末子、ソビェスラフ1世がチェコの君主となったのは、1125年のことである。しかし、ソビェスラフと対立したオロモウツの分家のオタ2世が、神聖ローマ帝国のロタール3世に助けを求め、チェコに干渉する機会を得たロタール3世は、1126年の初め冬のさなかにボヘミア遠征を敢行する。雪の中国境の山を越えて平地に降りたロタール3世の軍勢を、ソビェスラフに率いられたチェコの軍隊が迎え撃ち、緒戦で圧勝する。
その緒戦でオタが命を落としたことで、対立する理由のなくなったソビェスラフ1世は、ロタール3世に和睦を申し出た。帝国と不毛な戦いを続けるよりは、関係を改善したほうがましだと考えたのだろう。この戦いが行われたのは、北ボヘミアのフルメツという街の近くで、このフルメツでは1813年にもナポレオン戦争の一環である大きな戦いが起こっている。
参考にした子供向けの本には、軍人としても、政治家としても、外交官としても、その能力を十分に発揮したソビェスラフが、死を前にして一つだけ計算違いを犯したと皮肉なことが書かれている。それは、1140年に亡くなった後に、後継者となったブラディスラフ2世が、ソビェスラフの息子のブラディスラフではなく、ブラディスラフ1世の息子のブラディスラフだったことである。同じ名前、同じような名前が頻出する結果、チェコの歴史はわかりにくいものになってしまっている。とまれ、ブラティスラフ2世の孫の世代の話はまた次回ということにしよう。
プシェミスル家の君主D
14代 ブジェティスラフ(Břetislav)2世 1092〜1100年
15代 ボジボイ(Bořivoj)2世 1101〜1107年
16代 スバトプルク(Svatopluk) 1107〜1109年
17代 ブラディスラフ(Vladislav)1世 1109〜1117年
−− ボジボイ(Bořivoj)2世 1117〜1120年
−− ブラディスラフ(Vladislav)1世 1120〜1125年
18代 ソビェスラフ(Soběslav)1世 1125〜1140年
ブラティスラフ2世の子供の世代の権力争いはほぼ50年続いたことになる。日本では院政が本格的に機能し始めて比較的安定していた時期にあたるのかな。
2019年8月26日24時。
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2019年08月27日
チェコから日韓関係を見る(八月廿五日)
日本と韓国の関係がまた、ややこしいことになっているらしい。最初に韓国という国の存在を認識したのは、70年代の終わりだっただろうか、金大中事件で大騒ぎになっていて、何がなんだかわからないと思ったのを覚えている。80年代の初めかな? それから80年代の半ばだっただろうか、時の韓国大統領が来日して、日本における韓国の人名の読み方にいちゃもんをつけて帰った。その翌日からニュースに登場する韓国名の読み方が変わった。当初は元の読み方も併用されていたような気もするけど、漢字表記との関連性が切れてしまって目から入ってくる情報と、耳から入ってくる情報の整合性が取りにくくなった。
さらに困るのは、歴史的人物の場合で、これは確か中国の人名でも起こったことだったので、伝統的な音読みと、現地語の発音での読みが混在して誰が誰やらわからなくなるなんてこともあった。現地での読み方を重視するというのは、悪いことではないのだろうけど、音読みで統一した方が便利だったと思う。現地読みだと知らない人の名前が読めないしね。だからこの問題が出てきたころに、ある国会議員が、抗議のために毛沢東を「けざわひがし」なんて読む嫌がらせをしていたのか。社会の先生は読み間違えたといっていたけど、それはありえないだろう。
さて、例によって枕が長くなってしまったが、チェコから、チェコの政治家になったつもりで、昨今の日韓関係を見ていて思うのは、「韓国はいいなあ」ということである。これは韓国をほめているのではなく、韓国が恵まれていることをうらやましがっているのである。ちょっと政治的に問題が発生しても、反日をあおれば支持率は上がるし、日本の首相が靖国神社に参拝して手助けしてくれることもある。経済的な問題が起これば、過去の出来事を、すでに解決されたことになっていたとしても、もう一度穿り返すことで、日本から金を引き出すことができる。この辺は韓国だけでなく、中国も同じなのだけど、チェコにもこんな打ち出の小槌のような隣国があると楽なんだけどねえ。
考えてみると、チェコと韓国の第二次世界大戦を基準にした立ち位置というのは非常によく似ている。どちらも隣に第二次世界大戦の敗戦国があって、対戦前にその国に占領されて「多大なる」被害を被った。戦後はその隣国が経済成長を遂げて経済大国になり、チェコの場合は冷戦が終わってからだけど、経済的な支援を受けてきた。反対側に赤い資本主義の大国が存在するのも似ているか。
アジアでは被害者の朝鮮半島が戦後、韓国と北朝鮮に分離したのに対して、チェコでは加害者国のドイツが、すでに再統一されたけど、東西に分裂した。チェコとスロバキアも分裂したけど、朝鮮半島の分断とは意味が違いすぎる。それから、東アジアにEUのような組織がないのも、現在のチェコと韓国の違いと言ってもいいかもしれない。
残念ながら、チェコでは、韓国が日本を叩くように、ドイツを叩くことはできない。いや叩いても意味がない。反独で政治的なキャンペーンを張ったとしても、国民が一枚岩になることはありえず、せいぜい共産党とオカムラ党の支持者のうちの極左の連中がそれに加担するだけだろう。ドイツ以上に嫌われているソ連の後継国であるロシアを攻撃した場合でも、共産党や社会民主党の支持者の一部は、反露キャンペーンに徹底的に反対するだろう。内政上の問題を外交の問題に注目させて、つまりは外国を敵に仕立てることで、乗り切ることはできないのである。だから、文化大臣の問題が延々と話題になり続けているわけだし。
日本の戦後賠償が不十分だという話にしても、ドイツと比べてどうなのかねえ。個々の強制収容所に収容されて強制労働させられた人たちへの賠償なんかしてないと思うんだけど。何せ、ユダヤ人と並んで、民族浄化の対象となったロマ人に対する補償に関しては知らん顔で、ポーランドのアウシュビッツやチェコのテレジーンなどユダヤ人関係の強制収容所の跡地は、整備されて博物館になっているのに、ロマ人の収容所に関しては記念碑さえも置かれていなかったのだから。
以前、ポーランドが、ドイツの意を受けたとみられていたEUからの干渉の大きさに腹を立てて、第二世界大戦の賠償を請求するとか言い出したときも、すでに終わった話だとすげなく切って捨てて歯牙にもかけなかった。日本も戦後のどこかの時点で、これでお仕舞ときっちり線引きをしておけばよかったのに、ずるずると引きずってしまうから、時間が経って事実関係の調査さえ難しくなってから話を蒸し返されてしまうのである。
戦前から戦後を生きた日本人の多くは、少なくとも我々のように1980年代に中学高校で勉強した日本人の多くは、右翼的思想の持ち主であれ、左翼的な思想の持ち主であれ、戦前戦中の出来事に関して、中国や韓国に対して何とも言い難い罪悪感を感じている。それは左翼だと中国、韓国の主張を全面的に取り入れる方向に向かい、極右だとすべてを否定して日本には悪いところなどなかったと強弁することになる。
実際に政権を握っていたのは右寄りの人たちなので、相手の言うことを全面的に受け入れることはしないまでも、罪悪感を軽減するために、あれこれ口実を付けて譲歩を続けてきたのが戦後の日韓関係だと言っていい。その日本人の感じる罪悪感が、世代交代が進むにつれて薄まってきたのか、日本側が譲歩しなくなってきたのに焦った韓国側が急進化して頑なになっているのが現状と言えるだろうか。
それにしても、韓国の展開する論理を見ていて思うのは、環境保護団体とか反捕鯨団体のやり口と似ているということである。やつらにとって議論というのは、自分たちの正義を相手に認めさせるためのものでしかなく、自分たちの考え以外のものは話し合いの結論にはならない。ささいな揚げ足取りで大騒ぎするのも特徴か。こんな連中との話し合いというのは時間の無駄にしかならないもので、最近の韓国も同じように対話とか議論と言うのが言葉の本来の意味を失ったところまできているように見える。
その点では、選挙に勝てば民主主義の勝利で、負けたら民主主義の危機とか抜かす日本の野党もおんなじようなものだよなあ。チェコの既存政党も同じようなところがあって、それで支持を失っているのだから話にならない。昔は国内政治でも外交でも、時に意味不明にずるずると譲歩することはあっても、もう少し建設的な議論、話し合いができていたような気がするのだけど、ノスタルジーから来る過去の美化なのだろうか。
日本も、そろそろ韓国や中国にとっての、都合の「いい国」であるのをやめる時期に来ているのではないかと思う。と取ってつけたような結論で今日のお話はおしまい。またまたとっちらかってしまった。
2019年8月25日24時30分。
2019年08月26日
創立百周年記念試合(八月廿四日)
金曜日、珍しくオロモウツの試合がチェコテレビで放送されたので、チャンネルを合わせたら、いつもの青いユニフォームではなかった。白地に左胸に丸エンブレムがついていて、襟の辺りは黒く紐もついているようである。何でと考えて思い出したのが、今年シグマ・オロモウツが創立百周年を迎えるという話だった。
創立百周年を記念して、かつてのユニフォームをモチーフにして現在の素材を使って復刻したらしい。もとになっているのは、残念ながら創立当時のものではなく、第二次世界大戦後の1954年に着用されたものだという。現在のごてごてとスポンサー名の入ったユニフォームと違って、すっきりしていてちょっとほしいと思ってしまった。
興味のある方はこちらのページを。左からファルタ、イェメルカ、ホウスカというオロモウツ育ちの中心選手がモデルを務めている。ファンショップで買うこともできるみたいだけど、ほぼ1000コルナ。うーん、熱心な段というわけでもないからなあ。
このレトロ・ユニフォームが金曜日のテプリツェとの試合で採用されて、チームは前半、後半とも、開始直後に得点を決めて2−0で勝利した。ビデオ審判がテプリツェのハンドを見逃さずにゴールを取り消してくれたおかげでもあるのだけど、縁起がいいといえば言えるのかな。しばらくこのユニフォームでプレーしてくれないかな。
ところで、創立百周年を記念した最大のイベントが、「Zápas století」と銘打って九月八日に行なわれる記念試合である。これはオロモウツだけではなく、チェコ代表にとっても伝説の監督であるカレル・ブリュックネル率いる2004年のヨーロッパ選手権の代表を中心とした元代表チームと、オロモウツの伝説的監督、チーム状態が悪くなると呼ばれていたペトル・ジョン・ウリチニー率いるオロモウツで活躍した選手たちを集めたチームの対戦となる。
現時点で出場がアナウンスされている元代表選手は、ヤン・コレル、ブラディミール・シュミツルの二人に、オロモウツ育ちのマレク・ハインツ、トマーシュ・ウイファルシ、ダビット・ロゼフナルの5人。オロモウツ育ちの3人はオロモウツチームでも出場するだろうから、まだまだ数が足りていない。大物ではネドビェットとかチェフとかも、都合がつけばという話にはなっているらしいので、もしかしたら来るかも知れない。その辺は、自らも運営にかかわっているというロゼフナルの交渉次第かな。
バニークで現役を続けているバロシュとか、運営にかかわっているヤンクロフスキ、ズリーンのGMのグリゲラ、スパルタのGMのロシツキーなんかは、国内にいるんだし、都合つけてくれないかなあ。チェスケー・ブデヨビツェのオーナーを務めていたこともあるポボルスキーも国内にいるはずだよなあ。
シグマ・オロモウツの伝説的選手では、まずマルティン・バニアクの名前が挙がっている。チャロデイ=魔術師と呼ばれたこのキーパーはシュートを止めるだけなら、世界有数の選手だったのだけど、古いタイプのゴールキーパーで足元の技術がいまいちで代表には定着できなかった。それでもギリシャとモストを経て移籍したスラビアでは、チャンピオンズリーグの予選で大活躍してチームを本選出場に導いたのだった。あのときはバニアクがいなかったら予選でボロ負けしていたはずである。引退後もオロモウツに住んでいるのか、何度か見かけたことがある。
次に名前の挙がっているオルドジフ・マハラは、2000年ごろまでは現役だったような記憶がある。外国からオロモウツに戻ってきたんだったかな。確か、次のミハル・コバーシュもそうだけどディフェンスの選手じゃなかったかな。
最後の二人はブラジル人のメリーニョとダニエル・ロッシ。シグマ・オロモウツのスロバキア以外の外国選手でもっとも成功した二人だといっていい。育成に定評のあるオロモウツでありながら若手選手があまり出てこなかったころ中盤を支えた二人で、当時の監督がウリチニーだったと思う。メリーニョがインタビューでウリチニーのあだ名のジョンの由来については聞いてはいけないといわれて、聞きに行こうと答えていたのを覚えている。由来自体は知ることができなかったけど。でもブラジルからわざわざ来るのかなあ。
こちらも数はまだまだという感じだが、スパルタで仕事をしているはずのコバーチとかバラーネク、スラビアのブルチェク、ズノイモで監督をしているクチェラとコーチのムハなどなど、引退してコーチや監督なんかでサッカー界に残っている人は多いから数は集まるかな。そういえば今の監督ラータルもオロモウツで活躍してドイツに移籍したんだった。現役も呼ぶならさらに選択肢は広がるし。
シグマ・オロモウツのホームページでは100年間のベストイレブンを選ぶ企画をやっていて、候補となる選手たちの名前が挙がっているのだけど、さすがに知らない選手が多い。このリストの中からどれだけの選手が集まるんだろう。ちょっと楽しみである。
もし、オロモウツの近くに住んでいてこの試合、スタジアムで見たいという場合にはこのページから。八月上旬の時点で、すでに6割のチケットが売れているといっていたから、お早めに。
2019年8月24日24時。
2019年08月25日
チェコの君主たち4(八月廿三日)
父オルドジフの跡を継いだのは、モラビアの統治を任されていた息子のブジェティスラフ1世である。このブジェティスラフ1世は、どうも正妃の子ではなく、伝説によると、ボジェナという女性を見て一目で気に入ったオルドジフが、夫がいるのにもかまわず、誘拐して愛人にし、生まれた子供がブジェティスラフ1世だという。幸いなことに、正妃との間には子供が生まれなかったため、プシェミスル家のお得意の兄弟間の権力争いは発生しなかった。
ブジェティスラフ1世は、母親の身分が低かったために、妻を迎えるのに苦労するだろうと予測されていたようだが、父親と同じ方法で解決した。つまり、正妃となれる身分の高い女性を誘拐してきて結婚したのである。修道院で育てられていたバイエルン公爵家の娘を、信頼できる部下と共に忍び込んで誘拐しチェコに連れて帰って来て、モラビアへも一緒に向かったのだとか。5人の息子に恵まれたというから、誘拐から始まったとはいえ良好な夫婦関係を築けたのかな。
君主の地位についたブジェティスラフ1世は積極的に軍事行動を行い、1039年にはポーランドの中心ともいえるグニェズノの街を占領することに成功する。この街にはスラブニーク家の族滅を生き延びたもう一人、元プラハ司教のボイテフの墓があり、バルト海沿岸の異教徒への布教中の殉死をたたえられて列聖された聖ボイテェフの墓の前で、チェコにおける最初の基本法典の発布したらしい。
このとき、聖ボイテフの遺骸をチェコに持ち帰ったのだが、以後、チェコとポーランドの間で、聖ボイテフをめぐる争いが巻き起こることになる。記憶違いかもしれんけど。
このブジェティスラフ1世の積極的な軍事行動は、神聖ローマ帝国のハインリヒ3世との間に対立を生み、1040年に皇帝軍によるボヘミア侵攻が行われた。このときは撃退に成功したものの、翌年の再侵攻の際には、ブジェティスラフ1世は皇帝に降伏し忠誠を誓わされることになる。以後はポーランドではなくハンガリーのほうに勢力を拡大していった。
最後のブジェティスラフ1世の功績としては、死を前にして、プシェミスル家の相続のルールを制定したことが挙げられる。以後、プシェミスル家の最年長の男子が君主の地位を継ぐように定められたのである。
ブジェティスラフ1世の死後、跡を継いだのは、長子のスピティフニェフ2世だった。同時に、3人の弟たちには、モラビアを三つに分割しその統治が任されたという。コンラートはブルノ、オタはズノイモ、
とまれ、これが領地を与えて分家を建てさせる目的でなされたのか、単に統治を任せただけなのかはわからないが、一度廃止されたモラビアの3領土はすぐに復活する。そして、最終的には統合されて、モラビア辺境伯領が成立する。これは12世紀に入ってからのことである。末弟のヤロミールは教会に入ったらしい。
また、神聖ローマ帝国、つまりドイツとの関係が悪化したわけでもないのに、ドイツ人をチェコから追放する命令を出している。それはバイエルン侯爵家出身の母親も例外ではなく追放の憂き目にあった。ただ、ドイツ人追放を神聖ローマ皇帝がとがめた様子もないことから、追放されたのは母親とその周辺のドイツ人だけだったのではないかとも言われる。正妃もドイツのザクセンから迎えているし。
スピティフニェフ2世は、父がモラビアの統治をしていたオロモウツで生まれ、即位後6年、1061年にシレジアのオパバの近くで亡くなったらしい。息子は一人いたが、出家して教会に入り、ローマ教皇の側近としてイタリアで活動することが多かったようである。後を継いだのは、すぐ下の弟ブラティスラフ2世だった。ブジェティスラフ1世の定めた最年長者の相続ということですんなり決まったのだろうか。
宗教面では、プラハの司教座の影響力を弱めるために、オロモウツに領内二つ目の司教座を設置することに成功する。これが1063年のことで、5年後の1068年にチェコの諸侯たちがプラハの司教として叔父のヤロミールを就任させて、
外交の面では、神聖ローマ帝国との関係を重視し、皇帝ハインリヒ4世の要請にこたえて各地の軍事行動で貢献し、またローマ教皇との争いにおいても、皇帝を支持し続けたことで、忠誠に対する感謝のしるしとして、王位を授けられた。それが、1086年のことで、一代限りとはいえ、チェコの君主が初めて王の位を獲得したのである。
と書いてはみたものの、当時の王の意味がよくわからない。これによって神聖ローマ帝国内でのチェコの地位が上がるのはある程度予想されるが、王になっても皇帝の下であることには変わりないのだし、国内的には君主として諸侯の上に立つ構図は変わりようがない。威信が高まるとかいう効果があったのだろうか。
その結果、
プシェミスル家の君主C
10代 ブジェティスラフ(Břetislav) 1世 1034〜1055年
11代 スピティフニェフ(Spytihněv)2世 1055〜1061年
12代 ブラティスラフ(Vratislav)
13代 コンラート(Konrád)1世 1092年
ブルノを統治した期間が長かったせいか、コンラート1世にはブルニェンスキーというブルノからできる形容詞がつけられることが多い。
この二世代、四人の君主は、藤原頼通の時代と重なるか。最後のほうは院政期に入るけど。もう一つ重要なのは、チェコ、もしくはボヘミア王ブラティスラフ1世(ボヘミアの侯爵としては2世)が仕えた神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、いわゆる叙任権闘争でローマ教皇のグレゴリウス7世と争って、「カノッサの屈辱」事件を起こした人物だということである。神聖ローマ帝国が、皇帝と教皇の対立で揺れている中、ブラティスラフは一貫して皇帝を支持し続けたのである。確か皇帝は実の息子たちにも離反されていたはずだから、王位ぐらいくれるわな。
2019年8月23日24時。
山のように人名の間違いがあったので、赤字で修正。いやあ申し訳ない。8月26日修正。
2019年08月24日
八月廿一日のできごと(八月廿二日)
8月21日に、ワルシャワ条約機構加盟国の軍隊が「プラハの春」の民主化運動を押しつぶすために、チェコスロバキアの国境を越えて侵入してきたのは、1968年のことだった。各地で起こった抗議行動は、ソ連軍を初めとする軍隊の手によって鎮圧されてしまい、チェコ人、スロバキア人たちの抗議行動は、一部の例外を除いて街から姿を消す。
その後も、ワルシャワ条約機構加盟国に対する抗議と、沈黙するチェコスロバキア国民に抵抗を呼びかけることを目的とした二人のヤン、パラフとザイーツの焼身自殺や、アイスホッケー代表が世界選手権でソ連代表を二回破るなどの出来事を経て、チェコスロバキアの人々が、再び抗議のためにナチに出たのは、侵攻からちょうど一年1969年の8月21日のことだった。
一年前と同様に、チェコスロバキア各地で抗議の集会やデモ行進が行われたが、今回もやはり暴力的に鎮圧されてしまう。違ったのは、ソ連などの駐留軍ではなく、チェコスロバキアの治安維持組織と民兵組織が鎮圧部隊の中心となっていたことらしい。
チェコスロバキア全土で、5人の犠牲者が出たというが、この数は少ないというべきか、多いというべきか。1968年より少ないのは確かだが、救われないのは、犠牲者の中に抗議集会に参加してなかったのに、たまたまその場を通りかかって、流れ弾に当たって亡くなった人がいることで、一番若いのは14歳の男の子だったという。鎮圧になれていない民兵組織が参加していたせいだろうか。
それからこれも通りがかりの女性を含め二人の人が殺されたブルノでは、当時何かのスポーツの世界選手権が行われていて、世界中から取材に来ていたスポーツ記者たちが、大会そっちのけで抗議の様子を取材してくれたおかげで、映像や写真などが残っているのだという。
また、3人の死者と大量の負傷者を出したプラハでは、市内各地の病院で、非公式の、記録に残さない治療が行われていたらしい。非公式の患者は入院が必要でも公式の病室には入れられないので、ほとんどだれも来ないような地下の廊下なんかに収容されていたのだとか。治安維持部隊はデモ参加者を追いかけて病院にまで押しかけてきたと言うから隠れるしかなかったようだ。銃弾が当たって壊れてしまった医療機器も残されていて、手術中じゃなくてよかったと当時を知る人が回想していた。
歴史家の話によると、チェコスロバキアの人々の抵抗の心を折ったのは、1968年のソ連など外国の軍隊による弾圧ではなくて、この1969年のチェコスロバキアの人々自らの手による弾圧だったのだという。同じチェコスロバキアの国民が、抗議する側とそれを鎮圧する側に分断されてしまったのは、ソ連の巧妙なやり口なのだろうが、その結果、憲章77や亡命者などを除いて、チェコスロバキアの人々は共産党政権にたいして従順になってしまう。
心を折られたというのは、1989年の11月のビロード革命の際に、68年、69年のことを知っている師匠の旦那が、「まだ早い、早すぎる」と言って自分ではデモに参加できなかったのにも現れているのだろう。最初にこの話を聞いたときには、無頼派っぽいこの人なら、真っ先に抗議に立ち上がっただろうにと不思議に思ったのだが、若き日に心を折られていたと考えれば、その意外な慎重さにも納得がいく。
言ってみれば、この1968年8月21日の出来事というのは、その後20年間のチェコスロバキアの在り方を決定づけたと言ってもいい。チェコスロバキアの一般の人々には共産党の支配を受け入れて生きていくしかなくなったのである。共産党体制下で、反政府、反体制を貫くのは、日本人には想像もできないような苦難の道だったはずだ。
そんな8月21日に、ゼマン大統領が一般のチェコ国民の感情を逆なでするような行動に出た。文化大臣をめぐる政局の混乱が理由なのか、国会に議席を有する政党の党首たちとの会談を行っている大統領が、よりによって8月21日に共産党の党首を招待して会談を行ったのである。次の選挙に出られない政治家ってのは、落選を恐れる必要がないから怖いものなしになってしまうのかね。これでは、ソ連軍の侵攻を認めた当時の共産党政権の行動を認めていることになりかねない。
それに対して、1968年のソ連軍の侵攻を許さない人たちもいて、なぜかプラハに立てられた、侵攻軍の指揮者であったコーネフの銅像にペンキをかけるという行動に出た。これは毎年のように8月21日に起こっていることで、管轄しているプラハ6区でも対応に苦慮しているようで、ロシア大使館に引き取りを求め、引き取らない場合にはペンキのかけられた状態で放置すると通達したという話もある。
もともとこの像には、チェコから見ても功績と言えなくもない1945年のプラハ解放でプラハの街を守ったという説明だけがついていたらしいが、その後、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春に際して、ソ連軍を率いて抗議する民衆を暴力的に弾圧したという説明が付け加えられている。ロシア大使館ではこの説明の追加に対して抗議したということなのだけど、ロシアはソ連の後継国家として、ソ連時代の公式見解を変えてはいないからなあ。1968年の件でも謝罪や補償などしていないはずである。
2019年8月22日24時。
2019年08月23日
文化大臣問題決着か(八月廿一日)
五月の前半から、チェコの政界を揺るがしている文化大臣の問題がようやく決着しそうな見通しになってきた。揺るがしているのは、文化大臣の問題ではなくて、ゼマン大統領その人だといえばそれはその通りで、ゼマン大統領にバビシュ内閣はもとより、野党側も振り回されて、この騒ぎで得をした人など、大統領も含めて誰もいないように見える。それはともかく、前回七月初めにこの件について書いて以来の動向を簡単に、覚えている範囲で書いておく。
7月中旬に行われたゼマン大統領と、バビシュ首相、ハマーチェク社会民主党党首の三者会談は、期待されたような即時の解決はもたらさなかった。ゼマン大統領は言を左右して社会民主党の要求を受け入れるとも受け入れないともはっきり言わなかったし、社会民主党も文化大臣交代の要求を取り下げようとはしなかった。
この時期、バビシュ首相の指導力のなさが批判されていたというか、チェコ語で「弱い(slabý)」首相だと批判されることが多かった。この形容詞でどんなことを言いたいのかが問題で、直訳である日本語の弱いとはかなり違った使い方をする批判の言葉なのである。学校なんかだとできの悪い学生のことを、「slabý student」なんて言うし、スポーツでは本来の実力も発揮できないようなプレーに終始したときになんかに、「slabý výkon」と批判される。
そうすると、このバビシュ首相に対する批判も、単に弱いから連想される「弱腰な」とか、「弱気な」などの言葉よりは、「無能な」「不出来な」「ふさわしくない」などの強い批判の意味が込められたものではないかと思われてくる。ただ、批判する側も、バビシュ首相を十分に追い込めなかったという意味では「slabý」なのだけど。
その後、どういう心境の変化があったのか、ゼマン大統領は七月の末日付でスタニェク氏を解任することを決め実行した。ただ後任として候補になっていたシュマルダ氏に関しては、二人で会談などをしたにもかかわらず、任命するかどうかは夏休みが終わってから発表するとか何とか言って、プラハを離れたらしい。
社会民主党は、かたくなにシュマルダ氏の任命にこだわり、任命されないのはバビシュ首相のゼマン大統領との交渉が足りないからだとか何とか批判し、連立を継続する条件として改めてシュマルダ氏の任命を求めていた。ただ野党が批判していたように、条件を突き付け、この日までにという期限を突き付けるところまでは強気なのだが、その期限が守られなくても、なんだかんだ理由を付けて起源を引き延ばす印象があって、社会民主党の迷走に拍車がかかっていることがうかがえた。
そもそも、自分たちが文化大臣に就任させた人物を、自分たちの都合で解任し、新たな大臣を任命させようとしているにしては、任命されないのは首相の責任だと言い続けて、無責任な印象を与えていた。もちろんバビシュ首相の社会民主党内のもめ事なんだから自分には関係ない的な言い訳も無責任で、互いに責任を押し付け合う、チェコ語で言うところの「horké brambory(熱いジャガイモ)」を投げつけ合っている印象しか残らなかった。
このころからだと思うが、来年度の予算に関して社会民主党の大臣たちが、予算の増額を求めて大騒ぎし始めた。要求が認められなかったら国会の予算審議で反対に回るとか言い出したのかな。ただでさえ増大した予算と赤字の大きさを批判されている中、ニュースのキャスターが財源はどうするのだと質問すると、銀行税とかデジタル税とかよその国で導入して成功した(ように現時点では見える)新税を導入すれば問題ないとか答えていた。来年に間に合うのかとは、キャスターも質問しなかったけど、バビシュ首相を追い詰めるための要求にしか聞こえなかった。
そして13日だったかな。ゼマン大統領本人ではなく、広報官のオフチャーチェク氏がツイッターかなんかで、大統領がシュマルダ氏を任命しないことを発表した。発表のしかたが間違っていると思うのは、時代遅れの人間だからだろうか。とまれこれで社会民主党がまた大騒ぎをすることになったのだが、当時はバビシュ首相もハマーチェク氏も休暇中で、休暇から戻ってから対応するとか何とか発表していた。
社会民主党内では、シュマルダ氏の任命にこだわるべきだという声も高く、本人もこの時点では任命を辞退する気はないと主張していたような気がする。もちろん社会民主党内からは、政権を離れて下野したほうがいいという主張も再び聞こえ始めていた。大臣たちの予算に対する要求も強くなっていたので、これは社会民主党は腹くくったかなと期待したのだが……。
風向きが変わったのはいつだっただろうか。どこかの新聞が、社会民主党が連立を解消しても、ANOの単独政権で、下院で信任を得られそうだという記事を出した。ANOと共産党が基本票だが、それに市民民主党を追放されたクラウス氏のグループ、オカムラ党を追放されたオストラバのグループ、それに文化大臣をおろされて面目をつぶされたスタニェク氏の票を合わせれば、バビシュ内閣は下院で101票を確保できるというのだ。
この記事の真偽は知らないが、翌日辺りにバビシュ氏が、開き直ったような発言を始めた。シュマルダ氏は、ゼマン大統領の言うように文化大臣にはふさわしくないから再度任命を要求はしないということと、社会民主党は連立を継続する気があるのかないのかはっきりさせるべきだということを主張した。連立を続けたいなら文化大臣の件でも、予算の件でも協力しろということなのだろう。これまで我慢していたうっぷんを晴らすかのような、豹変ぶりだった。
これで慌てたのが社会民主党で、シュマルダ氏がバビシュ政権の大臣にはなりたくないと言い出し、連立を解消することを主張し始めた。そして、人選が楽になったハマーチェク氏は、連立解消に踏み切ることはできず、元外務大臣のザオラーレク氏を文化大臣に擁立することを発表した。この人選に関してはバビシュ首相だけでなく、ゼマン大統領も反対しないということで、残念ながらバビシュ内閣が倒れて秋に総選挙という楽しみはなくなってしまった。
ザオラーレク氏は、ソボトカ氏の後を受けて、2017年の選挙で社会民主党の看板を務め、反バビシュ、反ANOを掲げて惨敗した後は、責任を取ってか党の要職からは離れていた。ANOとの連立交渉に際しても一貫して反対の立場に立っていたのだが、党のあまりの迷走ぶりに火中の栗を拾う決断をしたということだろうか。
これでこの文化大臣を巡る騒ぎが終了ということになるのか、社会民主党が前言を撤回して下やということになるのかわからないが、ゼマン大統領の社会民主党解体はだけは着実に進んでいる。ゼマン大統領に太刀打ちできそうな人材がいないのも社会民主党が迷走を続ける理由になっているのだろう。
2019年8月21日24時。
2019年08月22日
チェコチーム全滅(八月廿日)
今日、昨シーズンの優勝チームであるスラビア・プラハが、久しぶり二度目のチャンピオンスリーグ本戦出場をかけた予選四回戦の第一試合を行うのだが、その試合について触れる前に、ここまでのチェコチームの敗退ぶりを簡単に紹介しておこう。そう、スラビアこそ、この予選で負けても、ヨーロッパ・リーグの本戦進出が決まっているが、チェコから予選に出場した他の4チームは、予選三回戦までにすべて敗退してしまったのである。
出場チーム数は、去年と変わらずチャンピオンズリーグが2、ヨーロッパリーグが3の合計5チームだが、ランキングが高かった去年は優勝チームのプルゼニュが予選免除で本戦からの出場だったのに対して、今年はスラビアが優勝チーム部門の予選四回戦、プルゼニュは非優勝チーム部門の二回戦からの出場である。ヨーロッパ・リーグでも去年はヤブロネツが予選なしで直接出場したが、今年はスパルタが予選3回戦、ヤブロネツとムラダー・ボレスラフが2回戦からの出場となっている。
最初に敗退が決まったのは、ヨーロッパ・リーグの予選2回戦で敗退したヤブロネツだった。対戦相手はアルメニアのFCピュニク(読みは違うかも)・イェレバン。チェコのチームって、旧ソ連のチームとは相性はあまりよくないのだけど、名前を聞いたこともないチームだから、何とかなると思ったんだけどねえ。
初戦の試合前からあまり縁起はよくなかった。乗る予定の飛行機に問題が発生した上に、代替機には飛行の許可が下りず、何時何も遅れて結局政府の特別機でアルメニア入りしたらしい。しかも会場がU19のヨーロッパ選手権が開催されている関係で、イェレバンではなく100km以上はなれた町で、到着したのは試合当日になってから。しかも監督のラダの話では、アルメニアのスタジアムは滅茶苦茶状態が悪くて、何でこれでヨーロッパリーグの試合の開催が許されるのかというレベルだったらしい。チェコの3部リーグ以下だとかいっていたかな。
そのせいというわけでもないのだろうけど、前半にあっさり2失点。後半に入ってドレジャルが1点取ったものの、同点には追いつけず敗戦。ホームで1−0で勝てれば勝ち抜けだったのだけど、ホームでは1点も取れずに、0−0の引き分けで敗退が決まった。ヤブロネツ、勝ちぬけられないねえ。毎年選手の入れ代わりが多くて、チーム作りが大変とは言っても、同じような立場のリベレツは何度か予選を勝ち抜いて本選に進んでいるんだけどなあ。獲得ポイント0.5。
予選で勝てないといえば、 同じく2回戦から出場したボレスラフも、なのだけど、2回戦は勝ち抜いた。対戦相手はヤブロネツの相手よりもさらに東のカザフスタンのオルダバシ・シムケント。ホームでの初戦で何とか1−1で引き分けたときには、難しいかなと思ったのだが、カザフスタンでは3−2で勝って勝ちぬけを決めた。ボレスラフのカザフスタン行きでも、行きも帰りも予定よりもはるかに時間がかかるというトラブルがあったらしい。チェコのチームが旧ソ連圏のチームとは対戦したくないと言うのには理由があるのである。
3回戦の対戦相手は、ルーマニアのステアウア・ブカレストというチーム名を使用することを禁止されているFCSB。オーナーがあれで、監督交代が頻繁に起こっていて、現時点で監督不在だということだったので、勝ち抜けられるかと期待したのだけど……。ルーマニアでの試合を、どちらかというと優勢に進めて0−0で引き分け、ホームでの試合も終了直前まで0−0で頑張っていたのだけど、ほとんど最後のプレーで得点を決められて敗戦、同時に敗退も決まった。点は取れそうになかったから勝ち抜けるとすればPK戦しかなかっただろうけど、せめて延長までは持ち込んでほしかった。獲得ポイント2。
ヨーロッパリーグの予選三回戦から出場したスパルタの相手はトルコのトラブゾンスポル。チェコ代表のノバークがプレーするチームである。初戦のプラハでの試合が、トラブゾンスポルにとっては今シーズン最初の公式戦だったらしい。そのチームも、ここの選手のコンディションも出来上がっていないところをついて、2−0でリードしたところまでは、最高だった。そこから一気に2点取られて引き分けてしまったのが、スパルタが敗退した原因である。
トルコでの試合は、勝つか3点以上取っての引き分けが勝ちぬけの条件だったが、試合開始直後に相手に点を取られてしまう。今のスパルタにこれを逆転できるだけの力はなく、80分ごろに同点に追いついたのだけど……。最後はノバークに90+8分に決勝のゴールを決められてしまった。PKまで止めたキーパーの奮闘もあって惜しいところまでは行ったのだけどねえ。守備が不安定なのが一番の問題かな。獲得ポイント0.5。
プルゼニュはまずチャンピオンズリーグ予選の2回戦でギリシャのオリンピアコス・ピレウスと対戦。ホームではなんとか0−0で引き分けたものの、二試合目で0−4と格の違いを見せ付けられた。その結果ヨーロッパリーグの予選3回戦に回りベルギーのアントワープと対戦することになった。不安は点が取れないこと。多少の失点は覚悟の上で、取られた以上に取り返して勝つのが身上のプルゼニュが点が取れないとなると、勝ち目は薄い。
ベルギーでの初戦は、相手に見事なシュートを決められて0−1で敗戦。またまた無得点だった。それどころか点が入りそうなチャンスもほとんどなかった。プルゼニュでの試合も、今回は前半からチャンスを作り出していたけど決めきれずに、なかなか点が入らなかった。それでも、80分過ぎにクルメンチークのゴールで先制。もう一点取れずに延長にもつれ込ませたのが、敗退の原因と言えば言えるのかなあ。延長前半の95分過ぎに、またまたクルメンチークの得点で2−0にしたときには、勝ち抜け決まりだと思ったのだけどねえ。
延長後半に入って相手のディフェンスの選手とか、攻められ続けてもううんざりという顔をしているように見えたのだけど、とどめの3点目が取れなかった。取れないでいるうちに、疲れからか、ミスが二つ三つ続いて失点。万事休すであった。ヨーロッパのカップ戦の予選で比類なき強さを誇ったプルゼニュの姿はどこにもなかった。獲得ポイント1.5。
スラビア以外の4チームで獲得したポイントが合計4.5。出場チーム数の5で割って、0.9.。コリャランキング上げるどころか落としそうだなあ。幸いスラビアが緒戦に勝って1点積み上げてくれたけど、去年みたいには稼げないだろうなあ。そのスラビアについてはまた今度。
2019年8月20日24時。