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2017年05月13日

森雅裕『画狂人ラプソディ』(五月十日)

画狂人ラプソディ (カドカワノベルズ)



 1985年8月に角川ノベルズから出版された森雅裕のデビュー作である。それから11年後の1996年にKKベストセラーずから出た『推理小説常習犯』によると、江戸川乱歩賞に応募するために写楽の謎を中心にした小説を書いていたら、高橋克彦の『写楽殺人事件』が乱歩賞を受賞したために、北斎の謎を中心に書き直して応募したものの落選、それをまた大幅に改稿して横溝正史賞に応募して佳作に入った作品だという。ただし、乱歩賞でだめだったものをよその賞に回したとして、業界から批判されたというから、出版業界とうまくいかない森雅裕の運命を決めた作品と言ってもいいかもしれない。デビュー作というものは、多かれ少なかれそんな面はあるのだろうけど。

 高校時代に『モーツァルトは子守唄を歌わない』を読んで、森雅裕の存在を知った後、本屋でこの作品を手に取ったのは覚えている。裏表紙に書かれている著者の言葉に目を通し、表紙側の袖の部分に書かれたあらすじまで読んだ上で、買わなかったのだけど、後に森雅裕ファンになった後、このときのことを死ぬほど後悔したのは言うまでもない。80年代の後半には田舎の本屋でもたまに目にしていたものが、90年代に入ると、どこをどれだけ探しても見つからない本になってしまっていた。
 古本屋でも見つけることができず、結局読めたのは、1997年にKKベストセラーズが「森雅裕幻コレクション」と題したシリーズの二冊目として、刊行してからだった。その後も古本やめぐりはやめなかったのだけど、発見できたのかどうか記憶が定かではない。

 さて、念願の『画狂人ラプソディ』を読んで感じたのは、強い既視感だった。芸術系の大学が舞台となり、音楽と美術にまたがって謎と人脈が展開するのが、『椿姫を見ませんか』に通じたのはまだしも、主人公亀浦と相棒の歌川などの関係は、『歩くと星がこわれる』に出てきたものとほぼ同様だった。刊行年を基に言えば、『画狂人ラプソディ』が本歌ということになるのだろうが、『歩くと星がこわれる』が自伝的作品であることを考えるとこちらのほうが現実に近そうだともいえる。この辺りに過度に実在の人物をモデルにしてフィクションを作り上げる方法の弱点があるのかもしれない。私小説であれば、それも好しなのだろうけどさ。
 この時点で、『画狂人ラプソディ』を読み、面白いと思い、読めたことの幸せを噛みしめた理由が、作品の素晴らしさにあったのか、これまで読めなかった森雅裕の作品が読めたことにあったのか、自分でも定かではない。著者自身が若書きで欠点も多いという作品だけれども、その欠点があってなお、読ませる作品ではある。ただ、高校時代に読んでいたら、森雅裕ファンになっていただろうかと考えると、なっていなかっただろうと思う。その意味では、既視感はあったとはいえ、既刊の作品では最後に読んだのはよかった。

 今回、再び読み返して、高校時代に買わなかった、いや買えなかった理由らしきものが見えた。それは作品の冒頭部分である。ドゥカティのバイクに乗って主人公が登場するところまではいい。バイクマニアの矜持を語るのも森雅裕だ。だけど、父親を亡くしたばかりの別れた恋人の姿を見つけたとたんにおたおたするのは、主人公に似合わない。買うか買わないか決めかねていて、最初の部分を立ち読みして、このシーンが出てきたら、高校時代の自分には買えなかっただろう。
 森雅裕の作品だからという理由で本を購入し読むようになってからなら、あばたもえくぼではないけれども、そういうちぐはぐな部分も楽しめるのだけど、『画狂人ラプソディ』を最初に読んで森雅裕の熱狂的なファンになった人というのは、それほど多くはいるまい。その代わり、遅れてきた熱狂的なファンにとっては手に入りづらくて、垂涎の書となっていたのだから皮肉である。「幻コレクション」版が出たとはいえ、現在でも状況はあまり変わらないようだ。森雅裕のファンになるということは、著書をすべて手に入れるために苦労を余儀なくされるということでもある。新刊の刊行を渇望して、やがて絶望にいたるという運命もあるか。

 具体的な事件の内容はネタばれになるので書かないが、ほとんど知り合ったばかりの史美が、自らが妾の子であることをあかし、それに対して亀浦が「俺も孤児だと」いうシーンには、初読の際から違和感を感じた。森雅裕の主人公が、こんな他人にすぐさま心を開くなんてありえない。出会った場面での気が合いそうだという直感を強調したかったのだろうけれども、早すぎる。
 それから、語り手のカメさんよりも、相棒のウタさんのほうが、主人公っぽい行動をしているところがあって、ウタさんを主人公に据える手はなかったのかなとか考えてしまう。この辺りは、いつだったかネット上の書評で読んだ「ハードボイルドにしようとして失敗している」という批評が当てはまるのだろう。
 しかし、繰り返しになるが、森雅裕のファンは、上に書いたような作品の欠点も楽しめるのである。いや、楽しめるようにならないと森雅裕のファンとはいえないのである。その意味では、森雅裕の作品を何作も読んだ後で読む『画狂人ラプソディ』は、真のファンたりえるかどうかの試金石のようなものかもしれない。出版業界にとっては踏み絵の方がいいかな。

 まだ森雅裕を読んだことのない人が、この駄文を読んで『画狂人ラプソディ』を読もうという気になるとは思えないが、最初に読む森雅裕作品としては、『モーツァルトは子守唄を歌わない』か、中公で最初に出した『さよならは2Bの鉛筆』あたりがお勧めだろう。その後、最低でも『椿姫を見ませんか』から始まる鮎村尋深三部作を読んで、『歩くと星がこわれる』を経て、『画狂人ラプソディ』という流れがいいかな。途中で『マン島物語』と『サーキットメモリー』をこの順番で読んでおくのも悪くない。とにかくカドカワから出た二冊は、できるだけ後回しにしたほうがいい。手に入りにくいから普通に読み進めてもそうなる可能性は高いけど。ここに上げた本全て絶版だし。

 出版不況といわれて久しい昨今、それほど多くはなくても一定数の読者が期待できる森雅裕の本って出版社にとってはありがたい存在だろうに。新刊は無理でも、既刊のうち最終校後データが残っている分だけでも、電子書籍にして流通させてもらえないものだろうか。大日本印刷とか凸版印刷あたりの倉庫の奥にフロッピーが残ってたりしないのかなあ。特に新潮社の『平成兜割り』。
 いや、それよりも新刊の小説が刊行されることを希望したいのだけど、毎年四月初めに本屋を回っていた頃の絶望感を思い出したくないから、期待はしないことにする。既刊本が読めるだけでも幸せである。
5月11日15時。



画狂人ラプソディ―森雅裕幻コレクション〈2〉 (ワニの本)






posted by olomoučan at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕
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