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2017年04月02日

オロモウツ観光案内1(三月卅日)



 オロモウツの観光名所というか、記念物については、折を見て書いていくつもりだったのだが、いくつか書いた時点ですっかり失念していた。冬の寒さも和らぎ四月も近づきオロモウツに来る観光客も増えるかもしれないし、そんな人がこの駄文を読むとも限らないけれども、もしかしたら何かの役に立つかも知れないと言うことで、相も変わらずだらだらと書き散らすことにする。

 まずは、すでにどこかに書いたバーツラフ広場から始めよう。この広場の奥に三本の尖塔を伴って聳え立っているのが、聖バーツラフ大聖堂である。もともとは1107年ぐらいからロマンス様式で建築が始まったらしいのだが、その後何度も改修、改築を受け、最終的には十九世紀の終わりに当時の大司教の命令で、ネオゴシック様式に改築された。その結果として、教会の前面にそびえる高さ68メートルの二本の塔と、南側に約102メートルの塔が建てられた。この南の塔は、モラビア地方の協会の塔としては最も高いものになる。
 プシェミスル王家のモラビア地方支配の拠点の一つだったオロモウツに司教座がおかれたのは十一世紀後半のことで、1207年には司教を自分たちで選ぶ権利を獲得した。1270年代にオロモウツの司教とチェコ王のプシェミスル・オタカル二世が、大司教座への昇格を図ったようだが、それが実現したのは五世紀以上を経た1777年のことだった。聖バーツラフ教会がオロモウツの司教座の教会になったのは、すでに1141年のことだという。それ以前は今は存在しない聖ペトル教会が司教座教会となっていたようだ。

 チェコの教会で、いや他の国もそうかもしれないけれども、気に入らないのは、ミサなどで使用するためのスピーカーやモニターなどの電気製品が設置されていることだ。厳粛なはずの宗教施設で行なわれる宗教儀式で、マイクを使うなんて許せないと感じてしまうのは、日本人ゆえだろうか。教会の建物は音響がいいはずなのだから、マイクなんぞに頼る必要はあるまいに。
 教会建築に興味のある人なら、聖バーツラフ教会の内装についてもあれこれ薀蓄を傾けられるのだろうけれども、無駄に高い天井を見上げてすごいなあと思うぐらいである。一番奥の祭壇ところまで行くと、脇の階段から地下に下りられるようになっている。大司教の儀式用の衣装などが展示されている。ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世はチェコでも人気があって、1995年にオロモウツを訪問したときの写真もあったかな。さらに階段を下りると、オロモウツの大司教座にとって重要な人物の遺骸が納められた棺が置かれた部屋がある。誰だかの心臓もどこかに納められていると言っていたかな。棺も心臓も教会に興味のない人間が覚えていられるような有名人のものではなかった。

 聖バーツラフ教会の隣には、ゴシック様式で建てられた控えめな聖アナ教会がある。最古の記録は十四世紀の半ばにまでさかのぼるらしい。この教会が重要なのは、オロモウツの司教、後には大司教を選出するための選挙が行なわれたことである。いや、もしかしたら現在でも行なわれているのかもしれないけれども。

 そして、聖バーツラフ教会と、聖アナ教会の間にあるのが、プシェミスル宮殿の入り口である。もともと、このバーツラフ広場にはプシェミスル家がモラビア支配のために建築した城があったらしい。その一角に建てられたのが聖バーツラフ教会であり、このプシェミスル宮殿である。ただ、最近は建設した人物の名前を取ってズディーク宮殿と呼ばれることが多いようだ。それから、チェコ語の宮殿(パラーツ)という言葉も要注意で、日本語でイメージする王の居城、もしくは大貴族の居城という意味はない。宮殿様式で建てられた建物ということで、商人が建てたものであっても、宗教関係者が建てたものであっても、一律に宮殿と呼ばれてしまうのである。
 この宮殿は、バーツラフ広場側からは、聖アナ教会の陰に隠れて入り口しか見えないのだけど、裏側に回って、城下の公園から見上げると、聖バーツラフ教会から城壁の上に連なる建物が、大きな城を構成しているのがよくわかる。ただし、現在まで残っているのは建物の一部だけだという。本来の宮殿の姿を再現したモデルが、隣接する大司教教区博物館に展示されている。

 バーツラフ広場で、1306年に最後のプシェミスル家の王であるバーツラフ三世が暗殺された。遺体は、プラハに移されるまで20年の間、聖バーツラフ教会の地下に安置されていたという。
3月31日23時。


 既出の記事と重なる内容もありそうだけど、細かくチェックしている暇はないのでこのまま行く。4月1日追記。




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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