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2020年08月05日
『アラブが見た十字軍』(八月二日)
職場が夏休みに入り、久しぶりにちょっと気合を入れないと読めない本を読もうかと考えて、ちくま学芸文庫のコレクションを眺めていたら目に付いたのがこれ。十字軍というヨーロッパに毒された日本人の感覚の中では、ついついロマンチックなものとして捉えてしまいがちな歴史的な出来事を、被害者の側のアラブ世界から語りなおしたのが本書である。
もちろん読む前から、十字軍が物語りに描かれるほどロマンチックなものではなく、西欧では英雄視される人物であっても、その十字軍における実態は全く異なっていたことは知っていた。ただ、本書を読む前は、まだ十字軍を、人類史上最悪の愚行の一つとして位置づけることはできていなかった。言ってみれば、アラブ側の記述にも誇張や身びいきがあることをわかった上で読んで、啓蒙されたのである。
本書の著者は訳者によればレバノンの著名なジャーナリストだというアミン・マアルーフで、原典たるフランス語版は1983年に出版されている。日本語訳は1986年にリブロポートから刊行され、2001年にちくま学芸文庫に改訳決定版として収録された。翻訳者は牟田口義郎と新川雅子の二人だが詳しいことは知らない。
リブロポートは詩人の辻井喬としても知られる堤清二の率いたセゾングループの出版社で、関連会社のトレヴィルと共に数は少ないものの美術や世界史などに関連するいい本を出版する、良心的な出版社として知る人ぞ知る存在だった。その出版姿勢は堤清二の方針だったのだろうが、出版社単体で採算が取れていたとは思えない。セゾングループの経営悪化で事業整理が行われた1998年に廃業している。創業が1980年というから、20年弱しか持たなかったわけだ。
そのリブロポートが世に送った名著の一つが本書なのだが、本書が提示したテーマ、キリスト教社会とイスラム教社会の対立の原点である十字軍の問題は、日本語版刊行から30年以上の年月を経てなおその意味を失っていない。いや、東西対立の最中で、宗教間の対立はそこまで先鋭化していなかった当時よりも、現代の方が大きな意味を持っているといってもいいかもしれない。
ヨーロッパ社会においては、もしくはイスラム世界以外では、十字軍はすでに過去のもので、理想化され伝説化され現代社会における意味などないに等しいが、本書を読めばイスラム社会においては十字軍が極めて現代的な意味を持ち続けていることが理解できる。加害者は自分のなしたことを忘れがちで、被害者はなされたことを忘れないと一般化することもできるのだろうが、それよりは十字軍がイスラム社会にあたえた傷の大きさを強調した方がいい。
その大きな傷が、何かにつけてグローバル化が喧伝される現代においてなお、キリスト教的なものを感じさせる、欧米的民主主義や資本主義に対する反発が消えない原因になっているのだろう。言い換えれば十字軍に関する意識を変えない限り、イスラム社会の反欧米主義者の種は尽きないということになる。本書を読めばこれぐらいのことは明らかだと思うのだが、キリスト教の側から本書が提示した問題に対する反応があったという話は、寡聞にして知らない。
また軍事的には失敗に終わった十字軍だが、文化的、経済的には、当時の世界最先端を走っていたイスラム世界を略奪することで、ヨーロッパには大きなものがもたらされた。それがヨーロッパ文明の略奪性を高めたと考えることができるなら、世界中を略奪の対象にし、キリスト教徒にあらずんばひとにあらずといわんばかりに、誰彼かまわず奴隷として売買していた植民地主義を準備したのも十字軍だということになる。
最近良識派の仮面をかぶった人たちが、チャーチルを人種差別主義者として糾弾するという茶番劇を見せていたが、本気で差別問題、宗教対立を解決する一歩を踏み出したいのなら、十字軍から始めるべきなのだ。チャーチルではなく、エドワードとかリチャードとか、フリードリヒなんかを差別主義者、虐殺者として糾弾すれば、イスラムとの距離が縮まるに違いない。
そして、植民地化の尖兵となり奴隷売買の一端をになっていた宣教師達の中には、列聖された人々も多いが、そんな人たちも差別主義者として列聖を取り消せば、キリスト教徒の差別意識も少しは解消されるんじゃないかなんてことを、キリスト教のみならず、宗教嫌いとしては考えてしまう。どちらも実現は不可能だろうけど。
2020年8月2日24時。
2020年01月31日
ジャパンナレッジ(正月廿八日)
クレジットカードを作ってまで入会したジャパンナレッジだが、会費、年間2万円+税金分使っているかと自問自答すると微妙だけれども、いつでも『日国』や『国史』を引けるという安心感は金に換えられないものがあるし、『全集』や『東洋文庫』も読めるとなると、やめるという選択肢は出てこない。読めると実際に読むのとは別問題だけど、その気になれば読めるというのが、読書家にとっては大切なのである。いわば、大量に購入したものを積読本として所有しているのと同じ状態なのだから、年々投資額は膨らんでいくとはいえ、これだけの額で本持ち気分を味わえるのだから、安いものである。
不満は、紙の本で読みたいなあというのと、『国歌大観』が収録されたのに、個人契約では利用できないこと。個人で利用できないものには、JKブックスなんてものもあって、『群書類従』や吉川の『人物叢書』など利用できたら嬉しいというものがある。正直、外国語の辞書やなんかいらないので、それを削って、歴史関係を充実させたコースを作ってくれんかなあとは思う。最近刊行されたチェコ語日本語の辞典が収録されない限り、外国語の辞書は使う機会はない。
それはともかく、これまでは、月ごとの契約の場合には、クレジットカードを登録することで自動更新ができるようになっていたが、年間契約の場合には、毎年契約の切れる月に契約更新の手続きをしなければならないのが面倒だった。大した手続きではないのだけど、ものぐさ人間には面倒くさかったのだ。
それが昨年の後半に入ってだと思うが、年間契約でも自動での契約更新が可能になったとメールで連絡があった。クレジットカードで処理するから、お金を使う実感はないとはいえ、チェココルナにして4000コルナ以上。ちょっとだけ悩んだのは事実である。結局は自動更新の手続きを済ませ、銀行の預金がなくなるまでは契約が自動で継続されることが決まった。もちろん解除は可能だけれども、そんな面倒なことを自分がするとは思えない。
その後、ジャパンナレッジのサイトで、料金を二重請求してしまったというお詫びの告知があって、自分はどうなんだろうと不安になったのだが、対象者にはお詫びのメールが行くというのでメールが来ていない以上は問題ないのだろうと安心していた。そうしたら、今日ジャパンナレッジからメールが来ていたのである。
もしかしてと思って開いてみたら、二重請求とは関係のないメールで、1000円分の図書カードネットギフトというのをくれるというメールだった。どうも年間契約の自動更新を申し込んだ人にプレゼントというキャンペーンをやっていたらしい。あってもなくても申し込むのに変わりはなかったから全く気になかったのだが、もらえるものはありがたい。でも図書カードネットギフトってのは何ぞやである。
説明のページへのリンクがついていたので見てみると、かつての図書券が、何でもカード化すればいいと思われていた時代に、姿を変えた図書カードの進化版もしくはバリエーションらしい。何が違うのかは知らんけど、図書カードも図書カードNEXTとかいう何でこんなところで流行を追うかなあと嘆きたくなるような名称のものに変わっているようだ。
かつての図書券と同じものなら、日本にいる人にあげてしまおうかとも考えたのだが、有効期限が10年ぐらいあるので、そのうち日本に行く機会もあるだろうから、そのときに使えばいいかと思い直した。念のためにネット上で使えないのかと確認したら、紀伊国屋や、hontoで使えることがわかった。紀伊国屋の電子書籍は使えないので、hontoで電子書籍を買うことになりそうだ。とはいえ、たったの1000円、何を買うかで悩むことになりそうだなあ。
その図書カードのサイトで「図書カード使い放題」という本の雑誌社が提供している記事を発見してしまった。使い放題といっても3万円なのだけど、作家たちに3万円で自分の欲しい本を買ってもらうという企画である。3万円なら使いごたえがあるよなと思いながら何人かの、作品を読んだことのある作家の記事を読んでみたのだけど、みんな楽しそうに買い物をしていてうらやましくなる。
ジャパンナレッジのプレゼントが全員に1000円じゃなくて、抽選で3万円、いや10万円とかだったらよかったのに。1000円分本が買えるとわかったときのちょっとした嬉しさはどこかに行ってしまった。抽選だとあたらない可能性のほうが高いのだけど、もともと応募したつもりのないキャンペーンだから外れても痛くもかゆくもないし、その分当たったときの驚きと喜びは大きくなる。とはいえ、1000円というのも、全員ではなく抽選だった可能性もあるのだけど。
さあ、久しぶりに買うべき本を探すかあ。これがネット上じゃなくて、本物の本屋だったら嬉しさ倍増なんだけどなあ。
2020年1月29日23時。
2019年12月09日
中村哲氏の死を悼む(十二月六日)
パキスタン、アフガニスタンで、長年にわたって医療活動、および人道的援助活動に携わってこられた医師の中村哲氏が亡くなられた。あの日の朝読んだ最初のニュースでは、襲撃を受けて、運転手は亡くなったものの、ご本人は命に別状はないということだったので、一安心していたのだが、仕事を終えて家に帰ると、ニュースは訃報に変わっていた。最初は情報が錯綜していたようだ。惜しい人を亡くしたとは、陳腐な常套句ではあるが心の底からそう思う。いや、亡くしてはいけない人を亡くしたというほうが正しいかもしれない。
中村医師の存在を知ったのはいつのことだっただろうか。具体的な活動の内容を知ったのは、『オバハンからの緊急レポート』という一読抱腹絶倒だけど、実は日本の問題点を痛烈に批判している本によってだった。この本は、2001年のアメリカでのテロ事件の後、首謀者とされたアフガニスタンのタリバン攻撃の拠点となったパキスタンにやってきた政治家、官僚、そして特にマスコミの出鱈目ぶりに憤慨した、現地在住で取材のコーディネーターも務める方が書かれた本である。奇書と言ってもいい。
政治家の海外での使えなさというのは意外でもなんでもなかったが、マスコミがどうしようもないというのは、ろくでもない記者が多いのは知っていたけれども、タリバン取材というのは当時最も重要なものだったはずで、各社最高の人材を送り込んでいるだろうことを考えるとちょっと意外だった。いや、特権意識にかられた日本のマスコミの腐敗はここまで進んでいたのかと納得したというのが正しいかもしれない。
取材のために来たはずなのに、日がな高級ホテルに閉じこもって、日本で書いてきた予定稿をそのまま提出したり、コーディネーターの話だけ聞いて現地の住民の話に書き換えたり、わざわざ高い金をかけて、いや、コネを使って政府の特別機に政治家と一緒に便乗しているから経費はそれほどかかっていないのかもしれないが、パキスタンで取材する意味のない記事を量産していたらしい。取材したというアリバイ作りに難民キャンプまで足は運んだという記者もいたようだけど。当然、同行した政治家たちの醜態が新聞や雑誌の紙面を飾ることもなかった。
そんな記者たちから、あれこれ理由をつけてコーディネート料をふんだくって、一部を従業員にボーナスとして支給した以外は、全て難民への援助にまわしてしまう著者のオバハンは凄い。こんなあぶく銭なんて持っていてもしょうがないという感覚が理解できる記者なら、肝心の取材をおざなりにして、適当なことを書き飛ばしたりはしないのだろう。最近世を騒がしているフェイクニュースなんてのは、別段新しいものではないのだ。昔から新聞などのマスコミはこれが真実でございと出鱈目を書き飛ばして間違いがあっても訂正もしないことが多かったのだから。
そんなマスコミの記者たちと、全く反対側の存在、つまりは尊敬してもしきれない存在として登場するのが中村医師と、ペシャワール会の若者たちである。記憶があやふやなのだが、著者は、中村医師の「難民を物乞いにしてはいけない」という言葉に心の底から賛同しながらも、当時のアフガニスタン、パキスタンの国境地帯では、支援物資を配るしかできないという現実を受け入れ、諸給料などの配布に全力を上げる。
中村医師の活動については、難民たち、家や盛業を失った人たちに、仕事を与え給料を与えることで自立させようとしているのだと書かれていたと記憶する。それが、戦争による荒廃で農地が荒れ砂漠化も進んでいた地域で、井戸を掘り農業用水路を開削するという活動だったのだろう。現在ではすでに農業用水は完成し、多くの人々が農業に従事して生活できるようになっているらしい。農地の周囲には植林も進められてある程度の森もできているというから、素晴らしいとしかいいようがない。この形の支援が世界中に広まれば、ヨーロッパにまで逃げてこなければならない難民の数は減るはずなのだけど、そうなっては困る連中がいるのだろうなあ。
著者の批判は、ボランティア活動を自分のキャリアのために行う若者にも向けられる。中村医師率いるペシャワール会で支援活動に従事する若者たちはボランティアではなく、給料をもらっている。ただし、その給料も住居などの生活条件も現地で採用された地元の人たちと同じなのである。それに比べて、ボランティアと称してやってくる連中は、住処の提供を求めて、それが現地の人々と同じだったら、こんなところ住めないと駄々をこねる。これなら来てもらわない方がはるかにましだと、オバハンは憤るのである。ここからも中村医師が目指された支援の形が見えてくる気がする。
最後に中村医師に哀悼の意を表するとともに、氏が体現してこられた、本当のあるべき支援が、薫陶を受けた方々の手で今後も継続されることを願ってやまない。それが、アフガニスタンだけでなく世界を救うことにつながるのだと確信する。
2019年12月7日23時。
2019年10月29日
ジャポンスコ(十月廿七日)
オーストリア・ハンガリー帝国時代のチェコ人で、日本まで出かけた人物というと、チェコスロバキア独立直前のマサリク大統領の名前が挙がるのだけど、それ以前にも、ヤン・レツルなどの建築関係者が日本で仕事をして原爆ドームなどの建設にかかわっている。さらにその前には、ヨゼフ・コジェンスキーという人物が明治時代半ばの日本を訪れ記録を残している。日本を訪れたのは1893年のことで、ヨーロッパからアメリカにわたり、太平洋を渡って日本に来たあと、インド、エジプトを経てヨーロッパに戻るという世界一周旅行の途中だった。
この人は世界一周旅行の記録のうち、日本にかかわる部分を『ジャポンスコ』と題して1895年に刊行している。その本、もしくはその前に刊行した世界一周旅行記の日本にかかわる部分が翻訳されて出版されている。最初に出版されたのは1985年のことで、サイマル出版会から『明治のジャポンスコ ボヘミア教育総監の日本観察記』と題して刊行されている。
二回目は、朝日新聞社がアサヒ文庫の一冊として、2001年に『ジャポンスコ ボヘミア人旅行家が見た1893年の日本』という題で刊行している。両者の訳者がともに鈴木文彦となっていることから、サイマルの本を文庫化する際に改題したと考えるのが自然であろう。二冊目は購入したことがあって、訳者はかつてチェコスロバキアで日本大使を務めた方ではなかったか。
問題は、副題の部分に含まれる著者の肩書きの「ボヘミア教育総監」と「ボヘミア人旅行家」なのだが、コジェンスキーについてチェコ語で調べても、「ボヘミア教育総監」という役職に就いたという記述は出てこない。ただし、教育者であったことは確かなようで、チェコ国内各地の学校で教鞭をとっている。そして、教育者は世界を知らなければならないという教育観を持っていたようで、実践のために世界各地を訪れ、その記録を出版したらしい。
ヨーロッパの国々を初め、オーストラリアやニュージーランドにまで足を伸ばしたコジェンスキーの旅は、同時代のエミル・ホルプなどの冒険かとは違って、前人未到の地に出かけるのではなく、すでにヨーロッパにとっては既知となった土地に出かけるものだった。出かけた土地で自分の興味、観点に基づいて記録を残し、本にまとめて出版していたのである。その意味では二冊目の「旅行家」という肩書きは正しいということになる。
ただ、「ボヘミア人」というのはどうなのだろう。当時、ボヘミア人、モラビア人という民族意識の分離があったのかなあ。モラビアの人はこだわりそうだけど、ボヘミアの人は無神経にみんなまとめてチェコ人と呼んでいたのではないかと想像する。オーストリア・ハンガリー帝国内の行政区分ではボヘミアとモラビアは歴史的に別地域扱いされていただろうけど、民族としてはまとめてチェコ人扱いだったはずだ。
コジェンスキーは、教職の傍ら、プラハの国立博物館などさまざまな自然科学の研究機関でも活動するなどチェコを代表する博物学者の一人だった。1927年にはカレル大学から名誉博士の称号を得ている。この人は、アジアやオセアニア、アフリカなどの遠隔地についてだけでなく、ヨーロッパ内の国についても旅行の記録を残している。
もう一つ書いておくべきことがあるとすれば、チェコ最初の日本研究家とも言えるヨエ・フロウハが甥にあたるという事実だろうか。フロウハは子どものころからコジェンスキーの影響を受けて日本に興味をもつようになったに違いない。今はヤポンスコと呼ばれている日本が、昔はジャポンスコと呼ばれていたということも書いておくべきだったか。
本来、ココシュカについて書いているときに思い出したハンベンゴローについての話の枕のつもりで書き始めたのだけど、長くなったので独立させることにした。
2019年10月28日22時。
2019年02月20日
覆面作家としゃべくり探偵(二月十八日)
森雅裕のファンだということは、推理小説が好きだということでもある。とはいえ、作者と犯人当てやトリックの解明なんかで知恵をきそうほどの頭はなく、事件発生から解決までの経過を楽しむというのがせいぜいで、探偵役の謎解きも、へえそうだったんだと疑いなく受け入れるのが関の山である。読んでいる途中に犯人を考えるなんてことをしたことがないとは言わないけど、当たったためしはない。
だから、という接続詞が適切かどうかはわからないが、推理小説を評価するのは、推理とは直接関係のない、ストーリーの展開だったり、キャラクタノーの設定だったり、人間関係の描き出し方だったりすることが多い。少説の読者としては真っ当な読み方だと思うが、推理小説の読者としては、どうなんだろうと思わなくもない。
推理小説にはつき物のトリックについても、特にこだわりはない。ただ、ちょっとそれはないだろうと思ったのが、所謂叙述トリックというやつで、クリスティの『アクロイド殺し』も、筒井康隆の『ロートレック荘事件』も、世評の高さにひかれて読んでみたけど、買ってまで読むほどのことはなかったと後悔することになった。推理小説の叙述の叙述の仕掛けという点で感動を覚えたのは、むしろ叙述のあり方が謎解きとはまったく関係のない二つの作品、いやシリーズだった。
一つは、覆面作家としてデビューした北村薫の「覆面作家」シリーズである。このシリーズは角川書店から、1991年に『覆面作家は二人いる』、1995年に『覆面作家の愛の家』、1997年に『覆面作家と夢の家』の三冊が刊行され、それぞれ三篇の中篇が収められている。実際に読んだのは単行本ではなく、文庫本だったけど。
新人作家の新妻千秋が探偵役で、編集者の岡部が謎を持ち込む役なのだが、正直、どんな事件が起こったかという部分はどうでもいい。この作品が視点人物の編集者岡部の一人称で語られる一人称小説だというのは、読めばわかるはずである。それにもかかわらず、地の文に「私」「俺」などの一人称の人称代名詞は出てこないのである。そして、何より凄いのは一人称の人称代名詞を使わない一人称小説だというのに、ほぼ全編違和感なく読めてしまうところである。チェコ語に訳すのに「já」になりそうな言葉は、「こちら」ぐらいしか出てこないという徹底振りだった(と思う)。
この小説を読んだのは、どこかで北村薫が森雅裕の小説をほめていたという話を読んで、これは読まずばなるまいと思ったからだった。同じ理由で松浦理英子にまで手を出してしまったのはできれば忘れたい過去である。とまれ、「覆面作家」シリーズは気に入って何度も再読したけれども、他にはあまり食指の動く作品はなく、北村薫といえば「覆面作家」なのである。
もう一つは、黒崎緑の「しゃべくり探偵」シリーズである。こちらは東京創元社から二冊刊行されている。1991年に「創元クライム・クラブ」の一冊として刊行された『しゃべくり探偵』には、「ボケ・ホームズとツッコミ・ワトソンの冒険」という副題がつけられているように、全編漫才のような関西弁のやり取りに満ちている。しかし、一番凄いのは、厳密な意味での地の文が存在しないところである。
【中古】しゃべくり探偵―ボケ・ホームズとツッコミ・ワトソンの冒険 (創元推理文庫) [Jan 01, 1997] 黒崎 緑 |
第一章は保住と和戸の会話文だけで成り立っており、第二章は手紙でのやり取りと、その中に入れられた日記、第三章はファックスと電話でのやり取り、第四章では最初から最後まで保住が謎解きのために喋り続ける。いや、途中で関係者の証言も入ったかな。でもその状況を説明する地の文は存在しないのである。
二冊目の『しゃべくり探偵の四季』が同じシリーズから刊行されたのは4年後の1995年のことで、こちらも様々な語りの手法を用いた短編が収められている。個人的に一番気に入ったのは、床屋のおっちゃんが、刑事の髪を切りながら、殺人事件についての保住の推理を脱線しながら話して聞かせるという体裁の「注文の多い理髪店」かな。
二冊目の刊行時点で、単行本に収録されなかった、雑誌に発表された短編があるという話だったから、三冊目の刊行も近いと期待したのだが、あれから二十年以上の月日を経た現在まで刊行されていない。こういう凝りに凝った語り方を採用した作品を書くのは、普通の作品の何倍も労力を要するのだろうなあ。
どちらのシリーズも、森雅裕の新作ほどではないけれども、次の作品の刊行を首を長くして待っている。その希望はかなえられそうもない。ちなみにこのテーマで文章を書いた理由は、昨日取り上げた『推理小説常習犯』に、北村薫を指すものかどうかはわからないが「覆面作家」が登場したことによる。忘れないうちに書いてしまえと思ったのである。
2019年2月19日23時50分。
2019年02月16日
「朝の読書」運動(二月十四日)
最近知ったのだが、日本では小学校から高校まで「朝の読書」という活動が広がっているらしい。取次大手のトーハンのサイトの一角に置かれた公式ページによれば、「毎朝、ホームルームや授業の始まる前の10分間、生徒と教師がそれぞれに、自分の読みたい本を読む」という活動だという。これをうらやましいと思うか、10分では足りないと思うかは、人それぞれだろうが、「読みたい本を読む」というところが素晴らしい。
思い返せば毎年の夏休みに、文部省推薦とかいう課題図書を与えられて読書感想文を書くことを宿題として課されていた。あの課題図書のすべてがつまらなかったというつもりも、読んで損したというつもりもないが、読書感想文には閉口した。あれの繰り返しで作文を書くこと自体が嫌いになって、高校まで国語の課題の作文は、無難すぎる内容の誰が書いても同じになるようなものしか書かなかった。提出を拒否したこともあるかもしれない。
嫌いになったのは作文だけで、読書自体は子供の頃から好きで、課題図書にも読書感想文にもめげずに続けたのだが、中にはあれで読書自体が嫌いになってしまったという人もいるんじゃなかろうか。本を読むというのは、自分の読みたい本を読むから楽しく、繰り返し読みたいと思えるのであって、強制されたのではどんなに面白い本でも、面白さは多少減る。
そう考えると、この「朝の読書」運動のただ読むだけで、読書に何の課題も付随しないというのは素晴らしいし、何で我々の時代にもなかったんだろうと不満に思ってしまう。活動が始まったのが1988年、千葉県でのことだというから、もう何年か遅く生まれていたら、この運動が九州にまで到達していたかもしれないのか。ちょっと残念である。我が読書の癖から考えると10分では到底足りず、授業が始まってからも読み続けて先生に怒られるというのを繰り返していたかな。
問題は、この朝の10分の読書が何をもたらすかである。すでに1980年代には若者の活字離れというものが問題になっていて、本を読まずに漫画しか読まないと批判されていた。最近は漫画すら読まないと言って嘆いている人がいるけれども、「朝の読書」運動のおかげで現状で済んでいると見るべきなのか、「朝の読書」運動は読書の習慣を定着させるのに役立っていないと見るべきなのか。
そもそも活字離れ、漫画離れというのは事実なのだろうか。昔から本を読まない人は読まなかったはずである。本の売り上げが落ちたことを活字離れに直結させているだけではないのだろうか。かつては買っても読んでいない本が多々あり、現在はネット上で読書をする人がいることを考えれば、読書量自体はそんなに変わっていないような気もする。本を所有することにこだわらない人も増えていそうである。特にアパートなんかに一人暮らししていると本の置き場というのは大きな問題になるし。
仮に活字離れを嘆くのであれば、大学に進学するような層の読書量の少なさを嘆くべきであろう。ただ、これも大学生が本を読まなくなったのではなく、大学進学率が急速に高まった結果、昔は大学に進学していなかった、本を読まない学生までもが大学に行くようになったと考えたほうがよさそうである。本を読まない、読めない学生が大学で何をするんだという疑問はおくとしても、何でもネットで調べておしまいってんじゃ、大学に行く意味はほぼあるまい。
個人的には、活字離れが叫ばれ、本を読む人が少なくなったと嘆かれている中で、どうして「小説家になろう」や「カクヨム」などの小説投稿サイトが盛況なのか理解しかねていたのだが、この「朝の読書」が一定以上の本を読む習慣を持つ人を育てている証拠だと考えてもいいのかもしれない。読書経験なくして、自分が小説を書こうなんて考える人はいないだろうし、好きな作品、好きな作家のようなものを書きたいと考えて筆を執る人が多いはずである。
ならば、現在の出版社の嘆きは、活字離れ、漫画離れではなく、「朝の読書」運動で読書を習慣にした子供たちを読書に引き留めきれなかった出版社自身に責任がある。恐らく図書館で本を借りることの多いだろう「朝の読書」の読者を、本を買う読者に育てられなかったのが一番いけない。この活動の公式ページが、取次のサイトに置かれていることからも、「朝の読書」が本の売り上げに寄与することが期待されていたのは間違いない。その結果がどうだったのかは知らないが、
あまり本を読まない子供の読むスピードを考えて、1日10分読んで、1か月で読み終わるような量の本を編集して、月のお小遣いの10分の1ぐらいで買えるような値段で出すとか、「朝の読書」に参加している学校の子供は、指定の書店で、協力している出版社の本(種類を限定してもいい)を月に1冊まで半額で買えるようにするとか。近所の書店と協力して学校で、毎月一人一冊しか買えない直売会をやってもいいだろう。それに、購入するのは生徒本人でなければいけないという条件を付けておけば、本を買って読むのを当然だと考える子供が増えたと思うのだけどね。ここまでくると、提言というよりは自分の頃にこんな制度があったらなあという願望でしかないなあ。ただ、出版社や取次の倉庫で眠らせておくぐらいなら安く売ったほうがマシじゃないのかとは思う。
ちなみに、「朝の読書」運動の公式ページでは、この活動によって、学習力が向上したり、問題行動が減ったりするなどという効果も書かれている。ということは、活動に参加している学校の中には、こういう効果を目的にして朝の読書を導入したところもあるのだろう。これは気に入らない。読書は、読書自体が目的であるべきであって、こんな目的のために読書をさせるのは不純極まりない。こんなよこしまな考えだから、本が売れなくなるのだ。ってここで批判すべきは出版社でなく、学校か。
それはともかく、子供の頃から毎朝本を読むのはいいことだし、学校教育の一環として堂々と毎日本が読めるのはうらやましいと思ってしまうほどである。
2019年2月15日20時25分。
高い。子供ではなく、学校の図書館に買わせることを考えているのだろう。
価格:4,860円 |
タグ:読書
2019年02月03日
hontoからメールが来て本を買った(二月一日)
ホントからきたキャンペーンの案内でも、クーポンの案内でもないメールは、ポイントの有効期限が切れるというものだった。ホントで本を買うと、購入額の1パーセントかそこらのポイントがつくことは知っていたし、ちょっと使ったこともあるような気もするのだが、有効期限はもっと長いものだと思っていた。確認したら、獲得した日から一年間だった。
お知らせによれば現時点で550ポイントぐらいあるうち、250ポイントぐらいが一月末で有効期限が切れるという。ポイントなんて、なくなったらなくなったでかまわないのだけど、こういう案内が、一回だけでなく何回か来ると、放置するのも申し訳ないような気になってしまう。ということでポイントを使って、本を買うことにした。紙の本を買うと送料にもならないので、今回は電子書籍一択である。
特に読みたい本があって本を買うわけではないので、できるだけポイントでまかなえる範囲のものを探すことにした。最初に思いついたのが、我が読書のSFの時代の礎を築いた高千穂遙の作品である。朝日ソノラマが倒産した後、ソノラマ文庫の『クラッシャー・ジョウ』シリーズがハヤカワ文庫に移って、新作も出ているのは知っていたから、それをまず候補に挙げたのである。自転車モノを呼んでみたいという気持ちがあったことも否定できないけど。
しかし、二つの理由で高千穂遙の本は買わなかった。一つ目は微妙な価格で、ポイントを使うと、残りが200円とか、300円になるものが多かったこと。たかだかこれだけのためにクレジットカードを使うのもなあというのが、カードの利用に慣れていない人間の感じることである。もう一つは、ここの本につけられていた読者のコメントを読んでしまったことである。この手のコメントは、買おうと決める理由にはならなくても、買うのをやめる理由にはなるのである。
ここでもうあきらめようかとも思ったのだが、期間限定の割引価格で買える本があることに気付いた。大体半額になっていて、親本が文庫本のやつならポイントだけで買えそうである。あまり食指の動かない本の中に高橋克彦の本を発見した。高橋克彦といえば、森雅裕が『画狂人ラプソディ』を大幅に書き換えることになった(と本人が書いている)原因となった乱歩賞受賞作『写楽殺人事件』でデビューした作家である。
この因縁(高橋克彦にしてみればいい迷惑だろうけど)を知ってから、読んでみたら、森雅裕とはまた違った面で面白く、他の作品にも手を伸ばしたことがある。『写楽殺人事件』は『画狂人ラプソディ』よりはるかに売れて、はるかに有名な作品だろうけど、こういう関係がなかったら読んだかどうか疑問である。ということで、昔買って日本を出るときに古本屋に売っぱらった『写楽殺人事件』を探すことにした。
既読の本だけど、もう二十年以上も読んでいないし、内容も完璧には覚えていないし、半額だし、ポイントで買うんだしと、いくつも買ってもいい理由を探してから、購入に踏み切った。これが紙の本屋でのことだったら、ほとんど即決で買っているはずである。棚から抜いて本の装丁を確認しながらぱらぱらめくっているうちに買うことに決めてしまう。既読の本であってももう一度読み直したい問い理由があればそれで十分である。ただし、これは日本語の本に限ってのことで、チェコ語の本の場合には、読みたい以前に、自分に読めるかというのも考えなければいけないから時間がかかる。読めそうにないけど買うということもなくはないけど。
久しぶりの『写楽殺人事件』、久しぶりにコンピューター上で読書を楽しむことができた。これで閲覧ソフトがもう少し本を思わせるつくりだったらよかったのに。それはともかく問題が一つ。『写楽殺人事件』は、高橋克彦のいわゆる浮世絵三部作の最初の作品なのである。だからあと二冊浮世絵をテーマにした推理小説が存在する。しかも最後の三作目では浮世絵探偵とも言うべき塔馬が登場するのだけど、この人を探偵役にした推理小説が何作かあって、その中には浮世絵がらみのものも存在するのである。そして、かつて日本を出る前に、そのほとんどは読んだことがあるのである。はてさて、買うべきか、買わざるべきか、それが問題である。
2019年2月1日23時。
2019年02月02日
hontoからメールが来た(一月卅一日)
電子書籍よりは紙の本を買うために、仕方なく登録したホントであるが、頻繁にメールが届く。その大半は電子書籍の割引キャンペーンや割引クーポンのお知らせで、登録したばかりのころは、こまめに確認してクーポンをもらう手続き(ログインしてボタン押すだけだけど)を取っていたのだが、キャンペーンやクーポンの対象になる本に、さしてほしいと思えるものがなかったこともあって、最近は特に確認もしないまま抹消してしまうことが多かった。
何がいけないって、クーポンの有効期間が短すぎるのと本の見せ方に魅力がなさすぎるのがいけない。普段から出版されている本の確認をしてこれ次に買おうとか考えている人なら、短い期間でも有効に役立てられるのだろうけど、いや、昔日本にいたころは、毎日何軒も本屋に足を運んで、次に買う本の候補を探していたのだが、ネット上の本屋は、本屋としての魅力に欠けるのでそんなことをする気にはなれない。誰か本当に本屋にいるような気分になれる書店をネット上に開設してくれないものだろうか。
書店の本棚のように背表紙が著者名順に並んでいて(出版社別、ジャンル別と組み合わせてもいい)、本を引き出すと表紙が見られる。そして文庫やノベルズ版だったら裏表紙のあらすじや袖の部分の著者略歴、著者の本一覧、普通の書籍でも目次、奥付まで見られるようになっているとうれしい。贅沢を言えば、巻末の解説や著者あとがきなんかまで読みたいのだけど、最近の電子書籍は、親本にあったあとがきや解説をカットしてしまっているものが多いようなので、ないものねだりになってしまう。奥付のあとのページ数合わせの目録なんかもないからなあ。
出版社は、販売店かも知れんけど、一般の読者が本を選ぶときに果たしている解説やあとがき、目録の重要性を軽視しすぎではないだろうか。多くの書籍の販売サイトでは、読者の投稿した評価やコメントが上がっているが、あれは自分が読んだ本のものを読むから面白いのであって、読書傾向もわからないような人のコメントをもとに本を買おうなんて思う人いるのかね。
解説も、ときにおタイコのことがあるけど、解説者が本気でその本に感動しているときの解説は、一味も二味も違うものである。業界によっては仲間ボメ解説があったり、何でもかんでもほめる解説書きがいたりもするけど、そんなのはいくつか読んでいるうちにわかるようになる。著者の作品一覧や巻末の目録だって、つまらない本の場合にはあまり意味を持たないけど、本を読んで感動した場合には、これらの中から次の本を選ぶことも多いのだ。本屋に買いに行ったらなかったなんてこともままあったけどさ。
そう考えると、電子書籍自体にも問題がありそうだ。ホントの専用リーダーソフトも、本っぽい体裁にはなっているけど、わざわざのどの部分を作ったりしてさ、横長の画面全体に表示されるので、版型が絵本かと言いたくなるようなものになっているし、正直PDFで一ページずつ表示していくやり方のほうが読みやすい。つまりはソニーのリーダーで読みたいということなのだが、ホントの本がリーダーで読めるのかどうかわからないし、読めたとしても機械の登録なんかしたくない。
電子書籍も、「書籍」と名乗っているのだから、本当に紙の書籍を読んでいるのと同じような読書体験ができることを目指せばいいのに、開発者だけが便利だと考えている余計な機能を詰め込むから、本を読んでいる気がしなくなるのである。読書に熱中しているときに、多少わからない言葉が出てきたからって辞書なんか引くもんか。リーダーにもついているけど、読んでいる最中にわからない言葉があったら辞書が引ける機能は、一度も使ったことがない。たまに操作を失敗して辞書を引きそうになって邪魔だと思うくらいである。それに本を読んでいる最中に辞書を引くなら、そこらに転がっている紙の辞書を引いたほうがマシである。
それで、ホントでは登録直後にいくつか試したのを除いては、電子書籍は購入してこなかった。それがホントからメールが来て云々というのが、本題になるはずだったのだけど、電子書籍の悪口になってしまった。本題についてはまた次回である。たいした内容のメールじゃないんだけどね。
2019年1月31日22時55分。
仲間だというのなら同じような体裁にしてほしいものである。
2018年10月20日
放射線の話2(十月十六日)
承前
ところで、福島の原子力発電所の爆発が起きたときに、人生の先達ともいうべき我が師の一人が、日本中で放射能が、放射能がで大騒ぎしているのを冷ややかに眺めながら、こんなの全然大したことないよと笑っていたのを思い出す。アメリカやらソ連やらが、ばんばん核実験やってた頃は、東京でも雨の中、傘を差さないで歩いて頭を濡らすと、結構髪が抜けたりしてやばかったんだからと回想されていた。この国連の常任理事国が大気中にぶちまけた放射線、放射性物質については、この本の著者多田氏も繰り返し言及しているけれど、以前は本当にひどかったらしいからなあ。それをまったく気にしないでいた人たちに、福島の放射能がとか言われても、信じる気にはなれない。ってのが普通の反応だと思う。
チェコであの時、原子力パニック、放射能パニックが起こらなかったのは、一つには、距離が大きく離れていたからだが、チェルノブイリの原子力発電所の事故を、間接的にであれ経験しているのも大きいかな。あのときは、情報が全く入ってこず、だからと言って親分のソ連を批判することもできず、いろいろ大変だったらしいし。放射線による健康被害が、西ヨーロッパにまで及ぶのではないかと大騒ぎされたのに、実際にはチェコでは何の問題も起こらなかったという事実も、チェコ人が冷静でいられた理由であろう。
ただ、同じ間接的にチェルノブイリの事故を経験したはずのドイツの報道はひどかったらしい。その結果なのだろうが、日系企業の人から、取引先のドイツ企業から、放射能に汚染された日本の製品は買えないから、ヨーロッパで生産しろとか、汚染されていないことを証明しろとか意味不明な要求をされたという話を聞いたことがある。福島からは何百キロも離れたところに工場があるにもかかわらずである。発作的に原子力発電所の廃止も決めるしさ。
そんなことも考え合わせると、チェコの当時のマスコミの反応は飛びぬけて素晴らしかったのだなあと改めて思わされる。少なくとも公共放送のチェコテレビには、原子力発電と直接かかわったこともないような自称専門家はまったく登場せず、本物の物理学者か、原子力発電の現場で働いていた人しか出てこなかったから、根拠のなり理論的に通らない発言をすることはなかったし、日本のマスコミのように面白半分で視聴者の恐怖をあおるようなこともしなかった。著者の、でたらめを垂れ流すマスコミと核実験を阻止しなかった国連に対する批判にはもろ手を挙げて賛成である。
ここでちょっと自分のことを考える。放射能と放射線、放射性物質の違いはわかっているつもりだった。それなのに、ついつい「放射能を怖がる」と言ってしまうのである。これではマスコミに「放射能=悪」だと洗脳された人たちと変わらないではないか。ちょっと反省である。それでも、放射線や放射性物質を身の回りからゼロにするのが不可能であることぐらいはできていたから、面白半分に報道される原発事故の記事を読んで信じ込むなんてことはなかったけれどもさ。
高校時代だっただろうか、「ニュートン」が先鞭をつけた科学雑誌、完全理系の人ではなくても読んで理解できる一般向けの科学雑誌がいくつかの出版社から出ていたのだが、そのどれかで、地球上のあらゆるものは人体にとって毒となりうるという記事を読んだのを覚えている。一番安全な水でさえ、うろ覚えだけど、確か一度に5リットル摂取すると、半数の人がなくなるのだというのを読んで、目から鱗が落ちる思いがしたのである。
考えてみれば、お酒だってなんだって度を過ごせば体に悪いのは当然である。ということで、気にしたほうがいいのかなとも思っていた食品添加物やら、果物の残留農薬やらもあまり気にしなくなった。毎日何度も同じものばかり食べていれば、体に悪い影響を与えることもあるだろうけど、そもそも同じものばかり食べるという生活が健康にいいわけないのだから、その中に有害な食品添加物が入っていようが、農薬がちょっと残っていようが大差があるとは思えない。
放射線についても、原則としては同じ考えでいいことはわかっていたのだけど、放射能がなんて話になるとちょっとばかり不安になってしまうのも事実だった。マスコミに汚染されているのである。だけど、本書を読んで(ウェブ版だけど)、放射線に関しても同じ考えでいいことが確認できた。量が多すぎれば問題になるかもしれないけれども、少なくとも現在の量であれば、意識する意味すらない。同じようなことはチェコの原子力の専門家もニュースで語っていのだよ。でもね、外国語だったのと、時間の制限があるので細かいデータまでは出ていなかったのとで、ここまでの説得力はなかったのだ。
本書の最後の部分に出てくる日本産のお米に、有毒なヒ素が微量だけど含まれているという話を読んで、お米を食べないのと、ヒ素で発癌率があがるのとどちらを取るかと言われたら、お米をたくさん食べて癌で早死にするほうを選ぶだろうと思った。これは科学者的な定量的な考え方から導かれる結論ではなく、純粋に感情的な結論である。
米が嫌いという著者と違って、外国に住んでいるとお米が無性に食べたくなることがあるのだ。お米が食べられないストレスの悪影響を考えたら、ヒ素で癌になる率が上がるのと大差ないような気もする。一生コメを食べ続けても発癌率が上がるのはほんのわずかなようだけど、それが発癌率が2倍になるだったとしても、発癌率が50パーセントになるでも、あんまり気にしないでお米を求めてしまいそうである。あり得ないけど20年以上米を食べ続けたら100パーセント癌になると言われても、食べてしまうかもしれない。この窮屈で生きづらい世の中、癌にならないように細かいことに気を使ってまで、寿命を延ばしたいとは思えない。
水も、放射線も、水自体(仮にトリチウムが含まれていたとしても)、放射線自体は、安全だとも危険だとも言い切れなず、大切なのはその量をもとにリスクを判断することだということを改めて理解させてもらえただけでも、本書を読んだ甲斐は十分以上にあった。放射線が出る理屈の当たりは完全に理解できたかどうかは怪しいけど、わかった気にはなれたから、読者としては幸せである。放射能を恐れている人は、一読すると恐れが消えて生きやすくなるかもしれない。でも、本書を読んでなお、いわゆる「ゼロベクレル」を叫ぶような人もいるんだろうなあ。
放射能をポピュリスト的に悪用する政治団体の言うことを信用するのは、難民移民問題をポピュリスト的に悪用して支持を集めている極右の政党を信用するのと同じぐらい愚かなことである。100パーセント安全だと言い切る政治家もまた信用できないのは、本書を読めばわかる。ということは、日本には信用できる政党政治家は存在しないということか。いや、これもまた、○か×かの絶対的な評価ではなく、比較的どちらがマシかという観点で見るべきなのだろう。
うーん、やっぱ書評にはならんかった。
2018年10月16日23時35分。
2018年10月19日
放射線の話(十月十五日)
先日ヤフーの雑誌のところで、新潮社が提供している「ブックバン」という雑誌の記事を長めていたら、「放射線を正しく怖がるために」という記事が出てきた。著者は、あの悪名高きマイクロソフトの、日本法人の社長を務めていたことで知られる成毛眞氏で、物理学者の多田将氏の出版した「放射線について考えよう」という本の書評だった。
「ブックバン」というのは、「読書家のための本の総合情報サイト」だというのだが、書評が多く、しかも中途半端というか、もう一歩も二歩も踏み込めよといいたくなるようなものが多いので、あまり熱心な読者ではない。ただたまに大当たりのいい意味でとんでもない記事が読めるので、たまに覗いてしまうのである。最初にここで読んだのが昭和の文豪三人の子供たちの対談で、滅茶苦茶面白かったので、同じような読み応えのある記事を探して、記事一覧に目を通してしまうのである。
「放射線を正しく怖がるために」も珍しく読んだ甲斐があったと思えた書評で、もう少し詳しく書き込んでくれていればという恨みはあるものの、出典を見たら「週刊新潮」とあるから、字数制限の縛りがきついのだろう。少ない字数でと考えるとなかなかよくできた書評である。何より素晴らしいのは取り上げられた本を読みたくなってしまったところである。
その本の話に行く前に、少し脱線すると、どうも「ブックバン」に挙げられている書評は、新潮社の雑誌に載った書評を再利用したもののようである。字数制限の必要ない「ブックバン」向けに書いてもらったのを、雑誌に載せる用に短縮してもらうという手順を踏んで掲載してくれると、両方の読者にとってありがたいのだけど、新潮社も「読書家のための」と謳うわりには、本読みの心がわかってねえよなあ。大騒動を引き起こした挙句に、廃刊なんて最低な手段を選んだ「新潮45」の件もそうだけど、以前の新潮社って、もっとやることがまともじゃなかったかなあ。
話を戻そう。書評で取り上げられた多田氏の本は、ネット上に掲載したものをほぼそのまま書籍化したものだというので、ネット版の「放射線について考えよう」を探して読んでみた。全十章でかなり長いのだけど、一息に全部読んでしまった。放射線という難しいものをテーマに取り上げながらわかりやすく、もちろん正確に、そして面白く、読みやすい文章で書かれているのが素晴らしい。中学まで理科は得意だったけど、高校では物理を専攻しなかった人間にも理解できたから、中学レベルの理科の知識があれば、文系の人が読んでもなんとか理解できるはずである。
2011年の福島の原子力発電所の爆発が起こって以来、さまざまな書いた人の正気を疑うような記事を読まされ、それを信じる人がいるという事実に、さらにげんなりすることが多かったのだけど、この本を読んでその原因がわかった気がする。放射線と放射能の区別もつかないマスコミがでたらめを繰り返し垂れ流したことで、信じ込まされたというのが正しいようだ。テレビなどで大声手発言する自称専門家の責任も大きそうだけど。著者のような本物の専門家は事故の直後は、事故の処理で忙しくてマスコミで発言する余裕なんか全くなかったようだし。
だから、こんな日本の現状を見ると、政府が理系を強化するといって国立大学の文系を切り捨てて、理系に力を入れようとしているのは、無駄だとしか思えない。高校や大学の無償化で、お金の聖で進学をあきらめることがないようにしようというのと同じで、力を入れるべきは大学ではなく、小学校、中学校における理系教育である。ついでに国語教育にも力を入れる必要があろう。理系とはいっても、すべてが数式だけで成り立っているわけではないのだから、文章で説明された部分を読んで理解できるだけの国語力が必要になる。
その上で理系的な数字を読み解く能力を身につければ、マスコミの不正確な面白半分の報道を鵜呑みにしなくなるはずである。そんな国語力もあり、理系的な考えのできる高校生が増えていくことで、大学の理系の学生のレベルは自然と上がっていくと思うけどね。国語力が高ければ、本書の著者のように一般向けの啓蒙的な書物を出して、専門家の知識を還元することもできる。新書なんかの一般向けの本であっても、専門家が書いた本の中には、読みにくくて理解できないものもあるしさ。
例えば、チェコでは世界各地で地震が起こるとマグニチュードの大きさだけしか報道されないから、マグニチュードが大きければ揺れも大きく自信の被害も大きくなると考える傾向があるけれども、日本人ならそんなことはないはずだ。それは理科の授業で、地震そのものの大きさであるマグニチュードと、揺れの大きさで被害に直結する震度の違いを学んだからで、震度はマグニチュードだけでなく、震源からの距離や途中の地盤などにも左右されるなんて話を学んだからである。そして、学んだことを日本ではひんぱんに起こる地震を通じて、その報道を通じて実感として自分の知識にできているのである。
日本で、広島、長崎の悲劇を経て尚、無理をして原子力発電を導入することを決めた際に、原子力を利用することで否応なく発生する放射線、放射性物質についての正しい知識を与えるための教育も同時に導入しておくべきだったのだ。現在の日本の一般の人々の放射線、もしくは「放射能」に対する意識というのは、広島、長崎に起因する存在そのものが絶対的に恐ろしいというものと、原子力発電所推進派による日本の原子力発電所からは放射能は漏れないから絶対に安全だというプロパガンダによって形成されてきた。だから、少しでも「放射能」が漏れるととんでもない大事件のように大騒ぎされる。
もう一つの問題は、癌治療やX線などの医療の場で使われる放射線、温泉の効能にうたわれる放射線と、原子力発電所で発生する放射線が別物であるかのような、医療用はいい放射線で、発電所のは原子爆弾の者と同じ悪い放射線というよりは、悪い放射能というイメージでの報道が多かったことだろう。今思い返すと、医療用は放射線で、原子力発電は放射能なんて使い分けてなかったかなんて疑惑も感じるんだけど、正確なところは全く覚えていない。
原子力発電を推進した政府にとっては、反対派が放射線に対する正しい知識を持たないままに反対している状況のほうが好ましかったのだろうか。それが、我々、専門家以外の日本人が放射線について、あいまいにしか知らず、中途半端にしか知らないから発言も不正確なものになってしまう理由なのである。今の状況は、自民党政権にとっては自業自得としか言いようがない。
それはともかく、日本全国の小学校で、中学校でもいいけど、日本で原子力発電か開始されたころから、毎年一回でも子供たちに放射線量を計らせるような理科の授業をしていたら、普段の生活の中でも放射線にさらされていて、量が過大にならなければ何の問題もないことを実感として理解できる人が増えていたのだろうにと思う。本書を読んでなお、自分自身も実感としてわかっているわけではないし。
それに、かつての核実験が華やかだったころのことを考えると、ものすごく重要で面白いデータが取れたのではないかという気もする。原子力発電所の建設に際して地元の自治体に大量の金をばらまいて、あれこれ過剰な施設を建設したり、発電所に地元やちょっと離れた準地元の人たちを招いて、放射能は漏れないなんて「啓蒙活動」をしたりする予算があったのなら、高価だっただろうけど放射線量を計測できるカウンターを各学校に一つ配備するぐらいのことはできたんじゃないのか。自分が使ってみたかっただけだろといわれたら、その通りと答えるしかないけど。
以下次回。
2018年10月16日19時35分。